くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

日韓歴史問題をめぐる韓国の卑劣: ある地方都市での韓国大使権哲賢の講演

2010年08月29日 | Weblog
数か月前の話になるが、某地方都市で韓国大使の講演が催された。

地元の新聞社が主催したもので、内容は日韓関係の今後についてだったが、当然そうなると「決まりごと」として「過去」を踏まえてということになる。

私はその場にいなかったのだが、後日複数の知人から聞いたところでは、内容も「お決まり」のものであった。主催者である地方紙の記事も確認してみたが、講演内容は知人たちが理解していた通りであった。聴衆のほとんどを占めていた日本人の間に、何ともいえぬ、あえて言うならば「またか」、「もううんざりだ」というような空気が流れたという。少なくとも、知人たちは共通してそう感じたとのことで、彼らの周りの人たちの表情にも「そんなことを一方的に聞かされに来たのではない」という表情が見てとれたという。

「一方的」とは、なんとこの講演、質疑応答の時間が設けられていなかったのである。韓国大使の講演の前にも、他国の駐日大使による講演が行われたそうだが、質疑応答のないものはそれが初めてであったとのこと。しかも、後日伝え聞くところでは、それは韓国大使からの要望によるものであったという。

ということは、察するに大使は自分の講演内容に対して聴衆から反論あるいは反対論を示唆するような質問が出ることを予測し、それゆえに、あえて質疑応答無しとしたのではないのか。

外交官として、これは一つの選択であったと理解を示すことは可能かもしれない。質疑応答が喧々諤々の論争に発展すれば、その場の雰囲気が悪化する可能性は大であり、両国関係の今後どころではなくなってしまい、何のための講演だったのかということになる。

しかし、民主国家における講演において一方的に質疑応答は一切拒絶しておきながら、自国の歴史解釈を一方的に相手にぶつけるというのも、外交上決してほめられたものではない。しかも相手は一般大衆である。そんなことをされて対韓か感情がよくなろうはずもない。事実、知人たちはともに不快の念をあらわにしていた。

しかも、「同じ?」民主国家同士の関係として、この講演のやり方はある意味「卑劣」ですらある。相互批判は民主主義を民主主義たらしめるものであるならば、事前に批判を予測してその機会を奪うというのは、何とも潔くない。自らの歴史認識に確たる信念を持つのであれば、反論、批判をあえて受けて立ち、そのうえで自説に「正しさ」を説けばよいはずだ。それを露骨なかたちで拒絶した大使のやるかたは、韓国の民主主義の底の浅さ、未熟さの証左以外の無いものでもないのではないのか。

それにしても、主催者側も情けない。なぜ質疑応答時間を設けるべきと主張しなかったのか。漏れ聞くところでは、相手の要求をほぼ鵜呑みだったという。主催者が優先したのは、講演の無事開催であったのだろうが、聴衆に不快感あるいは悪くすれば反韓感情を抱かせるような講演は、かえって日韓関係の深化を阻害するだけではないのか。

「あんな講演ならやらない方がよかった。こちらから、ではお越しくださらなくて結構」と言うべきだった。知人の一人の言い分だが、まったくその通り。

しかし、こうした弱腰が一地方新聞社に限定されたものでないことは、先日の「菅談話」にも明らかである。相手におもねって何かを得られると考えているとしたら、国際関係においてそれはあり得ないと言わざるを得ないのである。
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高齢者の所在不明問題に見る

2010年08月21日 | Weblog
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高齢者の所在不明問題に見る

2010年08月21日 | Weblog
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胡散臭い男女関係: 冨田リカと萩原健一

2010年08月20日 | Weblog
電撃離婚発表の直後に交際宣言?

普通に考えて、こんなことあるだろうか?

離婚は結婚よりも大変だというが、その大変な離婚の直後に即別の男と交際宣言?

どう考えても、不自然というか、肉体関係の有無はいざ知らず、既に離婚発表以前から通じあっていたってことじゃないのだろうか?

