不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

頂戴したコメントへの返答として: 私の娘が橋下府知事夫人だったら、

2011年10月30日 | Weblog

まずは私の結婚に対する従来からのスタンスです。

もし相手が「被差別」の立場にある家系につながっていたり、前科者を身近にもつ家系のものであれば、絶対に結婚はしません。交友関係は別です。でも、そうした女性と「血」の交わりをもって、我が家に導きいれることはないと思います。

「血脈」という本人にはいかんともし難いものを理由に排除することに対して理不尽だとの批判があることは十分承知しています。

でも、見方を変えれば、いかんともし難いものだから、一度混ざってしまえば排除できないものだからこそ、関わりたくはないのです。万が一関わったことによって、親兄弟、親せき、そして我が子に及ぼすかもしれない影響と結果に対して、私は責任を負いかねます。

いわれなき差別といいます。さかのぼってそもそも「いわれなき」ものだったのかもしれませんが、今現在、その被差別の立場の方々、すべてとはいいませんが、どのように振舞っておられますか? 今警察や対策にやっきになっているという諸団体の構成員のどんなけかは・・って話もあります。事実かどうかは知りませんが、君子危うきに近寄らず。決してお近づきにはなりたくないですね、少なくとも家族、親せきとしては。

橋下氏の奥様、どういう出自の方かは存じませんし、御実家やご親族の方々がどう思っていらっしゃるかは存じませんが、もし我が娘が同じ選択をしようとするのであれば、声を大にして反対するか、「勘当」します。浅はかだと思うのです。己の選択が招来するかもしれない様々な事情に対して、上述の繰り返しになりますが、責任を負えるのでしょうか。今現在、あんな報道がされて、御親族の方々のなかに迷惑を感じておられる方がいないと良いのですが。 お子さん方は学校で、大丈夫なんでしょうか。まあ、関西地域はその方面の教育はしっかりされているとか。でも、それゆえにイジメ等が水面下にもぐるってことないんでしょうか。

差別が嫌で被差別の立場の人たちを避けるなんて姿勢がそもそもおかしい! 差別と戦わなければならない!その点について、あえて私は平和主義を採らせていただきます(笑い)。

率直にいって、橋下夫人の人生の選択は短慮だったのかもしれません。ご自分のお気持ちに素直に生きられた結果が橋下氏との結婚だったのかもしれませんが、人は一人ではありません。

六段目の勘平の「色に耽ったばっかりに・・」ではないですが、多分に結婚のきっかえとなる恋愛は「色ごと」と不可分です。一度男女の関わりをもってしまったばっかりに・・・、なんてことになって、後々苦労を背負いこみ、我が子には重荷を背負わせ、家族親戚には後ろめたい思いをし・・・。しかも取り返しがつかない。輸血すればどうかなるというものでもない。

そんなんだから何時まで経っても差別がなくならない? そうかもしれません。でも、私は差別をなくすことよりも、先祖から受け継いだ血脈と我が子の将来の方が数十倍、数百倍大事です。「家系」を守り受けつぎ、伝えていくことで、社会そして国家にお役に立てると思っています。

乱暴な言い方をすれば、それに比べたら、反差別は優先順位低いです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やり方がせこくない?: 日本ハムの菅野サプライズ一位指名 

2011年10月29日 | Weblog

それがドラフトというもの。

それが勝ち負けがすべての(って、落合監督解任劇をみるとそうでもないのか?)プロ野球の世界なのだから仕方がない。

そりゃ、わかりますけど、今までにもドラフトで20歳前後の「男の子」たちが、大人たちの都合にまるでセリにかけられた牛や馬みたいに翻弄されるさまを見てきたわけです。

かつては、清原・桑田の一件だとか。

まあそれに抗って荒業使って批判された人もいました。

浪人して夢をかなえた人もいました。

清原は「大人たちの都合」でできた制度に身をゆだね、一花咲かせはしたものの、後には恋い焦がれた球団に移籍。選手生活を振り返れば、期待されたほどの「大選手」にはなれず。

今回の菅野の一件、ドラフトという制度が存在し、それが我が国の法体系のもとで合法なものとして認知されている以上、その結果は受け入れなければならないし、日ハムになんら制度上批判されるべき点はないことは、理屈として百も承知している。

でも、何というか・・・、個人的には感情的に受け入れ難いものがあると言わざるを得ない。ただ、このしっくりこない感情を何と表現したら良いものやら・・・。 球団側いわく今年の初めから狙っていたとのことだが、本人にが巨人入りを熱望していることを当然知っていたのであれば、なおのこと、正面切って事前に「あいさつ」をすべきだったのでないのか。 その点の「まずさ」を球団側も認識していたことは、大学側に詫びを入れたことに示されている。

球団側の言い分としては「戦略」であり、それ自体何ら問題はない。しかも繰り返しになるが制度上も問題はない。だが、あえて言えば「せこいやり方だなあ・・」と。指名予定選手への事前意思表示、挨拶は制度ではない。まあある種の慣例のようなものだ。だが、例えば国際社会において国際・外交慣例が国際法の一部とみなされ、それ反する行為に出た場合、国際的非難や対外関係の悪化という事態に直面することは止むを得ない。それと同じように、慣例にそぐわぬ行動をとれば、それが制度上問題のないものでも道義的な点からなど批判や反発を受けても仕方があるまい。

