くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

忠恕の欠如: 年金問題、水道局員のサッカー、そしてミートホープ事件の接点

2007年06月27日 | Weblog
昨今、「他者への想像力の欠如」が指摘されている。

その最たる例がいじめだ。いじめられた者の気持ちを慮れば、そんなことができないものはずだ。にもかかわらずそれが発生し続ける背景には、他人の立場や気持ちに思いをはせる「想像力」が欠如しているからだ。

いじめ同様、年金問題における社保庁の引き起こした不手際も、制度上の問題、事務手続き上の過失というのは表面的な問題に過ぎず、その根底には、年金を老後の生活の恃みとしている人々がいろという現実と、そうした人たちへの同情なり理解が欠如しているという問題があるのではないのか。

北海道北見の水道局員が断水中にもかかわらずサッカー大会に出場したというのもそうだ。断水による生活の困難や、それにともなう精神的な苦痛というものに思いを遣ることができれば、サッカーなどできようはずもあるまい。

そういえばJR西日本福知山線の事故の際にも、JR職員の似たような問題が明るみに出た。

ミートホープの問題もまたしかり。騙されて牛肉ではない商品を口にする、劣悪な材料を使った食品を口にする消費者の気持ちを慮れば、そのようなことができようはずもない。儲け、コストの問題はある。商売というのは、どんなきれいごとを言っても所詮「騙し」、「誤魔化し」の部分はある。企業や商売人が「社会のために」などといっても、それは企業の一義的な存在理由ではない。商売をする一義的な目的でもない。そもそも、公共のためというのであれば、商売というかたちをとる必要などないのだ。かつて(今でもいるのか?)、「多国籍企業は国家にとってかわる」などとまことしやかに主張する面々もいたが(例えば某有名私大ビジネススクールのO先生とか)、多国籍だろうがどっぷりドメスティックだろうが、企業が国家に代われないのは、私企業が私益の追求をその最大の存在理由とするところにある。付け加えるならば、911以降の世界情勢に対してもまた、多国籍企業が現在国家がそれに対応して完璧ではないにせよ果たしている(あるいは果たそうとしている)役割を担う能力もなければそれを代替する意思もないことを如実に示しているのではないだろうか。むしろ、テロなどという行為に対して、そのターゲットになりかねない多国籍企業は、むしろ自らの安全のために国家という存在に依存せざるをえない、というのが現状ではないのか。話が逸れた・・。

行政・公務員の不手際、対応の不十分、企業の消費者無視の不正行為。何も最近になって始まった問題ではない。最近になって注目を集めるのは、その数が増えているからではなく、むしろそれだけ隠蔽することのできない社会になっているといううことだ。マスコミのセンセーショナルな報道振りは”大”問題だが、社会がより透明性を増しているという点では、好ましいことなのかもしれない。

ただ、身近にある問題や我々日本人の「他者への無関心」という問題ともあわせて考えると、これは所謂「忠恕」というものが今の我々には欠けているのではないかと思うのだ。

「忠恕」とは、平たく言えば、誠意と思いやりの気持ちを言う。それが十分に我々の心のうちにあれば、上述のようなことはできまい。他人を思いやる気持ちがあれば、他者に無関心ではいられまい。忠といえば、忠義の忠、忠誠の忠でもあるが、その部分の意味合いも含めて、忠恕の欠如、何とかせねば、美しい国もあったもんじゃないかと・・・。
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たたき上げ考

2007年06月26日 | Weblog
渦中の人、ミートホープの田中社長。中卒から一代で起業し成功を収めた人をたたき上げというのだろうが、たたき上げというのは、どうもやることに品がない・・。