だとすれば、これある種の不倫では? もっとも、司法的には肉体関係無しに不貞とは言わないそうだが、かりにプラトニックだったとしても、既に法的に婚姻関係が継続中であるにもかかわらず、精神的には他の男と心を通わせてたって、これ、明らかに男女を問わず既婚者としてあるまぎじことではないのだろうか?

もし肉体関係を伴わない不倫関係が計画的なものだったとすれば? つまり司法的な不貞認定を回避し同時に社会的な糾弾を回避するために、あえて正式に離婚が成立するまではセックスは我慢したとなると、ある意味我慢できずにやってしまったってケースよりも狡猾で悪質ですらあると思うのだが?

交際&同棲報道、即否定、萩原の交際申し込み、電撃離婚、そして冨田も交際宣言。この流れ、不自然なほどにできすぎてないか? 既に筋書きがあって、そのまま意図的にことを進めてきたように見えて仕方がない。

それとも、単なるゲスの勘繰り?

女心っていうのはわからんが、離婚して即座に他の男との交際なんかしようと思うものかねえ・・・。


それ以上に問題なのは萩原では? 離婚したかしないかの状態にある女性に求愛するなんて、社会通念上どうなんだってことにならないのだろうか? もっとも、社会通念がどうのこうのって話が通用する相手なら、これまで散々にスキャンダルを起こすはずもないのだが。それにショーケンって両刀使いのはずだが? 若いころは既に物故者の俳優Mと性的関係があったというし。まあ、J事務所に限らず、芸能界だから、そんなことはあの世界ではごく当たり前のことかも知れないのだが。

まあ、いずれ破局!なんて報道に出くわすんだろうなあ・・・。

ところで、以前にも「カリスマ主婦」の離婚ってあったが、離婚したら主婦じゃなくなるが、看板かけかえるのかねえ、「カリスマバツイチ」とか?
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教師と生徒の恋愛、そしてW不倫z: 仙台高校教師殺人事件

2010年08月19日 | Weblog
やはりそうかと思った人は結構多いのではないだろうか。

運悪くということはあるものだが、それにしても退院即殺害というタイミングの良過ぎる犯行に胡散臭さを感じてはいたが、犯人が2人逮捕された時に、私は家人に「まだ連座した人間いるだろうなあ」と言ったものである。

そのとき自分の頭のなかにあったのは、まさに逮捕された妻だった。

しかし家人すなわち私の妻にはあえて具体的にいわなかった。彼女は米国生活中に男女差別・平等というものにいささか敏感になってしまったようで、私が「鬼平」の「女という生き物は後も先もなく今を生きるもの」という女性感に共感していることを、女性蔑視と見ているのだ。私は何もそれがいけないなんて一言も言っていない。ただ女とはそういう生き物だという池波に同意しょいているだけで、だから女は劣っているなどとは言っていない。うがった見方をすれば、彼女自身我が身を含め同性にそういう傾向があると気が付いているだけに、またそれがマイナスに作用することがしばしばあると認識しているがゆえに、感情的に反発するのではないか、これが私の分析なのだが、あえて口には出さない。言わぬがなんとやらというやつである。

それはさておき、私の見立ては当った。

それにしても、教師と教え子。教え子の妻から接近して、卒業後交際、結婚ということになったとか。そういう関係がいけないとはいわないし、実際に他でもあることなのだが、自分的には曰く言い難く感覚的にしっくりこないというか受け入れがたいものがある。教え子に手を出す教師はいる。法を犯してまでする教師は男女を問わず、洋の東西を問わずいる。私がカナダにいたときのホストマザーの元夫は、高校の教師で教え子と不倫して家庭を捨てたという。女教師が若い男子生徒との愛欲に溺れたなんてことも、決して珍しいことではない。が、子弟関係が肉体関係に変わる、ということへの言い知れぬ抵抗感を感じるのは私だけではあるまい。

しかも、この被害者高校教師、塾でバイトをし、他の女生徒とも関係を持っていたというではないか。夫婦関係が壊れた原因の一つも、被害者の同僚教師との不倫だとか?