それほど欲しい選手であれば、なぜ正面切って仁義を切らなかったのかとすら思う。

そうだ、義理にもとるのではないか? この思いが私の中でしっくりいかない理由なのだ。

制度、規約という範疇のなかにおいて、プロ野球の世界は「仁義なき戦い」の世界なのだろう。 「仁義」がなければ、義理もへったくれもない世界なのかもしfっれない。相手選手を「ささやき」で凡打や三振、見逃がしに誘い込んだ「せこい」マネをした捕手もかつていた。まさに「仁義なき」であるが、彼は実力もあって球史に残る名選手の一人に数えられている。

そんな世界なのだし、所詮、菅野もそんな世界に身を置くことを決めているのであれば、まさか日ハムの行為を遺恨に思うはずもあるまい。

でもなあ、日ハムには正面切って、猫だましみたいなやり方ではない方法で、菅野捕りに挑んで欲しかったものである。

それにこれは純粋な感情論として、特に菅野の親の立場に感情移入してしまうのだが、あれだけ本人が巨人入りを熱望し、球団との相思相愛の関係にも関わらず、あえて生木を割くように間に割って入る。しかも、何の前触れもなく・・。こんなやり方で和我が子、我が孫の人生が決定されてしまうと考えると、子を持つ立場としては、正直たまらない気持ちになるのはよくわかります。

菅野君、今時の22歳?なんてまだほんの「お子ちゃま」だ。でも、自分の人生だから最終決断は自分でしなさい。日ハムでやっていくというのであれば、きっとおじさんの原監督も応援してくれるでしょう、身内として。どうしても納得できなのなら別に指名を受け入れる必要はないのだよ。それも制度上非難されるべきことではないのだから。世間やマスコミの目というのは、こちらが考える以上の重圧なんだろうけど、そんなものプロになった後の結果ではねのけてしまえばいい。

でも、赤の他人ながら子を持つ立場としてあえて一言いうならば、「仁義」もロクに切れない連中が仕切る球団に、私は少なからぬ不信感を抱きます。そんな球団に大事な大事な我が子のこれからの人生をゆだねてしまって良いのだろうかと。アカの他人に我が子を物や動物のようにもてあそばれては、親としてはたまったものではありませんので。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橋下徹の出自: なぜ今なのか?

2011年10月27日 | Weblog

「新潮45」に続き「文春」と「新潮」までもが、橋下大阪府知事の出自問題を取り上げ出したが、なぜ今更騒ぎだしたのか?

橋下氏の出自のついては既に府知事になった頃から、あれこれネット上などにおいて取り沙汰されてきたはずで、既成マスコミもそのことを知らなかったはずはあるまい。 の血の者だ、ヤクザの息子だと騒ぐのであれば、それは彼らが「社会の公器」としての立場をかなぐり捨てたことを意味しなくもない。なぜなら、私個人はそこに社会の現実との乖離が厳然と存在していると認識しているのであるが、憲法上に出自等での差別を戒めている以上、「公器」の立場から公人とはいえ一個人の家系や家柄をとやかくすることは、今まで「なんたらの自由」とやらをさんざん謳歌してきたマスコミの連中の露骨な憲法への「反逆」に他ならず、非社会集団化したことを意味すると解さざるを得まい。

もっとも、出自をとやかくされたのは橋下氏に限った話ではなく、「有名税」の一種だと言ってしまえばそれまでだが、やはり内容が内容だけに、そして時期が時期だけに、「いつもながらの」で済むものでもあるまい。

穿った見方といわれればそれまでだが、私としてはやはり「裏」の事情があるのではとの疑念を持たざるを得ない。

至極単純に考えるならば、「橋下潰し」を狙ったものではと疑いたくなる。さもなければ、従兄が殺人犯だのどうのとまで書き立てる様は、ましてや選挙というものを前にしてのこのタイミングだけに、異様に感じられてしかたがない。

一体、何があるというのか。どこかで、橋下を潰したいという思惑が存在し、マスコミの一部が呼応しているということなのか。平たく考えれば、利害の一致があるから呼応しているに違いなにはずだ。

橋下氏はさておき、私としては、7人?だかの子供たちが気の毒で仕方がない。親や先祖の業から子孫が逃れきれるわけではないのは我が国に限ったことではなく、これぞ親の因果が子の因果であるが、「アイツのおっちゃん人殺しやてー!」などと騒ぎたてられた日には、大人ですら精神的に耐えることは容易ではあるまい。 奥方のご親族も決して無事ではあるまい。

子が親の因果を背負うことは致し方のないことだ。それが人間社会の現実であり、この現実の前に憲法なぞ無力なものである。

が、マスコミがことさらそれを騒ぎ立てるのはいかがなものだろうか。自分たちも親や子を持つ身であれば、いくばくなりとも橋下氏の子供たちに思いを巡らしたらいかがか。いささか、やることはえげつなさ過ぎるというか、人でなしに過ぎるのではないだろうか。

因果応報、己の今の行動がいずれ我が子、我が孫に降りかかるであろうことを少しは畏れたらどうなのか?

