くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

黙れ、生方!

2010年03月29日 | Weblog
小沢に慰留されて副幹事長のイスにしがみつくことにしたヘタレ男が、今更ほざいても、負け犬の遠吠え以下、誰も耳を貸さない。まあ、いまだにマスゴミが相手にしてくれているが、「ブサメンはげ」では飯が食えぬと見れば、そのうち相手にもされなくなる。

しばらく黙ったいろ! さもなくば、副幹事長を辞めるか、民主党を出たらどうか?

みっともなくって見ちゃいられない。
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でき婚を「恥ずかしいこと」と思える日本社会に戻したいものです!

2010年03月27日 | Weblog
芸能人のでき婚がしばしば報道されますが、

芸人という「特殊」な、一般人とは異なる価値観・道徳観で生きている世界の人間はさておき、我々一般人にとっては、恥ずべきことであるはずです。

分別盛りの人間であれば、避妊もせずにコトに及べばどういうことになるかもしれない、くらいのことはわかるはずです。

そんな想像力も欠如しているとしたら、その人間は「知的障害者」とみなされるべきでしょう。

元々結婚を前提とした付き合いの過程でそういうことになった、という言い訳を聞いたことがありますが、くだらない言い訳というか、恥知らずな言い訳だと思います。結婚を前提にしていたとしても、かりに正式な婚姻前に妊娠するかもしれないような状態でコトに及べば、婚前の出産という可能性も想定できるはずです。「知的障害」がなければ、それくらいのことは簡単に考え付くはずです。

更に、婚姻関係なしに出産すれば、生まれてきた子供は私生児です。社会通念というものからいえば、私生児というものは、決してめでたいというかほめられたものではありません。もちろん、生まれてきた子供に責任はない。親の因果を背負わざるを得ない宿命というものはありますし、それによって不利益を被るということは当然ありえるのでしょう。つまり、親の因果は子の因果ですが、「責任」はありません。ただ、生まれてくる子も責任の有無と、私生児の社会通念上の妥当性という点という問題は別儀です。やはり、望ましい子供の生み方、持ち方ではないのです。

そうしたことまで考えが及べば、婚姻関係成立前の妊娠なんて、ありえないですし、あってはならないのです。

繰り返しになりますが、芸能人はさておきましょう。あの類の人間は昔から「特殊」です。
ですから、我々一般人の手本、規範ではありませんし、またそうあるべきではありません。
彼らにはもともとそんな素質も素養も資格もありません。芸能人の家庭環境、家柄などをみれば、とても世間様に誇れるようなものではない家族関係だとか身内をもった人間が結構いるのが、芸能界というところです。そういう環境で育った人間が、社会のモデルになれるわけがないのです。

にもかかわらず、一部の芸人の例にならい、でき婚が増えています。でき婚をめでたいことのように報じ、芸人の結婚のたびに「妊娠は?」と問う芸能マスコミの罪は重大だと思います。そもそも、芸能マスコミなどというのは、「ハエ」、「寄生虫」のようなもの。そんな連中の垂れ流す報道に感化されてはいけないのです。

ですが、現実に、現在ただ今多くの日本人が、感化されています。

個々の日本人にしっかりとし倫理観があれば、「ハエ」どもに洗脳されるなどということはないはずですが、残念ながら、今の我々はヤツラのおもちゃ状態です。

つまりは、我々日本人は劣化しているのですが、なんとかなりませんかねえ・・・。

やはり、堕ちるところまで堕ちるしかないんでしょうか?

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なんで、「日の丸の名刺入れ」に驚くの?

2010年03月26日 | Weblog
開星高校の野々村監督の名刺は「日の丸入り」だそうだが、なんでそれに驚く? 腰が引ける?

自分の国の国旗だろ?

そういう反応が起きるこの国こそ、異常であり、批判されるべきではないのだろうか?
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そんなに叩くべきことか?・・・:島根開星高校野球部監督の「末代の恥」問題

2010年03月26日 | Weblog
以下抜粋。

第82回選抜高校野球大会1回戦敗退後のインタビューで、「21世紀枠に負けて末代の恥」と発言した開星(島根)の野々村直通(なおみち)監督(58)について、同校の大多和聡宏(あきひろ)校長は25日、「野々村監督から辞任の申し出があり、校長として了承した」と発表した。また、村本克(かつし)・野球部長(46)を当面謹慎処分にすることも決まった。