たたき上げがいけないというのではない。逆に、たたき上げを生まないような硬直した社会にしてしまってはいけないと考える。

ただ、そのことと品の有無は別の話だ。そういえば、我が国現代史における「たたき上げ」の最たる人物、田中角栄も品がなかった。酒の飲み方も品がなく、オールドパーをがぶ飲みして、ついには病に倒れた。あのしゃべり方も品がなかった。更に時代をさかのぼれば、太閤秀吉というたたき上げもいたが、これも「黄金太閤」などと呼ばれるくらいにギルギットで品がなかった。

たたき上げだからけの某合衆国なぞ、いまだに金メッキのエンブレムをつけた車が多数走っている。金メッキ=その筋の人間の車などと思っては、これはグローバルスタンダード(笑)なものの見方ではない。かの国では一般人が金メッキなのだ。
我々日本人の感覚からすれば、品が無いの一言に尽きる。エンブレムに金メッキを施したトヨタカローラを想像してみていただきたい。悪趣味以外の何ものでもないのだが、かの国ではまかり通ってしまう。

人民ならぬ貧民の群れの中から昨今雨後のたけのこのごとく成金どもが発生している近隣の大国の方々も金色はお好きなようだ。そして、あそこもやることなすこと品がない。料理の味はいいが、見た目にこだわらないしね。その点については香港などでは自覚があるようだが。

話が逸れた。

たたき上げという生き物。戦後のどさくさが可能な時代や高度成長期には、田中社長のような何でもありのたたき上げはいくらでもいたのだろう。ただ、田中社長の場合、時代が彼に味方しなかった。というよりも、時代の流れを読み間違えていなかったというか、見ていなかったのだな、あの人は。

エリートコースをエスカレーターに乗って登っていく人たちは確かにスマートかもしれない。ただ、その分、温室育ちで不規則性に弱い。

その点雑草のごときたたき上げはタフだ。が、品がない。人間ある程度の年齢になると人相に歩んできた人生がにじみ出るものだが、田中社長に品性や知性を見て取ることは不可能だ。もう一人の位人臣を極めて田中氏の方、あの眼は頭脳は「コンピューター」を思わせるが、やはり品性の無さがにじみ出ていた。

なーんで、たたき上げってああなんだろうねえ。がむしゃらが結局むちゃくちゃになって、最後はこけてしまう。たたき上げのすべてがというつもりはないが、そういうの多いのでは?

もっとも、学歴的な裏づけの無いものがそうでもしなけりゃのし上がれない社会なのかもしれない、今の日本は。もしそうだとすれば、それはそれで、根本的なスタートラインの機会の平等っていう点で、見直すべきところがあるのかもしれない。

たたき上げ=成功者かもしれない、ある意味で。立志伝中のなどという言葉も付いてくる。だが、あの両田中氏のような人間がそれこそ雨後のたけのこのようにまたぞろ現れては、美しくないよ、日本(笑)。
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民主党の懐の深さ: お次はレズビアン候補者(笑)

2007年06月24日 | Weblog
民主党というのは実に候補者の「引き出し」の多い政党である。

元外国人や元在日のそれも帰化したての人間を候補に祭り上げ、我が国の国権の最高機関に送りこんだかと思えば、次はレズビアンだそうな。

黒かろうが白かろうが、ネズミを取る猫は良いねこ。元外国人であろうが同性愛であろうが、我が国並びに国民のために有益であれば、国会に送りこむことに何を躊躇することがあろうか?

但し、聞かして間もない人間が、果たしてどれほど我が国を思い、我が国に忠誠心を持っているかは知るよしもない。そもそも、私自身は自らが生まれた国を捨て他国の国籍を取るという行為に対して、一部に例外を除き、あまらい快くは思っていない。国籍はパンツではないのだ。とっかえひっかえすれば良いというものではない。たかが国籍なのかもしれないが、されど国籍。米国在住時は、どういうわけか米国市民権を気軽に取得する、つまり日本国籍を捨てる現地妻が多く、彼女らのいろいろな意味での「軽さ」にはげんなりしたものだ。それはさておき、したがって、米国などのように帰化後一定期間は被選挙権の行使を抑制するなどの措置が必要と思うのだが・・。

