くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

「隣国」台湾に見習うべきこと その1

2010年02月20日 | Weblog
先日、台湾に家族旅行したことを書いた。

台北滞在中、短い間ではあったが、改めて認識させられたことがある。

改めてというのは、以前にもそう感じたからである。

それは「余裕」という点である。

何の余裕なのか?「空間」の余裕である。

まずは、公共交通機関であるが、MRTと呼ばれる台北市内及び近郊を結ぶ鉄道の座席。車両は、シーメンスと川崎製の両方を見た。それはさておき、我が国の地下鉄や鉄道に比べ、座席に余裕がある。構造上、我が国の一般的な車両に比べ不便を感じる点をなくはなかったが、一人当たりの座席の幅が広い。

同じことは、バスにも言える。市内はかつての日本の大都市もそうであったように非常に多くのかつ複雑な路線によって結ばれている。使い慣れれば、このうえなく便利である。以前は中国語を解しないとキツいという外国人客には難点もあったが、最近は、車内前方に漢字とローマ字で次の停車駅を知らせる電光掲示板を持つバスが増え、しかも現地語に加え英語のアナウンスも入るようになっている。すべてのバスがそうなっているわけではなく、故障していることも少なからずあり(この点は相変わらずの台湾らしさである)、そうなると運転手のアナウンスに頼るしかなく、なかにはアナウンスすらしてくれない運転手もいるのだが、ここが台湾人の親切さ、降りる駅についたら教えてくれるよう頼めば教えてくれる。運転手でなくとも、最寄りの乗客に頼んでも良い。もちろん筆談Okだ。大体の人が助けてくれる。中には無愛想な人、特に女性に多いが、表情だけで判断してはいけない。無愛想でも声をかければほとんどの人が助けてくれる。

話がずれたが、その市内バスも、総じて座席は横にも、前にも広い。もっとも、最新式バスでないと、日本に比べかなり乗り心地は悪い。しかも以前よりはましになったといえ、運転が相変わらず荒い。そうした日本にはない問題もあることにはあるが、スペースという点では、台北のバスに軍配が上がる。

列車もそうだ。台湾新幹線の座席は決して狭くて座り心地も悪い。自強号の座席の方がはるかに良い。700系をもとにした日本の新幹線を導入したとのことだが、座席に関しては、どうも日本の新幹線に劣る。そして、その日本の新幹線もグリーン車を除けば、自強号に劣る。

アパートの広さも、総じて、日本の方が狭い。台北にはさまざまな集合住宅がある。朽ち果てたような汚いものもあれば、デザイン的には日本にはないよ言うな凝ったものもある。もっとも、デザインは人ぞれぞれで、私は台湾の高級アパート(マンション)のデザインは、欧米の建築物を意識し過ぎかつ成金的で嫌いなのだが。ただ、外見的には汚いビルでも、中は思いのほか新しい阿アパートも結構あり、日本よりは広めである。

なぜなのだろうか?

そういえば、以前、李登輝が、台湾地震の際に日本がよこした仮設住宅は台湾のそれよりも狭かったということを、どこかで述べていたことを記憶している。

台湾も人口過密な国である。台北に関して言えば、その化密度は日本の大都市にそん色かそれ以上にはずだ。それなのに、公共交通機関や居住スペースに余裕を持たせてあるというのはどうしたことか。

日本人は貧乏性なのか?

それとも、人にやさしくないのか? 人の快適さというものへの追求心が弱いのか?
台湾人の親切さとスペースの余裕には関連性があるのではないのか? 台湾人の精神的余裕、逆にいえば日本人の精神的余裕のなさ、貧困に起因している違いではないのか?

ふとそんなことを改めて考えてしまった、先日の台湾家族旅行であった。
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米議会公聴会の出欠をめぐり、また失態: 豊田社長は、適任か・・・?

2010年02月19日 | Weblog
「虎穴(米議会公聴会)に入らずんば」を回避(してしまったか)と思いきや、出席の意向とか。相手方に脅されての変心との印象はぬぐえない。

確かに、公聴会への出席は諸刃になる可能性は秘めてはいるが、それは何も今回のトヨタ問題に限ったことではない。しかし、公聴会欠席が米議会、米国世論に与える影響を予測すれば、「進むも地獄、引くも地獄」。ならば、あえて、御大将自らという決断を、最初からしてしかるべきだった。

後手後手、ゴタゴタ、この人、大丈夫か、本当に?

それに、ブレーンはいないのだろうか、この人には。かりにどんなに有能であったとしても、「裸の王様」ではあれだけの大組織を統括していくことは不可能だ。

創業家にこだわる豊田なりのお家の事情があっての登板なのだろうが、同じ愛知の某老舗百貨店にかつてあったように、「暗愚の帝王」として地元財界でも周知であった創業家社長と一族を追い出した「お家騒動」がトヨタにも必要になる時期は、そう遠くないのかもしれない。
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Nothing Ventured, Nothing Gained. ←「西洋かぶれ」

2010年02月18日 | Weblog
Nothing Ventured, Nothing Gained というブログで国母問題が、「国母選手批判が日本のイメージを悪化させている(国母選手頑張れ!)」で、国母問題を論じている。論調はタイトルを見ただけでも大よそ知れるのだが、いまだにこういう「西洋かぶれ」がいたものだと、驚き、呆れた果てたしだいである。

以下、部分抜粋。

抜粋その1

 以下にあるJ-CASTニュースの伝えるところによれば、アメリカのヤフー利用者の反 応は、「これがニュースなの?」「服装とか髪型とか、一体誰が気にするんだ」というも のらしい。

 このようなアメリカ人の反応は、極めてまともなものであり、他方、国母選手へのメディ ア、ネット、抗議の電話をかけている人々の反応は、はっきり言って、馬鹿馬鹿しいし、 日本の民度を失墜させ、日本の国際的評判を貶めていると言っても過言ではない。

著者は、上掲の「アメリカ人の反応は「極めてまっとう」としているが、実は「アメリカのヤフー利用者の反応」を「アメリカ人の反応」と強引・露骨にすり替えることで、一般論化し、あたかも米国における一般論調ないしは認識であるかのような、「疑似現実」をデッチ上げて、自論に説得力を持たせようとする「詐術」に他ならない。

そしてその「デッチ上げ」による「アメリカ人の反応」とは異なる日本国内のおおよその反応は、「日本の民度の失墜」につながるとまで、言うのであるが、これには、あいた口がふさがらない。アメリカ「様」のご意見にそぐわなぬものすなわち低劣との決めつけは、アメリカンスタンダードこそ至上であると言っているように聞こえるのは私だけだろうか。今時、これほどまでに、アメリカ様に精神的に「忠良」な人間ってのが、もうケケ中以外にもいたとは・・・。

抜粋その2

 テレグラフ紙の記事に対する、海外の反応を見ていると、「どうにも日本人がなぜ問題視 するのか理解できない」、「あの服装がスノーボードというスポーツ界の服装でし  
 ょ?」、「日本人は理解できない」など反応が多く、本当に日本人としてこうした話題が
 取り上げられてしまったことに恥かしさを感じる。

