明日は62年目の「ナガサキ」祈念日です。
林京子さんが昨日の「東京新聞」に「世代の終わりに」というエッセイを寄せていて、自分たち学徒動員世代がだんだん亡くなっていっている時代における被爆者としての「反核」の思いを綴っている。もちろん、裏側に久間前防衛大臣の「原爆投下はしょうがない」発言への怒りを込めて、である。文章の最後は、「私たち動員学徒の世代は、終わろうとしているが、平和のありがたさ、命の貴重さを、どうぞ、忘れないでほしい」で締め括られている。相変わらず静かな物言いであるが、ここには被爆者として62年間生きてきた人間の万感の思いが込められている、と思わないわけにはいかない。
このような林さんの言葉に接すると、戦後世代の若い連中が「北朝鮮の核に対抗するため」とか「軍事大国である中国に攻められた時を考えて」などという、一見通りの良さそうな論理で、日本の核武装を容認しようとしていることがいかに現実に即さない「愚かな」ことであるかが、明確に照らし出されてくる。核兵器を保有していれば、朝鮮戦争の時も、ベトナム戦争の時も、アメリカがそれを使おうとしたように、核戦争が勃発する可能性は大になる。そして、一端核戦争が始まってしまえば、「ヒロシマ・ナガサキ」の被害の何倍、何十倍の被害が生じる。それは、戦争を行った国の双方に生じるもので、一方には被害が生じないというような性格のものではない。核戦争に「勝者」は存在しない、と言われるゆえんである。
では、「核」は戦争の抑止力として有効なのではないかという、いわゆる核保有国が自らの正当性を主張する時に持ち出す「核抑止論」は、どうか。この理論は一見「正当」であるかのように見える。しかし、この理論に基づく北朝鮮やイランに対する圧力が如実に語るように、これは核大国のエゴイズムに過ぎない。アフガン戦争やイラク戦争におけるアメリカの理屈を思い起こしてみれば、この理論のおかしさがすぐ分かるだろう。それに、どんなに自分からは使わないと言っていても、原発の「安全神話」と同じように、偶発的な衝突=戦争など絶対起こらない、などとは誰にも言えないはずである。
そのことを考えると、地球の人類を7回半も絶滅することができる核兵器という「地雷」の上で僕らは日々の生活をしているということになる。これが、無条件に核保有国に対して「核廃絶」を要求するゆえんである。
と、ここまで書いてきて、先頃亡くなった小田実さんに「長崎にて」(83年)というエッセイ集があることを思いました。原爆文学としてひときわ異彩を放つ「HIROSHIMA」(81年)を書いた後の、世界の核状況に対する認識を示したこのエッセイ集には、核の存在が人々の生活をいかに抑圧し、「自由」を奪っているかが力説されている。このエッセイ集を読むと、「HIROSHIMA」が思いつきや奇をてらって書かれたものでないことが、よくわかる。それと、このエッセイ集に書かれているのは、核兵器により近づいている通常兵器(例えば、クラスター爆弾など)の非人間的なまでの殺傷力についても告発しており、啓発される。多分現代であれば、小田さんは「劣化ウラン弾」の非人間性を声高くして訴えたのではないか、と思われる。劣化ウラン弾が核兵器と同じ非人道的な兵器であることは、コソボ紛争、湾岸戦争、イラク戦争で証明済みであるが、「ヒロシマ・ナガサキ」を経験した日本人が何故そのことをもっと大きな声で主張しないのか。
不思議なこと=嫌なことが多すぎる。
林京子さんが昨日の「東京新聞」に「世代の終わりに」というエッセイを寄せていて、自分たち学徒動員世代がだんだん亡くなっていっている時代における被爆者としての「反核」の思いを綴っている。もちろん、裏側に久間前防衛大臣の「原爆投下はしょうがない」発言への怒りを込めて、である。文章の最後は、「私たち動員学徒の世代は、終わろうとしているが、平和のありがたさ、命の貴重さを、どうぞ、忘れないでほしい」で締め括られている。相変わらず静かな物言いであるが、ここには被爆者として62年間生きてきた人間の万感の思いが込められている、と思わないわけにはいかない。
このような林さんの言葉に接すると、戦後世代の若い連中が「北朝鮮の核に対抗するため」とか「軍事大国である中国に攻められた時を考えて」などという、一見通りの良さそうな論理で、日本の核武装を容認しようとしていることがいかに現実に即さない「愚かな」ことであるかが、明確に照らし出されてくる。核兵器を保有していれば、朝鮮戦争の時も、ベトナム戦争の時も、アメリカがそれを使おうとしたように、核戦争が勃発する可能性は大になる。そして、一端核戦争が始まってしまえば、「ヒロシマ・ナガサキ」の被害の何倍、何十倍の被害が生じる。それは、戦争を行った国の双方に生じるもので、一方には被害が生じないというような性格のものではない。核戦争に「勝者」は存在しない、と言われるゆえんである。
では、「核」は戦争の抑止力として有効なのではないかという、いわゆる核保有国が自らの正当性を主張する時に持ち出す「核抑止論」は、どうか。この理論は一見「正当」であるかのように見える。しかし、この理論に基づく北朝鮮やイランに対する圧力が如実に語るように、これは核大国のエゴイズムに過ぎない。アフガン戦争やイラク戦争におけるアメリカの理屈を思い起こしてみれば、この理論のおかしさがすぐ分かるだろう。それに、どんなに自分からは使わないと言っていても、原発の「安全神話」と同じように、偶発的な衝突=戦争など絶対起こらない、などとは誰にも言えないはずである。
そのことを考えると、地球の人類を7回半も絶滅することができる核兵器という「地雷」の上で僕らは日々の生活をしているということになる。これが、無条件に核保有国に対して「核廃絶」を要求するゆえんである。
と、ここまで書いてきて、先頃亡くなった小田実さんに「長崎にて」(83年)というエッセイ集があることを思いました。原爆文学としてひときわ異彩を放つ「HIROSHIMA」(81年)を書いた後の、世界の核状況に対する認識を示したこのエッセイ集には、核の存在が人々の生活をいかに抑圧し、「自由」を奪っているかが力説されている。このエッセイ集を読むと、「HIROSHIMA」が思いつきや奇をてらって書かれたものでないことが、よくわかる。それと、このエッセイ集に書かれているのは、核兵器により近づいている通常兵器(例えば、クラスター爆弾など)の非人間的なまでの殺傷力についても告発しており、啓発される。多分現代であれば、小田さんは「劣化ウラン弾」の非人間性を声高くして訴えたのではないか、と思われる。劣化ウラン弾が核兵器と同じ非人道的な兵器であることは、コソボ紛争、湾岸戦争、イラク戦争で証明済みであるが、「ヒロシマ・ナガサキ」を経験した日本人が何故そのことをもっと大きな声で主張しないのか。
不思議なこと=嫌なことが多すぎる。