レズビアン候補についても、同性愛者の利益代表という心積りだけで国会に行かれては困る。天下国家というものを背負っておるのだという意識なくして国会に行こうと思うなかれ。これは何も同性愛者だけではなく、ストレートの政治家たちにも言えることではあるが。

まあ、個人的には国会は同性愛者なんかがしゃしゃり出てくる場ではないと思うのだが。所詮日蔭者は日蔭者、少数派は少数派。そういった類の連中が割を食うのは世の常。こればかりは法制度的に差別はどうのこうのと言ったところで、どうしようもない。ましてや、少子高齢化対策という点で、出産という点で非生産的な同性愛者の存在価値は、決して高かろうはずもあるまい。これも分際というやつで、分際を超えてしった結果の悲劇ということにならねばいいが、このレズビアン候補。

それにしても気に入らないのは、海外の報道の仕方だね。同性愛をめぐり、「日本は遅れている・・」。この「遅れている」にやつら白人どもの上から下に非白人を見る姿勢が透けてどころか露わにに見えて、おもしろくない。常に自分たちのしていることが、自分たちの置かれている状況こそが、文明的に最先端であり、そのほかの者たちは・・というこの発想。いまいましいことこの上ない。

話がずれてしまったきらいもあるが、民主党の出してくる候補はおもしろい。それに比べて自民党はくだらない。イタチの最後っ屁のように、選挙間際のしかも自身がやめる決意をしてから、自党批判を行う、どう見ても頭良さそうにみえないプロレスラーにしろ、それに代わる元ヤンキーにしろ、候補者に意外性がなくて面白みに欠ける。その点、民主党は苗字が漢字一文字の帰化人系から、レズビアンまで、多士済々、さて次は何を出してくる?といった面白みがある。

もっとも、言うまでもなく、参院選は見世物小屋ではない。そういえば、明治の終わりに「人類館事件」なる一件があったと言うが、参院もいずれ「平成人類館」のようになってしまうのだろうか?ネズミを取ってくれればよいか、いや取ってくれねば困るが、同時に国権の最高機関の一部であることだけはご失念なきよう、各政党、特に民主党の皆様。
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淫行菊池はサッカーから足を洗え!

2007年06月20日 | Weblog
淫行癖なんか性癖なんだから、死なない限り治らない。ミラーマン植草見てみろ。ぜんぜん懲りてない。

22だから?それがどうした?性癖に年齢は関係ない。社会に有害な、またはその可能性を秘めたこのロリコン男は、サッカー会から追放。海外移籍の道も閉ざせ!海外でまた同じようなことされたら、日本の恥だ。

菊池も往生際悪い。反省が足りん。世の中を舐めている。自らの判断で君はサッカーを捨てなさい。引退を宣言しなさい! 捨てて一から別の世界で人生やりおなしなさい。それこそまだ22なのだから。肉体労働でも何でもまだ新しいこと始められるだろう。誰が悪いのでもない。自分だけの不始末で棒に振ってしまったサッカー人生。自分のせいなのだからこそ、きっぱりと捨てなさい。

もう一度チャンスをなんて声も耳に入るかもしれない。それは確かに君の才能を買っていってくれてるんだろうけど、それに甘えちゃいけないね。そんなのに甘えてては君は立ち直れないよ。まだ、22?もう22だよ。社会的責任はしっかり落とし前つけないとな。あとこれは忘れるな。「もう一度チャンスを」って言ってる人間の腹のうち、もしかしたら「こんなサッカーバカに他に何ができるって言うんだ?」って蔑みもあるかもよ。それでいいのか?15の女の子の前では勃つのもまずいけど、そんな世間の侮辱的な目を前にしてこそ立たんでどうする!?男だろ!?サッカー以外でもやっていけるところを世間に見せてやれ!