死者にムチ打つなとはいうが、ありていに言ってロクでもない人間である。

そして、自分から夫にほれ込み夫婦になったものの、夫に不倫というかたちで裏切られた妻も、年下の男と不倫関係を結ぶことにやり、ついには物理的に夫を排除するに及んだ。

道ならぬ道を歩んでしまった二人の男女のなれの果てということではないのか?



私の知り合いの知り合いにも、似たような女性がいたという。私自身は面識はなく、犯罪は犯してはいないが、わが心の赴くままに恋愛を繰り返した。一度思いを募らせればそのまま万難を排して突っ走るというタイプだそうだ。我が欲望の赴くままには、恋愛以外にも及んだ。

高校で大学の推薦を得たが、突如辞退!

別の推薦を取ったのだが、これも入学からまもなくして退学!

その背後に恋愛があった。しかも、母校の教師。上述の妻と同じく、在学中に夢中になった教師と卒業後に付き合いはじめそのまま同棲。「妻」の座を得て、大学などどうでもよくなってしまったのだ。

しかし、推薦を土壇場や入学後に蹴られた側や、母校としてはたまったものではなかったであろう。その結果、推薦枠が取り消されたか否かは知らないが、最初から彼女が推薦を取っていなければ、他の生徒が行けたかもしれないことを考えると、何とも身勝手な話である。

そして、その身勝手の挙句が同棲。

親は? これも驚くが結婚を前提とした同棲ということを条件に、娘のやりたい放題を許したというのだ。相手の家族も同じく既成事実をそのまま受け入れたという。

しかし、話はこれで終わらない。同棲から数年後、彼女は突如同棲並びに「交際」の解消を一方的に通告し、そのまま同棲していたアパートを出てしまったのだ。直接の原因は「男」だった。偶然出会った大学生に気持ちが傾き、同じ大学に入ることを決意。
そして元恩師との関係を清算することにしたのだ。

この女の「狡猾」なのは、それまで散々その大学生と逢瀬を重ねながら肉体関係だけは持たなかったという点である。計算ずくだったのだ。しかし、同棲解消するや否や肉体関係を持ち、数ヶ月後には、新しい男と同棲を始め、その後めでたく?同じ大学にも合格した。

いきなり捨てられた元恩師の方はたまったものではない。結婚を前提ということで両人ならず両家同意のもとの同棲だったのだから。当然のことながらすったもんだとなり、男側の家族は婚約破棄で訴えるとまで言いだしたとか。結局、体面をはばかって訴訟とおいうことにはならなかったが、男の方は精神的にすっかり憔悴し、母親も一時期心労で入院してしまったという。一方、女の方は、本人ばかりか両親も何らの良心の呵責も感じていたかったそうで、むしろ男の日頃の娘の扱いが招いた結果とまで言い放ったそうだ。娘のやることはすべて認め、すべて正当化する、そういう親で、彼らがそうした背景には娘に対して後ろめたい「過去」があったからではないかというのは、彼らを直接しる私の知人の分析である。


彼女と新しい男は、前者が大学を出るのを待って、はれて夫婦となった。三人の子にも恵まれた。


ところが、これでも話は終わらなかった。彼女の恋の病が再び発症してしまったのだ。結婚十年目、バイト先の同僚社員に一方的に恋に落ちてしまったのだ。相手は既婚だったがそんなのはおかまいなしである。相手の気持ちも確かめずにのめり込み、相手がゴルフが趣味としれば自分もゴルフを始め、手ほどきをその相手に頼むという大胆さ。その一方で、夫に対してはよそよしくなり、子どもの世話もおろそかになっていった。コースを回るために夫に子どもたちをまかせ週末家を空けることも。