21世紀枠に負けたら、「末代まで」か否かはさておき、「恥」という気持ちになっても決して不可思議なことではあるまい。元々春のセンバツの選考基準そのもの夏のようにスパッと明快ではなく、そこに加えて「21世紀枠」などというわけのわからん、余程頭の悪いヤツが付けたとしか思えない意味不明なネーミングのもとに、これまたセンバツされた連中よりももっとわけのわからん連中が出場するのだから、それに負けたら「恥」と思ったりするもののではないだろうか。

それ以前に、負けを「恥」と思うのは、少なくとも日本人の心理においては、ごくごく自然なものなのではないだろうか。

実際、問題の根本のところは、「恥」という発言そのものよりも、それを口に出してしまったことにあるのだろう。確かに、メディアの前で、口にしたのは不用意だった。言われた対戦相手も確かに良い気持ちはすまい。

その点まで配慮できなかった野々村監督も、還暦を手前にしながら浅はかというか、いまだ「未熟」であったと言わざるを得ない。

ただ、それにしても、監督を辞任に追い込むまでの「大問題」なのだろうか。

騒いだマスコミ、世論も世論だが、それに反応して「臭いものにフタ」のような対応の学校側もいかがなものか。

しかも監督の辞任、自宅待機だけではなく、野球部長も「当面謹慎」だとか。組織の論理による判断、決定なのかもしれないが、また私はいわゆる「連帯責任」というものを頭から否定するつもりはないのだが、その悪い適応例の最たるものではないだろうか。

これは、野球部長の謹慎は、学校側が問題の重大さを認識しての処分というよりも、世論を意識したパフォーマンスに過ぎないとしか思えない。

要は、野球部長は、学校側によって組織防衛のために「人身御供」にされたに等しい。生徒の不祥事に対しての責任の取り方としてならともかくも、御年58のオッサン、ジイサンの発言の逐一まで、いかに組織上の理屈があるとはいえ、監督よりも10以上も年下の部長に連座を問うのは、行き過ぎというものだ。

ただ、学校側も追い込まれてのやむを得ない措置ということでもあるのだろう。まあ、教育機関として、生徒への「示し」という点ではいかがなものかとも思うが、「組織防衛」としてはやむを得ないということなのか?

それにしてもである。

学校には抗議の電話は殺到したという。いちいち電話までする暇人たちがいることも驚きだが、彼らのある種「執拗」とも思える行動に、私は少なからぬ気味の悪さをおぼえずにはいられない。
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民主党生方幸夫は、情けない「ヘタレ」だ・・・・。

2010年03月24日 | Weblog
見かけは風采が上がらないが、やるなあと思っていたら、見かけ倒しならぬ見かけどおりのヘタレおやじだった。

小沢の誘い水にまんまと乗っかったってしまった。

まあ、世論や党内の動きも読めずに動き、ドタバタを衆目を前に演じた小沢やその周辺の高嶋あたりも間抜けというか、政治カンの欠如というか衰えを露呈した。

また、一部マスコミの指摘するように、事実上小沢の判断による「解任」撤回は、民主党における小沢の存在感、影響力をかえって証明することになった。

もっとも、今回の一件で、小沢が今後もこれまでのように「剛腕」で行けるかどうかは不透明だが、それにしても、「解任」撤回に対して副幹事長留任でホコをおさめた生方も、判断を誤ったのではないか。

このまま、突っ張って「解任」にあえて甘んじるべきであった。小沢による解任撤回こそが生方本人が指摘したところの民主党の問題点であるとして、副幹事長にとどまることを潔しとすべきではなかった。

要は、生方は、節を曲げたのである。

これで、生方は今後おいそれと小沢批判をできなくなる。またぞろ副幹事長として小沢批判を批判すれば、今回の騒動で小沢の慰留を受け入れたことを「判断ミス」とみなされても仕方がない。そして、それは生方の政治家としての判断力、能力の有無としても評価されかねない。

今回の解任撤回で、小沢に対する党内はいざ知らず世論の批判的な見方が和らぐことはあるまい。撤回したところで、傷ついた自らと党のイメージの回復にはつながるまい。もしつながると思っていたとしたら、国民をなめきっているとしか思えない。

そして、生方は男を上げる好機に上げ損ねた。根性のない男というか、それとも小沢に何かネタを握られしまったのか?女とか、カネとか?

まったく、民主党というのは、こういう生ぬるいというか間抜けな連中ばかりなのだろうか・・・?

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秋篠宮真子様: 皇族の教育に「キリスト者」しか教員採用しない国際基督教大学(ICU)で良いのか?