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHK「白熱教室」を見ていて思うこと

2011年10月26日 | Weblog

サンデル・ブームの所産なんだろうけど、まあ、あのような形式の授業が「大学の授業のお手本」みたいな見方をされるようになると、大方の大学関係者は辛いと思う。それに、現実問題として、あのような形式が米国の大学における一般的な講義の形式だと誤解されてしまっているのであれば、それもまた大学関係者には不幸なことである。

そもそも、サンデルが教えているのはハーバードである。そこらあたりの州立や私立大学ではない。他の優良校にもいえることだが、ハーバードという学校は大学院から入るよりも学部で入る方がはるかに大変なのだ。その意味で、地頭の良さは大学院よりも学部を見た方が、米国の場合は良いのかもしれない。まあ、米国に限ったことでは全然ないのだが、それほど大学院の入学資格というのは、不透明な部分があるとも言えるのだが・・。だから、ある特殊な事情でハーバード院卒なんてのもあり得るのだ。 サンデル教授の授業は学部生を対象としたものと思われるので、あそこに集まるおそらく1000人は超えていると思われる学生は、皆全米のみならず海外から集まった最優秀な学生たちであると考えて間違いあるまい。そうした学生たちを相手にした授業形式が、そのまま他の大学の他の学生にも適応できるかというと、なかなかそうはいくまい。

ならば学生のレベルに合わせた討論中心の授業というものもあっても良いのではないか。確かにその通りだ。レベルがハーバードに及ばないからと言って討論形式は不可とは決して思わない。だが、サンデル氏の授業ほど討論が「白熱」するかと言えば、そうはいくまい。「白熱」したとしても、それをある程度の水準まで引き上げることの難しさは、明治大学のケースを見ても察することが可能なのではないだろうか。

それに忘れてはならないことがある。サンデルという学者ゆえというだけではなく、討論形式(加えて巧みな授業運び)というのも氏の授業の人気の理由であるようだが、ならばすべての授業が同じ形式で行われるべきかと言えば、決してそうではあるまい。いや、絶対にそうではないはずだ。 おもしろかろうがなかろうが一方通行的な講義を中心とした形式の授業が必要な場合、むしろそうあるべきというケースもあるはずだ。 アメリカでもそして最近では日本でも講義中心の授業に対する否定的な見方があるが、それは受動的な且記憶することを前提とした知の蓄積作業というものをいささいか過度に軽視し過ぎているのではないだろうか。繰り返すが、ハーバードの学生ならば、サンデル氏があの授業で課している書籍を既に読んだことがあるか、かりにそうではなくとも読みこなすことが可能であろうし、皆が皆ではあるまいが読み終えたか目を通したうえで討論に臨んでいるはずである。もちろんそれは、授業中に文献購読よろしく教師の指導のもと読み進めていくのではなく、自習行為としてである。同じことを東大生ならいざ知らず、我が国のそれ以下に課したとしたら、一体どれだけの学生がついてこれるだろうか。一体どれほどのの学生が授業に備えてあらかじめ読み終えてくるだろうか。いやそれ以前に一体どれほどの学生があれらの著書の内容を理解できるというのだろうか。それがかりに日本語訳であっても。最近は、新書レベルでも理解の覚束ない大学生が存在すると聞く。新書の存在は日本人の知的水準の決して低からぬことの証左であるが、それを読みこなせないまたは読まない人口が増えているということは、まさに日本人の劣化の査証に他ならない。そのような状況で、サンデル形式の授業。へそで茶がわくとはこのことである。

もっとも、かのハーバードをはじめとするアイビーリーグでも既に90年代から、学生の実学偏重傾向がみられ、同時にそれまでのエリート大学生なら兼ね備えていて当然と思われていた基礎知識、基礎教養を欠いた学生や、マネーに直結しない非実学系の科目に対する関心の低い学生が目立つようになってきたという指摘が存在するところをみると、大学生の知的劣化というのは日本に限った話ではないのかもしれない。

無知な者には知識の詰め込みが必要なのである。討論形式はそ蓄積作業という点で、並や並以下の学生相手では危ういところがある。ましてや課題書籍を読みこなすことすらできない学生であれば、教え込むという作業は不可欠であるまいか。

討論形式はオモシロイ。講義形式はつまらない。確かにその傾向は一般的にあると思う。だが、大学は遊園地ではない。学問をするということはオモシロイことばかりではない。学者や研究者がいうオモシロイと、学生が求めるオモシロイはそもそも違うのだ。更に同じ学生同士でも、おそらくハーバードの学生のおもしろいと、そんじょそこらの学生のおもしろいは決して同一ではなかろう。オモシロイか否か、これが大学の授業の評価基準にされてしまっては、大学の先生方もつらいのではないだろうか。

この「オモシロイ」という一つの価値基準。これは大学以外の授業にも適応される傾向があるように思うが、知的好奇心の低い人間にオモシロイと思わせるというのは、なかなか至難の業であろうし、下手をすれば、ミイラ取りが・・・ということになり、授業の質をひどく損なうことにもなりかねない。

まあ、ああした授業があっても良いとは思うが、あれだけで大学がやっていけるかといえば、私的には答えは「NO」であると思うのだ。

それに、サンデル教授の授業を見て気付いた人が必ずいると思うのだが、あの授業にハーバードの抱える問題点の一つがある。それは学生数の多さである。米国の大学評価基準の一つに教員一人に対する学生数というものがある。それに照らせば、あの授業はトンデモナイ授業ということになる。あの類のマスプロ教育は、日本だけの十八番ではなく、ハーバードにも見られるのだ、実際に。そしてその他の有名校においても。外部団体の評価においても、確かハーバードのマスプロ化は、ブラックリストに載せられているはずである。

あの人数はサンデル人気を如実に示しているが、本来討論形式の授業は、少人数で行うべきものである。さもなければ、学生個々への指導等できるはずもない。

が、そのマスプロ傾向は、我が国の「白熱教室」にも見られる。まあ、少人数でやって討論が途切れたなんてことがあれば番組が成り立たないからかもしれないが、あの人数で教員が学生と密にコミュニケ―ションを取ることは難しく、大学に限らず教育環境としては決して好ましいものではあるまい。

