サンデル・ブームの所産なんだろうけど、まあ、あのような形式の授業が「大学の授業のお手本」みたいな見方をされるようになると、大方の大学関係者は辛いと思う。それに、現実問題として、あのような形式が米国の大学における一般的な講義の形式だと誤解されてしまっているのであれば、それもまた大学関係者には不幸なことである。
そもそも、サンデルが教えているのはハーバードである。そこらあたりの州立や私立大学ではない。他の優良校にもいえることだが、ハーバードという学校は大学院から入るよりも学部で入る方がはるかに大変なのだ。その意味で、地頭の良さは大学院よりも学部を見た方が、米国の場合は良いのかもしれない。まあ、米国に限ったことでは全然ないのだが、それほど大学院の入学資格というのは、不透明な部分があるとも言えるのだが・・。だから、ある特殊な事情でハーバード院卒なんてのもあり得るのだ。 サンデル教授の授業は学部生を対象としたものと思われるので、あそこに集まるおそらく1000人は超えていると思われる学生は、皆全米のみならず海外から集まった最優秀な学生たちであると考えて間違いあるまい。そうした学生たちを相手にした授業形式が、そのまま他の大学の他の学生にも適応できるかというと、なかなかそうはいくまい。
ならば学生のレベルに合わせた討論中心の授業というものもあっても良いのではないか。確かにその通りだ。レベルがハーバードに及ばないからと言って討論形式は不可とは決して思わない。だが、サンデル氏の授業ほど討論が「白熱」するかと言えば、そうはいくまい。「白熱」したとしても、それをある程度の水準まで引き上げることの難しさは、明治大学のケースを見ても察することが可能なのではないだろうか。
それに忘れてはならないことがある。サンデルという学者ゆえというだけではなく、討論形式(加えて巧みな授業運び)というのも氏の授業の人気の理由であるようだが、ならばすべての授業が同じ形式で行われるべきかと言えば、決してそうではあるまい。いや、絶対にそうではないはずだ。 おもしろかろうがなかろうが一方通行的な講義を中心とした形式の授業が必要な場合、むしろそうあるべきというケースもあるはずだ。 アメリカでもそして最近では日本でも講義中心の授業に対する否定的な見方があるが、それは受動的な且記憶することを前提とした知の蓄積作業というものをいささいか過度に軽視し過ぎているのではないだろうか。繰り返すが、ハーバードの学生ならば、サンデル氏があの授業で課している書籍を既に読んだことがあるか、かりにそうではなくとも読みこなすことが可能であろうし、皆が皆ではあるまいが読み終えたか目を通したうえで討論に臨んでいるはずである。もちろんそれは、授業中に文献購読よろしく教師の指導のもと読み進めていくのではなく、自習行為としてである。同じことを東大生ならいざ知らず、我が国のそれ以下に課したとしたら、一体どれだけの学生がついてこれるだろうか。一体どれほどのの学生が授業に備えてあらかじめ読み終えてくるだろうか。いやそれ以前に一体どれほどの学生があれらの著書の内容を理解できるというのだろうか。それがかりに日本語訳であっても。最近は、新書レベルでも理解の覚束ない大学生が存在すると聞く。新書の存在は日本人の知的水準の決して低からぬことの証左であるが、それを読みこなせないまたは読まない人口が増えているということは、まさに日本人の劣化の査証に他ならない。そのような状況で、サンデル形式の授業。へそで茶がわくとはこのことである。
もっとも、かのハーバードをはじめとするアイビーリーグでも既に90年代から、学生の実学偏重傾向がみられ、同時にそれまでのエリート大学生なら兼ね備えていて当然と思われていた基礎知識、基礎教養を欠いた学生や、マネーに直結しない非実学系の科目に対する関心の低い学生が目立つようになってきたという指摘が存在するところをみると、大学生の知的劣化というのは日本に限った話ではないのかもしれない。