君のこれからの生き様、みーんな見てるよ。

それから、ご両親や兄弟、親戚には迷惑かけたってよくよく謝りなよ。これほどの親不孝、家族不幸はないよ。君の兄弟、親戚これから君のせいで世間様から後ろ指指されて生きていくんだよ。菊池の家にも傷を付けたんだよ。先祖も泣いてるわ。縁を切られても不平は言うまいぞ。むしろ縁を切ってくださいくらい言ってみろ!すべて君が悪いのだから、すべて。
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最近の犬のほえ方

2007年06月19日 | Weblog
最近の犬はワン!ではなく格差!と吠えるそうな。もっとも、犬といってもすべての犬種ではなく、負け犬という犬種に限っての話ではあるが。

萬犬虚に吠える、とは言うまい。格差はある。ただし、昔から。格差の程度に変化はあるかもしれぬが、それを一概に以上な状況であるとか、是正されるべき状況かと言うと、そうとは思わない。

大概、格差是正!などと叫ぶか、またはそれに呼応するのは、所謂負け犬という連中か、あるいはこの負け犬どもに付け入ろうとする輩だ。

この負け犬という犬、実に始末が悪い。愛玩犬には使えない。どうにもこうにも見目が悪く、かわいげなぞこれっぽっちもない。しかも、犬のくせに人権が保障されてしまっている。社会経済的にも決して生産的な生き物ではないのだが、おいそれと保健所送りにするわけにもいかない。

この人権を持つ犬に付け入ろうとするやつらはもっと始末が悪い。つけいるどころか、炊きつけようとすらしている。例えばその好例が選挙で自党の候補者に「格差ゼロ社会!」などと言わせてる前回で触れた政党だ。

この際党名を隠すこともあるまい。民主党だ。

あの政党、本気で格差ゼロなどと言っているのか? まさか本気や正気ではあるまい。相手が正気でないのなら、こちらもつくり阿呆で言わせてもらおう、「国会議員の給与を勤労者の平均水準にまでカットしろ!」と。さもなくば、格差ゼロどころか、格差ゼロと主張する党が、格差の上にあぐらをかくことになる。これほどの恥知らずな矛盾と開き直りはない。

できもせぬこと、ありえぬことを平気で有権者に向かって訴えるこの政党、胡散臭いにもほどがある。臭くて臭くてたまらない。腐臭がする!

民主党のいまですら青色吐息の息の根を、今こそ止めを刺して止めてやろうではないか。それが党に所属する一部有為ま議員たちのためでもあり、しいては政界、そして我が国のためにもなる。

有権者の関心をひくために平気で実現不可能なあるいは誤解を生むような虚言を高らかに叫ぶ政党などを支持するはヒトとしての名折れだ。

もっとも、選挙権を持つ上述の犬どもはそんなことには頓着せず、「格差ゼロ」の羊頭狗肉にただよだれをたらして尻尾を振るのであろうが・・。
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世論と民主政治

2007年06月19日 | Weblog
安倍政権の支持率がジリ貧でかろうじて30%を維持。それに対して不支持は過半数を超えた、との世論調査。

主因はやはり年金問題なのか?

しかし解せない。今回の問題はそもそも安倍政権による不手際ではないはずだ。もっとも、年金問題の他にも「なんとか還元水」の名言を残し自ら世を去った農水相の問題等もあったことも影響しているのだろうが、なぜ年金問題が、安倍政権の支持率を左右せねばならぬのか?