まあ、いまだに小中学校の一クラス40人、減らして30人台なんてことが当たり前の我が国の学生たちからしてみれば、また大学入学までにすっかり一方通行授業に慣らされ逆に討論形式に参加しても「うん」とも「すん」とも言わない(言えない)学生たちにとってみれば、大人数は気にならないのかもしれないし、むしろ喋らされなくてすむ分、気楽なのかもしれない。

少なくとも、サンデル法式の授業を賞賛するのであれば、その前に小中高校での授業のあり方を考え直すべきであろう。サンデル氏の授業に参加する学生の多くは既に討論、発表というものに慣らされたうえで参加していることを忘れてはなるまい。

加えて、記憶・暗記を否定的にみる現今の風潮も、改めてもらいたいものである。これは、「ゆとり」で昔よりも記憶、暗記を要求されなくなった最近の若い人たちの者覚えの悪さが職場で気になっている私の切なる願いである。ハーバードに来る学生の相当数が過ごしてきた私立の学校は、結構詰め込み教育なんですよ。米国は詰め込み教育をしない? そういう一般認識はあるとすれば、それは必ずしも正しくはない。確かに、記憶・暗記を日本ほど重視しない傾向にはあるが、それゆえにものを多く覚えられない、おぼえ方を知らない学生も多い。だが、大学以前からエリートという連中、特にその中でも富裕層出身の学生はそうではない。なぜなら、彼らの出身校は一般公立校等足元にも及ばないレベルの量と質を学生に課すからである。優秀ならば、詰め込んでやればいいじゃないですか? もっとも、優秀な学生は詰め込まれなくとも自分から詰め込んでいくでしょうけれども。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今月の『新潮45』はオモシロイ その2: 石原慎太郎X福田和也の対談

2011年10月24日 | Weblog

やはり福田と言う人は、紙面でこそ面白い人だと思う。 映像メディアを通すとガッカリなのだが、活字になるとさすがである。ちなみに、映像だとダメというのは、氏の容貌がどうのこうのというわけではないことだけは断っておきたい。要は「華」がないのだ。それが活字になると・・。

氏の博覧強記ぶりにはかねがね我ながら羨望とも敬意ともつかぬ思いを抱いてきただけに、常に注目の一人である。

が、今回福田氏はさておき、オモシロイのは石原都知事閣下の語り口である。

この人はこういう物言いもするものなのだ・・という感慨を抱いた。それも否定的な意味ではなくまったく逆の意味において。

こういう人が現在ただ今日本の政界に存在することは、もしかしたら天に感謝すべきことなのかもしれないと思う。 いや、あとせめて10年若ければと思うのは強欲というもいのか。

マスコミは映像で伝える閣下とは随分趣を異にする印象を受けると思うので、今月の『新潮45』、是非読んでください!

ちなみに、私は新潮社に縁もゆかりもございません。

ところで閣下、閣下は厭世的だそうですが、それは失礼ながら老人特有の黄昏感情のんさせるわざ。私は我が国の行く末をまだまだ楽観視していますよ。もっとも、このままの営みで良い等とは思っていませんけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今月の『新潮45』はオモシロイ その1: 橋下徹特集

2011年10月24日 | Weblog

火ぶたが切って落とされた大阪市長選、予断を許さない。まあ、橋下の力押しに役者的に風采の上がらない現職が敗れるのかなあ・・というふうには見ているが、よくわからん。

折悪しくというかなんというべきか、明らかに時を見計らっての『新潮45』の橋下特集。

芸能人同様我が身を公に晒して飯を食う人間が、その「出自」を暴かれるというのは、もうこりゃ不可避というしかない。出自を明かす理由は何か、出自で支持・不支持を決めるのか、それでは憲法違反だと叫んだところで致し方ない。アメリカでもケネディー家があれこれ言われてきたのも、JFK一人に帰するわけではなく、まあ、JFKが出て脚光を浴びたには相違ないが、やはり知られている限りにおいて「成り上がり」集団である米国の中において、その系図をたどれば紋章を持つ家柄に繋がることにもあるのではないだろうか。人は否応なく「貴」を求める。同時に「貴」に敵意をむき出しにすることもあるが、イデオロギー的背景あないのであれば、求め崇める心と、恨む心は同根をなしている。だが、「貴」を求めると同時に、「賎」にも関心をもつ。もっとも、これを求めることはせず、むしろ排斥して己の存在確認をするのだ。

今回の橋下特集は後者に属する。真実であれば、橋下氏は決して公にはされたくはないであろう出自の人だ。それは以前からあちらこちらで語られてきたことであるが、ここまで網羅的なものははじめてではないのか。そうした世間的にはニ重の意味において「後ろ暗い」出自(+ヤクザ)を持つ橋下氏が、弁護士・タレントを経て大阪府知事にまで上り詰め、更にその先を目指そうというのである。まさに「時代の寵児」であり、そうであればこそ、彼の出自に人々の、特に地元の関心が集まるのも当然というものであろう。それが人の人情というものなのだ。確かに、橋下氏の夫人が夫の出自を承知したうえで夫婦になったか否かは知らぬし、夫人が知っていたとしてもその家族は知らされていなかったかもしれない。親を選べぬ子供たちはどうなるなどと思わなくもないが、やはり是非はさておき「知りたい」と思う欲求に人は抗えない。

世の中には今回の選挙が橋下氏の終わりの始まりだなどという見方もある。

私は、市長選挙の行方を占うだけの知識もないので何とも言えぬが、以前からここで述べているように橋下という人物は「トリックスター」だと見ている。そして、やがて必ず「落日」はやってくるはずである。 彼はおそらく「トリックスター」の殻を破ることはできずに、いずれ世の糾弾を受け世間の表舞台から姿を消すことになるであろう。