2010年03月23日 | Weblog
ICUより学習院の方が内容的に良いなどとは言わないし、私には両者を比較するすべもない。

しかし、神道の皇族がICUとはいかがなものか。

私はアンチ・キリストではない。宗教上の理由で云々するのではない。

ICUは日本国になりながら公然と宗教によって教職員の差別採用を行う学校であるということが問題であると思う。憲法が信教の自由を保障する我が国において、公然と宗教によって応募資格の有無を決定する学校というのはいかがなものだろうか。

かりに企業において、S学会はダメであるとか、うちは大谷派のみ採用としたら、社会の糾弾は避けられまい。マスコミが黙ってはいないはずだ。もっとも、有為の人材を可能な限り集めたい企業にしてみれば、余程のことがない限り、宗教の別により採用を決定するなどという愚行に出ることはあるまいが、それをすることは社会的に容赦されないであろう。

では、大学なら許されるのか。私学にはそれぞれの建学の精神というものがあり、それ自体、同じく憲法が保障するところの精神の自由により保障された権利として、各校が独自のものを標榜することができる。もっとも、そこにも当然のことながら社会通念上、あるいは法律的にみても問題のある内容が含まれていれば、その限りではあるまい。しかしながら、常識的な範囲において、建学の精神とそれに基づく教育指針は、各校の自由の範囲のうちである。

ICUにしてみれば、キリスト教の精神に基づいて学生の教育を行うとするのであれば、キリスト者であるか、キリスト教に理解を示す者を採用したいと思うのは当然かもしれない。であればこそ、職員への応募者は「キリスト者」でなくともキリスト教に理解を示す者であれば資格ありとみなされるが、学生を直接指導する教員は、キリスト者でなくてはならないという二つの異なったハードル設定となっている。

しかし、これは同時にキリスト者しか応募させずかつ採用しないという、差別を生み出している。

更に怪訝なのは、ICUは日本国外での教員公募では応募資格を「キリスト者」に限定していない。少なくとも、米国における英語での公募情報では、そうした文言はない。

これはどうしたものか?

米国でも、ミッション系の大学がキリスト者を採用することを望むことは決して驚くに値しない。ただ、公募情報に明確に「キリスト者であること」とは書かない。そのかわり、推薦状のうち一通を個人的に親交があるかまたは普段通っている教会の牧師・神父からのものという条件を付したり、あるいは、ICUの職員募集条件のように「キリスト教に理解のある者」とのあいまいなまたちでの条件付けをしているところもある。応募者の宗教的信条を記した文章(作文)の提出を求めるところもある。

しかし、「キリスト者でなくてはならない」と明確に記した例を、近年において私は寡聞にして聞かない。

まあ、「公言しない」すなわち「宗教・宗派による採用差別をしない」ということではない。例えば、日本の従業員・職員採用では「年齢制限」というものを明記するが、これを米国でしたら一大事である。つまり、年齢差別ということになる。しかし、実際の採用活動においては、年齢は採用の可否条件になる。これが米国の「表」と「裏」、「ホンネ」と「タテマエ」であり、あけっぴろげな日本よりも、ある意味、陰湿なかたちで「差別」が存在すると言えるのかもしれない。

ただ、繰り返しになるが、ICUの日本でのやり方を表向きにすれば、大問題になり、マスコミ、世論は「タテマエ」をもって糾弾するだろう。

ICUもそのことを知っているからこそ、米国では「キリスト者」と明記しないのではないか?

もし、そうであるとしたら、この「二枚舌」的な振る舞いを「偽善」と呼ばずして、何というべきか?

郷に入らば郷に従えだ、と開き直られたら、それまでだ。

アメリカでは多数派はキリスト者だから、あえて限定するまでもない? これまたそうかもしれないが、100%そうではないという現実がある以上、言い逃れに聞こえなくもない。

どうあれ、このような「疑わしい」教育機関に、我が国の皇族が学ぶというのは、宗教的な問題はさておき、いかがなものだろうかと私は思うのだが・・。
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「平成天皇」・・・: テレビ朝日は、今上天皇の「死」を望んでいるのか?

2010年03月23日 | Weblog
ひょんなことで、以下を発見。

http://www.tv-asahi.co.jp/okaeri/contents/next/0016/

そのなかに「平成天皇」という文字が・・・。

私の勘違いでなければ、今まだ我が国は「平成」の御世にあるはずで、今上陛下の治世のはずであるが?

にもかからず「平成天皇」とは、既に平成の世は終わった、すなわち皇位の代替わりがなされたということではないのか?

もっとありていに言えば、テレビ朝日的には、今上天皇は既に「崩御」されているということを意味する。


無知ゆえの「平成天皇」なのか?