なんと、相手の男は既婚者でしかも単身赴任。

相手は当初、彼女の気持ちに気付いて少なからず動揺したという。しかも二人の関係に気付いた夫は激怒し、弁護士を立てて対応してきたのである。弁護士のある種巧みな戦術で職場にも二人の関係は知れ渡り、まわりの好機の目に晒されることになってしまったのである。

夫は子どもたちのことを考えて家庭を守ることを優先しようとした。が、彼は一度暴走しだしたらとどまることを知らない女房の性を知っていた。また、女は女で、新しい相手との「関係」が成立していないにもかかわらず、気持の離れた夫との離婚を望むようになり、離婚とあいなった。なんと、子ども三人を手放してである・・・。

要は新たな恋愛に子どもは邪魔とおいうことだったのだろう。こういう母親もいるのである。

夫と子どもという邪魔がいなくなった女は、もう好き勝手し放題である。男も単身赴任の淋しさも手伝ってか、女の誘いに乗り、二人ははれて?男女の間柄となった。しかし、男は既婚である。ここに不倫関係が成立したのである。

しかし、女は世間を舐め過ぎていたのかもしれない。子どもを捨て愛欲に走った女への周囲、世間の目は厳しく、孤立を余儀なくされた。同情するのは、またもや、両親のみ。

男も会社から異動を命ぜられた。表向きは通常の人事異動。しかし、それを信じる者は社内にはだれもいなかった。

男がいなくなり、女はようやく自分の置かれている状況を冷静に把握できるようになったのだが、時すでに遅し。

元夫は子どもたちとの面会を拒否。子どもも、おおよそ母親が離婚原因をつくったことに気付いている様子で、母親との面会を望まなない。

彼女をもっとも支えてくれていた母親も急死。もともと、個人的には娘の奔放さを苦々しく思っていながらも、女房の尻に敷かれていた父親の態度は急変してしまった。男やもめになって、妹の所業を白眼視し「縁を切った」とまで言っていた姉夫婦の世話になるようになったことも影響してしれない。

更に、彼女は、悪性の子宮筋腫を患い、手術。かりに再婚したとしても、もう子どもは産めない。件の不倫相手とは相手の転勤す後もコンタクトを維持していたようで、相手も妻と離婚し彼女と新たな生活を始めることを考えたこともあったようだが、「子どもの産めない体」になったと知り、考えを変えたという。

心身ともに打ちひしがれ元夫にそれとなく助けを求めてきたというが、相手からは「アカの他人以上に疎遠になってしまった関係なので」と冷たくあしらわれる始末。

今、唯一彼女の泣きごとを聞いてやっているのが、私の知人。しかし彼女も、「助けの手を差し伸べるにも差し伸べようがないほど、彼女の業は深い。それなのに、彼女はいまだ自分が繰り返してきた所業の罪の深さを十分理解できず、むしろ自分を悲劇のヒロインのように思っているところがある」。

まあ、こういうのは、「いっぺん死んでみる?」ではないが、閻魔愛に流してもらった方がいっそのこと救われるのかもしれない。

フィクションだろう?と思われる方、これはすべて真実です。実は私、元夫の知人の一人を知っていて、上記の経緯に間違いないとのこと。

真実は小説よりも、と言うが、こういう生き方を自ら選択するバカもいるのだなあ・・と。面識はないのだが(結構な美人だとか)、こうなるともうヒトというよりもケダモノとしか言いようがないですな。









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宮内庁に韓国からの「略奪」文化財など存在しない。

2010年08月18日 | Weblog
日韓併合が合法のものである以上、少なくとも国際法史研究の分野においてそれが通論である以上、宮内庁が文化財を返還する正当な根拠はないばかりか、略奪という認識自体、併合の合法性に矛盾する。


したがって、宮内庁は、文化財を返還するいわれはない。


かりに宮内庁が返還するとしても、「略奪品」であるからという理由で返還しては決してならない。あくまでも旧宗主国の慈悲、温情として譲り渡すということにしなければならない。