あまりにも、性急に身の程をわきまえず上を目指せばそうなるのは、何も橋下氏だけではあるまい。が、氏には常人よりも大きな障害があることが今回明らかになったわけだ。

かりに今回市長選に勝利したとしても、やはり、生まれもった宿命のくびきを逃れることはできまい、と氏にはおそらく不愉快極まりないであろうしまた理不尽な予想をあえてしてみるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西日本新聞: 政治すなわち「人が生きること」のリアリティーを理解しないオメデタイ人たち

2011年10月23日 | Weblog

「独裁者とはいえ、法の裁きを受けさせるのが筋だ」

だって・・・。

社会の成熟度、民度ってのもあるにはあるんだろうが、今のリビアの民衆に対してそれを言ったところで、聞く耳なんか持つものか。アムネスティーなんかもあれこれ言っているけど、リビアの現状において、そんな言葉は何ら意味を持たないし、力もない。

政治は理屈ではすすまない。合理的でないことも不条理も、理不尽もすべて呑み込だうえでチャンチャンで済ませるのが政治。

リビア民衆の、特にカダフィと戦ってきてやっといけどりにした連中の感情ってのを考えたら、まああの結末は当然というか仕方のないこと。

それを暴挙だ、人権に反するなんて非難したところで、リビアのエリートはさてろき民衆の耳にも心にも届きません。

そんな人間感情の錯綜、うねり、過激な形での発露もすべてこれ政治現象の一部であり、それが民衆が生きて行くうえで求めた結論。それがリビアの行く末にとってプラスかマイナスかなんて客観論的なことは民衆にとっては大した意味を持たない。特にあの場にいた兵士(民兵?)たちには。

そんなリビアの人々の今を生きる様、すなわちそれこそが政治過程の一部に他ならないのだけれど、それを理解せずにきれいごとのお題目を遠く離れた外の世界から唱えたって、オナニーほどの快感も得られませんよ。

こんな青臭ーい社説がいかに地方紙とはいえ紙面を飾るこの国、大震災くらいじゃあまだまだ足りないのかもなあ・・・。

神々よ、我が日の本にもっと不幸と災いと悲しみと苦しみを!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この馬鹿ラジオパーソナリティー誰?: 「毛沢東の最大の功績は日本との戦争での勝利なんです!

2011年10月23日 | Weblog

数日前の朝滅多に聞かないラジオを聞いていたら、AMラジオのパーソナリティー氏ののたまくこと、 上記のごとし。

それも声を張り上げんばかりに。

中共のプロパガンダそのままじゃないか、それじゃあ!

中共はあれこれ言うし、日本軍や日本軍占領地の周辺で八路軍なんかがあれこれやって悩ましたのは事実だが、大規模作戦で「負かす」なんてことはなく、しかも戦争末期に中共側のゲリラ戦術や破壊活動が頻発したのは、その背後に主戦場すなわち太平洋方面での日本軍の敗退により満州を含めた大陸での戦力強化どことか、維持が困難になっていたからに他ならない。

すなわち、米軍という他力本願に依存しての「勝利」という基本構造はかわりなし。それでも中共は勝利した!と声高に叫び、その役割、貢献度を強調するなら、国府だってそれなりに評価されるべきだろう。

それに、ウラで延安と日本軍が何やっていたか・・・、これ中国じゃあタブーだけど、これがあの国で公然と語られるようになったら、中共の権力の正当性(その源が抗日戦勝利)はガタ落ちになる。パーソナリティー氏はそんなことも知らないのだろうか?

それとも、もともと中共のシンパ?

あの声、聞いたことあるんだよなあ・・・。某有名俳優に似ていたような。あの人なら、そういうこと言いかねない。 昔から「左巻き」の片りんを見せていたし、公然とやんごとない方々への敬称使用を拒否しているからね。

この人だけじゃないけど、ラジオパーソナリティーって結構いい加減なことを言いたい放題行ってるいよなあ。その代表例があの「あさだあめ」のあごのしゃくれた爺さん。まあ、あの人はどうごまかしたって左巻きというか、本人もそれを隠すつもりもないんだろうけど。

地方新聞がどうのこうのという話は昔からあるけど、ラジオってのも、結構害毒を振りまいているように思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHK「白熱教室」ならぬ「低熱教室」: 明治大学小笠原泰教授の場合

2011年10月23日 | Weblog

大学レベルの授業ではない。

自身の経験論と学生の印象論からなる単なる与太話だ。 「白熱」もしていない。

自身の経験を拡大解釈し、日本人は、アングロサクソンは、欧米では、を繰り返すのみ。 いわゆる実証例は事実上不在。 あれを学問とは言わない。

例えば、欧米における「自己責任」。あれなんかは、一部正しい。 私もあえて経験論的に語れば、その通りだと思う経験や見聞はある。だが、これが欧米なのだ、それに対して日本はという単純二分法的な自他区分は、実に強引である。

いやいや、欧米人だってそこまで自己責任観念が徹底されているわけではない、なんてことはアメリカにおける「トンデモ」な訴訟を見れば明らかだし、それが勝訴とおいうかたちでまかり通るのが現実なのだ。

議論に末にしこりが残るか、残らないか。これについても、確かに日本のような後腐れの悪さ、後引きの悪いさということはない。但し、これも単純なある、ないの区分が当てはまるものではない。あえて欧米とはいわず、米国といっておくが、やはりその後の人間関係に影響を及ぼすような議論というものは現実問題としてある。議論の行く末に自分の立場や面子、利害がかかわれば、尚更のことだ。