ここに世論調査というものが映し出す世論の危うさというものを感じざるを得ない。

世論調査の仕方自体も検証されねばならない。なかには誘導尋問的な設問もある。

ただ、それはあえてさておき、調査の結果のみに着目するなら、そして上述のように年金問題が安倍政権への支持率<不支持率の主要原因だとすれば、それは我が国の民主主義の危うさを示すものではないのだろうか。

現在の支持率がそのまま来月の参院選に反映されたとしよう。自民党は惨敗だ、個人的に惨敗は無いといまだに思っているが。かりに惨敗となれば、「格差ゼロ社会!」などと言っている政党が勝者となるは間違いあるまい。

どこの政党だって? 代々木ではない。まるで宗旨替えしたようなスローガンだ。 「格差ゼロ」などそれこそ自由主義の否定だ。まさかその党自体も本気で「ゼロ」実現などとは思っていまい。つまり虚言で有権者を釣ろうという魂胆だ。有権者もまさかそのような政党に一票を投ずることはあるまい・・・?
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こんにゃくゼリー問題

2007年06月16日 | Weblog
子供を亡くした親の気持ち、正直言って、理解できるなんて偉そうなこと言う気はこれっぽっちもない。

私も二児の親であり、我が子をそれこそ目に入れても痛くないほどかわいいからこそ、我が子に万が一のことがあれば、気も狂わんばかりに嘆き悲しむであろいうことが容易に想像できる。ただそれは想像でしかないのだ。人には経験せねばわからぬ喜びや悲しく、苦しみというものがある。親になった時の喜び、そして親として子供の成長を見守る喜び。ただ私の親としての喜びは父親としてのものではなく、母親の子を授かり産んだときの気持ちとなると想像はできても、それ以上に理解することはできない。つまりそれが想像の域を超えたものだれば、共感することはできない。子を亡くした親の気持ちとて同じことが言えると思う。想像はできても、共感となると、そこにはどうしようもない限界がある。

その限界を言い訳にするつもりもないし、批判を覚悟のうえであえて言うが、こんにゃくゼリーで我が子を亡くしたご両親、訴訟はおかしいのじゃないのか?

子供を亡くした悲しみを、その原因をどこかに見出しそこにぶつけたいという気持ちかもしれないが、このご両親の言い分が通れば、この世の中、おちおちとものを売るという行為もできなくなる。ものを売るということは、PL法なんてのもあるように、社会的法的責任を伴うのは当然だ。その自覚や覚悟もなくものを売って金もうけをしようなど、世の中をなめているとしか言いようがない。ただ、その責任も問い詰め過ぎれば、世の中おっかなくて何もできなくなる。

あの製品を流通させるべきではなかった、と件の両親は言うが、そのような言い分はこの世のすべてのとまでは言わないがかなりの商品にも当てはまってしまうのではないのか?他のさまざまな商品にも何らかの、もしかしたら予測不能な危険性が潜んでいるかもしれない。普段は危険性のないものが運悪く生じた特殊な状況下において危険性をはらむ可能性もあるのだ。もしこの両親のこの言い分がまかり通るのであれば、例えば、サ●ウの切りもちなんて、もしあれを喉に詰まらせて年寄りなんかが死んだとしたら、「こんな製品は流通させるべきではなかった」と会社を提訴することもできることにもなりかねない。森●キャラメルを喉につまらせてもしかりだ。

こうした危険性を回避し、商品を流通させようとすれば、例えば食料品ならば、すべての人間が、どのような状況でも危険なく食することのできるものを造るしかないが、そんな万能商品てあり得るのだろうか? キャラメルを例にとっても、あらゆる条件の人間が口にしても喉に詰まらないキャラメルって、米粒だい? それとも諸年齢、諸条件に対応させて、多様なサイズのキャラメルをつくる? それとも喉つまりしないように液状化? 液状化でもおかしなとこりに入ってしまえば、それが原因で・・・って危険性は残る。それとも商品としてのキャラメルというものを社会から消し去る?

ありとあらゆる危険性に取り囲まれている、というのが我々が生きる社会の現実なのだ。そしてすべての危険性を取り除くことは不可能なのだ。可能な限りの危険性を取り除こうとする努力は重要だが、それがすべての危険性の排除を保証するものではないことも現実だ。安全性をめぐる責任追及もその点をのみこんだものでなければなるまい。さもなくば、我々の生活や社会は機能不全に陥るだけだ。

私からしてみると、こんにゃくゼリー事故の問題は、製品そのものあるよりも、それを食した側、食させた側にあるのではないだろうか? この両親の場合は施設に預けてあった子供がそこで出されたゼリーで死亡したというケース。であるならば、問われるべき責任は施設側の安全管理責任ではないのか?