いや、マスメディアにあって、公器にあってそのような無知が存在するはずがあるまい。こし無知ゆえの過ちであるとすれば、もはやテレ朝にマスメディアとしての資格はない。さもなくば、無智ゆえに誤った情報を垂れ流し、不特定多数の人間を惑わし、悪くすれば社会、国家を混乱に陥れかねない。

テレ朝は即時廃業すべきである。

それとも、意図的に「平成天皇」としたのか?

ならば、これはテレ朝が今上陛下の「崩御」ーいや彼らからすれば単なる「死」なのだろうーを望んでいる証ではないのか?

何らかの思惑をもっての意図的な表記であるならば、テレ朝の廃業は尚更のことではないのだろうか?


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細野豪志発言の狙いはどこにある?: 生方幸夫副幹事長解任をめぐって

2010年03月21日 | Weblog
以下、ネットより抜粋。

民主党の細野豪志副幹事長は21日、テレビ朝日の番組に出演し、党執行部が小沢一郎幹事長を批判した生方幸夫副幹事長の解任を決めたことについて「トータルに見たときに民主党にとってはダメージがあった」との認識を示した。その上で、生方氏に「自由に議論をする場をもう一度つくるから協力してほしい」と呼び掛けた。

この発言をどう捉えたらよいのだろうか。

表向きはどうであれ、事実上生方解任が小沢の意向に沿ったものである以上、このような発言は、小沢批判として捉えられても致し方あるまい。

昨年末、私は細野という「裏切り体質」の男は、いずれ小沢をも裏切ると予想したが、生方解任に対する党内外の風当たりの強さや、以前からのカネの問題をめぐる世論の小沢に対する批判的姿勢をみて、ついに小沢から距離を置くようになったということか。

もしそうなら、細野はいずれ呂布のような末路を辿ることになるのではないだろうか。別にあんな三文政治家の一人や二人、どうなろうとも天下国家には関係ないことだ。

あるいは、小沢の意を呈しての発言なのか。つまり、小沢は細野を使って党内の「火消し」をさせようということなのだろうか。もしそうであれば、おそらく生方解任で党にダメージを与えた責任は、当然のことながら、小沢本人ではなく、誰か他の者に取らせて詰め腹を切らせるということではないのか。とすれば、いけにえになるのは、生方とのやり取りでメディアの注目を集めたTあたりか?

いや、そんな浅はかなことはしないか? 有権者もバカではない。Tを切ったところで、小沢の身代わりだと即座に見破られ、小沢への批判は更に激化するだけであろう。そうした危険性を読めぬほどの能無しではないはずだ、小沢も、細野も。

細野発言の真意とその出所、実に興味のあるところである。
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八代亜紀が歌う「とってもラッキーマン」の主題歌

2010年03月21日 | Weblog
アニマックスで再び「とってもラッキーマン」を放映しているが、私はその主題歌が好きだ。

歌うのは、八代亜紀。それ自体驚きなのだが、出だしも彼女の大ヒット曲「舟歌」である。

歌中に「あなたは今幸せですか?」、「わたしいつも幸せです」というくだりがあるが、
私的にはここが一番好きで、クルマを運転中にもつい口ずさんでしまう。

そして、この歌詞があるからこそ、八代亜紀が歌って正解だったと思う。彼女の声と歌い方が妙にその部分に合っているように思うのだ。

振り返れば、ここ4年程は、私の人生のなかでかつてないほどに有為転変の激しい時期だったように思う。もっとも、それまでは平平凡凡、順風満帆、自分で言うのもなんだが「ラッキーマン」であったので、他人から見たら大したことではないのかもしれないが、私にとっては「激動」と言っても過言ではないものであった。私の置かれた状況を知る知人、友人のなかには、「よくもまあ、これだけ次々と不運なことが起こるものだなあ・・」と私に同情し、あわれむ者もいた。特に最初の2年は、公私にわたって立て続けに予期せぬ事態が発生して、肉体的にも精神的にきつかった。体を二つと言わず三つくらいに割くことができたらと思うほどに多忙を極めることもあれば、まったく先行きが見えなくなり「板子一枚その下は」的に追い詰められた心境になったこともあった。

子供たちと手をつないで歩きながら見た夕日がつらいときもあった。

ただ、人生踏ん張りどころというものがあるようで、逃げず、誤魔化さずにやってきたら、一昨年の後半くらいから随分と楽になってきた。それまでがウソのようにおおよそのことが上手く動き出すようになってきた。上述の知人いわく、「人によっては、自暴自棄になったり、自殺したくなるような状況だったけど、よく乗り切ったねえ。」と。それは一寸大げさだと思うが、「危機」を乗り切ったという感触は自分自身にもある。かりにまた同じような状況に陥っても、また乗り越えられるような気もする。