そこらあたりは、皆スルーで、ほとんど例証なしに進められていく「白熱教室」。 どこぞのカルチャースクールか、公開講座でやってくださいというレベルである。

しかもあの学生とのやりとりの進め方。一件、学生の発言を喚起しているように見せかけて、実はイエスマンの役割を求めるのみ。 まれに(一人だけだったか?)小笠原氏の「論法」に矛盾するようなことを発言した学生もいたが、その論法は苦しいの一言でオシマイ、次に行ってしまった。 まあ、ある種いかにもビジネスの世界に身を置いてきた商売人的「見せ方」のうまさである。

学生もショボ過ぎる。明大の学生というのは、やはりあのレベルなのか。以前名古屋大での「白熱教室」に比べると・・・。 いや、そもそも比べること自体明大生にはコクというものか? 前者はいくら最近受験生に人気があっても所詮「ニ流大学」。かたや地方大とはいえ旧帝大である。学生の「賢さ」という点で後者に軍配が上がるのは当然かもしれない。

まあ、広島大学の場合も、「地方大学ってこんなもんか?」 レベルだった。まあ、広島なんて場所で原爆がどうのこうのなんてやれば、端から議論の方向性は想定され得るわけだし、事実その範囲内での議論にしかならず、やはり「白熱」しなかったのだが、明治の学生もこれはって思う学生はいなかった。一人帰国子女と思われる積極的な女子学生がいたが、積極的というだけで実は、「この子、サクラ?」と思ってしまうほど歩調を合わせていたなあ・・。

NHKも選択はちゃんとして欲しいものだ。そもそも大学人でもない人の本来大学レベルというべきレベルではない「白熱」もしていない、いや学生のレベルからしてそもそも学問的な「白熱」を期待することすら虚しい、「翼賛」講義を出して「白熱授業」というのは、本家本元の海の向こうの「白熱授業」に礼を失するというものだし、羊頭狗肉の誹りも免れまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (27)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

驚くに値しない、カダフィの末路

2011年10月22日 | Weblog

これが政治というもの。

結局は、やるかやられるか、ヤクザの抗争とさしてレベル的に変わりなし。

中東だから、途上国だからと思うなかれ。

これが、人間社会の現実。そして、そのヒトコマの出来事にすぎない、今回の一件。

邪魔な相手は始末する。気に入らない相手は始末する。政治闘争の行きつく先に流血はつきもの。

カダフィはその闘争に敗れ、無様な最後を世界中に晒した。それだけのこと。

たったそれだけのこと。

 

 

 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間劣化の証: ほしのあき妊娠三カ月

2011年10月22日 | Weblog

芸能人だから仕方がないで納得してしまうえば良いことなのかもしれない。ましてや、自分の体を売り物してきたような輩であるならば、尚更のことだろう。

だがそれにしても、いかに芸能人といえども、なにせずになにをすればなにする可能性があることくらいは知識として知っているはずだし、なにしないためのなにの着け方くらい男だって知っているはずだ。つまり、すべていなかる結果を招くかもしれないとわかっていて、二人は真剣の立ち合いに及んだというわけだ。

しかし、二人はいまだ正式に夫婦ではないはずだ。

というと、婚姻制度等などというものはとか何とかごたくを並べる輩が出てくる。

だが、そういう例外的なのはうっちゃっておいて、社会通念として互いに夫婦となることを決めた男女は婚姻の手続きをもって、社会的にも法的にも夫婦として認知されることになっている。

さもなくば、いかに夫婦になることを前提としていても、また事実上夫婦としての関係にあっても、それは俗にいう「内縁」でしかない。

そんな男女が子どもを持つ。我が国ではやはり社会通念上通例でもなければ、歓迎されるべきことでもないとされてきた。

ならば、婚姻手続きを済ませてから、子を儲ける「儀式」を行えばよい。婚前にそれをしたくば、子をなしてしまわない手段をとれば良いだけのことなのだ。

それをしない芸能人が多い。

かりにほしのの馬乗り亭主が、馬になったか、騎手になったかは知らないが、ほしのとのレースの挙句に子をなし、事実3カ月だという。だが、今後、二人が正式に夫婦になる前に馬乗り亭主の身になにかあった場合、ほしのの子供はどうなるのか?

縁起でもないことを言うな? いや、馬乗りというのは、そういうリスクのある商売と分かっているはずだ。

馬乗りでなくとも、通勤帰宅途中の駅のホームから転落、あえなくミンチになっちゃったなんてことになれば、やはり腹の子は・・・。

親になろうとする者がそこまで考えないかねえ、我が子の将来を?

犬や猫じゃあんめえし・・。

しかもそこへもってきて、最近の芸能マスコミという輩は、婚約だとか結婚発表があると必ず妊娠の有無を本人たちにたずね、報道する。

で、最近はいわゆる「できちゃった」が増えてるとか、一般人の間でも。

人間の劣化という他ない、なげかわしい状況である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こんな広告アリですか?: ビジネスクラスで行く台湾

2011年10月17日 | Weblog
ビジネスクラスでいく台湾、2泊3日 5万円台後半から10万円チョイ。

おおっと、私自身は思わない。別に台湾に行き慣れているからというわけではない。台湾には暇さえあれば行ってみたい、いや長期滞在もありなくらい、私は台湾好きである。毎年仕事や個人旅行で行っているが、なぜだか飽きない。かといって、世に言う台湾B級グルメが「美味い!」と思ったことはない。台湾の「中華料理」も率直にいって年々台湾化しつつあり、もはや「本場」と呼んでよいのかわからない。事実、大陸からやってきた老舗が姿を変えつつ、あるいは消しつつあるのが現実なのだ。