我が子を亡くした悲憤をどこかにぶつけたい気もちがわからぬでもないが、あっちもこっちも蹴り飛ばすというのは関心しない。それをしても亡くなった子供は帰ってはこない。かりに訴訟に勝ったとして、両親のもとに残るのはいくばくかの金と虚しさ、そして消えぬ寂しさと悲しみに違いない。そして世の中がより窮屈でストレスフルなものになるだけだ。

このケースに限っては、訴訟などよしたがいい・・。
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くだらない、Jリーグの若手高級車自粛

2007年06月15日 | Weblog
川渕キャプテンも歳なのかね。説教臭くなったもんだな。

ま、いい歳こいてキャプテンてのも笑えるけどな。何で横文字? チェアマンだとか。そっちの方が、若いのが高級車乗るよりよっほど浮ついているよ。淫行しないだけはるかにましだけど、そのわけのわからん横文字、浮ついています。所詮日本のサッカーは外国のコピーでござい、みたいに聞こえるよ。

高級車乗るのやめたら、淫行なくなるって? 冗談だろww。ベンツやめてカローラにしたら、淫行やめますか? 性癖と車種関係なし!

私見らしいけど、まったくくだらないとしか言いようがない。年寄りがあまり出しゃばるもんじゃない。
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クズたち

2007年06月14日 | Weblog
民法772条:離婚後300日問題 「前夫の子でない」通達取り扱い101件
(毎日新聞)



これクズですか、女も相手の男も?
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田中真紀子の不埒

2007年06月12日 | Weblog
産経新聞で、真紀子氏が暴言。曰く、安倍ちゃんを総理として認めないと。
これ国会議員の発言としては、ドンデモ!だよ。安倍ちゃんが国会の場で、順法手続きを経て総理大臣に指名されたことは議論の余地なし。その国会に議席を置くものが、認めないだって?

理由に曰く、国民の審判を受けていない。この人、憲法読んだことあるんかい?と言いたくなる。国会議員でありながら、議員内閣制を理解していない?

すべて理解した上で言っているんだとしたら、破廉恥極まりない。

あるいは破廉恥招致で、世論を煽ろうとしているんだろうか?こういう政治家をデマゴーグという。民主政治をダメにする類だ。古代アテネに例をひくまでもなく。

田中真紀子、この憲政、民主政の獅子身中の虫は排除されねばならない。

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日本の教員は忙しい?

2007年06月09日 | Weblog
私は米国との比較でしか言えないのだが、確かに忙しいと思う。教科指導以外の仕事が多く、家庭や社会が教員や学校に要求するところの「教師としてすべきこと」が多い。

その一方で、教員の権威、学校の権威は決して高くはない。何かあれば、家庭の突きあげばかりかマスコミを通して社会的糾弾を受ける。学校側に落ち度があればそれも致し方なしだが、生徒が校外で不始末しでかした分まで責任を取れとメディアの力でもってやられたら教員にかかわらず一個人など一たまりもなく潰されてしまう。

読売新聞の報道によれば、日教組の調査は日本の教員の「忙しさ」を示している、という。

繰り返しになるが、私は米国との比較でしか言えないのだが、この調査結果、一定の正しさを持っているのであろう。

ただ、惜しむらくは調査主が日教組ということだ。世評決して芳しくない教組による調査結果とあっては、なかなか世間の関心を集めることもできまい。調査の思惑を勘ぐってしまいたくもなる。世間の信用を得られないのも日教組の自業自得、不徳の致すところだ。教組に入っている教員自身、教組なんてと思って入っている人は結構いる。教組の強い学校では入らないとイジメに遭うから仕方なしに入る場合もあるという。知人の教師は教組やめてから数年間、職場では村八分状態だったそうだ。もっとも、その人の場合、教員としてのかくたらう力と名声があったから、職場のイジメに潰されることは無かったが。

