くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

TVとモラル: TV版「愛の流刑地]前編を見て

2007年03月21日 | Weblog
今、引越し先のホテルから投稿中。明後日には新居の借家に移るので、そうなるとまたしばらくネットレス生活になります。

さて、昨晩放送の「愛の流刑地」前編、ありゃどうしたものかねえ・・・、と感じたのは私だけですか? まだ映画見てません。原作も読んでません。後編は今晩ですね。TV化や映画化された結果原作とはまったく別物になってしまったなんてケースありますよね。例えば昨年の「けものみち」なんて、ありゃヒドいもんでしたね。清張存命であれば、あのようなTV局の”暴挙”は許されなかったでしょうね(それに比べて昔のNHKのドラマ化は原作に忠実だった)。

どうしたものかねえ・・・てのは、まずあのような男女関係を「愛」と呼ぶんですかねえ。お互い蛇の道は何とやらではないが、お互いどういう状況であれ家庭持ち。その二人がああした関係になったといのは、どう詭弁を弄そうが不倫に他ならないはず。そして不倫の果てのいわば欲情死でしょう。しかも、首を絞めて感じ合うというある種のSM行為の果ての。

あれが男女の「愛」なんでしょうか? 私は肉欲あるいは色欲でしかないと思うんですけど。確かに、健康でいわゆる性機能的にも正常な男女がお互いに交際を始めれば、肉体関係を欲するというのはごく自然なことでしょうけど、あのような形での男女関係ならびに肉体関係を「愛」と読んでしまうことに私は抵抗を感じますね。ですからタイトルも「肉欲(色欲)の流刑地」にした方が内容に適っているのではないかと思うのです。

もっとも、愛とは主観的なもので、当事者でない者には到底理解できない愛のかたちというのもあるんでしょうけど、あの愛は醜いなあ・・・。家庭を捨て、配偶者を裏切り、所詮他人の配偶者はさておき、我が子をも捨て、こんな愛を私は愛として許容できないですね。特に自身が男性だということもありますが、腹を痛めて産んだ我が子を捨て男に走る女性(実際にいますよね)って、理解不能な生き物ですね。ヒトではあっても人間としては決して認めたくはない生き物です。

もう一つ理解できないのが、このようなドラマをプライムに流すTV局の感覚。映画ならいいのか!と言われれば、映画も大スクリーンに写し出すようなシロモノかどうかは、映画版をまだ見ていないのでコメントを差し控えますが、既に半分見たTV版を見る限り、私はTV局ないしは公共放送とモラルの問題を考えざるをえません。と言うと、「テレビ(あるいはマスコミ)にモラルがあると思っていたのか!?」なんて言われそうなので、"改めて”TVとモラルの関係を考えさせられたと言い換えておきましょう。

最後の所謂”ラブシーン”なんてあれ、あの時間のTV番組としてありですか?「岸谷某の腰の動かし方が遅いんじゃない?」とか「あれでオンナいくか?」なんてテク上の突っ込みはさておき、あれを堂々と流しますか?

あれを子供に見せますか?今時の子供なら、番組の放送時間中、相当数はまだ起きてるでしょう。ということは親が気をつけないと当然子供の目に入っても不思議じゃないですよね?

TV局の方々やあのドラマの制作に関わったスタッフの中にも子あるいは孫を持つ方々もいるんですよね。あのシーンを我が子に、我が孫に、「これがお父さんの作ったドラマだ!」とか「これがおじいちゃんの局のつくったドラマだ!」って胸を張って見せられますか?私から見たら、あんなポルノまがいのドラマを作った報酬でメシを食わされている子供が気の毒ですね。そのうち、親の因果は子の因果といことで・・・。

「美しい国、日本」を作りたいのなら、この辺の問題にもメスを入れないとねえ。もっとも、見る人間がいるから作るという市場の原理も働いてるんでしょうし、芸能マスコミの方々なんか昔から自分たちのゲスな報道をさも視聴者のニーズに応えたまでっていうような自己弁護してる方いますよね。ただ、市場経済って、必ずしも消費者主権ではないですからねえ、作った側に乗せられて見てしまうってのも案外多いと思いますよ。それにそうした類のマスコミの言い訳に、業界の自浄能力の限界を感じますけど、政治が動けば、○○の自由への政治権力の介入などと、一斉に騒ぎ立てるんでしょうねえ。一体誰がどうしたら、マスコミという権力の勝手放題に歯止めをかけることができるのでしょうか?
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トルコの爪の垢: 歴史認識問題をめぐる日土の差異

2007年03月13日 | Weblog
第一次大戦中に起きたとされるオスマントルコによるアルメニア人虐殺問題。ことの真偽や逆殺の規模をめぐっては、南京事件同様諸説ある。

史学上いまだ史実としていまだ確定していないこの事件に対して、米国下院がまた口を挟み、非難決議だそうな。

米国という国のこの我が身を省みぬ干渉主義的な態度には相変わらず辟易させらえる。そんな暇があったらベトナムでの自らの所業に対する反省の足らざるを自己批判する非難決議でも採択すればよいのにとも思うが、残念ながらこの悪い癖、米国人からそうそう簡単に抜け落ちることはあるまいし、国家としてのベトナムでの所業を謝罪することなど未来永劫あるまい、余程の国家存亡の危機に瀕し、自らの来歴や伝統、堅持してきた価値観に対する自信と確信が揺らがぬ限り。少なくとも現在只今までの時点で、米国がそうした経験を味わったことはない。