一般人の私からしてみたらたかが3時間半くらいビジネスじゃなくってもと思うのだ。お金のある方なら、3時間であろうが10時間であろうが、ビジネス、ファーストクラスを選ぶのだろうが、小金持ちでもない私には3時間半ほどのフライトでビジネスは勿体ない。

で、そのビジネスで行こうっていうツアー、自由行動が多いのでどの年代をターゲットにしたものだがよくわからないのだが、これが・・・、ある意味実にズルイ宣伝広告なのだ。


大きな字で表示の上記価格帯の場合、行き帰りのフライトはさておき、滞在ホテルがビジネスクラスを使うような御仁の耐えうるレベルではないのだ。その一つがサントス。まず、大金持ちはいうに及ばす、小金持ちでもまず宿泊しないエコノミークラスのホテル。立地は良い。中山路を入ってすぐだし、台北駅にも歩こうと思えば歩いて行ける距離だ。バス、MRTの便も悪くはない。が、ホテル自体の質はそこそもカネのある層の観光にはどうなのだろうっていうシロモノなのだ。

それでもビジネスってところで、喰いつく客もいるのだろうが、サントスってどのレベルってわかってるとわかってないとでは大違いということになる。

もっとも、滞在ホテルの選択はサントスだけではなく、リージェントも選べるが、そうなると、価格帯は1.5倍以上になる。しかもその部分はちーさく書かれている。

こういう商売の仕方もあるということなのだ。で、私は個人的にこういうやり方をする旅行代理店を信用しないことにしている。きっと、他にもごまかしがあるはずなのだ。

かつてこんな経験もある。北海道旅行ツアー。申し込み時、パンフには札幌での滞在先は某市内一流ホテルと準一流のいずれかとあった。だが、ここに落とし穴があったのだ。当時若い世間知らずの私は、大して気にも留めなかったし、両者の差にも無知だった。で、実際に泊まったのは後者。後から調べて両者には設備価格の面でかなりの差があることを知った。季節は夏。まず確実に最初から後者しか予約を入れていなかったのだろう。

ツアー旅行というものを滅多に使わないのだが、この業界の体質も(何も日本だけがそうとは決していわないが)相変わらずなのだなあと・・。










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「水戸黄門」、継続を望む声はあるけれど・・・

2011年10月17日 | Weblog
番組の質の低下は否めない。

その第一の原因は、黄門役の里見浩太郎にあると思う。時代劇俳優としてに里見にあれこれ言うつもりはない。が、やはりニンではないのだ。その点は石坂浩二にも言えることだが、二枚目の黄門にはいささか無理がある。というのも、やはり我々の世代には東野英次郎の「黄門さま」のイメージが強過ぎる。いや「黄門さま」イコール東野だったのだ。どうしてもそれに比べてしまうと、里見の黄門さまには、東野とはかけ離れ過ぎているし、何と言っても、東野のとき助さん役は里見。私個人のなかでも、助さん=里見なだけに・・・。いつぞやラジオで杉様もいっていたが、里見は見た目が若いだけに、まだ黄門さまをやるには早すぎるとも思う。いや、それ以前に、繰り返すが、ニンではないのだ。

第二の原因は、時代劇をそれらしくこなせる役者が少なくなってきたということだ。これは今に始まったことではなく、既に70年代からでもそうした傾向は始まっていたことは、時代劇専門チャンネルなんかを見ているとよくわかる。80年代でいえばサニー千葉の「影の軍団」シリーズ、あれはひどかった。私はあの非時代劇的な雰囲気の時代劇が嫌いで自分から見ようと思ったことはなかった。「仕事人」も最後の方はハメの外し過ぎだった。何年か前に播磨屋が大石を演じたことがあったが、あの時の播磨屋、周囲から浮きまくっていた。しかしそれは播磨屋が悪いのではなく、台本のヒドさに加え、共演陣のお粗末さによるものであり、「ああ、時代劇が従来のかたちの時代劇としてはもはや成り立たないのだ」と痛感したものだが、「水戸黄門」にも同じことが言えるのではないだろうか。

第三に、番組の作り自体、すなわち質自体が落ちているのだ。「落ちている」に語弊があるのであれば、「水戸黄門」の作風はすっかり変質してしまっているのだ。かつて水戸黄門と言えば、聞いただけで「水戸黄門」とわかるBGMがあったが、今はそれを使っていない。かわりに実に安直な音が流れるのみ。従来のスタイルに固執する必要はないし、むしろそれが番組をダメにしていく場合もたぶんにあるが、「らしさ」を損ね過ぎると市庁舎は離れていく。これは「らしさ」を失った老舗が顧客からそっぽを向かれるのと同じことだ。私からしてみれば、製作者側はそんな単純なことも分からないのだろいかとすら思う。もしかしたら、作り手に既に「熱意」みたいなものが損なわれてしまっているのかもしれない。だとすれば、無くなってしまっても仕方がないし、そうなってしまった方が良いのかもしれないとすら思うのだ。

第四に、物語のつまらなさだ。「水戸黄門」にはその他多くの時代劇同様、ワンパターンなお決まりがあり、そぬした制約のなかで毎回ストーリーを考えるのは容易ではあるまい。またそのワンパターンを損ねては、やはり「老舗の味」が損なわれるのと同様、客を失う結果となる。が、それにしても、近年の「水戸黄門」はひどい。晩年の「暴れん坊将軍」や「必殺シリーズ」もそうだったが、マンネリ以前にあまりにストーリー展開が平板で面白くないのだ。
こうした傾向は既に80年代から始まっていたと思うが、それ以前の時代劇はその点、もう少し工夫があった。松方弘樹のオヤジの浪人ものなんか、マンネリのようで実は毎度あれこれ工夫があり、面白かった。ただ、あの浪人者はやはり近衛という役者のキャラに負うところは確かに大きかったと思うのだが・・。その点、やはりキャラで視聴率を稼げる「大物」がいなくなったということなのだろうか?