繰り返しになるが、日本の教員の勤務時間、米国の比ではない。家庭や世間が求めるものも比ではない。一旦何かあったときの攻撃も比ではない。権限、権威の無さも比ではない。教員は世間ずれしていないとよく言われるが、あの勤務体系では、世間と触れ合う暇もない。

ただ、一点米国の教員より良い点がある。給与である。米国の教員とは比較にならぬほど給与が良い。米国の教員は薄給なのだ。あの給与水準で良い人材が集まるわけもない。従って日本の教員の給与は高すぎるとは言わないし、いたずらに引き下げれば、人材確保が難しくなる。米国のようになる。米国の教師個々の学力、能力は決して高くはない。むしろ低いというべきかもしれない。より良い人材を求めても、今の待遇では無理な話だ。

教育改革と言うのなら、いたずらに教員・学校叩きをしないことだ。過度に教員・学校に求めないことだ。学校に求め過ぎる=家庭の責任放棄でもある。教員も生身の人間だ。確かに教育という職務、一般企業の営利活動と同列には論ずべきではあるまい。医者とは違う意味で人の命を預かる、人を育てる仕事だ。そこにある種「聖職」的なイメージが生まれても決しておかしなことではあるまい。ただ、教員は神ではない。教員も我々と同じく悩み、過つ。家庭を持てば、我々と同じく家族と交わる時間も必要だ。教員になった以上、自己犠牲は当然、家庭も顧みるな、などと期待してはいけない。それは教員に対する人権、人格否定だ。

おかしな教員も多い。学級王国よろしく好き勝手を学内でほざく教員。生徒の人権、人格無視の教員。どう見ても人格欠損か、ビョーキの教員。

日教組は解体されねばなるまい。教員が自らの権利の保障を求めることは悪いことではないし、組合を組織することそのものを否定してはなるまい。教員も労働者である事実は否定できないのだ。ただし、組合が政治組織化、イデオロギー集団化することはあってはなるまい。それゆえに、そうなってしまった日教組は打倒されねばなるまい。

教員が自らの社会的地位の向上と待遇の改善を望むのであれば、教員の側からなすべきこともある。まずは日教組並びに全教を自ら否定し、解体せよ。

教員は過重負担に苦しんでいる。私も学校に通う子の親として、教師が肉体と精神を病むことなど望むはずもない。さもなくば、問題は我が子に降りかかってくることになるかもしれないのだ。我が子を思うなら、我々親は教員を思わねばならない。学校現場を思わねばならない。批判し、突きあげたところで、現場は行き場を見失い、今以上に混迷し、疲弊し、病むだけだ。学校は批評批判の対象である以前に、社会や家庭の支援の対象であるべきなのだ。

そうした観点からの教育改革の声もあるべきではと思う。

というと、大方、学校・教員に甘いとさんざんに批判されるのが常なのだが・・。
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折口さん

2007年06月09日 | Weblog
往生際悪いね。

あの人の歩んできた人生振り返って、正直、ロクな人間ではないと思う。
商売の手腕と能力はすごいのだろう。さもなくば、40代半ばであそこまではなれまい。ただ、節操のない人生というか、何か悪い意味での成り上がりのがむしゃらさみたいなものを感じてしまうは私だけだろうか。成り上がりがいけないとは決して言うまいが、手段を選ばずみたいなところが見え見えでね、折口さんの場合。終戦後のどさくさの時分ならそれもまかり通ったのだろうけど、今の世の中そうはいかない。折口さん、あなた生まれてくる時代を間違えたよ。

