黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「美しい国」とは何か

2007-08-28 05:34:01 | 近況
 参議院選挙の敗北を「反省」することから出発するはずだった第二次安倍内閣、新たに組閣された顔ぶれを見て最初に思ったのは、「何じゃ、こりゃ」であった。それに輪をかけたのが安倍首相の改造内閣に関する記者会見での発言、国民は彼が唱える空疎な「美しい国」構想に「ノン」を突きつけたのに、そのことに全く気が付かず(あるいは気が付いていながら、他に適切なスローガンがないから、古証文をまた使ったということなのかも知れないが)、またぞろ「美しい国造り」とか「改革路線の堅持」などということを声高に主張していた。
 本当にこの人は感度が鈍いとしか言いようがない。「美しい国」とは具体的には何か、「戦後レジームからの脱却」とは具体的に何を意味しているのか、安倍首相はこれらのことに何ら答えることなく「スローガン」だけを連呼するという醜態を去れけ出しながら、恬として恥じない。「美しい国造り」「戦後レジームからの脱却」を目指して突進した前国会で彼がやった「教育改革」「憲法改正への手続き」などは、明らかに国家主義的な色彩の濃い「戦前体制」へのノスタルジアを裡に秘めた、「自由」や「平等」といった基本的人権の根幹を制限する思想に裏打ちされたものであった。わかりやすくいえば、憲法第9条の制約を外して「戦争のできる国」を目指しているのが安倍内閣だということである。そして、最も怖いことは、そのような戦前回帰を戦後生まれの首相が行おうとしていることであり、自民党の面々(それに公明党の人たち)がそのことに同意しているように見えることである。何で安倍さんはそんなに「戦争好き」なのか?
 そう言えば、今度厚生労働大臣になった団塊の世代=全共闘世代に属する舛添要一が、先の参議院選挙中に「北朝鮮から飛んでくる核ミサイルに対抗するためには、憲法改正が必要です」と大声で叫んでいる姿がテレビで報道されていたが、欧米の恐怖を煽って勝算のない太平洋戦争につっこんでいった戦前の大政翼賛的政治世界を彷彿とさせ、安倍さんの「美しい国造り」と重なり、何だかとんでもない時代を迎えたと思ったものである。今「戦争好き」を表明することは、ニヒリズム(虚無主義)に冒された思考である。舛添も安倍も、みな戦後生まれのエリート(お坊ちゃん)である。彼らにこの国の将来を託していいのか、我々はよく考えなければならない。
 「改革路線」だって同じである。テレビで報道されているように今年の10月から郵便局が完全に民営化される。小泉前首相は、この「郵政民営化」一本で衆議院を解散し、選挙で圧倒的な勝利を収めた。国民は「郵政民営化」という「改革」は良いことだらけだ、と思っって自民・公明党に賛成票を投じたのだろうが、田舎暮らしをしている僕にしてみれば「郵政民営化」ほど国民の現実から遊離した「利権」追求の改革(改悪)はなかったのではないか、と実感している。今まですぐ近くにあった集配局は統合されて15キロも遠くなった本局に移ったし、それに伴って土日の速達受付や速達・書留の配達もなくなった(完全に以前の集配局は単に郵便窓口を持つ郵便局に縮小されたということである)。仕事柄、土日の速達受付や郵便物の受け取りがなくなるということは、大いなる「不便」を託つことになる。
だから、安倍さんがどんな「改革」をやろうとしているのか分からないが(たぶん、教育改革(改悪)や憲法改正なのだろうが、このような一国の根幹に関わる事柄を「郵政改革」などと一緒にされてはたまらない。このような「詐術」が本人の自覚なしに行われていることが、安倍内閣の危険なところなのである)、「改革」という美名に私たちは騙されてはならない。
 とは言いながら、頭の中を覆い尽くしているこの「ブルー」感は何なのか? その根本にあるのは、「反省」という言葉の中身が問われることなく、今度の改造人事でその「反省」が終了したと本人が思いこんでいるのではないか、という危惧である。何も変わらないのではないか、という無力感、と言い換えていいかもしれない。本当に嫌な時代である。