子供の頃から、アニメと特撮、相撲以外には時代劇しか見ずに育った私にとって、時代劇が消えていくというのは
実に悲しいことであることは確かなのだが、質の低い時代劇をみたいとも思わない。「水戸黄門」を見ていると、時代劇の現状は自ら招いた結果という部分がかなり大きいように思えてならないのだ。時代劇を愛する者としては、ただただ何とかならないものかと思うのみである・・。ああ、時代劇・。











コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヒュンダイ対策はそう難しくない、と思った

2011年10月16日 | Weblog
先日、今日本車を苦しめているヒュンダイ車をかなり嫌というほど見る機会があったが、対策はさほど困難ではない
と思った。

例えば、ソナタ。あの押し出しの強さは北米市場では好まれるのも当然だ。

系列のKIAも立体的で躍動感のあるスタイルは海外では好まれる。

中国市場でも、やはり押し出しの強くゴージャス感のある車をあの「見た目」と面子重視の消費者たちは好む。

日系企業のうち、比較的その点をよく心得ているのが日産・インフィニティであると思う。でも、比較的であって、
来年?出てくるといわれるティーダなんかみていると、まだまだ十分ではないと思う。


さて、話を戻してヒュンダイだが、ソナタをよーく見てみると、ある他社の車に全体的によーく似ていることに気付かされる。そう、先代カムリである。それをモチーフによく曲線的なデザインにすれば、おおよそソナタになるのだ。インパネもトヨタの別車種に似ている。

キアの名前は失念したがハッチバック式の小型車も、前からみたらミニクーパーと見間違えたほど。かつてジャガーを露骨にマネたような車種を販売したことがあり、その傾向は相変わらずと見えるが、ヒュンダイ・キアの最近のデザインはどうも売れ筋をモチーフにより大胆な海外市場受けするデザインを投入するというものであるように見受けられる。

要は、実のところ独自性は希薄ということにもなる。

最近の自動車は、欧米各国をみても、前後にシャープに流れるデザインが多く、それはヘッドライトのデザインによく現れている。フランス車もその傾向が強くなっているように思える。

米国ではフォードがその傾向を強く打ち出しており、売れ筋のフォード車はどういうわけだか、ヒュンダイ・キア車に似ている。発売順序からしてヒュンダイ・キアの方が速いはずで、フォードがコピった?という可能性もある。思えば、先代フュージョンは、フロントが今は懐かしいホンダ・プレリュードの最終モデルに瓜二つであったし、他にもあれ?と思うデザインがここ5、6年見られる。

一方、日系だが、世界的なデザイン傾向に明らかに逆行している。特に、トヨタ、ホンダだ。日産、マツダはそうでもないか・・。

例えば、トヨタ・ヴィッツ(ヤリス)。あののっぺり横っぴろがりなデザインが海外市場で受けるとは思えない。
リアビューの古めかしさ、立体感の乏しさには救いの無さの感さえ禁じ得ない。もっとひどいのが、ホンダ・シビック。よくもまああんな車をでかしたものである。ルノーと提携する以前の日産車がとりとめもないデザインばかり出していたし、リーマン前の米系もそうだったが、凋落傾向の企業というのは、社内事情のまずさが製品に如実に表れておもしろい。前から見ても、横からみてもノッペリとしたシビック。あれで評価しろというのであれば、ホンダも気が狂ったか、よほどのKYになったに違いあい。KYを「オヤジ」以来のホンダイズムだと思っているとしたら、もうあの会社に未来はない。

あの横っぴろがりなノッペリ感は、トヨタ・カムリにも見られる。国内ではどうも人気は上々の気配だが、あれでは海外勢の4ドア・セダンにはとても太刀打ちできない。日本市場はやはり異質、顧客の好みからしてガラパゴスということか?

国内はさておき、海外市場での生き残りを目指すならば、ガラパゴス列島と海外市場でのデザイン傾向は別個のものとすべきではないのだろうか。

それに、例えばトヨタは、デザイン担当重役を更迭し、思い切った人事を断行すべきだ。外から連れてくるという選択も当然あるべきだ。

ホンダも、あの唯我独尊なオレ流的な社風に染まっていない「血」を入れるべきではないのか。アメホンからというのではない。アメホンのカリフォルニアの人材では力不足だ。国内はもっとダメだ。いっそのこと、中国人デザイナーでも雇ってみてはどうか? ラテン系もおもしろいだろう。

ちょっとした事でヒュンダイ対策はできる。

ただ、その傍からみたら「ちょっと」がなかなかできないのが大企業であり、それこそが大企業病の一端なのである。

日産にトヨタ、ホンダのような病理があまり(ぜんぜんとは言わない)見られないのは、やはりカルロス・ゴーンという異質な「血」を入れた結果なのではないだろうか?

トヨタも欧米人にこだわらず、新興国までに視野を入れて人材開拓し、デザイン戦略をどっぷり一任してみてはいかがか?







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする