黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

62年目の「ヒロシマ」

2007-08-05 16:35:22 | 文学
 明日、2007年8月6日で「ヒロシマ」は62年目を迎えることになる。
 改めて「ヒロシマ・ナガサキ」と文学の関係について考える必要を感じている。理由は、62年という歳月は残酷であり、多くの「記録」や「記憶」を歴史=過去の彼方へ追いやってしまうことを、先の参議院選挙の直前における久間防衛大臣の「原爆投下はしょうがない」発言や柏崎刈羽原発の事故に対する政府の対応を見ていると、証明しているように思えるからである。(そういえば、柏崎刈羽原発における高レベル廃棄物の保管に関して、その後何も言っていないが、どうしたのだろうか。まさか、とんでもないことが進行しているということはないだろう、と信じているが)
 ヒロシマで14万人強、長崎で7万人強(共に、1945年の年末までの統計)の死者とそれを上回る被爆者を生み出した「ヒロシマ・ナガサキ」の惨劇。僕らはこのことの意味を本当に理解しているのか。この悲劇をもたらした最終兵器と言っていい核兵器が他の兵器と異なるのは、この最終兵器が実践で使用されたとしたら、確実に地球の未来は閉ざされ、人類は絶滅かそれに近い状態に追いやられるということ、単に犠牲者の数が多くなるという以上のものが、例えば「核の冬」現象(核兵器の爆発によって細かい灰や塵が大気圏に浮遊することによって、太陽からの光が地上に届かないという状態になり、そのため植物や動物が地球で生きていけなくなる)が生じることによって僕らの歴史が終焉してしまうことを、考えなければならない。
 と同時に、先に上梓した「林京子論」でも明らかにしたが、核兵器がたくさんの被爆者を生み出すこと、被爆者のその後の生活が心身共にいかに苦しいものであるか、そのことの現実に僕らはさらに力を込めて想像力を働かせるべきだと思う。外見はほとんど健常者と変わらないにもかかわらず、内部が放射能に冒されたために「普通の生活」を送れない被爆者という存在、僕らはそのような被爆者を生み出した「ヒロシマ・ナガサキ」を経験しているのだという自覚をもっと深く認識すべきなのである。核攻撃を受けたことのないアメリカを初めとする核保有国(イギリス・フランス・中国・ロシア・インド・パキスタン)と核疑惑を受けているイスラエル、南アフリカ共和国、北朝鮮の指導者たちには、「ヒロシマ・ナガサキ」の現実は理解できない。僕らが不幸なのは、パワー・ポリティックス(現実政治)しか考えていない政治家に僕らの未来を託しているからに他ならない。日本の保守政治家(安倍首相や石原慎太郎都知事、他)が「核武装論」を唱えるのも、彼らには「現在」の政治しか見えておらず、「未来」が消えているからである。子だくさんの石原都知事、あなたは自分たちだけは核攻撃から逃れられるとでも思っているのだろうか。あんなちっぽけなヨットじゃ、何日も経たないうちに船上で被爆死してしまうだろう。石原慎太郎の想像力の無さ、小説家として致命的だと思うが(最近の大江健三郎は石原のことを「過去に小説家であった保守政治家」というような言い方をしている)、それ以外でも多くの日本人が想像力を欠如させているからこそ、「核武装論」が時々浮上してくるのだろう。核が爆発した場合、「自分だけは助かる」ということは、100パーセント、あり得ない。
 肝に銘じて欲しい。そして、願わくば、原民喜・大田洋子以来の「原爆文学」、つまり、井上光晴の「地の群れ」・「明日」・「西海原子力発電所」、井伏鱒二の「黒い雨」、堀田善衞の「審判」、いいだももの「アメリカの英雄」、佐多稲子の「樹影」、後藤みな子の「時を曳く」、そして林京子の著作、等々を読んで欲しい。いかに原爆が「反人間」的であり、「間」的であるか、それらを通して感じ、考えて欲しい。幸い「日本の原爆文学」(全15巻 ほるぷ出版)は、多くの図書館で購入したという記録がある。それらを少しずつ読むことで、62年前の「ヒロシマ・ナガサキ」を自分のものにできるのではないか、と愚考する。
 目を背けないで、物語の中の出来事をじっと凝視する。そこからしか何も始まらないのではないか、と思う。一人一人が「反核」の思いを強く持ち、そして核兵器廃絶を強く願えば、それは余り遠くない日時に実現するのではないか。そのようなことを信じて、「ヒロシマ・ナガサキ」の意味を考えよう。