自己肯定は羨ましいほどお得意だが(一部には学力低下の原因論として見直し論は出ているが、教育のあり方からしてそうなのだ)、自己批判ということにはいたく鈍感な米国市民達、戦後この方自虐のお好きな日本国民の一人としてある意味羨ましくもある。この手前勝手さに対抗できるのは、おそらくはどこぞの大陸民族くらいではないだろうか。

私には、トルコもまた羨ましい限りだ。米国議会の動きにトルコ政府は猛反発とは、産経新聞の報道だが、我が国政府の慰安婦問題をめぐる問題とは随分と異なるものだ。

安倍首相の腰の引けたような答弁も情けないものだが、今週明け早々にまた我が国外交官の一人が無益どころが百害あって一利なしの援護射撃を放ってくれた。本当に迷惑な話だ。そのお間抜け外交官とは、駐ロスアンジェルス総領事の児玉和夫氏のことである。氏はロスアンジェルス・タイムズへの寄稿文において、1993(平成5)政府は軍当局の関与を認め、謝罪した」として、日本は謝罪していないとする米国内での批判に対して反論を試みたのだ。

平成5年のとは言うまでも無くあの唾棄すべき河野談話(私は河野という政治家を当代一の傾国政治家と見ている。あのような輩が三権の長とは国恥以外の何ものでもない!)を指す。外交官としての立場上、児玉氏が公然とそれを批判するわけにはいかにことは言うまでもないことだが、だからと言ってあえて我が国は軍関与を認め謝罪していますとは、自己弁護の仕方を間違えている。このような抗弁ならしんないほうがましといものだ。

そもそも、河野談話が認めた軍関与等、現時点で史料的にこれぽっちも実証されていないのだ。つまり河野談話は虚に基づいているのであって、虚に基づく謝罪など、そもそもする必要すらなかった。そのような不要な謝罪をしていますから、謝罪していないという非難は間違っていますというのは、確かに過去の謝罪の有無という点において正鵠を得てはいるが、かえって軍関与が史実であることを追認することにもなってしまうことに、総領事だるものが気づかぬはずもあるまい。

それに対するトルコの勇ましさよ。外交とはしたり顔のすまし顔でするだけのものではるまいに、霞ヶ関の面々ときたら、お育ちがよろしいせいか、相手が米国であっても怯まぬトルコの蛮勇を見らならう気など果たしてお持ちではないのではないのか?

かつてトルコといえばトルコ風呂(古いね)。その名を聞いただけで笑いがもれたものだが、かつては中近東に600年余覇をなした世界に冠たる大帝国であった。オスマン朝の末裔たち、いやはや、たった一回負けたくらいで半世紀以上も旧敵国に尻尾を巻き続けるどこぞの国民とは一寸違う。天晴れ、天晴れ。

ところで、トルコの人々、東郷の子孫たちの今日の無様をはたして知っているのであろうか。
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民法772条問題: 離婚後300日以内の出産

2007年03月12日 | Weblog
民法772条によれば、離婚後300日以内に女性が生んだ子供は前夫の戸籍に入れられることになる。

これが問題だ!ということになっている。確かに親を選べずして生まれてきた子供が自分の実の父親ではない人間を法律上父親として持つことになったらい、あるいは戸籍すら無いという状況に置かれたとすれば、それはそれで問題でなかろうはずもない。

ただ、この離婚後300日以内の出産、場合によっては、今騒がれている民法上の問題
とはまったく別の問題をはらむ可能性もあるのだ。

離婚後300日以内ということは、離婚後100日でも、50日でも300日以内である。女性が早産ではなく前夫以外の男性の子供を出産を離婚後100日以内にした場合、その女性は離婚前に既に夫以外の男性と性的関係を持っていたということを意味する。

ダブル不倫あるいはそうでなくても離婚成立以前から夫婦関係は事実上崩壊していたとすれば、より厳密に言えば夫妻双方ともそのように自分たちの婚姻関係を共通認識していたならともかくも、そうではない場合、例えば夫は自分の結婚がまったく、あるいは何らかの問題が存在するとは思っていても、それによって婚姻関係事態が危機的状況にあるとは認識しておらず、しかも妻の不倫の事実にまったく気づいていない状況で、妻が婚外性交渉を持ち妊娠、その後の離婚を経て出産したとして、こうした事態を我々は社会倫理上受容すべきなのであろうか。

もっとも、かりにいかなる形で性交渉が持たれ、その結果妊娠・出産が行われたとして、生まれてきた子供がなんらかの罪科を負うべきいわれはないし、そうであってはならない。(とは言っても、親の因果は子の因果という。やがて親の所業のせいで、世間的に肩身の狭い思いをせざるをえないことになる可能性までは否定できまい。子は親を選べない、だからこそ親は・・。)

ただ、その親となると話は別だ。もし上記にあげたような、あるいはそれに類似したような事情で離婚後の出産という事態が発生したとすれば、子供はさておき、その生物学上の両親は社会的に指弾されてしかるべきではないのだろうか。