無知な者には知識の詰め込みが必要なのである。討論形式はそ蓄積作業という点で、並や並以下の学生相手では危ういところがある。ましてや課題書籍を読みこなすことすらできない学生であれば、教え込むという作業は不可欠であるまいか。
討論形式はオモシロイ。講義形式はつまらない。確かにその傾向は一般的にあると思う。だが、大学は遊園地ではない。学問をするということはオモシロイことばかりではない。学者や研究者がいうオモシロイと、学生が求めるオモシロイはそもそも違うのだ。更に同じ学生同士でも、おそらくハーバードの学生のおもしろいと、そんじょそこらの学生のおもしろいは決して同一ではなかろう。オモシロイか否か、これが大学の授業の評価基準にされてしまっては、大学の先生方もつらいのではないだろうか。
この「オモシロイ」という一つの価値基準。これは大学以外の授業にも適応される傾向があるように思うが、知的好奇心の低い人間にオモシロイと思わせるというのは、なかなか至難の業であろうし、下手をすれば、ミイラ取りが・・・ということになり、授業の質をひどく損なうことにもなりかねない。
まあ、ああした授業があっても良いとは思うが、あれだけで大学がやっていけるかといえば、私的には答えは「NO」であると思うのだ。
それに、サンデル教授の授業を見て気付いた人が必ずいると思うのだが、あの授業にハーバードの抱える問題点の一つがある。それは学生数の多さである。米国の大学評価基準の一つに教員一人に対する学生数というものがある。それに照らせば、あの授業はトンデモナイ授業ということになる。あの類のマスプロ教育は、日本だけの十八番ではなく、ハーバードにも見られるのだ、実際に。そしてその他の有名校においても。外部団体の評価においても、確かハーバードのマスプロ化は、ブラックリストに載せられているはずである。
あの人数はサンデル人気を如実に示しているが、本来討論形式の授業は、少人数で行うべきものである。さもなければ、学生個々への指導等できるはずもない。
が、そのマスプロ傾向は、我が国の「白熱教室」にも見られる。まあ、少人数でやって討論が途切れたなんてことがあれば番組が成り立たないからかもしれないが、あの人数で教員が学生と密にコミュニケ―ションを取ることは難しく、大学に限らず教育環境としては決して好ましいものではあるまい。
まあ、いまだに小中学校の一クラス40人、減らして30人台なんてことが当たり前の我が国の学生たちからしてみれば、また大学入学までにすっかり一方通行授業に慣らされ逆に討論形式に参加しても「うん」とも「すん」とも言わない(言えない)学生たちにとってみれば、大人数は気にならないのかもしれないし、むしろ喋らされなくてすむ分、気楽なのかもしれない。
少なくとも、サンデル法式の授業を賞賛するのであれば、その前に小中高校での授業のあり方を考え直すべきであろう。サンデル氏の授業に参加する学生の多くは既に討論、発表というものに慣らされたうえで参加していることを忘れてはなるまい。
加えて、記憶・暗記を否定的にみる現今の風潮も、改めてもらいたいものである。これは、「ゆとり」で昔よりも記憶、暗記を要求されなくなった最近の若い人たちの者覚えの悪さが職場で気になっている私の切なる願いである。ハーバードに来る学生の相当数が過ごしてきた私立の学校は、結構詰め込み教育なんですよ。米国は詰め込み教育をしない? そういう一般認識はあるとすれば、それは必ずしも正しくはない。確かに、記憶・暗記を日本ほど重視しない傾向にはあるが、それゆえにものを多く覚えられない、おぼえ方を知らない学生も多い。だが、大学以前からエリートという連中、特にその中でも富裕層出身の学生はそうではない。なぜなら、彼らの出身校は一般公立校等足元にも及ばないレベルの量と質を学生に課すからである。優秀ならば、詰め込んでやればいいじゃないですか? もっとも、優秀な学生は詰め込まれなくとも自分から詰め込んでいくでしょうけれども。