禍福はあざなえる縄のごとし、とはよく言ったものである。4年前に生活環境が突如悪い方向へと転がり出した時には、世界中の不幸を一身に背負ったかのような気持ちにもなったが、今思うと、その時の「最大の不幸」が今の幸せの出発点であったと思う。科学では証明できないような不思議なめぐり合わせ、かみ合わせが生じて、歯車が良い方向へ良い方向へと進み始めているのが今なのである。

そのとき受けた周囲から受けた援助や同情に対する感謝を決して忘れてはなるまい。それなくして乗り越えることはできなかった。私の不幸は家族の不幸にもなり、家族、親せきには少なからぬ心労と迷惑をかけてしまったことを詫びねばなるまい。

4年前、3年前の私が「あなたは今幸せですか?」と問われたら、間違いなく「いいえ」と答えたであろう。いや、もしかしたら、やせ我慢して「はい」と答えたかもしれないが、きっと表情はウソをつくことはできなかったであろう。

「あなたは今幸せですか?」

「私いつも幸せですー!」今ならウソ偽りのない気持ちでそう答えることができる。
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爆笑問題田中の元妻妊娠: 30女とスポーツの「危険」な関係

2010年03月20日 | Weblog
これは他からの受け売りだが、30女がスポーツ、エクササイズを始めた結果、結婚生活が損なわれたり、破たんすることがあるという。

田中の元妻は、走ることに没頭し、それが離婚に至ったというが、まんざらウソでもないのだろう。つまり、ランニングと不倫、そして離婚は因果関係をなしているということだ。

男の性欲と女の性欲には、やっかいなズレがある。セックスでのエクスタシーにしても、毎度、毎度男女が同時にそれを感じるというわけにはいかない。また別の意味でもズレがある。男性の性欲がもっとも盛んな時期は10代から20代初めで、それ以後は下降していく。一方、女性が性的に一番活発になりやすいのは、30代という説もある。

田中の元妻はまさにこの年代である。

そして、30女がスポーツやエクササイズといった体を動かす始めると、ただでさえ年齢的にさかんな性欲が更に刺激され、挙句の果てには夫との関係のみでは飽き足らず・・・、ということになる可能性があるというのだ。

すべての女性がそうなるわけではないらしいし、一般的に既婚の奥様方は、エクササイズなどにまわす時間の余裕もなく家事、育児に追われているのだろうが、夫が売れっ子芸人で甲斐性も十分になる田中のおかげで、本妻は家計のやりくりにあくせくする必要もなかったはずだ。子供もいないし、しかも超多忙の夫は留守がちであったはずだ。それゆえにランニングに没頭する時間的、金銭的余裕も十分にあったわけだ。ところが、その結果が・・・。

もし田中と元妻の離婚の顛末がこのケースだとしたら、田中にとっては何とも皮肉なことになったものである。

それにしても、世の既婚男性方、もし夜の務めを十分に果たしておらず、30代の奥様が「ジムに通いたい」、「ゴルフを始めたい」などと言い出したら、要注意ですぞ!

共稼ぎで、ジムもゴルフも奥方の自費負担の場合はどうする? 「ダメとはいえない」?
その場合は、各自知恵を絞るしかないですな。まさか、施錠式の鉄のパンツをはかせるわけにもいきませんし・・・。

ちなみに、私の知人でこういうケースありました。奥様が同性の知人と飲みに行き、朝帰りしたそうなんです。そして、帰宅し着替えている奥様に気づき目を覚ました知人は、奥様の姿に眠気がふっとんでしまったそうなんです。なぜかと言えば、奥様がパンツを前後ろ反対にはいていたのです。これが何を意味するのか? それから数ヵ月後、二人は離婚とあいなりました。

合掌



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政治家の演技力: 生方幸生解任問題

2010年03月19日 | Weblog
民主党のまるで子だくさん一家のようにたくさんいる副幹事長の一人、生方幸生氏の「解任」にてういて。

今から1時間程前のTVニュースによれば、同氏は、解任までは想定していなかったとのことだが、それは果たして本当だろうか。

私は、生方氏が辞任しなければ、クビを切られることは間違いないと思っていたし、国民の多いは、生方・高嶋会談が決裂したとの報道を受け、そう予測したのではないだろうか。

ところ、本人はそこまでは・・・というのだが・・・・。

政治家連中の言うこと、することってのは、額面通り受け取れない。

もし額面通りに受け取るとするならば、生方という人、あの厳つい面相で、見かけによらず、また年齢のわりには随分と「甘ちゃん」だと言わざるを得ない。あの小沢が、自分を公然と批判した氏をそのままにしておくわけはないではないか。今までの小沢のやり口からして。

あるいは、解任という動きが出ても、党内に「味方」が現れて、首だけはつながると思っていたのだろうか? ただ、自らの秘書が2人も逮捕され、国民世論のかなりの多数が辞任・更迭が妥当との見方を示しているにもかかわらず、幹事長職に居座る小沢にほとんど何もいえない、できない同僚議員たちである。そんな連中に味方や加勢を果たして期待したでらおうか。

やはり、生方氏の言葉は真実ではあるまい。同氏は確実に解任を想定していたはずだ。そして現実は想定通りとなった。にもかかわらず「想定」していなかったと、なぜあえて言う必要があるのか?

もしかしたら、ここに生方氏の小沢に対するもくろみが潜んでいるからではないのか。記者の前で「想定外」と言えば、それは必ず国民の耳に届く。それを知ったうえで、「想定外」ということによって、当の本人ですら想定していなかった解任という手段によって自らへの批判に圧力を加えようとするほど、小沢の民主党内での専横は酷いものになっているとの印象を世論に与えようとしたのではないか。それによって有権者が小沢批判を強めれば、それは民主党しいては鳩山政権の支持率に更なる打撃を与えることになり、その結果世論のみならず党内でも小沢批判の声は更に高まり、うまくすれば小沢を追い落とすこともできる。

ただ、予想だにしなかった解任に追い込まれ職を追われたとの「芝居」は、果たして、小沢追い落としの具として果たして妥当かつ有効な選択であっただろうか。

「解任は最初から想定内」としながら、国民世論や鳩山政権の現状を考えた場合、あえて自らを犠牲にしようとも、党内の他の誰よりも先んじて、小沢への苦言、換言を公の場において、呈したというかたちの「見せ方」もあったのではないか。

それでもやはり小沢への世論の視線は更に厳しくなることに変わりはないだろうし、生方氏も「想定外」などというよりは、自らの「クビ」を差し出すことでより男を上げることができたのではないか。

さて、どちらが良いのか? 私も正直わからぬが、いずれにしても政治家というのは、メディアの前での演技力がなくてはなかなかにうまく生き残っていくことはできないものだとつくづく。

で、生方先生、本当のところはどうなんですか?



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スザンヌ、それでいいのか?: 爆笑問題田中の元妻だけではない、男にも当然ケダモノはいる

2010年03月19日 | Weblog
報道によれば、スザンヌの新しい交際相手、相当な「過去」をお持ちのようだが、大丈夫か?

今後の芸能活動もさることながら(というか、彼女はもう「旬」を過ぎたでしょ?再ブレークはない。)、女性としての今後を考えた場合、ソイツでいいのか?

他人の私がとやかく言う立場ではないが、家族はさぞや心配だろうなあ・・・。なんせ、過去にどんでもないことしでかしている男だから。

ところで、お相手の男性、○藤ってのは、本名なのか?
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報道ステーション(テレビ朝日)による世論操作の陰謀

2010年03月18日 | Weblog
先ほどまで、報ステではスービック米軍基地跡に設立された経済特区について、長野智子がレポートしていた。

沖縄の米軍基地問題を意識したものであることは、言わずもがなであろう。

が、これがヒドイ偏向報道であった。明らかに海兵隊ないしは米軍基地そのものの国外移転に世論を持っていこうとの思惑が、基調になっていることが実にあからさまであった。

米軍基地撤退後のスービック地区は、確かに、一時の惨憺たる経済状況から脱し、現在ただ今では経済成長を続けている。

しかし、その一方で、スービックから米軍の存在が消えた結果、南シナ海において勢力を拡大することができた国があった。番組では、そうした具体的なことには触れず、わずかに「中国の脅威」と漠然と一言で済ませた。

また、フィリピンにとっての安全保障上の脅威についても、まずは、一般市民にインタビューをしたが、一般庶民に安保上の脅威の有無を尋ねて一体何の意味があるのだろうか。「米軍がいなくなればアルカイダのテロの心配もない」といっってのけたあのフィリピン人の男のコメントは、むしろ国際無差別テロに対して採るべき姿勢という観点からすれば、認識違いも甚だしく批判されてしかるべきであろう。最後は、フィリピン大の教授へのインタビューで締めくくったが、これまた絵空事とは言わないまでも、いささかの具体的事例、具体策に触れない抽象論に終わった。

そして、長野は絞めのコメントにおいて、日米安保並びに基地問題に対する日本の対応を、「日本の特殊性」と言ってのけた。ということは、フィリピンの事例がスタンダードということか?確か、フィリピン大の教授は、それぞれの国にそれぞれの安全保障上の懸念が存在するという意味のことを言っていたはすだが、日本とフィリピンでは、置かれた状況は同じではないはずだ。フィリピンを規準に日本を特殊といってのけるのは、詭弁どころか暴論である。

もっとも、我が国では、「日本では」、「世界では」という二分法的な論法がいまだに幅をきかせ、後者を規準にして前者を批判的に論ずれば、それなりの説得力を持ち得るというのが現実である。ただ、ここにはしばしば強引なごまかしが介入する余地があり、しばしば「世界」すなわち実は「欧米先進国」であったり、今回の場合はなんとフィリピン一国のみが「日本特殊論」の事実上の「世界標準」に化けたのである。

要は、テレ朝並びに報ステには最初から、最初から、沖縄を含めた日本の置かれた状況は@特殊」であり、米軍基地がなくなれば一時は大変かもしれないが、やりようによってはバラ色の未来が待っている、という刷り込みをすることで、世論を某少数政党が主張するところの「国外移転」に持っていきたいというわけだ。

しかし残念なことに、いささか魂胆が露骨過ぎ、番組の作りが粗雑に過ぎた。あんなレベルの番組しか作れないのは、スタッフの能力のせいなのか、それとも予算的な制約のせいなのか・・? 
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爆笑問題田中の元妻というのは、ケダモノか?

2010年03月18日 | Weblog
離婚したのが、昨年10月。

そして、今臨月。しかも、子供は田中の子供ではないという。

ということは離婚成立の数カ月前には、間男がいて、その男と「抜き身」の勝負に及んで、孕んだということになる。まさか、「神の子が宿った」などというふざけた言い訳はすまし、通じまい。

ありていに言えば、不義密通、不倫である。

その時点で既に事実上結婚生活は破たんしていたとしても、それは言い訳でしかない。というか、言い訳にもならず、間男を作ったことを正当化することはできない。法律上婚姻関係は継続中である。しかもそれを理解できるだけの「知能」は持ち、かつ理解できるだけの精神状態にあったはずだ。にもかかわらず、夫以外の男と肉体関係を持ったのである。婚姻届を出し法的に夫婦になることを選んだのは、彼女自身である以上、その法的関係に社会通念上許されない行為をした彼女の破廉恥に弁護の余地はない。

どうにもこうにもセックスレスが我慢できなかった? お前はメスブタか?としか言いようがない。

しかも上述の通り「抜き身」である。そのような状態でことに及べばどのような結果がもたらされるか、その可能性は当然予測できたはずである。にもかかわらず、避妊しなかったのだ。

本能の赴くままにことに及んでしまい、つい避妊という理性が働かなかった? やはり、お前はメスブタか?としか言いようがない。

こういう類の女は、なにも田中の元妻だけではない。たしか、首相夫人も、離婚成立以前に・・・? もしかしたら、ロシアにいらっしゃる一粒種も前、後?

子供をなすには男も必要だ。つまり、元妻ばかり非難するのは片手落ちであることは確かだ。男も男だ。他人の女房で手を出すだけでは飽き足らず、孕ませた。そういえば、元首相の御子息、芸能界に入った方も芸能界入り以前に人妻と何やらよろしからぬ関係を持ったことがあるとか? ことの真偽はいざ知らず、世の中、「人でなし」のブタはオスメス問わず結構いるものである。

同性として、田中には同情するしかないが、女房寝取られたうえに孕まされ、世間の同情買うってのは、男としてこれほど惨めなことはないだろうなあ・・・・。つらいだろうなあ・・・。

そして、もう一人気の毒なのは、生まれてくる子供である。不倫の末の妊娠(ある意味首相の御子息と同じか?)。つまり、「不義の子」である。後ろ指さされて生きていこくことになるんだろうなあ・・・。親の因果を子に背負わせるのは気の毒ではあるが、背負わざるをえないのが世の中の現実である。

ブタどもの子に、親の畜生が遺伝しませんように。

合掌

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自民党はなぜ「しない(できな)」のか?