何か筋目ってものがない、あの人の生き様。防衛大学校出て任官拒否して、民間企業(日商岩井)へ。任官拒否は犯罪ではない。でも、どうなのかねえ・・。そしてあの「悪名高き」ジュリアナ東京。そして、介護ビジネス。介護を食いものにしようというつもりは無かった? そりゃ、あなたの今までの生き様見て、その言葉信じる人はそうはいないよ。

ぜーんぶ、自業自得だよ、折口さん。この際、潔い引き際を選択した方が賢明ですよ、折口さん。まだ、45だ(もうすぐ46か?)。これからやり直しても、何とか浮かむ世もあるだろう。

でも、今までと同じ心根で生きていくんだったら、あなたまた同じ過ち犯すよ。そのときゃあ、もう人生ジ・エンドだ。

とにかく、潔く介護事業からは身を引くことだね。あなたじゃなくても、介護事業やれる人材はいるのだから。

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李登輝前総統の靖国訪問

2007年06月08日 | Weblog
北京政府、静かですね。

まあ、当然の対応と言えばそれまで。向こうは決して馬鹿ではない。
それくらいの計算はできるはずだ。もっとも、国内世論というものを意識せずばなりまいし、胡錦涛政権も中共内部の権力構造にも配慮せねばなるまいが、過剰に反応すれば、かえって、日本からの反発を招き、対日関係に影響を与えかねる。さしずめ所謂「微笑外交」に損になることはすまい、というのが算段だろう。

もっとも、この「微笑外交」、対日戦略ではなく戦術にしか過ぎない。戦略は微動だにしていない。このような小手先の戦術変化に、それこそ過剰反応は禁物だ、わ我々日本人。基本は何も変わっちゃいない、この認識が大事。そして、おそらく今後も変わらないだろう。その不変の戦略のためには、戦術は変わるかもしれない。例えば、再来年米国に新政権が誕生する。新政権のいかんによっては、「微笑」を容易に「強面」に変えてくる可能性だってないわけではあるまい。

小手先の戦術に惑わされると、田中角栄はじめ対中政策でしくじりを演じてきた過去の政治指導者のようなバカをすることになる。

今回の李前総統の靖国参拝に対する静けさも、これを対日関係重視ゆえ、などとことさらなことととらえる必要などいささかも無い。
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赤城新農水相

2007年06月07日 | Weblog
ファッションセンスなさ過ぎでは?

TVに映っていたと紺地(?)にストライプのジャケットといい、もう少し何とかならないかい?誰か、コーディネイトしてあげたら?

ファッションセンス=政治センスとは言わないけれど、まだお若いのに、あのご趣味にはまいったね。
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李登輝来日

2007年06月06日 | Weblog
現在ただ今、前台湾総統の李登輝氏が来日中だ。

今回の氏の来日をめぐる、我が国政府の対応を私は評価したい。というか、これが当たり前の対応というべきであろう。つまり当然のことをしたという意味で評価されるべきというのであり、以前のすったもんだこそ批判されてしかるべき対応だったのだ。

北京政府が比較的に静かだったのも、対日関係を意識してのことと思われる。

ただ、伝聞によれば、李氏の訪問先の氏への対応、接遇の在り方はまちまちだとか。歓待、厚遇するところもあれば、あえて特別扱いせず的な対応のところも。中には、大陸に気遣いしたかどうかはいざ知らず、ずい分にそっけなく、おおよそ要人に相対するには非礼とも取られかねないような対応をしたところもあったとか。どことは具体的にはあえてここでは言及すまいが。

そういえば、数年前には、都内の某有名私大の文化祭で李氏の後援会を企画したところ、外務省やら同大の中国研究担当教員などからの横やりが入り、おじゃんになったとか。「独立自尊」を説いたその大学の創設者ありせば、大いに悲憤慷慨したか、筆を極めてその行為を非難したに違いないが、李氏来日をめぐっては、そういうこともあった。

東北を巡った後、李氏は東京に戻る予定だという。日本での滞在を是非満喫されんことを。

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