黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「出口のない海」・自爆攻撃

2007-08-20 06:14:57 | 近況
 山田洋次が脚本に参加しているということで、機会があればみたいと思っていた戦争映画「出口のない海」を昨夜、1日中庭の草取りをして疲れた体にむち打ちながら見た。
 映画の全体は、学徒動員を描いた他の戦争映画と同じように、「国家・家族のため」、「愛する人を残して」死地に赴く、というもので、その点では変わり映えのしないものであった。ただ1点、山田洋次が参加しただけの筋書きだなと思ったのは、主人公の死を、小田実流に言えば「難死」、つまり「無意味な死」「理不尽な死」として描き出していることであった。人間魚雷「回天」の乗組員となった主人公が、訓練を経て出撃したにもかかわらず「回天」の故障で戦果を挙げることができず、基地に帰って訓練に従っていた8月15日に、事故で海の藻屑となる、という結末、そこには「無意味な死」を強いられた学徒=青年たちへの「鎮魂」と共に、そのような死を強いた者たちへの「怒り」を感じ取ることができる。
 しかし、「国策」的な臭いのするこの種の映画を見ていつも思うのだが、死地に赴く若者たちを「美談」風に仕立てながら、何故このような無謀な攻撃を考案し、訓練を強制した者への「責任」を問うことを、この種の映画はしないのか。この映画でも、国家が存亡の危機にあると説き、必ず死ななければならない「人間魚雷」への搭乗を要請した指導者や、難しい「回天」の操縦を繰り返し訓練する教官たちが出てくるが、彼ら及び彼らの存在によって支えられた政治権力構造に対して「責任」を追求する姿勢を感じることができない。
 このような日本固有と言っていい「無責任」体制について批判したのは丸山真男であるが、いま大江健三郎や岩波書店を被告とする裁判になっている沖縄の「集団自決の強制」と同じように、暗黙の、しかしこれ以上の強制力がない方法で「自爆攻撃」である神風特攻隊や人間魚雷「回天」、あるいは米軍の本土上陸に備えて配備された海軍「震洋隊」を考案し実施を強いた者の誰かが、その「責任」をとっって何らかの行動を起こしたという話は、ついぞ聞いたことがない。「国のため」「家族のため」に犠牲になった若者たち、という「美談」は、今や靖国神社への首相や閣僚、あるいは超党派の国会議員たちの「公式参拝」の口実になっているものであるが、着々と「戦争のできる国」の体制を整備しつつある彼らは、もし仮に日本が再び「戦争」を行うようなことになれば、自分たちは安全地帯にいながら、繰り返し「回天」のような自爆攻撃を賞賛・強制するのではないだろうか。
 その意味で、僕らは現在アフガンやイラクで行われている自爆攻撃を批判できないのではないか、と思わざるを得ない。「聖戦」「自爆攻撃=特攻」という言葉自体、それは日本が最初に生み出したもので、何もイラクやアフガンの専売特許ではない。テレビなどに訳知り顔で、イラクやアフガンの自爆攻撃を批判するコメンテーターなどが登場するが、彼らには、日本が62年前にそのような「自爆攻撃」を若者に強いたことを知っているのか(考えたことがあるのか)、と言いたい。
 戦争はいつでも人々=庶民・民衆に「難死=無意味な死」を強いるものであること、このことを僕らは忘れてはならない。「美談」というものの危うさ、いい加減さを疑う、そこから僕らの思考を始めなければならない、それが昨夜「出口のない海」を見て、改めて考えたことである。