いや、指弾されなければならない。私は個人的に、そのような妊娠・出産をした女性並びにその相手の男性を蔑むことを躊躇しない。最低で、不潔で、人でなしなヤツラであると思うのだ。「きたならしい!」の一言に尽きる。

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慰安婦問題-朝日新聞の品格が問われる

2007年03月10日 | Weblog
細かな事実にこだわって弁明ばかりするよりも、民族や女性の人権の問題ととらえ、自らの歴史に向き合う。そこれこそが品格ある国家の姿ではないか。

「慰安婦問題-朝日新聞の品格が問われる」と題する朝日新聞の3月10日付社説はかく言う。

私はむしろ、この社説をめぐって、朝日新聞の品格といものを問うてみたい。

「細かな事実」にこだわらずというが、この社説の筆者が満員の通勤電車の中で女性のケツを触っ(てしまっ)たとしよう。触られた方は「痴漢行為だ!]と言う。触った筆者氏は「寿司詰め状態で手が触れただけ」として痴漢行為を否定する。これもまた、「細かな事実」にこだわった弁明になるとお思いで、筆者氏?あなたは、車内での出来事に不快を感じ、女性としての名誉と尊厳を傷つけられたと感じた女性の人権の問題ととらえ、「細かな事実」の真偽をさておき、「痴漢行為ではない」というあなたの主張を取り下げることができますか?

それが筆者氏の、朝日新聞のいう「品格」 なのであろうか。白も黒というがごとく、「民族や女性の人権問題」の前にひれ伏し、相手の言いなりになり、事実かどうかもいまだ判然とせぬことを事実・真実として認めることが品格なのか。「いま大切なのは、問題は何が幹で何が枝葉なのか」を見極めることだと主張しているが、民族や女性の人権問題」という「幹」の前には、真実の追究などという「枝葉」に拘るなと・・・?

事実確認はさておき「仰せの通り、私は痴漢です」と、女性の人権問題という「大義」の前に、跪くを「品格」という、この感覚、わたしには到底理解できない。自身の自尊と品格に拘るのであれば、濡れ衣は、その大小にかかわらず、晴らさねばならない。汚名は注がねばんらぬ!という強固な意志とそれに裏打ちされた断固たる姿勢にこそ、品格が存すると思うのだが・・。

それ以上に、事実確認などそれが小事であればどうでもいい、と言い放つ朝日新聞の姿勢に、私は恐怖すら覚える。社会の「公器」であるはずの大新聞が「大事」の前に事実解明という「小事」放棄することを良しとするこの姿勢、言い換えれば、朝日新聞は、時と場合によっては、ことの信憑性というものを重視せず、そのスタンスで読者に情報伝達することもありえるということを宣言しているに等しいのではないだろうか。「我々は、それが『枝葉』の問題である場合には、必ずしも事実を報道するとは限りません」と。

そもそも、誰が何を「幹」で、何が「枝葉」と判断するというのだ。「幹」と「枝葉」を二分する絶対的な基準などというものは、そもそも存在しないはずだ。かりに朝日が「我々がそう判断した」というのであれば、それはもう客観性もクソもない世論誘導行為に他ならぬ、巨大メディアの横暴といわずして何と言うべきか。それこそ、メディアとしての朝日新聞の品格が問われる問題だ。

それにしても朝日さん、そのような姿勢で商売していると、そのうち、真偽の追求を放棄して世論誘導を行う朝日新聞の報道の自由を制限することも、同紙の世論操作によって読者の知る権利が著しく制限・侵害されてきたことを人権問題としてとらえた場合、已む無し!なんてことになりはしないかなあ・・・。明日は我が身かもしれませんぞ。

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所謂「従軍慰安婦」問題、はたして証言=事実

2007年03月10日 | Weblog
なのか?

この問題をめぐって、日米双方のメディア並びに政界(特に我が国の政界)で喧しいことになってきたが、所謂「従軍慰安婦」の強制連行、しかも我が国が国家としてそれに関与したとする立場は、必ずといってよいほど”自称”元慰安婦たちの「証言」なるものを持ち出す。

いや、それしか持ち出してこないのだ。「それしか」ということは、実は、それ以外に「従軍慰安婦」なる女性に対する強制連行を立証するものが無いから、とも言える。

証言が即事実まはた真実を語っている、などと思っているとしたら、これほどおめでたい人種はいない。この世の中、掃いて捨てるほどの嘘が存在するように、これまた数多の嘘の証言が存在する。中には、国権の最高機関たる国会において、平然か否かはいざ知らず、偽証なるものをしでかす不届き者もいる。それが姉歯だけで無いことは言うまでもない。

