昨今、「他者への想像力の欠如」が指摘されている。
その最たる例がいじめだ。いじめられた者の気持ちを慮れば、そんなことができないものはずだ。にもかかわらずそれが発生し続ける背景には、他人の立場や気持ちに思いをはせる「想像力」が欠如しているからだ。
いじめ同様、年金問題における社保庁の引き起こした不手際も、制度上の問題、事務手続き上の過失というのは表面的な問題に過ぎず、その根底には、年金を老後の生活の恃みとしている人々がいろという現実と、そうした人たちへの同情なり理解が欠如しているという問題があるのではないのか。
北海道北見の水道局員が断水中にもかかわらずサッカー大会に出場したというのもそうだ。断水による生活の困難や、それにともなう精神的な苦痛というものに思いを遣ることができれば、サッカーなどできようはずもあるまい。
そういえばJR西日本福知山線の事故の際にも、JR職員の似たような問題が明るみに出た。
ミートホープの問題もまたしかり。騙されて牛肉ではない商品を口にする、劣悪な材料を使った食品を口にする消費者の気持ちを慮れば、そのようなことができようはずもない。儲け、コストの問題はある。商売というのは、どんなきれいごとを言っても所詮「騙し」、「誤魔化し」の部分はある。企業や商売人が「社会のために」などといっても、それは企業の一義的な存在理由ではない。商売をする一義的な目的でもない。そもそも、公共のためというのであれば、商売というかたちをとる必要などないのだ。かつて(今でもいるのか?)、「多国籍企業は国家にとってかわる」などとまことしやかに主張する面々もいたが(例えば某有名私大ビジネススクールのO先生とか)、多国籍だろうがどっぷりドメスティックだろうが、企業が国家に代われないのは、私企業が私益の追求をその最大の存在理由とするところにある。付け加えるならば、911以降の世界情勢に対してもまた、多国籍企業が現在国家がそれに対応して完璧ではないにせよ果たしている(あるいは果たそうとしている)役割を担う能力もなければそれを代替する意思もないことを如実に示しているのではないだろうか。むしろ、テロなどという行為に対して、そのターゲットになりかねない多国籍企業は、むしろ自らの安全のために国家という存在に依存せざるをえない、というのが現状ではないのか。話が逸れた・・。
行政・公務員の不手際、対応の不十分、企業の消費者無視の不正行為。何も最近になって始まった問題ではない。最近になって注目を集めるのは、その数が増えているからではなく、むしろそれだけ隠蔽することのできない社会になっているといううことだ。マスコミのセンセーショナルな報道振りは”大”問題だが、社会がより透明性を増しているという点では、好ましいことなのかもしれない。
ただ、身近にある問題や我々日本人の「他者への無関心」という問題ともあわせて考えると、これは所謂「忠恕」というものが今の我々には欠けているのではないかと思うのだ。
「忠恕」とは、平たく言えば、誠意と思いやりの気持ちを言う。それが十分に我々の心のうちにあれば、上述のようなことはできまい。他人を思いやる気持ちがあれば、他者に無関心ではいられまい。忠といえば、忠義の忠、忠誠の忠でもあるが、その部分の意味合いも含めて、忠恕の欠如、何とかせねば、美しい国もあったもんじゃないかと・・・。
その最たる例がいじめだ。いじめられた者の気持ちを慮れば、そんなことができないものはずだ。にもかかわらずそれが発生し続ける背景には、他人の立場や気持ちに思いをはせる「想像力」が欠如しているからだ。
いじめ同様、年金問題における社保庁の引き起こした不手際も、制度上の問題、事務手続き上の過失というのは表面的な問題に過ぎず、その根底には、年金を老後の生活の恃みとしている人々がいろという現実と、そうした人たちへの同情なり理解が欠如しているという問題があるのではないのか。
北海道北見の水道局員が断水中にもかかわらずサッカー大会に出場したというのもそうだ。断水による生活の困難や、それにともなう精神的な苦痛というものに思いを遣ることができれば、サッカーなどできようはずもあるまい。
そういえばJR西日本福知山線の事故の際にも、JR職員の似たような問題が明るみに出た。
ミートホープの問題もまたしかり。騙されて牛肉ではない商品を口にする、劣悪な材料を使った食品を口にする消費者の気持ちを慮れば、そのようなことができようはずもない。儲け、コストの問題はある。商売というのは、どんなきれいごとを言っても所詮「騙し」、「誤魔化し」の部分はある。企業や商売人が「社会のために」などといっても、それは企業の一義的な存在理由ではない。商売をする一義的な目的でもない。そもそも、公共のためというのであれば、商売というかたちをとる必要などないのだ。かつて(今でもいるのか?)、「多国籍企業は国家にとってかわる」などとまことしやかに主張する面々もいたが(例えば某有名私大ビジネススクールのO先生とか)、多国籍だろうがどっぷりドメスティックだろうが、企業が国家に代われないのは、私企業が私益の追求をその最大の存在理由とするところにある。付け加えるならば、911以降の世界情勢に対してもまた、多国籍企業が現在国家がそれに対応して完璧ではないにせよ果たしている(あるいは果たそうとしている)役割を担う能力もなければそれを代替する意思もないことを如実に示しているのではないだろうか。むしろ、テロなどという行為に対して、そのターゲットになりかねない多国籍企業は、むしろ自らの安全のために国家という存在に依存せざるをえない、というのが現状ではないのか。話が逸れた・・。
行政・公務員の不手際、対応の不十分、企業の消費者無視の不正行為。何も最近になって始まった問題ではない。最近になって注目を集めるのは、その数が増えているからではなく、むしろそれだけ隠蔽することのできない社会になっているといううことだ。マスコミのセンセーショナルな報道振りは”大”問題だが、社会がより透明性を増しているという点では、好ましいことなのかもしれない。
ただ、身近にある問題や我々日本人の「他者への無関心」という問題ともあわせて考えると、これは所謂「忠恕」というものが今の我々には欠けているのではないかと思うのだ。
「忠恕」とは、平たく言えば、誠意と思いやりの気持ちを言う。それが十分に我々の心のうちにあれば、上述のようなことはできまい。他人を思いやる気持ちがあれば、他者に無関心ではいられまい。忠といえば、忠義の忠、忠誠の忠でもあるが、その部分の意味合いも含めて、忠恕の欠如、何とかせねば、美しい国もあったもんじゃないかと・・・。