 川端文科大臣など政治家ともあろうものが国会でこの問題につき、大衆迎合的に、批判意 見を述べたようであるが、そうした立場にある者がかかる批判をすることが、国際社会に おける日本の異常性を際立たせ、日本の評判を落とすことに気がつかないのであろうか。

ここでは、更に「アメリカの反応」という一般化では自論へのサポートとしては不十分と考えたのか、「海外の反応」、「国際社会」とやらを持ち出してきた。で、海外の反応こそが、「正しい基準」であり、それに矛盾する日本国内の反応は、「恥ずかしい」ということになるらしい。

ちなみに、日本人のなかには、内と外という二分法を国際社会にもあてはめ、「日本」と「世界」という二分法的な発想がいまだに根強い。もっとも、「世界」という場合、それが欧米やアメリカのみをさすことが多いのだが、そこからは「日本」の外の「世界」が極めて多様であるという視点、認識が抜け落ちていることが多い。著者はそうした日本人の自他の比較の仕方を知ったうえで、あえて「国際社会」というものを持ち出すことで、日本の異質性、異常性を強調しようとしているのではないだろうか。まあ、これもやはりペテンの類と言わざるを得ない。

抜粋その3

 欧米は概して、服装等については、非常に寛容である。特にアメリカの場合は、異質なも のを受け入れる度量の広さこそが、フロンティア精神から受け継がれてきた良き伝統であ り、それが国力の原動力でもある。

欧州への訪問経験はあっても生活経験のない私に、欧州を語ることはできないが、少なくとも米国に関する限り、服装への寛容さというのは、確かに日本と比較した場合そうかもしれない。私の業界だけを見ても、米国の方が服装には寛容で、出勤・勤務時に背広、ネクタイでなければならない、ということはない。まあ、私の業界は、日本国内でも他業種に比べれば、芸能界ほどではないにしても、服装、髪型には随分寛容である。が、アメリカの同業会では更に寛容である。夏は、Tシャツ、短パンもOKという場合もある。

さて、その米国においても、服装について「個人の表現の自由」と無条件に認知しているわけではない。したがって、私は、上に「場合もある」としたのだ。さすがに職場の性質上、「Tシャツ、短パンは好ましくない」と考えている人も、相当数いることからである。義務教育レベルになると、地域や教育委員会の方針によって差異はあるものの、学則にドレスコードは存在する。かなり詳細にドレスコードを定めた学校、自治体もあり、驚いたことがある。同様に、教職員にもドレスコードは課されている。髪型や髪の染色の色を問題視され、学校から処分を受けたという実例もある。

英国において、仕事で「ディナー」に参加した経験がある。私の同業者の集まりだから王侯貴族やセレブの集まりなどとは程遠い「貧乏人」の集まりで、業界的には洋の東西を問わず「リベラルな」人間が多いのだが(この点、私は異端中の異端である)、そこでもドレスコードが設けられていた。

このように、英米に限っても、服装による「表現の自由」に対する「寛容」には、明らかな制約があるのが事実だ。著者はこの点を知らぬのか、あるいは意図的に無視して、再び過大に「欧米の寛容」を強調することで、自説に説得力を持たせようとの、これまた読者に対する「詐術」ではないのか。

抜粋その4

 多様な価値観があるのが民主主義の前提であり、価値の押しつけは、民主主義国家では許 されるべきではない。

いかに、民主主義国であるとはいえ、国家、地域社会、国際社会等あらゆる人間集団のなかにおいて、我々は無条件に我々個人の持つ価値観にそって行動できるわけではない。民主主義国家であるはずのドイツではヒトラー、ナチをめぐっては、個人の価値観で発想することは自由でも、それを表に出すことには法的な制約がある。人間が集団で生活をする以上、個人の価値観がそのほか大勢と異なる場合、多数派によって制約されたり、本来は受け入れがたい価値観を押し付けられるなどということは、いくらでもあることだ。「価値観の押しつけは、民主主義国家では許されるべきではない」というのは、確かに多くの賛同を得ようが、現実においてそうした「観念」に徹頭徹尾沿うことはあり得ないし、現に、価値観の押しつけのない社会など、いわゆる民主主義国家においても存在しない。要は、著者は「観念」と「現実」をすり替えしまっているのだ。これが意図的なものでないとしたら、「ビョーキ」とまではいわないが「イタイ」御仁である。

このブログ記事を最初から最後まで読むに、この著者、どうやら、欧米の価値観こそが「上等」なものであり、それに矛盾する行為は「民度の低さ」の証左ということになるらしい。が、それって、まさに欧米の「価値観の押しつけ」を肯定していることにならないのだろうか。要は、論理矛盾ではないのか。


米国人あるいは欧米人が、国母問題に対する日本国内の反応を批判したとして、それは彼らの考える価値観ないし、「(現実問題として彼らの国、社会においても決して無条件ではない)表現の自由」から出たものであり、歴史や文化、伝統、価値観等必ずしも同一ではない日本人にとっての「表現の自由の範囲」というものが、それと異なるからと言って、とやかく言われてはたまったものではない。欧米的視点からも我が国の価値観への批判こそ、価値観の多様性の否定に他ならないのではないのか?

文明開化や敗戦に打ちひしがれた時代ではないというのに、こういう「化石」のような「欧米バンザイ」論者がいまだに棲息していようとは、驚きでもあり、同じ日本人として情けなくもある。

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バンクーバー五輪国母問題: 河野太郎の言い分は滅茶苦茶だ!

2010年02月17日 | Weblog
衆院議院河野太郎氏。かつて衆院議長であった時、8月15日の戦没者追悼式典を政治的発言の場に利用した許されざる破廉恥政治屋の御子息である。「蛙の子は蛙」というが、もう一方で「鳶が鷹を生む」ともいう。私はお父上を蛇蝎のごとく嫌ってきたが、太郎氏に関しては後者であると私は思ってきた。昨年の自民党総裁選の際の太郎氏の行動、言動も、いささか政治的稚拙の感は否めなかったが、批判は容易だがあそこまでできる度胸を持った政治家は今時そうそういないとも思ったものだ。

が、同氏のブログ「ごまめの歯ぎしり」での国母問題への発言には、少なからずがっかりさせられる。以下抜粋。

 不愉快に思ったり、だらしないと思ったりというのはその人の価値観であり、誰かの価値
 観にあわないから処分するというのは、私的な集まりではともかく、オリンピック代表団
 のような公の場では行えないはずだ。公の場での処分は、明確なルールに違反していると
 きでなければいけない。

 たとえばもし、国母選手が定められた代表団のブレザーやネクタイを着ていなかったとい
 うならば、ルール違反で処分されるべきだ。

 ルールは守らなくてはならない。しかし、価値観は多様だし、多様であるべきだ。ルール
 で定められていないことについて、後から価値観を理由に、公の場で処分するのはいかが
 なものか。

国母選手のあの服装に対する批判が、価値観に基づくものであるという河野氏の見方には、あえて批判を加えない。「けしからん!」という見方は、確かに一つの価値観によるものだ。