いわば、証言必ずしも真ならずは、フィクションの世界でもない限り、自明のはずだ。そのことを理解せぬはずもあるまい内外メディアや一部政治家どもが、「証言があるのに認めないのか!?」、「歴史の歪曲だ!」などと騒ぎ立てる。山拓の戯言も始末が悪いが、それらメディアや政治家達の確信犯的な日本叩きや政府叩きにも、真実(史実)の追求を隠れ蓑にした魂胆が見え隠れして、始末が悪い以上に不愉快極まりない。日本政府側の対応が歴史の歪曲あるいは過去を直視せぬ姿勢であるというのであれば、それら批判者の史実かどうか分からぬものを強引に「あったこと」として強弁する姿勢を何と評すべきであろうか。それこそ、所謂「従軍慰安婦」であった「憐れな」女性を食い物にしたゲスな行為ではないのか。女性を食い物にするという点では売春業者や女衒どもと変わりはないではないか。

それにしても安倍首相の答弁も腰が引けてやしないか? この人、ホント期待したほどでもなかったのかもねえ・・・・。





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山拓先生、お戯れもそこまでに・・・

2007年03月08日 | Weblog
あのスキャンダルで事実上終わっている山拓こと山崎拓氏だが、この御仁が総理にならなくて本当によかった~と今更ながらつくづく・・。

「これぞ好機」の前に、8日の山拓発言について一言書いておきたい。

昨年私は山拓氏を「変節漢」(変態ではない)として非難した。その山拓氏の先日の徒労に終わった平壌訪問といい、8日の発言といい、お気は確かか?と思わざるをえない。米国下院での決議案上程をきっかけに再び喧しくなる気配を帯びてきた所謂「従軍慰安婦」問題をめぐる安倍首相の「狭義の強制制」否定発言に対し、山拓氏、自派閥の総会で「弁解がましい」と批判したとのこと。産経新聞の報道によれば、山拓氏、「従軍慰安婦なるもの(の存在)は事実だ。それが強制によるか、間接的な強制かの議論は実は弁解にすぎない」と述べ、平成5年の河野官房長官談話を認めるべきとの立場を明らかにしたという。

そこで、

山拓氏に言いたいことのその一。”従軍”慰安婦という戦後の造語を使われるのは、よされた方がよいだろう。”従軍慰安婦”と言ってしまった時点で、戦時中の「慰安婦問題」でもって我が国及び政府をやり込めようとする国内外の勢力の土俵に乗っかってしまっていることを自覚するべきだ。さもなくば、山拓氏、あなたもそうした勢力と同じ歴史認識をお持ちということになりますなあ・・・。もしそであるならば、あらためてつくづく、例のスキャンダル報道があなたの総理総裁への道を事実上閉ざしてくれたことに、私は感謝せざるをえません。ところで山拓先生、まさかポスト安倍を狙っているなんてご冗談、思ってもいませんよね?そこまで政治カンが狂ってしまわれたとは思いたくありませんし・・、私も。

山拓氏に言いたいことのその二。米国下院などが問題視しているのは、所謂「従軍慰安婦」が国家関与の強制のもとに慰安行為に従事させられたという歴史認識を彼らが持っていらではないのですか?であればこそ、強制の有無の議論こそ、まさにこの問題のポイントではないのでしょうか?少なくとも現時点で、海外で”Sex Slave"と呼ばれているあるいはそうみなされている慰安婦の徴集に政府・軍が関与したことを示す史料・証拠がない以上、「政府・軍による強制行為があった」という前提で上程された米下院の決議案などは、政府として国家として我が国は看過すべきものではありますまい。我が国の体面に、歴史に今根拠の無い、謂れの無い汚名が被せられようとしているのですよ。こうした事態を前に、安倍首相の「強制制」否定発言を「弁解」とは、山拓先生、あなたどこのお国の国会議員ですか?まさかいまだに色気がおありとは思いませんが、どこの国の総理になられようとしていらっしゃったのですか。自国が受けんとする汚名に加担するような言説を吐く人物など、総理はおろか国会議員の資格もないかと私は思いますが? それでなくても、あのスキャンダルが出てしまった時点で、そういう変わった性癖をお持ちの人物が有力国会議員でいらっしゃったという時点で、我が国国民一同、随分情けなくも恥ずかしい思いをしたものですが・・。山拓先生、あなた、どこまで我が国に恥をかかせようとのおつもりなのですか?

山拓氏に言いたいことのその三。河野談話を認めよとのことですが、私は死んでも嫌ですね。あの談話がなんらの歴史的事実なり論証に基づくものではなく、日韓関係に配慮した政治的な産物であることは、河野氏自身認めているように、今日においては明々白々たる事実では?それを認めろとは、黒を白と認めろ!というがごとき没論理な暴論ですな。お話になりませんわ・・・、綸言汗の如しではあるまいに。

もっとも、広義だの狭義だのと一部の学者ふぜいの言葉遊びに乗っかる安倍総理も総理だが、この元(!)総裁候補の山拓氏、もういい加減政界から消えないかねえ・・・。山拓先生の選挙区の皆さん、こんなのもう一度落として引導渡してあげなよ。ほんと国を過つよ、この政治家。
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これぞ好機!: 慰安婦問題と米国下院

2007年03月07日 | Weblog
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皇室と税金

2007年03月07日 | Weblog
よもや例のわたし的にはいまだ真偽不明の例のスキャンダルによる御心労のせいではなどとの詮索はさておき、皇后陛下の御病気の平癒をお祈りいたします。

さて、そのスキャンダルの有無に限らず、「自分たちが皇族を食わせてやってるんだ!」のごとき物言いをする御仁で出くわしたことがあるのは、わたしだけではないだろう。つまり、我々の税金で生活しておきながら、というやつだ。

わたしは、この物言いが実に気に入らない、ムカツク!

国家・国民の象徴たる天皇陛下並びに皇后陛下、諸皇族方が、そのお立場にふさわしいお振る舞いをされることは期待されて当然のことで、その当然から逸脱すれば、国民の批判を免れるべきものではない。特に陛下の御藩屏たる諸皇族方は陛下あっての御身と心得て、陛下をお助けすることはあっても、陛下の足を引っ張るような行為はゆめゆめ慎むべきである。華族制度のない戦後においては、皇族以外に陛下の御藩屏はないのだから、尚更のはずだ。

しかし、我々の税金で生活しているくせに云々かんぬんという皇室批判には組しない。

そもそも天皇陛下はじめ皇室の方々にそのようなご生活を強いているのは我々日本国民でないのか。戦後、占領下のことであったとはいえ、皇室財産を国有としたがゆえに皇室は国費に依存せざるをえないのではないか。その点をさておき、「我々の税金」を錦の御旗のごとく振りかざすのは、自分で相手の手足を縛っておいたうえで、「さあ、箸をもってメシを食え」、「さあ、走ってみろ」というようなもので、率直に言って、”卑劣”な物言いだと思う。わたしは、そのような批判のあり方を潔しとはしない。

天皇陛下や皇族方に、税金云々の批判をぶつけるのであれば、その前にかつての皇室(帝室)財産、すべてお返しするのが筋ではないのか。その上で、皇室に使われる税金と皇室のあるべき姿の議論をすべきではないのか。

しかし、皇室財産の返還、そんなことこの期に及んでできますか、納税者の立場を盾に皇室への物言いを当然の権利だとお考えの皆さん?そうするお覚悟はおありですか?できないのであれば、いいとこ取りの手前勝手な物言いはよした方がよいのでは?それが人の値打ちというものだと、わたし的には思うのですが。



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日本の政治民度: 「オイ・ワイ禁止条例」構想

2007年03月02日 | Weblog
他所の方言のことはよくわからないので、その言葉自体の良し悪しについては何も言えないが、条例でもって言葉遣いをとやかくするべきなのだろうか。

3月2日のYahooニュースによれば、佐賀県武雄市の樋渡啓祐市長が、女性配偶者を名前無しで呼ぶ「オイ」、「ワイ」を条例でもって禁止しようとの構想を打ち出しているという。

市長氏が自身のブログにおいていわく、男女共同参加社会の実現が進まぬ現状を打破する意図とのことだ。

国レベルでは平成11年に基本法化もされている男女共同参画社会実現の方向性をとやかくはいまい。それがジェンダーフリーなるイデオロギー臭ぷんぷんの得体の知れないものを志向するのでないならば、ではあるが。日本という国において、人権という点から男女という異なった性の置かれている現状を見た場合、解決・改善すべき問題・課題が無いわけではない。越えねばならぬ山は幾つもあると思う。私にとってその生態の不明な点の多々あるトランスジェンダーはさておき、男女が同じヒトではあっても、その身体的特徴に明々白々たる不同なものが存在するうえからは、その違いが思考や性癖、行動、あるいは社会生活上においても差異を生じることは致し方あるまい。前述トランスジェンダーや性転換された方々はさておき、一般多数の男女にとって、それは男女それぞれの生来の分際として甘受せねばならない現実である、と考える。但し、その差異が両性の好むと好まざるとにかかわらず共生する共有空間、すなわち社会において、補正度制度上の権利ならびに義務において差別化されてはならないと思う。もっとも、生き物としての差異をまったく無視した権利や義務の法的な付与が、かえって男女双方にとって不都合をきたす可能性も否定はできず、生物的な差異、またはそこから自ずと生ずる差異と、権利・義務における無差別との折り合いは、広く議論を重ねた上で国、自治体それぞれの所定の立法・行政プロセスの中でつけていくしかあるまい、少なくとも民主社会においては。

権利・義務上における男女平等や男女共同参画社会実現のためには、男性側の意識改革が必要であるという樋渡市長の言い分は理解できる。男女平等なり共同参画社会というのであれば、女性の側も女性であるがゆえにこれまで許されてきたいわば既得権益のようなものに安住していてはいけない。例えば、本当に男女平等を言うのであれば、本当に両性の対等を前提に社会的共同参画を主張するのであれば、女性の側からこそレディーファーストや飲食店などでのレディースプライス等に”NO"の声を挙げるべきである。そうした甘えられる部分にはほっかむりの温存を決め込みながら、もっと権利を平等をというのはいいとこ取りで都合が良すぎる。しかし、同時に男性の側も意識だけではなく行動も変えてゆかねばなるまい。女は家庭に!なんて言いながら職場から女性を閉め出そうとする男性諸氏の中には、女性との職場での競争を恐れているのではないかと勘ぐりたくなるような程度の御仁も散見せぬではないし・・。

しかしながら、個人の言葉遣いまでをも法的な縛りの内に置く(統制する)ことが、果たして男女共同参画社会の実現を目指すうえにおいて本当に必要かつ適正な手段・方法なのだろうか? かりに有効な手段だとして、表現手段・方法にまで介入することは、個々人の心の内にまで政治が手を突っ込むことになりはしないだろうか。

例えば、佐賀県武雄市在住の男性A(65)が妻のB(61)に対して日頃から「オイ」、「ワイ」と名前抜きに呼んでいたとする。だが、Aは結婚このかた妻Bを深く愛しており、定年退職後はできるだけ家事の手伝いもするようにしている。「オイ」、「ワイ」と妻を呼ぶのは、地域の昔からの言語慣習をそのまま従っているだけで、妻を見下す意識があるからというわけではない。妻も「オイ」、「ワイ」と呼ばれることに何らの抵抗もなく、そう呼ばれるからといって、夫が自分を見下しているとか、対等のパートナーとして処遇していないなどと思ったことはいまだかつてない。

このような夫婦に対して、いきなり「オイ」、「ワイ」は男女平等、男女共同参画社会に矛盾する言葉遣いだ、禁止だ、条例違反だと行政が介入してきたとしても、それは犬が虚に吠えるがごとき行為になりはしないだろうか。つまり、Aが妻Bを「オイ」、「ワイ」と呼ぶ行為に性差別意識や男女共同参画社会に反旗を翻すような意識ないし意図など皆目ないのだ。ところが、一犬虚に吠ゆれば、萬犬なんとやら、と言う。Aのみならず、彼と同様の意識レベルでもって「オイ」、「ワイ」と今までやってきた男性諸氏は、性差別主義者として一斉に社会の糾弾を受けぬまでも、痛くもない腹を探られて、そのうえ長年使い慣れた言語を奪われるという、踏んだり蹴ったりの目に遭わされることになるのだ、少なくとも佐賀県武雄市では。

おそるべし佐賀県武雄市。条例が実現すれば、男性諸氏にとってはこの世の苦界とあいなるわけだ。観光で行くならまだしも、そんなところに住みたくはないな、くわまん氏は。

さて、今回の条例構想を打ち上げた樋渡市長、見た目は40代半ばから後半?って感じなんだが、昭和44年生まれの37歳で、しかも東大経済学部卒の元総務官僚。いわばエリート。おそらく将来的には佐賀県知事か中央政界への進出を目論んでいるのではないだろうか。こういう言い方をすれば武雄市民に失礼だが、東大出の元官僚が、たかだか人口5万のしがない地方都市の首長で「上がり」では満足するわけもあるまい。

「そんな東大出の官僚出身エリートが何でこんな冗談みたいな条例構想を!?」なんて驚いてはいけない。官僚出身だからこそ、こういう言論統制みたいな条例が思いつくのだ。「お上」意識のなせるわざなのだ。

 などと言ってしまえば、「痛くもない腹を探られているのはこっちの方だ!」と樋渡市長がご立腹されますかね?

 それにしてもこの言語統制条例案、「お前のパンツの中はどうなってるんだ!?」みたくゲスですな。房事の真っ最中にうっかり女房なり相手の女性を「オイ」、「ワイ」と呼んで、相手に「あ、条例違反!」なんて言われたら、一度に萎えてしまうだろうなあ・・・。トラウマになってインポにでもなったら、それこそ少子化に拍車をかける恐れだってあるというものだ。
 
 この程度のレベルの市長を選んでしまった武雄市民の皆様、この条例がもし日の目をみるようなことになったとしたら、自業自得と観念するしかないですな、特に男性市民の皆様。あなた達の政治民度が低いから・・・。市長も市長なら、市民も市民。いずれも武雄の政治民度を映し出しているのかも・・。そして、武雄が今の日本の政治民度を映し出しているのかも・・・。

 武雄をもって一般論化することが論理の飛躍ならば、せめて九州の政治民度と言うにとどめておきましょうか? 東国原知事といい、このとんでも条例構想といい・・・、地域のレベル示しているんじゃないですか? 武雄や宮崎だけで九州全体を語るのも論理の飛躍? まあ、そうかもねえ・・、でも少なくともある程度は示唆的であるとは思ったりもするのだけれど・・・。

 これで私も九州の皆さまの仇?

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再度くまわんの「ヤマハ不買宣言」!!!:国賊企業ヤマハの売国行為を糾弾せよ! その3 

2007年03月02日 | Weblog
2月28日付の朝日新聞の記事「『人民解放軍が100機購入希望』ヤマハ発に中国企業」の内容に事実に反する部分が無いとの前提でのことだが、

くまわんこと私、ここに再度、この国賊企業への不買を宣言したい!

ヤマハの関係者は、自社の無人ヘリに対して人民解放軍が興味を示しているばかりか、輸入されたものが関連会社を経由して同軍の手に渡ることも理解していたという。

繰り返しにんるが、ヤマハが昨今の日中関係の有り様を理解せぬはずがあるまい。
人民解放軍の軍拡の様を知らぬはずがあるまい。現在只今はさておきそれがやがて東アジア地域ならびに我が国の安全保障の脅威になる恐れがあることを知らぬはずがあるまい。中国という国が武器輸出や軍事技術の移転に躊躇せぬ国であるということを知らぬはずはあるまい。であるならば、ヤマハは自社の無人ヘリが人民解放軍の手に渡ることが何を意味し、いかなる事態を引き起こしうるのか、想像できるはずはなかったはずだ。

すべて承知づくの商談ではなかったのか?

であるならば、これを売国・反逆行為と呼ばずして何と呼ぼうや?

上記のような図式に至るまで考えが至らなかったとでも言うのか?天下の大企業ヤマハにそれはあるまい?

かりに考えの至らぬところがあったとして、それによって売国・反逆のそしりをまぬがれるものではない。むしろ自覚なしにそうした行為に走ることの方が、「キ○ガイに刃物」みたく、確信犯よりも怖い部分があるかもしれない。

ぶっちゃけて言えば、こんな企業存在してはいけない!とくまわん氏は考える。

大カトーは、常々演説を「カルタゴは滅ぼされねばならない」で締めくくったという。

ヤマハのような国賊・売国企業は滅ぼされねばならない!、とくまわん氏は、心の中で叫んでいる。

そしてささやかながら、ヤマハ製品の不買を宣言することで、その叫びを具現化させたいと思っている。

すなわち、「世界の中心」ならぬ「美しい川という名の場所でヤマハ不買宣言をさけぶ!」。
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三・一暴動

2007年03月01日 | Weblog
私的に、あれは独立運動ではなく暴動。暴動以上でも以下でもない。大日本帝国の法制度下においては、非合法な集団示威・破壊行為であった。

かの国が、3月1日を国の祝日にしようが、88年前のその日に始まった事件を独立運動と呼び顕彰しようが、好きにしたらよい。

ただ、自らの歴史観なり民族感情を唯一無二の真理として、それを他国に強要し、肯んずば即過去の反省が足らぬ、歴史を直視していないと声高に叫ぶのはいかがなものか。しかも国家元首たる大統領が率先して・・。

我が国がかの国を植民地化したことについて、先年米国東海岸の某大学での国際学会で併合条約無効論が一蹴されたように、私も国際法上合法との立場を取る。それを侵略と呼ぶなら呼べばよい。ただし、それが国際法に抵触するものではないとする現実が一世紀ほど前のこの地球上には存在したという事実をも否定すれば、それこそ歴史の歪曲、歴史を直視しない行為ではないのか。過去の恥辱を直視するの難しさを理解せぬではないが、直視せずしてどうして亡国の憂き目に立ち至った原因を探り、それを再演せぬように努めることができようか。

当時我が国の統治下にあったかの国において違法行為と見なされることが明々白々であった集団行為さらにはそれが激化することで発生した破壊・暴力行為は、これまた違法であった。それを官憲が鎮圧したところで、それは正当な治安活動であり、その過程で暴徒側に流血が生じたとして、それは自業自得以外の何ものでもあるまい。むしろ忘れてはならぬのは、正当な職務行為の過程で暴徒によって殺傷された官憲が存在したということではないのか。造反有理ではないが、違法な暴力行為や示威行為に、志高ければ手段の是非は不問に付すは、これを外道と呼ばずして何と呼ぼうや?

そういえば、北の御同胞方も手段を選ばぬ点においては、南の同胞に優るとも劣らぬようであるが・・。

隣人を選べぬの現実を嘆いても詮無きこととはいえ、まったく鬱陶しいことこの上ない。
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国籍の軽重

2007年03月01日 | Weblog
クラシックというものがあまり耳に馴染まなず、従ってほとんど造詣がないとい私ですら、フジ子・ヘミングくらいは知っている。

どういうわけだか、子供の時分からクラシックに限らず洋楽というものが、耳と心に沁みるといことがほとんどない。三つ子の魂ではないが、まだ幼稚園に上がらぬうちに子供ながらにふと感じた(てしまった?)「近代」そして我が国のそれに多大な影響をもたらした「(西)洋モノ(エロビデオも含めて)」への曰く言い難い違和感をいまだに持ち続けているのだ。米国での生活が10年を超えてもいまだこの国に馴染めないのは、単に言葉の壁だけではなく、馴染もうとする最善の努力を払ってこなかったということもあるが、そうさせた背景には、米国文化も属する「西洋」への拭い切れない違和感もしくは抵抗感があるからなのかもしれない。

のっけから話がそれて、閑話休題。

さて、フジ子・ヘミングについてだが、父母の祖国の国籍法の事情で彼女は、18歳の時からこのかた現在只今まで無国籍だという。日本に在住しながらなぜ日本に帰化しないのか、あるいはできないのか、それとも帰化申請中なのかは知らぬが、かれこれ50年以上(60年近く?)無国籍なのだ。

ヘミング自身、「国籍なんて、生きていく上で、どうでもいいこと。私に祖国なんてない。」と語っている。(U.S. Front Line、No. 342 (4th week,January)

彼女にとっての祖国の有無、これは彼女のみぞ感知し得る一個人の認識論の範疇の問題であろうから、それはさておくとして、彼女のような特殊な境遇にない我々にとって、はたして彼女が言うように「国籍なんて、生きていく上で、どうでもいいこと」なのだろうか。

ヘミングにとっても、国籍は本当に「どうでもいいこと」だったのだろうか。確かに彼女は国籍の無いままに、半世紀以上を生き抜いてきた。その点からすれば、確かに国籍なぞ人が生きるためには不可欠なものではにのかもしれない。彼女の歩んできた人生がその証左をなしているとも言えるのかもしれない。だが同時に、無国籍であることが彼女の人生にまったく影響を与えなかったと言えまい。事実、一般人が国籍を有する国のパスポートを持って海外渡航できるの対して、彼女は海外渡航のためには赤十字による難民認定を必要としたのだ。無国籍でなければ、そうした異常な経験をすることもなかったはずだ。国籍が無いゆえにこそ、国籍を有する者が彼らの祖国で享受できる諸権利や福利を、彼女は享受できないということもある(あった)のではないのか。確かにそれだからといって、無国籍であることが彼女から「生」そのものを奪うことはなかったわけで、その点に関して言えば国籍なぞ「どでもいいこと」なのかもしれないが、無国籍であることが彼女の人生や日々の生活、そして人格形成に及ぼしたものもないわけではなかったはずだ。

この世には人の数だけの異なった人生があるはずだ。それでも、彼女ほどの波乱万丈の人生を歩んできた人はそうはいないであろう。彼女がメディアの目にとまり、それを通して多くの人の関心を呼んでいるのも、彼女のピアニストとしての「腕」だけではなく、彼女の人生が特異なものであったからではないのか。

フジ子・フェミングがいろいろな意味で常人とは異なるがゆえに、彼女の国籍観は、一般に受け入れられてしかるべきものではない、と私は考える。

私は「国籍なんて」などとは決して言いたくはない。「なんて」などというほどに軽々しく扱うものではないと思うのだ。人は生まれいずる時、親や人種・民族、性別、そして国籍を選ぶことはできない。それを運命と呼ぶのか宿命といのかは知らぬが(細木先生にでも聞くしかあるまい)、母胎からの出たとこ勝負なのだ。私個人について言えば、期せずして日本国に生を得て、日本国民として育てられてきた。今も在米の身とは言え、当地での就労法の都合で永住権を持つ身とはいえ、日本国籍を「国籍なんて」とポイ捨てする気にはなれない。むしろ、今帰国を目前に控えて、「永住権なんて」と思っている。

日本国籍を持つがゆえに、このかた数十年間、祖国から多大な恩恵を受けてきた。
日本国民として安全で豊かな生活の場を与えられ、そこで何不自由なく暮らすことができた。それゆえに、私ととって日本国と私に日本国民としての国籍には恩義があり、またそれは誇りでもあり、そして私自身のアイデンティティーにおいて欠くことのできぬウエートを占めている。そして、恩義や感謝を感ずればこそ、それに報いねばならぬし、そうしたいと思っている。日本人であることを誇りに思えこそ、日本国民の一人として祖国の誉れを汚さぬよう生きねばならぬと思っている。残念ながら今までのところ君国に施されたこれまでの恩に十分に報いてきたとは自分でも認め難いものがあり、正直心苦しく思っている。

ここ米国にあって、日本国籍を放棄した人々に何度となく出会ってきた。そうした決断に至るまでには人それぞれの理由があり、中には理解を示さざるをえないケースもある。その一方で、大した理由もなく(あるいはあくまでも個自分自身のためのみに)、いとも簡単に日本国籍を捨ててしまうものもいる。前者のケースはともかくも、後者のケースについては正直言って腹立ちさえおぼえてしまう。

あるいは、このようなケースもある、いずれも女性だが。「私は(性差別のある)日本には見切りを付けた身だから」という知人の女性は、出生国に見切りを付けたくせに、当の昔に米国市民権を申請する資格を得ながら、いまだに日本国籍を捨ててはいない。祖国に見切りを付けたと言いながら、祖国のパスポートに身を委ね美味しい部分だけはいただこうというこの乞食根性、見下げたものという他ない。アメリカ人の旦那と結婚し、「主人が米国市民なのに、自分が日本国民でいるのはおかしい」との理由で、日本国籍を放棄した女性もいた。彼女の理屈については、私はいまだに理解できないでいる。異人種間結婚は肯定しても、異国籍間結婚には何かわだかまりでもあるのだろうか?ほんとうに理解できない。

国家を人為のものとして、その存在意義や価値を限定しよとする人々もいる。国家どうよう民族も人為のものであり、ゆえに民族国家なぞというものは・・・、との議論もある。人為によるものは、そうでないものほどの値打ちが無いというのであれば、筆者はそうした思想なり何らかの宗教的背景ももった言説を受け入れることはできない、決して天を恐れぬというのではないが。

よく「たかが○○、されど○○」という言う回しが使われるが、私にとって国籍とは決してたかがではありえない。「たかが」というのであれば、どなたか、日本国のパスポート無しに日本国の主権の外に足を踏み入れてみてはいかがか。既に海外在住というのであれば、パスポートを破り捨て、日本国籍を離脱して、その国に住まわれてみてはいかがか、できるものならば?所詮国籍の裏づけのない個人などそんなものなのだ。「たかが国籍」の存在の大きさを超えられる個人など「たかが」以下。「たかが国籍」などという個人は、更にそれ以下なのかもしれない。

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