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日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

春分の日 二上山に沈む夕日

2015-03-29 21:41:33 | 旅行
先週末は奈良、今日は常磐線のいずれも日帰り旅。今は特急ひたちの車内からです(しかし、車中で最後まで書き終わらなかったので後でアップしています)。新幹線やこういう特急の車内は、ブログ記事を作成するのにほどよい時間・空間ですね。モバイルPCを購入しまして、週末だけですが連れ出して活用しています。軽くて電池持ちもいいし、なかなかよいですね。
さて、そういうわけで特急乗車中に何が書けるか。そうですね、3月21日、お彼岸の日に奈良・三輪で見た夕日の話でも。

現在私の興味が向かっている所は、大きく分けると二つかな?一つは、神社や古墳の立地している方角などについて。もう一つは、詳しくは書けませんが、大学通信教育の卒論のための題材についてです。

日本の神様は嫌い、神社に参拝などしたくない、初詣もできればしたくない、というのが従来の私でしたが、ここ数年、がらっと変わってきました。皇国史観とか天皇陛下万歳につながるような思想は取り除いた部分で、日本の神社の起源や神話について、もっと知りたいと考えるようになりました。神話は全くでたらめと頭から決めてかかるのではなく、その中に本当のことも含まれていると感じられるようになってきました。その本当のことをできるだけ抽出したい、と思うようになりました。

出雲が大好きな私は、三輪山についても特に興味があります。その周辺(桜井市周辺)に、卑弥呼の邪馬台国ではないかとされる纏向遺跡や、箸墓古墳、その他たくさんの古墳・遺跡があります。

その中で、私がいろいろな本を読んでいたところ、崇神天皇の宮・磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)があったと推定されている場所が、桜井市金屋のあたりで、そこからは、春分・秋分の日には、ちょうど二上山の二つの山の谷間に太陽が沈む、という情報を知りました。

磯城瑞籬宮のあったとされる場所は、桜井市金屋の、現在は天理教会のある所らしいのですが、また、一方で、その近くの現在の志貴御懸坐(しきのみあがたにます)神社の付近であるといわれており、実際に行ってみると、そのような石碑が建っていました。

詳しくは、後日整理してお届けします。今日は、あと30分でできること、ということで・・・
そういえば、さっきちらっと窓の外を見たら、右手に筑波山がきれいに見えました。どのへんかなと思ってGPSで見ていたら、高浜という駅を通過したあたりかな?そして、地図では近くに二子塚古墳とか舟塚山古墳があるらしい・・・?
なんかですね、この方向から見ると、筑波山が二上山に似てるな??と思えたんですよね。
奈良から来た人だと、そう思うんじゃないかなと、先日奈良に行ってきた私は思いました。

今日の筑波山↓


話が脱線しましたが、戻って、私がお彼岸の日に奈良へ日帰りで行ったのは、その、崇神天皇の宮跡から、二上山の谷間に沈む夕日を見たかったからなのです。二上山は、雄岳と雌岳という二つのピークがあるのです。その間に沈むということです。

一応、天文のシミュレーションソフト・ステラナビゲータで調べてみても、やはり、その付近から見ると、二上山の谷間に太陽が沈むらしいので、これは行きたい!と、お彼岸の日を狙い、お天気はどうだろうかと気にしながら計画を立てていました。

21日なら、晴れそうだ、と予想できたので、決行しました。

ただし、一度レンタサイクルで下見をして、自転車を返した後に夕方またその場所に徒歩で行って見ようと考えていたのですが、その計画は疲労などから頓挫しました。
それに、意外とその金屋の場所は見晴らしがいいとはいえなかったのです。

それで、金屋ではないし、たぶん二上山の谷間からずれるけど、三輪山・大神神社近くの展望台、「大美和の杜」からでもいいか、と妥協し、そこにも行ったのですが、結果として、さらに妥協して、やはりもうちょっと早く帰途に就きたい、と考え、三輪の駅に戻り、電車が来る寸前に、駅から撮ることができた、その写真がこれです!



三輪駅発18時05分、日没もステラナビゲータの計算でだいたいそのくらいになるということで、もしや三輪の駅から日没が見えるんではないかと頭をよぎり、電車が来る前にホームの連絡橋の上に上ってみたら、ちょうど二上山に沈むところだったのです。
ただし、三輪駅からでは二上山の谷間には沈みませんでした。雄岳の頂上近くに沈みましたね。 お天気は絶好でした。ちょっとカメラの選択を誤りました。これはスマホカメラによるものです。

山影に大きな太陽が次第に吸い込まれていく様子は、ただならぬ光景でした。やはり、何か感じるものがあります。古代の人もそうだったのでしょう。

大神神社の巨大な鳥居(道路をまたぐ鳥居では日本最大とか)をかすめて沈もうとする夕日。三輪駅に向かう途中、大神神社二の鳥居を出てJR桜井線の線路横から撮ったもの。



お天気に恵まれて、疲れはしましたが、心は満たされて東京に戻って来ました。←これは21日の話です。今日も、疲れましたが、収穫を得て、心豊かに東京に戻ってきました。

詳しくは後日。
さて、お花見しないと、満開になってしまった東京は、散ってしまいますね。ではまた。

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今日は短く 北陸新幹線など

2015-03-23 00:15:24 | 旅行
1ヵ月ご無沙汰してしまいました。3月上旬に、担任生徒の卒業式があって、卒業前のどたばたと、卒業後は抜け殻になっていたのと、大学通信制の試験、白河行き、昨日は奈良日帰りと、出歩いてばかりでもあったせいです。
古い記事を書いていると全然今に追いつけないので、とりあえず、1週間前の北陸新幹線開業の日の新幹線ホームにての写真など。



これは、北陸新幹線が発車した後ろ姿。子供とお母さんがほほえましい写真です。
私自身は、隣のホームから東北新幹線に乗って実家に向かいました。珍しく、夕方です。昼間は仕事をして、職場から直行したので。
北陸新幹線は、デザインがシックというか、高級感があっていい感じです。停車駅がまたなんとも渋い。その中で、糸魚川は、2009年に思いつきで途中下車して行って来た場所です。当時はとてもうら寂しい感じの駅でした。新幹線の停車駅となると、あのフォッサマグナミュージアムなどにもお客さんがどっと訪れるのかな、ひすいが乱獲されないかな?とか、私は心配です。

昨日は自転車で桜井・三輪周辺を走り回り、歩いても万歩計の表示は2万歩以上と、かなり疲れましたので、今日はこれでおしまいとさせていただきます。

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成田方面への旅(2) 房総のむら+成田山新勝寺

2014-09-13 15:10:57 | 旅行
前回の続きです。
101号古墳の近くには、美しい旧学習院初等科正堂(国重要文化財 1899年建築)があり、その近くに、こんな菜の花畑もありました。



「房総のむら」の中には、昔の建物を復元したエリアもあります。中には、現在の朝ドラ「花子とアン」の撮影に使われた場所(農家でしょうか)もあったようで、ポスターなどが飾られていました。

房総のむらは広くて、あまり時間もないので、商家の町並みのあたりを少し散策しました。そこだけならあまり広くありません。
日光江戸村と似ています。日光江戸村の方が町並みの規模は大きいです。





成田のホテルに1泊して、翌日は、成田山新勝寺に初めて行きました。以前書いたように、佐倉宗吾(惣五郎)の宗吾霊堂=東勝寺には何度も行っているのに、成田山は行ったことがなかったのです。どちらも真言宗のお寺ですが、「新勝寺」という名前からもうかがえるように、東勝寺の方が古いとのことです。ちなみに私の実家の住所も「○勝寺」といいます(笑)。これらのお寺は院政期の「六勝寺」とは関係ありませんけれども・・・
参道を歩いていると、うなぎが名物とあって、うなぎをさばいて見せているお店をはじめ、うなぎ屋さんがたくさんありました。延々と続く道幅の広い参道に本当にたくさんのお店が連なっています。

ちょうちんは浅草と似ています。



美しい彩色の三重塔。1712年建立の重要文化財だそうです。



広く庶民に愛されているお寺という感じがしました。
外国人観光客も結構いました。帰りに、「山車祭り」に遭遇しました。写真がなくてあしからず。
あまりお金もかかりませんし、千葉・成田方面に1泊旅行というのも気軽で新しい発見の旅になります。宿泊したホテルは外国人ばかりで驚きました。フロントの方も外国人でした。成田周辺は面白いです。

成田には玉作りの遺跡もあって、いつか行ってみたいと思っています。

出雲大社 巨木の里曳き(10月6日)

2013-12-31 14:56:37 | 旅行
前回の続きです。出雲での10月6日の出来事です。

前回も少し紹介しましたが、出雲大社の隣に、古代出雲歴史博物館があって、そこには出雲にまつわるすごいお宝がたくさん展示されています。

神庭荒神谷遺跡の銅剣、加茂岩倉遺跡の銅鐸、出雲大社の巨大神殿跡の宇豆柱、出雲大社の高層神殿の模型、卑弥呼が魏に使いを送った景初3(239)年銘の鏡、高層神殿の絵が描かれている角田遺跡の壺・・・

出雲大社内に入る前に見学したのですが、かなりのボリュームなので、それだけでかなり消耗してしまいました。その日はまた、10月なのに恐ろしく暑かったのです。
しかし、出雲大社に初めて行く場合には、必ずこの博物館も見学していただきたいです。
8年前に来た時にはありませんでした。新しくて、デザインも洗練されたすてきな博物館です。

さて、出雲大社といえばこの大きく太いしめ縄が有名です。これは、神楽殿という建物に下がっています。夏に諏訪大社に行った時も出雲大社に似た太いしめ縄がかかっていました。こちらも出雲系の神様(オオクニヌシの子どものタケミナカタが祭られている)ですので。しかし、やはり出雲大社のしめ縄の巨大さはけた外れです。




出雲大社は、龍蛇信仰が元になっているともいわれます。しめ縄は、蛇に似ていると思いませんか?私はこの頃そう思うようになりましたし、ネットを見ても、そのように説明しているサイトもたくさんあります。

一通り見学が終わって、再び大社の正面入り口の鳥居まで戻った頃、ちょうど、「御柱建立」のための「巨木の里曳き」の人々の群れが参道を上ってくるところでした。
ちなみに、長野の諏訪大社の「御柱祭」は「おんばしら」と読みますが、こちら出雲は、タクシーの運転手さんは、「みはしら」と言っていました。出雲の方は、今年だけのイベントで、恒例化しているわけではありません。

そして、肝心の「巨木」ですが、実際に見ると、あまり大きいとは感じられませんでした。タクシーの運転手さんも、そんなに大きくないと言っていました。見物のお客さんは、まあまあ多かったですが、そんなに大々的にPRしていたわけではないですし、大規模なイベントというほどでもありませんでした。

しかし、8年前に訪問した時に比べると、出雲大社前の参道は、おしゃれなお店がたくさんできて、観光客もいっぱいで、お昼に出雲そばを、ともくろんでいたのですが、どこも混んでいて、少し難儀しましたし、さすが、遷宮効果だなと思いました。8年前は、10月の平日に訪問したということもあって、観光客はまばらで、神殿も老朽化がひどく、参道も本当に人がいなくて、大丈夫なんだろうか、出雲大社の神威は?と失礼ながら思ったものでした。遷宮があった今年だけでなく、ずっとにぎわいが続いてほしいものです。ちなみに、この年末年始も出雲大社参拝ツアーはかなりの人気の様子。

ちなみに、今回も楽しみにしていた出雲そばは、1回だけでしたが参道に面したお店で食べました。つゆが甘くて、やはり出雲でなければ食べられない味だなとおいしくいただきました。前回来た時には荒木屋という老舗のお店で食べましたが、今回は混んでいるのではと予想してそちら方面には行きませんでした。出雲そばは、遷宮で注目されたせいか、最近、近くのスーパーでも買えたりしますが、普段はなかなか関東地方では売っていません。銀座線三越前駅近くの「にほんばし島根館」(アンテナショップ)では買えます。私はよく、年越しそばとして買って来て食べます。
けれども現地で食べるのはやはり格別ですね。

なかなか話が前に進みませんが、「御柱」の列ですが、こんな感じでした。





割った竹を次々と通り道に敷いていき、その上を、御柱を載せたそりがすべっていきます。
途中で列が止まって、諏訪の御柱祭のように?「木やり唄」のようなものを歌い始めましたが、これは出雲っぽくないかなと思いました。まあ、仕方ないですね。臨時のイベントですし。

その後、11月10日に、この柱3本を立てる「柱建て」が行われました。その様子は、以下のURLに写真があります。1年間、この建てた柱は公開されるそうです。

http://www.city.izumo.shimane.jp/www/contents/1334622140653/index.html

しかし、これは17mです。今の神殿は24m、古代には48mあったのではと言われていますので、もっともっと高かったわけです。記録では、上の方に霞がかかって見えないくらいだったとか、何度も神殿が倒れたと書かれているそうです。

今日は、ここまでとします。それにしても、もう2013年が終わってしまいますね。今年中にアップしておきたい話もありましたが、時間切れです。

それでは、よいお年を。

60年ぶり大遷宮 出雲大社 高層神殿の証拠

2013-12-22 21:39:18 | 旅行
10月に、神庭荒神谷遺跡訪問記を書きましたが、同時に訪れた出雲大社についても書かねば年が越せません。
そもそも、なぜ10月にあわただしく1泊で出雲に行ったのかというと、今年は出雲大社で60年ぶりの大遷宮の年であり、それを記念して、出雲国風土記「高層神殿」追体験事業「御柱建立」というものが行われることを知り、それを見てみようか、と思い立ったためです。

唯一完本として残っている『出雲国風土記』で、神門郡にある吉栗山についての説明に、
「天(あめ)の下つくらしし大神(すなわちオオクニヌシ)の宮材(みやき)造る山也」
とあり、つまりはオオクニヌシをまつる出雲大社を造営するための材木を切り出す山である、とあります。
そこで、この事業では、この記録にのっとって、吉栗山から長さ17m、直径80cmの杉の巨木を3本切り出して、9月に神戸川でいかだ流しをして運び、10月6日に出雲大社前の通りで「里曳き」を行い、11月10日にその3本を束ねて建てる、ということをして古代を追体験しようとしたのですね。
その一連の事業の中で、10月6日がどうにか都合がつくので、行って見てきたわけです。

まず、60年ぶりに、屋根のふきかえを中心として、建物の全体的な修造を行った出雲大社本殿の写真を見てください。2008年に神様(大國主大神とHPには書いてあります)を仮の神殿に移し、修造を行ってきて、この5月に元の本殿に戻したので、今年が「平成の大遷宮」と言われています。修造は、平成2016年まで続くそうです。
 2005年
 2013年
上の写真は、私が2005年に行った時のもの。その時は、かなり屋根がいたんでいて、気の毒な状態でした。しかし、下の今年の写真・新しくふきかえられた屋根は、見事に美しく復活していました。檜皮葺(ひわだぶき)の屋根は、ものすごい厚みです。1mもあるとか。この本殿の高さは24mあり、神社建築としては一番大きなものです。

同じく今年20年に一度の式年遷宮を行った伊勢神宮は、20年ごとにすべての建物を隣の敷地に全く新しく建て替えるという形で行われます。持統天皇の時代から、1300年以上、20年間営々と建て替えを繰り返してきたわけです。
出雲大社の場合は、本殿は建て替えず、屋根のふき替えや部材の修理だけを行っています。今の建物は、江戸時代(1744年)のものです。

この出雲大社は、かつてはおそろしく高層の建築だったといわれています。
平安時代(950年頃)の『口遊(くちずさみ)』という本に、「雲太、和二、京三」と、当時の巨大建築物の順番が記されています。それによると、「雲太」とは出雲大社のこと、「和二」は奈良(大和)の東大寺大仏殿、「京三」は京都御所の大極殿で、これによれば、出雲大社が一番大きかった(高かった)と考えられています。
本殿の高さは、現在では8丈(24m)ですが、往時は東大寺の大仏殿の15丈をこえる16丈(約48m)あったのではないかということです。32丈(約100m)あったのではという考え方もありますが、16丈説が有力です。東大寺大仏殿より高いというのは、相当なものですよ。そんな巨大な神社が、なぜこの出雲に・・・?というのが、私にとって疑問の一つです。

2000年に、出雲大社の拝殿と八足門の間の地下0.5~1.5mから平安時代末と考えられる巨大な本殿跡の一部が確認されました。その際、杉の木3本を1本に束ねた、直径約3mの柱の根本部分が3ヵ所で発見されました。
出雲大社は、平安時代末頃の平面図が残っていて、その図でも、3本柱を金輪で縛った柱が描かれており(金輪造営図)、本居宣長が江戸時代にこれを紹介しました。この図は本当だったことが、2000年の発見で証明されたわけです。これは宇豆柱とよばれており、2,3年前に上野の国立博物館に来た時に私も見ました。今回も出雲大社の隣の古代出雲歴史博物館に展示してあったのを見ました。こんな太い木を3本たばねて柱にするとは、どれだけ巨大な神殿だったのだろうと、想像を絶します。古代出雲歴史博物館のリンクを貼っておきます。
http://www.izm.ed.jp/cms/cms.php?mode=v&id=96

その柱の大きさをイメージするためでしょうか、拝殿前のスペースの石畳に、三本柱の○が表示してありました。大きいです。


復元した模型も作られていますが、妙に足が長くて不安定な感じです。本当にこんなだったのかなあ?と疑問を持ちますが、なんと、弥生時代の壺に、これと似たような高層建物が描かれたものがあるのです。しかもその出土は島根県の隣の鳥取県。その絵がわかりやすいサイトのリンクを貼っておきます。稲吉角田(いなよしすみた)遺跡(弥生中期)といいます。
http://www.geocities.jp/yamauo1945/yayoikaiga.html

この壺は、上にも書いた古代出雲歴史博物館に展示されています。ゆっくり回っていて、ぐるりと絵が見られるようになっています。しかし、解説が控え目なので、出雲大社と似た高層神殿が描かれている、ということに注目して見ている一般客は、その時はいませんでした。

この博物館には、卑弥呼が魏に使いを送った「景初3年」銘のある三角縁神獣鏡も展示されているのですが、これも解説が控え目なので、お客さん達は素通りしていきがちです。「景初3年」銘の鏡は、全国で2枚しかありません。このうちの1枚が、島根県の神原神社古墳で見つかっています。本当に卑弥呼がもらってきた鏡なのかは謎ですが、いろいろと考えながら見たい鏡です。しかし、お客さんは気付きません。ちょっと残念でした。すばらしいお宝がたくさんある博物館なのですが、展示方法に工夫があってもいいかなと思いました。

さらに、この博物館には、あの神庭荒神谷遺跡で発掘された銅剣たち358本すべてが、一挙に展示されています。それはそれは圧巻です!広い壁一面全部を埋め尽くしています。改めてすごい数だと圧倒されます。加茂岩倉遺跡の×印のある銅鐸も展示されています。
ここも、写真撮影禁止なのかはっきり表示がなく、写真を撮っているような人がいて、近くのお客さんが、写真を撮っていいのか悪いのかちゃんと書いておかないとだめなんじゃないの?と係員に言っていました。そうなんですよね。私も、撮っていいのかな?とちょっと迷っていました。
とにかくものすごいお宝、名実ともに国宝です。大事に保管し、適切に公開してほしいです。

今日はここまでとします。