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くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

NHK日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第3回 「"熱狂”」もとい「”歴史認識”はこうして作られた」

2011年02月28日 | Weblog
南京事件については、最近の”暴走”NHKでもさすがに神経使ったようですな? ん、ETVほど好き勝手はできないって?
まあ、視聴率違うからそうなんだろうけど、「外国では」って一言入れたね。

でも、あの映像はないでしょ?

「外国では」って言っておきながら、あの映像見せたら、「やっぱり、南京はあったんだ」って思う人多いのでは?
でも、あの累々と横たわる死体だけをもって、虐殺の証拠とは言えないって、多少なりともまともな知能があればわかるでしょ?
首都攻防戦やったんだから、一般市民の死傷者が出るのは当たり前。それに「虐殺」の類はすでに南京陥落以前から城内で発生していたとも言われているのだが? 誰がやらかしたって? もちろん日本軍、じゃなくて国府軍です。入城時に日本軍将兵が目撃した南京城内の””異様さ”は、トランク何台分にも上ったという脱ぎ捨てられた軍服の数からもわかりそうなもんだけど、それはさておき、死体のころがっている映像を見せておいて、「外国では」っていうのは、NHKの真に言いたいところがなへんにありやって、すぐにわかるんだよなあ・・・。


映像の威力は、NHK自身よーくご存知のはずでしょ?

映像であれを見せておいて、「ほら、南京事件なんてのは、やぱり外国人たちが勝手に言っていただけの虚構さ¥、「南京はやっぱりなかったんだ」と思う人はいないでしょ?

元小結板井が「そこまで言って委員会」でメディアの「編集」の怖さを言っていたけど、本当に映像のつかわれ方って怖いもんだなあと改めて。

NHKさん、こんななめたマネばかりしていると、遠からずとんだしっぺ返しくらうよ。因果応報っていうっでし

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「ラグビーボール」こと原口一博のこれから: この人に大して明るい未来は待っていない

2011年02月28日 | Weblog
「ラグビーボール」との愛称?(笑)で呼ぶまでもなく、フットワークの良い政治家との印象を抱くのは私に限ったことではあるまい。

もっとも、政治の政界、ある程度のフットーワークの良さがないと生き残れないのであろうし、かつては「風見鶏」と呼ばれながら5年の長期政権を維持し、「大勲位」にまで上り詰めた御仁もいた。あ、まだ存命中か? 

御本人いわく確たる信念あっての「風見鶏」とか。一方、原口氏はどうか? どうもその点がよくわからない。たしかに「風見鶏」というのは軸があってのものだ。一方、ラグビーボールは無軌道に動く。この違いは大きい。

あれだけメディア露出が多いのに世論に「原口待望論」が出てこないのは、同氏のどことない男臭さの欠如、言いかえれば「おばちゃん」臭さが男女を問わず生理的に世論が無意識のうちに受け付けない理由であると思うのだが(だって、オバちゃんに性的興味抱く男ってまずいないでしょう? それにオバちゃん同士ってのは軍鶏みたいなもんでしょ?)、それだけではなく、やはり何んとない信用の置けなさを感じているからではないだろうか。

さて、いきなりだが、姓名判断を信じるか信じないか。まあ、当たるも八卦の世界であり、統計学の世界かも知れないのだが、
昨今の歴代総理は名前の通りの「末路」を歩んできた。菅総理も姓名判断学的にいえば「×」。その好対照が小泉元総理。
強運の持ち主。ついでに、息子の進次郎議員も勝るとも劣らぬ強運。

不謹慎ではあるが、犯罪者、犯罪犠牲者にもそれえなりの数字を持った人たちが多い。ここに統計学と言われるゆえんがある。

では、原口氏。「頭の良さ」は数字に出ている。が、やはり全体的に良くない名前である。総理は無理だ。かりになってもロクなことにはならない。そして指導者の「凶運」はそのまま国家、国民にも影響を及ぼす。会社経営者なんかもそれが言える。

私の職場のトップは、名前の通りの強運の持ち主で、彼がトップになてからの躍進はすさまじい。私もこれほどまでになるとは思っていなかった。しかし、前例にのっとれば、彼の人気もあと2年とあるまい。彼の後釜しだいでは・・・の不安は拭えない。

まあ、原口氏の今の動き、大したことにはなるまいが、もしかしたらまだいずれ動く方向を変えているかもしれないが、御同業の皆さまはゆめゆめ彼を旗頭になどとは思わぬことだ。そして世論も同じく、支持せぬことだ。だって、運のない指導者と一蓮托生は嫌でしょ?

田中角栄もいったではないが、人の人生、運が8割だとか、9割だとか。まあ、どんなに強運でも「果報は寝て待て」なんてことは絶対になくて、やはり額に汗しないといけないんだけどね。

結論、原口ラグビーボールは捨て置け。そのままあらぬ方向に転がっていってオシマイだから。以上。
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ニュージーランド地震:マスコミの「人でなし」な取材姿勢

2011年02月25日 | Weblog
マスコミの連中があいもかわらず例の「人でなし」を繰り返している。

犯罪被害者や災害被災者の家族・遺族を取り囲み平気でマイクを向け、口を開かせようとする。

これほど酷いことがあろうか? と思うのがごく当たり前の人情であり、人としてごく当たり前の憐憫の情というものではないのか。

どうやら、マスコミ人というのは、そうしたごく当たり前であるはずの人間感情というものを持ち合わせていない人間集団らしい。

いや、もしかしたら、人の姿をしただけのケダモノかもしれない。

いやいや、ケダモノが家族や遺族にマイクを向けたりはしない。わざわざ自宅まで押し掛けて声を引き出そうとはしない。

ならば、ケダモノ以下ということになる。

一体、どういう神経をしていたら、見ず知らずの他人にあんな酷いことができるものか? マスコミ人であり続けると、一般的な人間感情が摩耗してしまうのだろうか。

それとも、自分たちはある種特別な立場に置かれた人間だとでも思っているのだろうか。そうだとすれば、取材対象というのは、それがたとえ自分と同じ人間であっても、下等な連中ということではないのか。だから、相手が憔悴していようが、泣き腫らしていようが平気でマイクを突きつけて「今のお気持ちは?」などと無神経このうえない言葉を突きたてることができるのではないのだろうか。

それとも、純粋に金儲けか? 

いずれにしても、毎回毎回、見ていて不愉快な思いをさせてくれる連中である、やつらは。
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ミヤネヤ、おもしろくなくなったなあ・・・

2011年02月23日 | Weblog
久しぶりにミヤネヤを見た。

いつもまにか、ありきたりのくだらなーい番組に成り下がっていた。宮根も以前のような面白さがなくなった。関西から東京に出てくると、とたんにおもしろくなくなる芸人って結構いるんだけどね。今じゃあマラソンでしか存在感示せない間かんぺいなんかその類でしょ? 大阪の新喜劇の舞台でやっていれば良かったものを、東京に出てきてすっかりおもしろくなくなった。「ひきずり女」くらいだったね。そもそもあの人の芸は、新喜劇の一部として笑えた芸。それだけを取り出して成り立つ芸ではない。しゃべりが別段うまいわけではないし、いやむしろ下手な芸人だな。チャーリー浜なんかの芸もそう。

全国放送になるとそうなっちゃうのかねえ・・・。というか、関西の曰く言い難い芸風って、関東の風土のなかでは、あまりにもぜい弱なのかねえ。いわば、ガラパゴス的笑いってことかね?

今時の御笑いみていると、ほんと芸がない。しゃべりが上手くない芸人が多すぎる。幼稚な言葉遊びや動きだけで笑いをとろうとする。コンビのネーミングもセンスないといか、まとまりに悪い名前が多い。ネーミングがかもしだす言葉というか音のリズム感みたいなのが、悪過ぎるといか、なさ過ぎる。

これも、吉本が東京に出てくるようになってからじゃあないかなあ。昔の独特の関東の芸人にはない笑いのセンスがないもんなあ・・、最近は。あえて、千原ジュニアとは言わんけど。

ミヤネヤも、東京の方で放送されていなかった頃は、芸能ネタなんか面白かったけどね。年末なんか、来年は誰が離婚しそうだとか、レポーターが結構きわどいことしゃべっていたんだけど・・・。レポーターの面子はかわっていないのに、今はありきたり。やっぱ、東京で流れる番組となると、地方で言えるようなきわどいことは言えないんだろうね。

大阪でやってる番組、他にもそういうのって他にもあったし、あるよね。東京じゃあ言えないようなことを東京で放送されていない大阪の番組では言えるみたいな。

コメンテーターもなんとかした方がいいんじゃない? 今時なんで小沢遼子? 80年代には山城しんごなんかの番組で言いたい放題言っていたけど、あのアバサン(オバアサンか?)、今時の人は誰だかも知らないでしょ? 完全に昔の人、「化石」の部類なのになあ・・。見城美枝子だっけ、あの平目顔の人も、なんで今?だな。まあ、テレ朝スパモニの落合恵子の時代錯誤的なコメントよりは若干ましだけどね。

売れない芸人や、「この人誰」的なオバサン、オジサンに公共の電波通してあれこれ箸にも棒にもかからないようなことを喋らせるって、一寸四視聴者バカにしてないか、ミヤネヤ含めて。
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韓国ドラマ「王の女」にハマってしまった・・・

2011年02月23日 | Weblog
韓流ドラマというやつ、現代劇は嫌いだが、歴史劇はなかなか捨てがたい。いや、ヨン様(なぜペ様ではないの?)中には荒唐無稽で歴史の「歪曲」も甚だしく、武闘シーンなんて香港あたりの荒唐無稽時代劇の元祖!みたいなのの影響をもろに受けているような子供じみたのもあるのだが、なかには大河ドラマなんか足元にも及ばないようないろんな意味で濃いー作品もいくつかある。

何を隠そう、時代考証等について「そんなバカな!」、「ありえねー」としばしば感じながらも「チャングム」に」すっかりはまった私だったが、「チャングム」なんて子供騙しというような作品として私が第一に挙げるのが、「女人天下」である。

これは韓国でかなりの視聴率を上げたとか。時代はほぼチャングムと同じ。中宗の時代。正確にいえば、「女人」の方は、中宗崩御後こそメインなのだが、宮廷をめぐるドロドロの権力闘争、政争は見ててあきない。そこに男女のしがらみ、後宮の人間模様が絡むと、わが国の「大奥」は実に子どもじみている。今訪英中の大河なぞ、お子ちゃま番組である。

こういう政治を絡めた人間模様を描かせると、わが国のドラマづくりというのは、とても韓国、中国には及ばない。彼の国のドラマ制作者、いやおそらく彼らを含めた人々が、政治の本質みたいなものを理屈ではなく本能的に知っているように思えてならないのだ。そして、その理由はやはり、わが国が歴史的に「ぬるま湯」につかってきたからではないのだろうか。我が国の歴史的「激動」など、おおよそ彼の国々のそれにくらべれば生易しいものである。一体我が国のいつの時代に政権交代、体制変化のたびに何百万、何千万の命が犠牲になったなどということがあっただろうか。一体我が国に他国の侵略、搾取、支配、従属を甘んじることを繰り返すなどということがあっただろうか。

風雪人を磨く、というが、歴史ドラマの重厚さは歴史のなせるわざということなのか。

「王の女」。

韓国では放映当時、視聴率はすっかりだったとか? 「チャングム」にやられたとか? しかし、内容的には、私は「王の女」の方に軍配を上げたい。いや、娯楽としては「チャングム」だと思う。しかし、内容的に荒唐無稽過ぎるという点では、率直な言い方をすれば「女子供」のためのものというのが、「女人天下」や「王の女」を知ってしまった後の率直な感想だ。

李氏朝鮮第15代国王光海君。「暴君」燕山君とともに、同王朝の廃王である。王としては決して暴君、暗君の類ではなく、むしろ彼が廃位された後の朝鮮の歩みをみれば、賢明な側面をもつ君主であったのかもしれない。

主人公は光海君の「女」となったケトン、金尚宮である。自分の愛した男を王位につけ、王となった男を守るために手段を選ばぬ女。そして最後は政争に敗れ、刑場の露と消える。死薬すら賜れず斬首の憂き目にあることになる。男勝りに政治的な権謀術数にたけた女ではあったが、大局的に見れば、謀略の繰り返しの挙句に多くの敵を作り、その敵たちにしてやられた。自分の愛した男のためにその父である先王の「女」になることすら甘んじた。ならば、その息子の「女」になることなぞ、朱子学の倫理観からして許されざること極まりないが、さすがにこの利口な女も愛した男に抱かれたいというヒトとしてメスとしていかんともし難いん感情を抑えることができず、ついにはそれも身を滅ぼす一因となる。また、父王の「女」を我がものにした光海君も「破倫」の君主の汚名を受けることになる。

何と言っても、人物の描き方がいい。ここは大奥や大河とは全く違う。例えば、昨年の「龍馬伝」の慶喜や容堂。あんな戯画的な人物描写はない。しかも、人の多面性が必ず描かれている。主人公も、それに敵対する側の人物も、すべて複眼的に描かれている。ケトンはある意味悲劇のヒロインである。愛のために生き、愛ゆえに我が身を滅ぼした賢くも愚かな女であったが、その政敵たちは単純に「敵役」ではないのだ。ケトンと争い、いったんは敗れ、一族を失い、我が子を凄惨な手段で殺された宣祖の王妃の光海に見せた凄まじいばかりの恨みと怒り。その同一人物がにおとされた母親の生存を確認し、涙にくれる姿。光海君を「破倫」の正当ならざる王として王位から引きずりおろしながらも、大妃の前で血を吐きながら36条を読まされる光海の姿に同情ともとれる表情を見せる反国王はの面々。

「女人天下」を見た時も、「日本人にはこういうドラマは作れないなあ・・」と思ったものだが、その感再び。いや、できなくはないんだろうけど、今訪英中の「蒼穹の昴」なんか見ていると、やはり無理かなと思えてしまう。

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NHKは驚くほどに偏向している!: ETV特集「深く掘れ 己の胸中の泉 沖縄学のまなざし」

2011年02月21日 | Weblog
近年のNHKの報道姿勢には不信とすべきところが少なからずある。そのなかでもETV特集はもう随分前からあの「慰安婦裁判」番組等、国民から強制的にカネをとって運営している「公共放送」にふさわしからざる政治色、イデオロギー色の強い番組を放映することもあったが、昨晩の「深く掘れ 己の胸中の泉 沖縄学のまなざし」もひどかった。

琉球処分以降の教育現場における方言禁止は、「皇民化」だそうだ。まあそういうことをいう研究者もいるが、一般的な学説ではない。少数派だ。学術検証番組でもないETV特集がその少数派説のみを取り上げる、この報道姿勢を「偏向」と言わずして何といおうや?

また、沖縄戦の悲劇は「絶対的天皇制」の帰結だそうな。ところで、「絶対的天皇制」とは何ぞや。また、「天皇制」が「絶対的」であったがゆえに沖縄戦を招いたというのか、それとも「絶対的」の有無にかかわらず「天皇制」ゆえに沖縄戦の悲劇が生じたといいたいのか。いずれにしても、説明不足であるし、現在ただ今我が国が天皇を国家、国民の統合の象徴としていただいている以上、わずかな短い言葉で言い過ごしてしまってよい内容のものではないはずだ。

ところで、その「絶対的天皇制」ということばだが、よもやコミンテルによる所謂「三二テーゼ」からもってきた言葉ではあるまいな・・・。もしそうだとすれば、NHK、いや少なくともETV製作スタッフがいかなるイデオロギーの傾倒する連中であるかということは間違いあるいまい。

そんな連中に身銭を切るなど、私は御免こうむりたい。

一体、NHKの「暴走」はいつまで続くのだろうか?
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人間には「分際」がある:「ワタミ」社長渡辺美樹氏の都知事選出馬

2011年02月20日 | Weblog
ふさわしいかととわれて、ふさわしくないという他ない。

所詮居酒屋のおやじだ。

都政に経営を、はいいが、居酒屋での経営経験を持ちこまれても困る。東京は日本の顔である以上、その知事はしかるべき「看板」を背負った人間でなくては。居酒屋にそれは無理だ。

池田勇人はかつて縁籍関係にある田中角栄をして、首相にふさわしからずとした。「馬丁、匹夫の類」を首相にするわけにはいかないというのが理由であった。

池田の判断は正しいと思う。所詮「馬丁、匹夫」からの成り上がりである。そこには当然のことながら無理もあり、結局転んだ。
いまだに田中を評価する向きもある。私も完全否定はしない、政治家としては。だが、首相として、あの男は風体、立ち居振る舞い、喋り口調何一つとっても卑しい。出自と歩んできた人生のなせるわざで、これまかりはいかんともしがたい。いかんともしがたいものなら、寛容すべきなのか。位人臣を極めようとする人間にそれは不必要であろう。「今太閤」ともてはやされたが、品の無さと晩節を汚した点については、まさに秀吉と同じであった。

程度の差こそあれ、渡辺氏にも同じことがいえるのではないか。居酒屋一軒からの「成り上がり」である。毀誉褒貶もなくはない。叩けばホコリも出よう。学校経営をめぐるいろいろな噂など、事実だとすれば、感心しない。教育に手を出すべき人ではないと思う。そんな人物が世界に冠たる東京の主では困る。

居酒屋、居酒屋というのは職業差別? 

出自や来歴を言うのは憲法違反?

職業に貴賎なし、などということはあり得ない。我が身をひさぐ男女をして、自分の職業と同列と思う人がいるわけがあるまい。いたら、キチガイだ。「水商売」は所詮水商売。我が子を居酒屋のオヤジやバーテンダー、クラブのママやホステスにしたいと思う親は決して多くはあるまい。世間の実情などそんなものなのだ。水商売の実情を知るならば、なおさらである。

出自は選択できない。だが、出自は否応なく人をつくる。これも致し方なく存在する現実なのだ。

渡辺氏、悪いことは言わない、都知事なぞ大それた夢は分不相応と諦めることである。都知事にならなくとも、あなたほどの人なら、他にも国家、社会のために貢献する術はいくらでもあるはずである。魚は陸では生きていけない。そんなことは言わずもがなではあると思うのだが・・。




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大相撲八百長問題: 杉山邦博氏もある意味「同じ穴の狢」では?

2011年02月18日 | Weblog
YouTubeで有名な(悪名高い)大乃国vs.板井戦を見たのだが、あの問題の一番、解説は杉山氏。

解説しながら、「なんだこれは!?」って思わなかったのかねえ?

前にも書いたけど、八百長の話だって、私が子供のときから噂は耳にしていたくらいだから、相撲解説のプロが耳にしなかったなんてまず誰も信じないし、取り組み見ていて、これはおかしい?って思わなかったのだろうか? じゃあ、何十年間、何を見てきたのよ?ということになる。解説、評論の資格というか能力なしってことでは? だって、節穴だったてことでしょ、その目が。

NHK職員とはいえ、相撲解説の第一人者として業界でメシ食っていたわけだから、今更聖人君子然として相撲協会批判されても、なんか白けるね。

NHK職員として何もいえなかった? そりゃ、男らしくない(女の腐ったのとはいわかいけど)言い訳だ。そこまで相撲を愛していたなら、職を賭してでも一言いうべきだったでしょう。あるいは、解説もNHKも辞めるって手段もあったと思うんだが?

その前にまずは自己批判でもしたら? モノ言うのはそれからですよ、杉山さん。自分の都合の悪いところはスルーでは、そりゃまさに相撲協会と同類、同じ穴の狢ですよ。
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大相撲八百長問題: 「国技」ならぬ「国恥」

2011年02月18日 | Weblog
ほんと、このままだと、だたの無駄飯食いのデブ(ブタ?)の群れでしかない。

国の恥、国賊だな、これだけ国内外で恥をかかせたんだから。

天皇賜杯もさっさと返上しろ、国賊ども。

じゃないっていうんだったら、さっさと動けよ(改革しろよ)!

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大相撲八百長問題: 北の湖という人の「ヒール」的役回り

2011年02月15日 | Weblog
北の湖が現役の頃、負けないか負けないかと期待したのは、私だけではあるまい。

それくらい強く、そして強さに見合った人気のない力士だった。いや、強いからこそアンチが多かったのかもしれない。
あの面構えやしぐさも損をしていたのではないか。

北海道に旅行の際、タクシーの運転手から「あれが北の湖の実家ですといってもお客さんのほとんどは関心を示さない」と聞いたこともある。

その一方で、人柄については、面倒見がよくて・・という「良い」評判も耳にしたことはあったが。


親方になり理事長になってからは、時津風の暴行事件、朝青龍問題、大麻と理事長としてさんざん叩かれ辞任。

それでも理事に残り、今回は自分の部屋から八百長力士を出してしまった。

事実上の引責辞任をしておきながら理事のイスにとどまるというのも、勝負師らしからぬ往生際の悪さというか、潔くないと思うのだが、弟子が八百長を認めているにもかかわらず、いまだ理事を辞する意思があるとは聞かない。

力士として頂点を極め、一代年寄りにまでなった人間としては、実にお粗末な話である。

無様というか、なんともちんけというか・・。

現役時代の不人気も、そうしたこの人物の「内面」みたいなものが曰く言いがたく相撲ファンに伝わったせいえはないのか・・・。


まあ、そういう点では、次期理事長候補とも言われている九重こと元千代の富士もいかがなものか。上記に同じく弟子が八百長を認めている。自分自身八百長疑惑を囁かれたこともあれば、その弟子の千代大海も素行という点で芳しくないものがあった。

この人を理事長にしては、まずかろう。


いっそのこと、理事長はじめ理事の半分以上を力士ではない人間にすることで、相撲協会の改革を断行してはどうか。外部理事をお茶を濁す程度に入れるというのはもうあまりにも茶番じみていて、世論の理解は得られまい。

いずれは貴乃花にという世論的期待もあろうが、いささか若すぎる。先日、同親方のインタビューもたまたまTVで見たが、若いのに、なんとも芯の強い人だと思った。相撲の取り口では兄の若乃花の方が好みで、現役時代は決してひいき力士ではなかったが、
さすが若いながらに経験の濃さが私のような凡夫とは違うと思った。


話は戻すが、北の湖という人は、今の好ましくない相撲界の「象徴」のようなもので、その意味においてこの人は、現役時も引退後も「ヒール」のままということになる。

そしてその原因は、ただ単にあの人相風体によるものではなく、実は人となりによるものでもあった、ということなのかもしれない。

北の湖、あなたの今の行き方は率直に言って見苦しい。
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トヨタの先行きが心配だ: レクサスCT200h

2011年02月15日 | Weblog
徳ちゃんいわく、「じじむさい」車。

言い得て妙。まさにその通りである。

なんなんだ、この斬新さもなければ、フロントとリアがバラバラな統一性のないデザインは?というのが、私の第一印象。

いかにもトヨタらしい、まさに「じじむさい」フロントグリル。

そして、これまたいかにもトヨタらしいリアの不細工さ。

サイドから見るとこの車の不細工さはよりあからさまになる。

先日新型ヴィッツ(ヤリス?)のこれまた無難さすなわち斬新さ、おもしろみのなさに失望したばかりだが、またこのレクサスで
更なる失望。

近年の日系自動車会社を猛追するヒュンダイのつめにあかでも煎じてのませてやりたい。

まだ数年前のヒュンダイ・キアには「パクリ」が見られた。先代ソナタのリアなどは、どうみても先代アコード。ただ、同時にその頃からSUVなどでデザインの斬新さが目につくようになってはいたが、今では、デザイン的にトヨタやホンダを超えたのではないか。

日本国内市場はいざ知らず、主戦場の北米市場や中国市場では、押し出しの強い車が好まれる。最近のヒュンダイ・キアはその点をうまくとらえている。

一方、日系ときたら、CTがいい例である。

そういえば最近発表のアキュラTLも、何とも情けない姿をした車である。リアだけ見たら、10年前のモデルといってもおかしくないくらい古めかしく、フロントは最近のホンダ・アキュラのデザイン的拙さをいかんなく発揮しているといっても過言ではあるまい。

以前にもここで書いたと思うが、パッケージングを何とかしないと、ほんとうに日本車はヤバイことになる。かろうじて、日産、マツダは前期二社よりはましかもしれないが、日産の新型セレナ、あれはひどい。デザイン的には退化してしまったのでは?

スバルは寒冷地を中心に根強いファンを持つが、相変わらずフロントグリルの処理とインパネデザインが稚拙過ぎる。

いや、日本車、ホントやばいよ、だって前々おもしろくないし、新味ないし、スパイシーじゃないから。性能の優位も今じゃ、昔ほど目立ってないんだから、デザインで他社の後塵を拝したら、一体何が残るわけ? いや、既に後塵を拝しているんだけど。
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一寸おかしいんじゃないか?: 産経新聞の虐待関連特集

2011年02月14日 | Weblog
産経新聞では以前から時おり子供の虐待に関する特集記事が連載されているが、どうも、これが産経らしくないというか、議論の「すり替え」があるんじゃないか、もっと言うと既に「結論ありき」なのではないかと感じてしまうのは、私だけだろうか。

虐待はいけない。この点について、私は少しも異論を挟まない。

しかし、無条件に体罰はいけない、とは考えない。

私は米国に暮らす間、子供を預けた託児所には「お尻ペンペン」を許可する旨、承諾書にサインをしてきた。もっとも、その州でも数年前に体罰は違法となったが、当時は合法で、託児所から「お尻ペンペンどうしますか?」と書面にて問われたので、「どうぞ、宜しくお願いします」とサインをした。学校でも、子供たちの様子を見聞きすると、自分たちのときだったら、ひっぱたかれているなというようなケースも当然、体罰はなし。それで学校がよくなったのかといえば、はなはだ疑問だ。何度言っても聞かなかったり必要とあらば、体罰を辞さずと私は子供たちに宣言している。「学校の先生と親の言うことは、絶対だと思え」、「学校の先生が右を向いていろとおっしゃったら、止めというまで1時間でも2時間でも向いていろ」、「もし理不尽があると思ったら、それは親が判断をして学校に掛け合う。だから、子供があれこれ言うな」、「話せはわかるというのは、必ずしもだ。何度言ってもわからなかったら、体で覚えさせる。」、「個性とか個人の尊重なんてのは二の次。一番大事無いのは、個々人が世間様に迷惑な存在にならないこと。そのためには、体罰がやむをえないときもある」、以上が、私どもの方針だし、子供にも日頃から言っていること。つい先日も、下の子供を「お尻ペンペン」。

米国では体罰禁止州が増えている。合法な州でも実際問題体罰は難しい? 確かにそうだ。だが、米国では、子供の「非行」、「愚行」に倒して社会が、大人が断固として対応する。時には杓子定規に過ぎるのではないかと思うようなこともある。アメリカの学校は日本よりも自由?一面正しい。しかし同時に細々とした校則とさまざまな罰則がある。義務教育で事実上の退学、転校を強いられるケースもある。日本にそれがありますか?ないままに「米国では」をそのまま持ち込めば、待っているのは一体・・?


体罰と虐待の線引きは難しい?  体罰が虐待にエスカレート? 体罰とおもって虐待する親もいる? これも否定しない。
だが、だからといって体罰を無条件に完全否定するのは、どうしたものか? 羹に懲りて膾をふくとまでは言わないが、線引きが難しいから十把ひとからげというのは、いかがなものか?

産経の記事を読んでいると、どうも、虐待と体罰をごっちゃにして論じている。そうなると、虐待は無条件に否定されねばならないという前提にたてば、体罰もという流れになってしまうし、実際そう読めてしまう。あえて、世論誘導とまでは言うまいが。某大新聞には批判的な産経のこと、まさか同じ穴の狢になろうというつもりは毛頭あるまい。が、まさか無意識にごっちゃにしているというのでもあるまい?

で、記者はスウェーデンがお好きなようだが、そういえば、某党の女性党首氏もメディアに出だした頃には、二言目にはスウェーデンだったと記憶しているが・・。

産経新聞も宗旨替えですか?
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大相撲八百長問題: 杉山邦博氏への率直な疑問

2011年02月14日 | Weblog
幼稚園のときに相撲を見出してからずっと杉山氏の声を聞いてきたわけだが、ここにきて一つ疑問がある。

本当に八百長について何も聞いたことはなかったんですか?

本当にこれは怪しいと思われたことも?

TVで杉山氏がおっしゃることは確かに正論で、相撲に対する」愛情」を感じないわけではないが、長年相撲を間近でみてこられた方だけに、相撲協会批判がどうもキレイごとに聞こえてしまうのは、私がひねくれているせい?

まあ、そおれをいうならマスコミやコメンテーターとか言う連中が一番なんだな。あの人たち本心は大相撲をつぶしてしまいたいのでは? そうすれば、その分、相撲中継でもってかれる視聴率かせげるわけだし。全容解明なんかできるわけないだろうし、何百年の伝統のなかで生きてきた親方や力士たちからしてみたら、「何を今更」ってなことでは?

水に落ちた犬を、聖人君子然としてたたく姿ほど嫌なものはないと思うのだが・・。

まあ、マスコミなんてのは、叩いてなんぼ、持ち上げてそして引き摺り下ろしてなんぼっていう稼業なんだろうけど。
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その通り!→「TOEICはどれぐらい英語ができないかを測る試験だ。」

2011年02月11日 | Weblog
上記ブログ発言。

まったく同感、同意である。

そもそも、TOEICなんてのに学生や社員の体力、時間を浪費させる企業側の考えがわからない。

だって、TOEICである程度点数とれても、糞の役にも立たないから。

言い方変えれば、TOEICで700、800代とったところで、実際のビジネスシーンでは役絶たず。まあ、ないよりましって程度。

TOEICやるくらいなら、TOEFLで点数をとらせるべきとも思うが、これも実は部分的な尺度。TOEFLでえらく高得点して米国の大学院はいったところが・・・ってアジア人をよくみかけた。彼らは自国ではエリートだし、自分は英語ができると思って留学先にやってきて、英語の補修クラスにいれられた日には、プライドずたぼろで、中には学校側に抗議する連中も。でも、彼らは現実を知らないだけ。多分、理系大学院の連中なら、「知らないまま」で済むんだろうけど、文系はそうはいかない。書く量、話す量、読む量、理系以上のものが求められるからだ。

じゃあ、何が良いのか? 英検?  冗談はよせ。


国連英検。 まあ、ちょっと無理でしょ、帰国でも無い限り。

では、かりにTOEIC, TOEFLを続けるとして、やはりプラスアルファーでしょ。新入社員だったら、集団面接でいきなり予告なしに課題を与えていきなり議論させるとか。これは英語力の「素」が出る。

それから、いきなり英作文をさせる。

しゃべるだけではだめなのだ。帰国が有利になる。しかし、どんなに流暢でも文法はどうなのか、子供じみたボキャ遣いではないか、論理的か、これはネイティブしかわからないし、論理性の有無を見るなら、やはり書かせることだ。以外に苦手な帰国が多い。文法力なんて・・・な帰国が少なくない。だからこそ、代ゼミなんかは帰国を相手に商売ができるのだ。

そんな面倒な採用プロイセスはとれない? 

じゃあ、外国人を雇うんですな。でも、日本企業の多くに、外国人を雇い、彼らにしかるべきポジションを与えることのできる
度量をもった企業がどれくらいありますかね?

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アメリカという国の多面性: ワシントンポストが米議会の「トヨタ叩き」を批判

2011年02月10日 | Weblog
多面性というのは、どの国にも指摘できることだ。近隣大陸にあるあの厄介な隣国にしても、一党独裁の下にあるからといって、一様な社会であるわけではなく、昔から実に多面的、重層的な社会なのである。

自由と平等の国アメリカという。

が、あの国には明らかな不自由と不平等がある。他にもさまざなな不条理がある。

あの国の日本研究者たちは、日本の特徴の一つに「本音と建前」をあげるが、何もこれは日本の専売特許ではない。日本には目に見える本音と建前があるが、アメリカにはなかなか目に見えない本音と建前が厳然と存在する。

ここが、あの国のえげつなさでもあるが、見方によってはそれをあからさまに見せてしまう日本人がおめでたいのかもしれない。
スポーツマンシップなんていうが、サッカーという競技のあの「汚さ」よ。

その一方で、公正さを追求することにかけては、アメリカ人は日本人に比べて真摯な一面も持っている。上記のワシントンポストの議会批判などまさにその一例である。

この点に関して、日本人には公正さというものに対する毅然さが無さ過ぎるのかもしれない。まあ、あえて相撲協会を例には出すまいが。在米中は、アメリカ人のこうした姿勢を理解せず、トラブルに直面した日系企業を幾つかみたことがある。「一体、あなたたちは何年この国で商売しているのですか?」と言いたくなるような対米進出30年、いあや40年以上なんて企業も含めて。

学校教育においても、日本に比べてはるかに公正さというものに対する指導が徹底している。かといって、イジメがないわけではない。陰湿なイジメは米国にもある。それが銃乱射などの悲劇につながったこともある。学校が生徒よりも自分の保身に汲々とすることもなくはない。

就職活動などでもそうだ。履歴書に写真は貼らない。年齢制限は設けない。男女差別もしない。事実、アメリカは」差別」に対する取り組みは、日本よりも真摯に見える、明らかに。だが、その一方で、年齢制限はないというのは実はウソである。職場によって、あまり年齢の高い人間を雇いたくない場合には、能力の優劣に矛盾しても、若いものをとる場合がある。年齢制限はなくとも、最初からある一定上の年齢のものは最初から取るつもりなどない場合もある。できレース的な公募なんてのは日本だけの話ではない。私の業界でも、ちょっと調べれば「これは法律的に仕方なしにやっているだけの求人、公募だな」とわかるものが時々あった。男女差別がないというのもウソだ。女性の少ない職場ではそうした批判をかわすために、より多くの女性を雇おうとする。結果、男性には不利になる。昔男性社員に「今以上に出世したかったら性転換するしかない」と言い放った女性だけを顧客にした会社の上司がいたそうで、裁判沙汰になった。組織の形態上、明らかに女性には、あるいは男性には不利な職場もある。ただ、女性が好ましいとは公言しないだけで、おおよその推測は尽くし、求人結果もほぼ予想通りになる。宗教による見えない差別もある。少なくとも、某キリスト教系大学のような、日本とアメリカで求人広告を変えるという汚いやり方を公然とするようなところはない。でも、キリスト教徒しか応募できないような形式にしてしまっている大学もある。

日本人の多くは、「あのトヨタ叩き、はじめから胡散臭いとおもっていたんだよなあ・・」という人覆いのではないだろうか。
でも、ああしたことを平気で仕掛けてくるというのがアメリカの現実もあると同時に、それだけが現実ではないというのもこれまたあの国の現実なのだ。親米も反米も、そうした多面性の存在だけは理解したうえで、アメリカを賞賛し憧れるなり、はたまた府批判するなりして欲しいものである。
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