2010年03月18日 | Weblog
昨年の総選挙で壊滅的と言ってもよいほどの大惨敗を喫した自民党が、民主党から有権者の支持を取り戻すためには、単純に考えて二つしかすることはないはずだった。

まずは、党内改革。自民党政権は、既に我が国が長期停滞に陥る以前から、「またか」と言いたくなるようなスキャンダルを繰り返し、やはり「またか」と言いたくなるような党内の論理のみとまでは言わないが優先の有権者から見れば理解不能かつ不透明な党内・内閣人事を繰り返してきた。国民は、そうした自民党の「古い体質」に辟易していたのだ。小泉首相が人気を得た理由の一つは、従来の自民党総裁・総理とは異なった姿勢を、党内・閣僚人事、党運営で発揮してきたからである。

次に、将来に向けた成長ビジョンの提示。バブル以降の我が国を覆う閉そく感のはなはだしきを今更言うまでもない。我が国はそれを以下に打破し、成長軌道を回復するのか。我が国んは将来どのような方向性をもって発展していくのか。国民の現状への不満、そして将来への不安は計り知れないものがある。小泉首相の「構造改革」路線は確かに国民に期待をもたせた。日本経済は全体的に見れば復調しつつあるかのような印象さえ受けた。ところが、復調の兆しから失速、そして一昨年秋以降の「100年に一度の危機」到来以来のただならぬ不況は、小泉改革の失敗を印象付けた。私は個人的に、小泉内閣のみにその責任を帰することは間違いであると思うが、「格差」という問題が更に取りざたされるようになった。世界経済における我が国経済の退潮ぶりも更に顕著となりつつあり、再浮上の糸口すら見えない。こうした状況下で、自民党は野に下った。有権者は民主党に、不満を抱きつつも「日本の明日」を賭けたのである。ところが政権発足して数カ月後には早くもその不満は的中し、半年を経た今、鳩山内閣への不支持率は支持率を超えた。民主党は、子供手当のような局所療法、対処療法的な政策は示してくるが、将来に向けた我が国の国家ビジョン、成長政略を示せてはいない。であればこそ、政権奪還を目指す野党自民党は、ビジョンなき与党に対して、明確なビジョンを持ってのぞむべきである。

ところが、である。

今のところ、自民党は党内改革に失敗している。谷垣という「不適材」をはたまた党内論理優先で選んでしまったことがその最たる例であり、党内改革どころか、総選挙敗北から最近に至るまで断続的に離党者を出し続けるとともに、党内批判がマスコミによって喧伝され、党はもはや分裂・がかいするか、更に党勢を失っていくかの様相であり、政権復帰どころか今のところ今夏の参院選への明るい展望すら見えない。

谷垣自民党は、あえて言うまでもなく、民主党に対抗するための国家ビジョン、成長戦略をまったくと言ってよほど示せていない。民主党内の金銭スキャンダルを揶揄するか、「イケメン人寄せパンダ」の「進進」を使っての全国行脚くらいしかしていない。谷垣総裁自身がメディアを通して有権者の注目を集めたのは、それも悪い意味で注目を集めたのは、あの「自転車事故」くらいであろう。


なぜ、自民党は自明であるはずのなすべきことをなせないのか? 人によっては、愚問といかもしれない。例えば、党内改革であるが、とっくの昔になされているべき課題であり、自民党にそれを行う能力があるのであれば、とっくの昔にされていたはずである。ところが・・・である。

要は、自民党は既に政権を担うべき政党としての能力、資質を人材、党組織等さまざまな面において失ってしまっているということなのであろう。

かと言って、民主党にだけは一票を投じたくない。

となれば、民主党を含めたガラガラポンの政界大再編成を期待するしかないが、動乱、混乱の過渡期を経て安定化するまでは、おそらくこの国のことだ、10年はかかるであろう。

もしかしたら、10年を過ぎてもいまだ政党政治の混乱は続き、政党政治ではダメだ、ということになるのかもしれない。

そのとき、民主政治というものが「危機」に陥るかもしれない。

ただ、「民主政治」が我が国の現状を打破し、再び明るい未来をもたらす保障はない。「民主政治」が国民にメシを保障するわけでもない。

現在ただ今の苦境を打破したい、メシを食いたい、ということに主眼を置くならば・・・、もしこのまま今の政治体制が国民の要望に応えられないのであれば、「黒猫」でも「白猫」でも構わないといった考えが国民のなかに出てきても不思議ではあるまい。

それに、黒猫にしろ白猫にしろ、それが民主主義を葬り去ってしまうものではなく、危機対応のための過渡期的なものであるならば、もっと言うならば民主主義の再生のための非民主的な暫時的な手段であるならば、むしろ柔軟に受け入れることもまた選択なのかもしれない。

非民主的な手法を採るというのも、それが国民の要望に応え、民意を充足させるものであるならば、民意にこたえられない民主政治よりは民主的なのかもしれない。

そうした政治状況の到来を望むわけではないが、このまま、10年、15年と政治上の、国家運営上のインポテンツが続けば、どうなるか知れたものではない、と私は個人的に思っている。
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