だが、一寸待ってもらいたい。世の中にはTPOに合わせるという考えがあり、これもまた個人を超えて共有された価値観によってきまるものではないのか。いやそれじたい価値観であるはずだ。確かに、TPOに対する認識も時代とともに変化しているが、それでも時代を通じて過去から現在ただ今まである種の共通認識として多くの人に共有されている価値観はある。それは社会通念という言葉でも置き換えることができるだろうし、具体的や動作や形式に具現化、可視化されれば、慣習ということにもなる。社会通念とか慣習というものは、ひとつの国や文化の中だけにとどまらず、国際的な広がりを持つものすらある。明文化されていなくても、そこから外れれば白眼視され、その人の値打ちを下げることにもなれば、場合によれば公然と国内・国際社会の指弾を浴びることにもなる。

国母選手のあの服装というか着こなしは、デザインした側、またそれを採用した日本オリンピック委員会が広く共有された価値観である社会通念や社会慣習に基づいて想定したものから、大きく外れたものであったはずだ。そしてそれは、日本社会が共有する認識、価値観からも大きくずれたものであったはずだ。某民放局の報道によれば、以外にも同年代の若者層の国母選手への批判の言葉が多かったというではないか。これは真実であれば、あの服装への批判的見方は、「古い世代」のみが共有する「過去の価値観」によるものではなく、現在ただ今においても世代を超えて共有されている社会通念、慣習、更には規範に基づくものということではないのか。

社会ないし集団が共有する価値観に反する行動を取れば批判を受けたり、排除されることは、今も昔も起こりえることだ。それが行き過ぎれば、個人の尊厳であるとか自由をも冒すことになる恐れはあるが、そうでもない限り、それはあり得るし、あってしかるべきである。さもなくば集団や社会の秩序や調和は保つことができなくなる。

更に言うならば、国母選手の着こなしが、河野氏が触れている日本選手団の編成方針に反するという見方も可能であるはずだ。いや、明らかに反するというべきであろう。その編成方針とは、同氏によれば、「日本代表選手団は、礼儀を尊び規律を遵守し、活力ある日本を代表するに相応しい選手・役員をもって編成する」と定められているとのこと。あの着こなしは、社会通念上、明らかに「礼儀」を尊ぶものとはみなし得ないし、社会常識という広義の「規律」にも反する。編成方針が明文化されていようがいまいが、それが日本選手団の方針として選手にあらかじめ知らされたものであるのであれば、故意かそうではないかはいざ知らず、国母選手はそれを破ったことになるのではないか。

河野氏は次のようにも言う。

 オリンピックの日本代表には着こなしも重要な要素であるというならば、選手選考のとき に、代表団の編成方針にあっていない選手はたとえ強くとも選ばなければよかっただけ 
 だ。

確かにそうだ。この件に限らず、最近の大人は子供や若者を「叱る」ことに躊躇し過ぎるというか、叱るという行為自体に何らかの忌避感があるのではないかとすら思えてしまう時がある。子供の幼稚園や小学校の授業参観などでも、とにかく先生は子供を叱らない。親の前だから、という人もいるが、そも教師がそういう理由で参観日にはあえて子供をしからないのであれば、そんな猿芝居のような参観に意味はない。こちらも時間を割いて参観に行くのだ。時間を無駄にしないでもらいたい。もっとも、叱らないのは教師だけではない。最近、大人が他人様の子供をしかることはまず「文化」として絶えたといっても過言ではないのではないか。私が子供のときは、まだそうした「文化」は日本にはあった。近所なだまだしもまったく見知らぬおじさんに、怒鳴られたことも一度ならずあった。今、そんなことをしようものなら、どうなることか。かくいう私は、一度だけ、まったく見ず知らずの子供を怒鳴りつけたことがある。あの時の、子供の表情はいまだに忘れら得ない。あの子にとって、私の自分に向けられたどなり声は、まさに「未知との遭遇」だったに違いない。最近は、他人様どころか親でもわが子をしからないのだ。

日本オリンピック委員会のお偉方のおじ様、おば様方は何をしていたのだ、という批判は、竹田宮様を含めて免れない。この点、宮様も、国母選手への批判を御身への批判と心得られるべし!

それ以前に、国母の親や周囲の大人たち、恩師たちは、五輪委員会関係者以上に恥じるべきである。

しかし、一義的な問題の所在は、周囲ではなく国母本人にある。したがって、選手選考時 に云々という河野氏の指摘は枝葉末節的な国母批判に対する批判であって、「本」の部分
とは関係ない。論点ずらしは、竹中某先生の十八番かと思っていたが、もしかしたら、政治家の常套手段なのかもしれない。が、河野氏はあまりその巧者ではないようだ。

河野氏は、こうも言っている。

 国母選手は、この編成方針に沿って選手団に選ばれている。ということは、国母選手のそ
 れまでの服装や態度は、問題視されていなかったということになるのではないか。

が、国母選手が選考された際、あのユニフォームはなかったのではないか? あったとしてもまだ袖を通してもいなかったはずだ。選考段階と五輪参加時の出来事をごっちゃにするというのはいかがなものか。

確かに、国母選手があのような着こなしをしたのは、五輪参加時が初めてではあるまい。であるならば、なぜもっと早くに指摘しなかったという言い分はわかる。だが、以前は何も言われなかったから、今回も仕方がないということにはならない。相手が、小学校や中学校の小便臭いガキならいざしらず、中身はどうあれ21のれっきとした「成人男子」なのだ。そんな大人が服装で引き起こした問題で、今更「言われた、言われなかった」で酵母選手への弁護の余地が生まれるとは到底思えない。私に言わせれば、河野氏のような「甘い大人」がいるから、最近のガキや若造が増長するのだ。甘い、甘すぎる! あえて若者に迎合しているとはいうまいが、若造に迎合するオヤジ、ジジイというのは、見た目に実に醜悪な生き物であることを河野氏も知るべきだ。

以上、河野氏を批判してきたが、同意する点もある。国母選手の母校が公式応援を取りやめたとかだが、何とまあケツの穴の小さい学校というか、私なら、わが子をこんな狭い了見の学校運営者がいるところには通わせたくはない。過剰反応にも程があるし、保身のためではないのかとすら勘繰りたくなる。つまり世間の批判の矢面に立たされた国母選手を学校を揚げて応援すれば、教育機関である自分たちに同選手の指導がなってなかったということで、批判のい矛先が向くのではないかと。もしそうだとしたら、その「母校」は既に教育機関としては「お前はもう死んでいる」状態だ。学生の親御さん、そんな学校はやく辞めさせた方がいいですよ。もし母校がそういう学校ならば、きっと国母選手がメダルでも取ろうものなら、掌を返して祝勝会をやるんだろうなあ・・・。

ところで、世間のみなさんもメダルを取ったからといって「終わりよければ」なんていうのはなしですよ。何も国母選手は指弾され続けなければならないなんて決して言ってません。ただ、メダルをとったからといって、彼が問題行動をとったという事実は消えないし、再び彼が同じ行動に出たときに、メダリストだからと言って看過してはいけないということです。そんなことをすれば、あの未熟な若者には、後々仇となりますから。国母選手自身が気の毒です。「叱る」べき時には「叱る」ことこそ、思いやり、愛情というものです。


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戦後教育の成功例(失敗例)?: 五輪フィギュアスケート・ペア、ロシア代表川口悠子

2010年02月16日 | Weblog
五輪のために、国籍を変えてって、私的にはどういう了見なんだろいと了見なんだろうとしか言いようがない。

日本国籍離脱(ロシア国籍取得っていうことは、そういうことだろ?)については随分悩んだそうだが、そりゃ当然だろう。迷わないかったら、それこそ、「一体なんという女(人間)だ!?」という他にない。

まあ、迷った挙句に結局日本国籍を捨てたわけだから、やはり「慮外者!」なのだが・・。

しかも、よりによってロシア。あの国が我が国や国民に何をして、何をし続けているのかわかっているのか。国際法上、また人倫上あるべからざる行為を我が国、国民数十万に対してしでがした敵国である!

敵国は言い過ぎ? 北方領土はどうなのか? いまだに侵略継続中ではないか? これをもって、敵国と言わずして何といおうやである。

極めて個人的な目的で、日本国のその他大勢の国民にはまったく無関係のことで、生まれ育った祖国の国籍を捨てて、侵略国の国籍を得る。迷って当たり前といったが、もっと言えば、迷うまでもなく、それ以前にあり得ない選択のはずだ。それをしてのけた人間を「売国奴」、いやこの女の場合売ってはいないから「反逆者」と言わずして何と形容すべきか?

満州で、シベリアで、樺太を含めた北方領土で赤軍の侵略・暴虐に斃れていった数多の同胞先達の魂に、あの女はどう向き合おうというのか。そもそもそんな歴史的事実にはまったくの無知か、知っていたとしてどうってことはない、ということか? 

国家や、同胞のことよりも、私欲を優先させる。そのためには祖国を捨てることも厭わぬ人間。これは、戦後教育の所産ではないのか。「自由」、「権利」、「個性」崇拝。その結果が、あの国母という紛らわしい名前の小僧であり、この川口悠子という女ではないのか?

マスコミも、メダルをとったらフィギュア・ペアで「日本初」などという、恥知らずな記事の書き方はよした方が良い。などと、今時のマスゴミに言っても無駄か。

以前からこの女に関しては、国籍を捨ててまで夢を追うことい=「美談」のような報道がなされてきたが、どこが美談なのだ。個人の夢や欲望のためなら(五輪でメダルって平たく言えば、銭が欲しい、女が欲しいってのと同じ欲望だろ?)、祖国を捨てるなんてすばらしい!的な破廉恥な報道はよせ! バカがマネするだろうが! ん、バカは要らんから、国の国から熨斗つけて追い出せ? それは妙案かも。

ということで、この川口という了見違いの女が日本国から出て行ってくれたことは、もっけの幸いかもしれないが、それにしても、こんな人種が育つような国になってしまったというのは、実に情けない。

ところで、メダルを逃した川口女史。今後はどうされるのだろうか。まさか、メダルの夢はついえたので、もうロシアには要が無い、再び日本に戻りますってなことは言いださないだろうなあ? まさか? 

それでは、ロシアに対しても失礼だ。ロシア人選手として育成し、五輪に送り出してくれた「祖国ロシア」とその国民に相済まぬではないか。利用するだけ利用しておいて、用済みになれば捨てるというのは、あまりにも常識外れな行為である。国籍はコンドームや生理用品の類とは違う。

どうぞ、現役引退後も、「祖国ロシア」にとどまり、祖国のために尽くし、恩返しをし、その土となられますように。

そうでなくては、犬以下だ。忠犬ハチ公にも劣る。猫は人の恩を三日で忘れるというが、まあ三日はないであろうが、50歩100歩、猫並みの生き物だ。ただ、猫の方がペットにもなり、人の心を癒してくれるだけましだ。自分の都合で国籍をティッシュペーパーかトイレットペーパーのように簡単に使い捨てされてはたまったものではない。

悩んで決意して日本国籍を捨てた以上、まさか再び捨てた祖国の土を踏もうなどといういい加減な気持ちではなかったのだろう。

であるならば、その時の決意のままに、余生を「祖国ロシア」で過ごされますように。

もっとも、観光等で日本を訪問される場合には、外国からのお客様として、丁重に歓待いたします。少なくとも、日本国は門前払いは致しません。

まあ、それにしても、結果は、因果応報ってことだろうな。お天道様は、よく見てござる。
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バンクーバー五輪と国母騒動

2010年02月15日 | Weblog
国母、国母と騒ぐので、我が国日本の国母(こくも)、皇后陛下の御身に何事かあったかと思えば、二十歳をわずかに過ぎたパンクな小僧だった。

どう贔屓目に見ても、イケメンではない、ブサイクなガキだ。

どうやらブサイクなのは外見だけえはなく、人間としての中身も腐れているようで、それが服装にも表れて、世間の糾弾を受けた。

そもそも、あの下着を出した着こなし。私は始めて米国に行った頃にちょうどはやりだしていた。元々は、黒人のファッションで、それが芸能人や便乗商品によって広まった。簡単に言ってしまえば、社会の最底辺の連中がはじめたものが米国社会はおろか世界中の若者層に受け入れられたわけで、我が国もその例外ではない。

オヤジといわれればそれまでだが、下着を人様に晒すことを恥ともせぬ下賎な人間が我が国にも増えたということだ。しかも成人の8人に一人は前科者だという米国の黒人たちのマネである。人がエテコウの真似をするが如しとまでは言わぬが、大名・公家が馬丁・匹夫の風体を真似るようなものである。味噌も糞もというが、糞をして味噌はおろか黄金と尊ぶに等しい有様である。

そして国母選手、御歳21とかで、あの風体。

しかも、国費・公費で「国を背負って」参加する競技に、国費・公費でもってあてがわれたユニフォームをあのような着こなしで、参加しようとしたという。

端的にいって、21の「大人」のすることではない。

私費で、私の目的での競技参加なら法律に触れる限りの服装であれば、どんな無様な服装でも、たとえ世間に白眼視されようとも、すべて彼の自由で、彼の自己責任の範囲でのことだ。しかし、今回は私事ではない。

そこらあたり、五輪に参加するということを理解し、社会や国家への感謝の念があれば、あのような身なりはおのずと慎んだはずだ。それができなかった。つまり、手前の力のみで五輪に参加できりると高慢ちきになっているのだ。

それに加えて、あの会見のふてぶてしい態度。騒動がおきてなお、自らの非を理解できぬ「バカ」が衆目にその恥知らずな様を晒したということに他なるまい。

あの男は、決して腹の中で反省していないだろう。親もどういう育て方をしたものやら、製造者責任ということも考えたくなるが、もはや法的にも「大人」である。これからあの男が大勢するとも思わぬし、何が起ころうとも自業自得だ。あの手合いは放っておくしかない。
もう今更治らない。治癒不能である。

世論の多くが批判的に見たのは、当然である。

が、中には、個性に問題だとか、自由だとか、間抜けたことを言っている輩もいた。そういう次元の「場」ではないだろうに・・・。「個性」とか「自由」が、闊歩するこの世の中、闊歩することはいいが、節度が無さ過ぎる。所詮、社会における「個性」や「自由」などというものは、規範と規制のうちでのことでしかないということをわかっていないのだろうな。

テレ朝のスパモニでも、元?お笑いの松尾某とかいう四流芸人と馬乗りの元女房が、必死こいて弁護していた。芸人は周囲に責任転嫁していた。周囲が周囲がって、国母はれっきとした健常者の成人だろうが? まるで障害者か禁治産者のような扱いでは、かえって国母をバカにしている。そこに気づかんのだろうか、あの安芸人は? まあ、だから安芸人なんだろうな。

こういう連中がコメンテーターなんてやっているものだから、勘違いする間抜け、国母みたいなのが雨後のたけのこのように出てくると・・・。



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バンクーバー五輪という白色人種の猿芝居

2010年02月15日 | Weblog
私は、五輪に興味がない。というか、マスコミあげての大騒ぎに興ざめしてしまうのだ。
五輪期間中、どのチャンネル回しても、五輪、五輪だ。

おかめに、競技前は「メダルを期待!」とか、贔屓の引き倒しになるのではと思えるような「応援」をし(実際に選手に要らぬプレッシャーになっているのでは?)、メダルがだめならだめで「健闘しました」、「がんばった」、「入賞」だと。

参加することに意義があるなんてのは「負け犬」的な発想で、自分たちの傷を自分でぺロペロしているに過ぎない。もっとも、戦後この方あの負け戦を「間違った戦争」ということにして、自分たちの負けに正面から抜きあわず「戦争はもう二度とごめんだ」、「平和主義」とほざきながら負け犬を演じてきた国である。近所のならず者に仲間が連れ去られても、長年何もせずに尻尾を巻いてきた国であることを考えれば、メダルを逃した、つまり「負けた」後の対応もこれまた負け犬的なのは、いたし方なし、いかにも戦後日本的というべきだろう。

メダルなし=意味なし。メダルを逃した選手=負け犬、敗北者、無能、としか私は思わない。

今回の五輪、まず金メダル一個すらも期待できそうになのだが、それでも騒ぐ、騒ぐ。

あの欺瞞と偽善に満ちた開会式も絶賛、絶賛。そういえば、あの北京のグロテスクな開会式のときもそうだか?先住民族や異人種、異民族との融和だ? 2年前どこぞの国は、56の民族、それをあの体制は十把一絡げに「中華民族」という虚構をでっち上げて、存在しない民族融和をうたったが、今度は白人どもがデッチあげたプロパガンダに世界は酔った。酔ってない? 酔ったのは、日本のマスコミだけ? 融和、融和というのなら、先住民に返せって。友人から聞いた話だが、彼の知り合いで米国で大学の教員している日本人が、歴史家なんかの授業で、原住民への自分たちの先祖の暴虐に対する謝罪の言葉を口々にいう白いアメリカ人の学生に対して、「その謝罪の言葉を、どうのような行動にあらわすのですか? 行動が伴わない謝罪なんて偽善でしょ?」と問いかけたところ、誰も何も言わなかったのか、いえなかったのか、しばらくの沈黙が教室を支配したとか。蛮勇というべきか、なんと言うべきか、アメリカの白人どもに喧嘩売ったようなもんですが、今もその人は米国で教壇に立てているのでしょうか? でも、ほんとそうだよなあ・・・。シドニー五輪の時も、原住民を前面に出してきたが、侵略によってできた国ほど、国内の支配民族・人種と被支配民族・人種の融和とか統合を訴えようとする。要は、取り繕いなわけで、昔も今も白人がそれらの国を支配していることにはかわりなく、原住民は限りなくマージナライズされている状態も変わらない。

日本のマスコミは、そんなことには頬かむりででっち上げられた虚構の「平和の祭典」を賞賛する。実に、いやな光景である。

事項選手団がロクな成績を残せなくても、「がんばった」、「よくやった」、「健闘した」で、主催国の悪逆、欺瞞には露骨なほどに目をそむけ迎合する。

こんな五輪報道、いや五輪自体、一体いつまで続けるのだろうか? 古代オリンピアの祭典は、古代ギリシャ文明の消長とその運命をともにした。近代五輪も現在ただ今の世界情勢、世界秩序とともに、早くこの世から消え去ればよいと思う。今の世界秩序が否定されて、また今の世界秩序を足がかりに新たな世界秩序を気づこうとする勢力がこの世から消えてこそ、人類には明日がある、と私は信じている。

滅びよ、近代五輪!
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トヨタのわきの甘さ、続き

2010年02月13日 | Weblog
トヨタにしてこの体たらくななおだから、と前述したが、セクハラがらみで言えば、一昨年であったか、ニカイドウ・ドットコムに、別の日系自動車会社の米国事業所内でのセクハラ告発があった。

マスコミはその件を一切取り上げなかったようで、セクハラの当事者も日本に帰国させられてことは沈静化したようだが、この件についても、表ざたにはならなかっただけに幸いしたものの、結局企業としては何ら「適切」な対応は取れずじまいであった。

その米国における企業グループ内では公然かつ暗黙の違法行為が行われているという噂はかねてからあったわけで、そうした行為を長年の「慣習化」してきた企業に、セクハラに対して「適切」な対応を取ることなど、猫のワンと泣けというようなものかもしれない。

もっとも、マスコミネタにならなかったということは、何らかの対策が取られた結果なのかもしれず、その意味で「適切」な対応が取られたという見方も可能だが、こうした「裏ワザ」が常習化すると、いずれどこかで大コケにコケるものである。「悪事千里を・・」と昔からいうではないか。

少しでも弱みを見せれば、それをとことん利用してくるえげつなさを持つのがアメリカ人のみならず白人たちである。もう何十年も米国で商売しているのなら、ヤツラの狡猾さ、陰険さは重々承知のはずなのになあ・・・。

ほんと、ホンエとタテマエがエグイほどに違うからね、あいつらは。しかもそれを平然となんならの躊躇もなく使い分けてくる。日本人のホンネとタテマエなんかかわいいもんだよ、それに比べれば。

昔、岩倉具視が欧米列強をして「虎狼」の心を持つと警戒心をあらわにし、戦前の校歌なんかにも世界を「虎狼の海」なんて表現するものもあったが、ホントその通り。今も昔もかわりません。それに加えて、最近はかつての「死せる豚」がまた勢いづいてきたからなあ・・・。日本の外はほんとデンジャラスですわ。
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トヨタのわきの甘さ、そういえば4年前のセクハラ問題・・・

2010年02月13日 | Weblog
トヨタは実にわきが甘い企業であることが、今回判明したわけだが、トヨタがそうであるということは他の日本企業はなおさらなのではないだろうか。

かつてファイヤストーン社製のタイヤが米国で問題になった際、議会公聴会において同社の日本人社長は冒頭で「アイムソーリー」とやらかした。「バカ!」の一言であり、それで流れは決した。

今回、トヨタの御曹司は自らの出馬も遅かったが、会見も国際的にみれば「異常」なほどに短く、しかも「英語でやってくれ」と突っ込みを入れられる始末。タイミング的にも、内容的にも、そして演出的にもダメダメであった。

結局、トヨタはファイヤストーンの失敗から教訓を得ることができなかったのだ。「カイゼン」を売りにしてきた企業の学習能力の無さが露呈した瞬間でもあり、あの企業の「カイゼン」の程度の程が知れた瞬間でもあった。

今振り返れば、トヨタという企業のわきの甘さというか危機管理能力の無さ、問題発生時の対応の鈍さは、以前からその気配をうかがうことはできた。それが2006年に発生というか表面化した米国トヨタでの日本人副社長による同じく日本人女性秘書に対するセクハラ騒動である。秘書が妙齢であったことと、巨額の賠償を要求したことで、批判の矛先は女性にも向けられたが、訴えた側の言い分では、法的手段にう訴える以前から社内の担当部署に対応を求めていたという。それなのに、社内では何らの措置も取らず、ということだったらしい。
セクハラ発生あるいはそれと疑われる事案の発生に対しては、しかるべき担当部署がしかるべき対応を迅速に取り、表ざたになる前に社内で解決することが「定石」である。が、相手が副社長ということもあのか、米国トヨタはそれをしなかった。

今回のような品質管理とは一件無関係であるかのように思えるが、どう言い訳しようが、既に過去にもトヨタはその世界的プレゼンスと名声に似つかわしくない間抜けな失敗をしてきたのであり、やはり、その時も、対応を誤ったばかりにメディアをにぎわせることになった。

2006年といえば、当時の同社トップは渡辺氏。今回の問題も実は御曹司ではなく渡辺氏の政権下で発生した問題である。

これは渡辺氏という一個人の資質・能力に帰すべき問題なのか、それともトヨタという企業の体質的な問題なのか。非常に興味のあるところではある。
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キリン・サントリーの破談

2010年02月09日 | Weblog
ケツの穴の小さい話だが、まあ、非難されるべきはどちらかといえば、サントリー側だろうな。

というか、鳥井、佐治家の連中度もだろうな。

企業に私物化なんて言うと、「もともと私企業なんだから、私物化もくそもない!」なんて批判を受けそうだが、あれだけ図体デカくなると、「私事」では済まなくなる。

両家の連中も、もう少し「お国のため」と思った方がよいな。この国や日本経済は両家のためにあるのではないから。むしろ逆だ。

サントリーは文化・学術事業に貢献してきた。それは認める。学術賞なんて、選考方法の良しあしはともかくも(なんで?って類の受賞もあるからなあ・・・)、基本的には評価している。少なくともキリンよりは高尚なことしているが、それは所詮、経済全体ということで考えたら枝葉末節に過ぎない。

そんな「貢献」で、大企業の一族支配と、それによる日本企業への「悪影響」を見過ごしてはいけないなあ。まあ、経済、銭儲けなんて所詮「クロネコ・シロネコ」だ。一族支配であろうが、儲けを出して、日本国のお役に立っていればそれでよしとすべきなのだろう。つまり、ヤクザでも使い道があれば、その存在を認めてやるくらいの度量が社会や国にあっても良いということなのだが、今回の「破談」は、どう考えても、日本国、日本経済にプラスになるとは思えない。

合併すれば、サントリーのくそ不味いビールも少しはまともになるかと期待したのだが。もっとも、バブルの頃に「ビヤーヌーボー(だっけ?)」などというネーミングからして間抜けで、味は間抜けどころか馬ション以下の品物を販売した会社であるが、あの頃に比べれば味の方は若干まともになったかな?

(蛇足)
そういえば、佐治家って昔、「熊襲発言」をして物議をかもしたモーロク爺いたなあ・・。
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国会議員の資産公開は、「日本人はバカ」の証左

2010年02月09日 | Weblog
なんでそんなことをする必要があるのか?

要は、やっかみ、ねたみ、ひがみという世論の感情があってのことなのだろう。もちろん、過去に政治家のカネにまつわるスキャンダルが繰り返し起こり、それがきっかけとはなっとのだが、「根」というものを探れば、やはり人間だれしも多かれ少なかれ持つ感情に行きつくのではないのか。

要は、他人がカネを持っていることが面白くないのだ。しかかも国会議員のやつらときたら、地位も権力もある。そのうえカネまで、ということなのだろう。

しかしながら、鳩山首相が最高で16億。まあ、本人名義が16億ということで、某タイヤ屋の株式なんかあわせれば80億近い資産を持っているらしいが。かりに80億だったとしても、アメリカの国会議員連中から見れば「たかが」ということだろう。何100億、何10億という資産を持つ議員などざらにいる。かつて対日強硬派で知られたゲッパート等は、今から数年前で資産5,6億くらいで、議員のなかでは「貧乏」な方と言われたくらいだ。

政治にはカネがかかる。ましてや大統領選参戦ともなれば。カネの算段がつかねば参戦すらできない。できても途中で撤退した政治家も過去に何人もいた。桁が違うとはいえ、日本でも同じだ。選挙を含め政治活動にはカネがいる。だから、政治家のカネにまつわる問題は後を絶たない。カネがかかる制度がおかしい?カネのかからない制度も可能だ? 確かに、カネのある人間しか参加できない民主政治というものから、果たしてそれが「民主」なのかという疑念は払拭できない。今よりもカネのかからない選挙、政治が可能かもしれないとの可能性は欧州のいくつかの国にケースからうかがい知ることはできる。ただ、現状において、「カネがかかる」というのは現実であり、そうした現実があるにもかかわらず、あえて政治家に資産公開をさせ、しかも、昨今の鳩山首相に対する一部の批判も含めそれが場合によっては政治家に対する批判、支持率低下の原因にもなるというのはいかがなものか。

いかがなものかというか、政治家に資産公開等を求めて溜飲を下げる国民が、程度が低いのだ。要は、感情レベルでしか政治を見ていない。

資産公開を喜んでいるのは、マスコミだけかもしれない。だが、「そんなものもうよせ!」という声を巷で聞いたことはない。

いや、むしろ資産公開をうまく「ガス抜き」で使っているのは政治家のほうだ?それはありえるだろう。だが、もしこれが本当だとしたら、これこそ国民は「バカにされている」と怒るべきではないのか。

ところが現実は「鳩山総理はお坊ちゃんだから・・」ぐらいのねたみ、そねみ、嫌味くらしか聞こえてこない。マスコミの情報操作、歪曲を差し引いても、世間の政治家の資産への反応はおおよそそんなものではないのか?

鳩山、麻生程度のカネで「お坊ちゃん」なら、米国の政治家の多くは、お坊ちゃんどころか「王子様」、「王女様」のレベルだ。もっとも、食いっぱぐれた移民の子孫に「王子」、「王女」の品格はないのだが。

「資産公開なんかもうやめましょう」、そんな声が出てくるようにならなければ、日本の民主政治はまだまだ・・・ということなのではないだろうか?
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日本の中華料理

2010年02月07日 | Weblog
「本場(大陸、香港、台湾を含めて)」に比べて・・という話はよく出てくる。

確かに、これは中華ではなく既に日本料理なんてものもある。ラーメンなんてのはその典型だし、餃子もものによってはそうだ。タンタン麺、台湾ラーメン(台湾が中国の一部とすべきか否かはさておき)なんてのは、あれは「本場」にはない。

「本場」と同じものでも、「違う」、「いまいち」というものもなくはない。辛いもの好きな私には、日本では「本場」の四川料理には滅多にお目にかかれない。もっとも、「本場」でも、四川の地元のものとは違う「川菜」、「四川風味」があるので、日本だけの問題ではないが・・。

中華は非常に多様であるが、日本の中華には多様性がない。また個人的好みになるが、湖南料理を探そうと思うとたいへんだ。むしろ、アメリカの地方都市の中華料理屋でかなりのレベルの湖南料理に出会って、驚いたこともある。あの時の左ソウトウ鶏はホントに美味かった!

私は北方風の決してスタイリッシュでない粉食が結構好きなのだが、これも日本では滅多・・。あの「大味」さというか「武骨」さは日本人にはなかなか受けないせいもあるのだろうが、これも米国で出会ったことがある。ちなみに現在北米最大(世界最大?)のトロントのチャイナタウンではどういわけか北方系のうまいものにはなかなか出合えない。港式飲茶のあまり好きでない私には残念である。NYCも福建系が多いというので、そうなのだろうか?台北あたりはまだ結構北京と同じような北方系の粉食に出会えたりする。

私は今まで食べた再考の海老入りワンタンは、実はアメリカでのことで、しかも学生街にある香港系移民の経営する安ーいレストランではない食堂であった。

付け加えるなら、高級店も含めて、最近の日本のコース料理の個性の無さはヒドイ。むかしは安いコースでもそう少しいろいろ出てきたものである。フカヒレ、海燕の巣、アワビ、伊勢海老がロブスター、北京ダックを出せば良いというものではない。ただ、フカヒレ、アワビへの偏重は「本場」でもそうで、どうも日本の「単調さ」と「本場」の経済成長に伴う」成金趣味」が妙に歩調を同じくしているのは気になる。

でも、総じて日本の中華、レベル的にはそんなに低くないと思う。「あっさりしすぎ」と思う場合があるが、脂っこいのが嫌いな日本人だから、これは仕方がない。

酢豚なんてのは、「本場」はかえって酢の効きが日本人には弱すぎると思う。その結果、甘みが際立ってくどく感じる時がある。

牛肉の扱いは、「本場」ではダメだ。牛肉めんなんてのもあるが、牛肉の味わいが無い。
硬くはないが味が無い風味がない牛肉料理が結構多い。

以前にも書いたが、肉に火を通しすぎるきらいも「本場」にはある。

八宝菜なんて、実は本場にも似たようものをご飯にかけたものがあるが、日本の街中の安い店の方が美味い場合はほとんどだ。

麺の柔らかさは、多くの日本人にはどうなのだろうか? 中華圏でパスタを食うな、ということも言える、蛇足ながら。

日本の中華、私はそれなりに好きですよ。
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豊田社長の会見

2010年02月06日 | Weblog
ありゃ、見た目的に全然ダメだわ。

別に、イケメンじゃないとか、そういうのではない。そもそも豊田家は美形の家系じゃないだろ!

そんなのはどうでもいい。要は会見の内容もさることながら、見せ方。

あんなんでは、海外、特に米国ではマイナスにこそ働きこそすれ、プラスにはならない。もっとも、社長が出てくるのが遅すぎたという、それ以前の問題もある。

誠意を感じたか否かはさておき、スピード、演出つまりアピール力がなくては今の時代だめなのに・・・。

大企業病ということもあるのだろうが、あの豊田家の御曹司、大丈夫かね。正直いうと創業家社長だからというんじゃないが、「この人ならいけるんじゃないか」と思っていただけに、メガネ違いだったのかな?


それにしても、米国メディア、昨年のフォードの大量リコールの時は随分静かだたのにねえ・・・。「なんでだろう?」そもそも、リコール続きのビッグスリーが今更大量リコール出しても「またか」ってことで驚かなかった。その逆でトヨタの場合にはあまりにも、対応のずさんさを含めて「あのトヨタが」って感じで意外だったから騒ぐ? そうじゃないような気がするのは、私だけじゃないですよね? まあ、某州のひも付き議員連中たちがうごめいているのは別段驚くことでもないんだろうけど、フォードに比べて、っていうところの理由は他にもあるんだろうと思います。別に米国だからとか米国人だからとかいうんじゃなくて、どこの国にも多かれ少なかれ存在する感情が背景に。どうしたって人間、自分や自分の家族、自分の国、自分と同じ民族・人種がかわいいもんねえ・・。

それにしても、トヨタって会社、いつまでたっても田舎者なんだなあ・・・とつくづく。所詮は三河の何とやら。尾張出身の私の祖父は「三河の連中は・・」ってよくある種の上から目線で言っていたものですが、それが昔の尾張人の三河人観でした。偏見といえば偏見なんだろうけど、やっぱ、三河人とその「ケチな田舎者」が作った企業の企業風土はかわらないのかねえ・・・。だから、あの会社のクルマはパッケージングがだめ? ってことかね。
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十七代目勘三郎追善: 「じいさんばあさん」

2010年02月06日 | Weblog
先代勘三郎も17回忌だとか。

愛嬌のある巧い役者で、好きな役者の一人だった。よく泣かされも笑わされもしたものである。味のある役者であった。最後の舞台は「俊寛」。私が見に行ったときには、既に休演で、今の勘三郎が代演していた。当代に先代の「血」が確実に受け継がれていることは、芝居好きとしては、このうえない喜びである。芝居における「世襲」というものがあながち否定できないのは、こうした点にある。もっとも、世襲には吉凶両面あるわけだが、そこは仁左衛門襲名の件のように、松竹さんの経営感覚で何とか塩梅してもらいたいものである。(別に次の仁左衛門を愛○○に、なんてことは私はあえて言わないけれど。でも、新○○ってことは間違いなくありえない、でしょ? きっと本人もそんな気ないと思うし。それから羽左衛門はどうなるんだろうか・・・? 適材がいない。血筋的にはあの役者かね?あの人は○○天皇くらしか当り役ないでしょ、今までに。それにあの声色というか台詞廻し、生理的に×だな、昔から。いずれ、次の吉は?って時も来るんだろうなあ・・・。来てほしくないです。)

私が芝居を見だしたのは先代最晩年なので、「じいざんばあさん」は見ていない。言うまでもなく森鴎外の他愛もない短編の他愛もない芝居ではあるが、こうした新作でも「味」というか「旨み」で客を引き付けるのが先代だった。「檻」なんかも良かったなあ・・・。

今回は昔でいう「孝玉」コンビ。

この美形の御両人でのこの演目というのも、見てないだけになおのことピンとこないのだが、私が唯一一回見たときは猿之助・故宗十郎コンビであった。

刃傷沙汰に末の夫婦の別離、子を亡くすという悲劇、そして数十年ぶりの再会を描いたに過ぎない芝居で、小説で読めばもっと他愛ないのだが、年老いた夫婦の再会と、舞台上では描かれない子供との死別等の昔がたりに、私はウルウルしてしまったことを思い出す。

故宗十郎という女形、好きな役者の一人であった。玉三郎等のように美しいというのではないが、何ともいえぬ雰囲気を持った役者であった。愛嬌があった。それ以上にあの役者には「時代味」があった。時代物の「時代味」というのではない、「昔の役者というのは
ああだったのでは」と思わせるような味わいがあった。亡くなった時には、十五代目羽左衛門にさかのぼる古き江戸歌舞伎の芸風を携えた最後の役者などという追悼談をどこかで見た記憶があるが、私が感じたのもそうした味わい・雰囲気だったのかもしれない。「引窓」の女房など、あの人こそのものであった。実に惜しい役者を早くになくしてしまったものである。存命だったら、今はどんなであったろうか・・。

そして猿之助。あの人には「スーパー歌舞伎」などではなく、もっと古典物やこうしたとえ他愛なくとも味のあるもの、いや役者の腕次第で原作にはない味わいを出せるもの、祖父猿翁が得意とした系統の「黒塚」だけではない演目をもっとやってほしかったものである。昔「鮨屋」の権太を見たことがあるが、音羽屋系とは違った芸風の「いがみの権太」には、この人の役者としての将来への可能性、本来進むべき方向を見たような気がした。見てはいないのだが、「天下茶屋」の元右衛門も良かったと聞く。見た目はズングリで決して二枚目とは言えず、声も決して良いとは言えないこの役者には、そうした役があっているのではと思い、「この人が今後役者として生きていく道は『くそおもしろくもない』スーパー歌舞伎(時間的に長いだけでホントに面白くなかった)ではなく古典にある」と私は絶えず信じ、仲間内でも持論としてきた。それだけ、この人には役者として期待していたのだが、そうこうしているうちに、残念なことになってしまった。もう「復帰」ということはないのだろうなあ・・・。あの人なりに当時の芝居の置かれた状況のなかでの「何とかしたい」との一心からの全力疾走だったのだろうけど、どうも方法論と方向性を間違えて時間と体力を無駄にしてしまったのではないだろうか、というのは言い過ぎだろうか。でも、近年の段四郎の活躍を見るにつけ、私のかねてからの思いは決して間違っていないと思うのだが。(段四郎。あの人の「遠山の金さん」は大嫌いだった。梅之助の降板を受けてだったと思う。梅もどうお世辞を弄しても「遊び人」ではなかったが、当時は梅=金さんというイメージが自分のなかで出来上がっていただけに、これまた二枚目でもなくば「遊び人」には見えない段四郎には、子供ながらに随分腹を立てていたものである。それから月日は過ぎ、たしか国立劇場でだったと思うがそこで見た「勧進帳」の弁慶、あれには驚いた。「段四郎というのは、これほどの力量を持った役者だったのか」と。それだけに兄と行動をともにしていることに、他人事ながら勿体ないと思ったものである。血を分けた兄弟だけにこういう言い方は本当に失礼なのは十分に承知しているが、人の不幸は何とやら。人の人生、人間関係には、本当に時には残酷なまでに皮肉なときがあるものである。亀もよかった。でも、右近とか、あの人たち、今後役者としての将来はあるのかねえ・・・。)

話はずれたが、今月の演目に「じいさんばあさん」としり、思いだしてしまった。

ただ、追善公演で「じいさんばあさん」というのは、どういうことなんだろうか。あの決して眉目秀麗な役者ではなくとも華やかで愛嬌のあることこの上なかったあった先代を思うと、もっと別の演目もあったのでは、とも思うのだが・・・。


ついでに、歌昇、この人なんとかなりませんか? なんとかというのは、どうしようもない役者だからってのとは真逆で、私的には、あの人「不遇」だなあと思うんです。声はいいし、舞台上がれば見栄えはするし、愛嬌はあるし。もっと良い役がつけば、もっと目立つ人、もっと活躍できる人だと思っているのですが、随分昔から。播磨屋とはよく一緒の舞台に立っているし、TV番組も一緒していたが、播磨屋の押しでなんとかなりませんか? 門閥というものの関係で無理? でも、役者は60から、だからね。あのトミーだって、かつての大幹部連がこぞって存命のときには、決して力量に見合った役をもらえていたわけではないからね。もう少し辛抱強く「これから」に期待してみます。
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私は米国が嫌いです。

2010年02月05日 | Weblog
私の今暮らす町に「米国」がある。

実に唯我独尊、無神経で、傲慢な存在であり、米国そのままの「米国」なのだ。

自分たちの振るまいが周囲にいかなる悪影響を与えているかなどという気配りはない。まったくinconsiderateなやつらである。

おそらく、普段そうであるように、自分たちのスタイルが「正しい」と思っているのだろう。問題があるなどとは、微塵も思っていないのだろう。

かりに思っていても、それを改める気もないのであろう。なぜなら自分たちのある場所は、欧州ではなくアジアだからだ。もっと平たく言えば、クリスチャンでも白人でもない奴らが巣食う土地だからだ。だから、自分たちのやり方が正しいのだし、かりに問題があったとしてクリスチャンでも白人でもないやつらの事情にいちいち斟酌するつもりもないのだ。

米国とはそう存在だし、米国人とは一般的にそういう人間たちなのだ。

実に腹立たしく嫌な奴らである。

しかしながら、憎めないところもある。まだ若い国であり、国民たちである。一面成熟しているが、別の一面においてまだまだ未熟、子供な国であり、国民なのだ。まあ、思春期の男子みたいなところがある、ガタイはでかい。体力もある。知恵もそれなりにある。もう、生殖能力もあればセックスのスタミナは盛りを過ぎた大人には太刀打ちできない。しかし、人生経験が乏しい。セックスも単調でテクニックがなく、相手の悦ばせ方を知らない。あの年頃特有の情緒の不安定と肉体と精神のアンバランスという問題を抱えている。自分が今何をしていて、それが自分の行く末や周囲にどのような影響を及ぼすのかということまで考えが至らない。若さゆえの一途さは、時にとんでもない行動に彼らをはしらすこともある。10代はまだ子供とはいえ、大人のようなズルさワル知恵も十分に身につけつつある年頃であり、事実、米国はズルく、ワルがしこく、狡猾である。今のトヨタ問題も、根本がトヨタの過失にあるとはいえ、議会の一部の動きなど、あまりにもあざとく、露骨である。水に落ちた犬を叩くことに容赦しない。どこぞの民族の不気味な老獪さとは違った意味での子供のもつ残酷さも持っている。でも、幼さゆえの無邪気さがまだある(無邪気である分だけ、その残酷さが際立つ時もある)。鷹揚でもある(が、若さゆえの不寛容も持ち合わせている)。人は老若男女にかかわらず「矛盾」にみちた存在なのだが、米国というこの若者は、なおさらである。

扱いが難しいやつらである。大人と思えば、子供だし。子供と思えば、すっかり大人でもある。

嫌いなのだが、憎からず。いいやつなのだが、嫌なやつでもある。

そして、個人的には懐かしくもある存在なのだ。「第二の故郷」とまでは思わない。そういったのではないが、しばらく暮したときの「あの心地よさ」をふと思い出すときはすくなからずある。

好悪、愛憎半ばする、それが私の米国観、そして大方の日本人の米国観ではないのだろうか?

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