そもそも、朝鮮の古物など持っていてそれが何だというのだ。「ととやの茶碗」の話もあるが、基本的に欲しければくれてやればあよいのだ。ただし、くれぐれも「返還」という形ではなく。

ところで個人による古物の商取引の結果我が国にあるものはどうなるのだろうか? これも「略奪品」と強弁して手に入れようと、かの国は考えているのだろうか。この前のNHKの討論での崔洋一がいい例で、「ああいった類」の連中である。強引な理屈にもなっていない物言いで声を荒らげて押してくるのであろう。だが、売買というかたちで手に入れた以上、売るか買うかは個々人の自由である以上、必ずしも先方の思うようにはなるまい。

二束三文で「略奪」された。

この理屈が大手を振ってまかり通るのであれば、わが国も維新期に流出の美術品を「略奪」と言いたてて取り戻しますか?

だが、それをやっては人面獣心、いや人でなくてはそのような悪行卑劣は重いつくまい。いずれにしても、日本人も堕ちるところまで堕ちたといわざるを得なくなる。


ということは、既にそれを既にしているかの国の連中は「堕ちてしまった」ヤツラということか?

個人的には、言わずもがなと思うのだが、ことあの連中に関しては。まあ、チンピラ、ヤクザの類。痛くもない腕を痛い痛いと叫んだハマコーと同じ類ということだ。
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千鳥ヶ淵には行っても靖国には行かないという、菅の見え透いたパフォーマンス

2010年08月18日 | Weblog
千鳥ヶ淵と靖国、まつられている戦没者の数は、比較にならない。

いうまでもなく、後者が圧倒的に多い。

先の大戦に限っても、そうだ。

にもかかわらず、菅首相は千鳥ヶ淵には行き、靖国にはそっぽを向いた。

宗教法人である靖国には行かず、特定の宗教色を有しない千鳥ヶ淵には行く。

いずれにも行かないという選択もあっただろうが、それはそれで批判を受ける。逆にいずれにも行けば、それ以上に批判されるどころの騒ぎではなくなる。どのみち何をしても批判から逃れられないのが政治家であるならば、もっとも批判の少ない選択を採ることを最上とする、という考えからもある。その是非はともかくとして。これを前提にすれば、千鳥ヶ淵を選んだという選択は正しい。

この選択に、菅という人間の個人的なイデオロギー的傾向がどれだけ反映されているかは知るよしもないが、少なくとも政治的な配慮があったことは間違いあるまい。「政治はバランスだ」ともっともらしいことを書いているブログもあるが、それは支持率等の数字を取ることを目的とした場合には確かにそうなのだが、国家運営なり国家指導という点からいえば、バランスというのは、
視点の置きどころしだいではアンバランスとも評価されうるものである以上、では何がバランスなのだということにもなりかねず、バランスさえとれば国が上手くいくのかといえば、そうとは限らない。バランスばかりにとらわれては、ドラスティックな改革なぞはおそよできるわけもあるまい。

「政治はバランスだ」などいってのけてしれーっとしている輩というのは、所詮平時において既成の組織や秩序のなかでは要領よくいくていく人種なのだろうが、乱世動乱のなかにあっては、そっ首取られてお終いということになりかねない。さもなくば、はたから見ていやしく薄汚く生き延びて行くのだろう。もっとも、本人はバランス感覚で生き延びたと自画自賛にふけるのかもしれないが。

それはさておき、菅の政治パフォーマンスは見え透いてしまっていて、何とも味気ないというかくだらな過ぎる。根性のかけらもみえない。根性にごへいがあるのであtれば気概とでもいおうか。無名の市民運動家から位人臣を極めるまでに成り上がった男も、昇り詰めてどうもすっかり脂っ気が抜けたものか。

もっとも、10月まで最終的な評価は避けるべきかもしれない。来る靖国の秋の例大祭に菅がどう再びパフォーマンスするか。ここで「バランス」を取るか、スルーでいくか。

まず間違いなく後者でああろうが、それこそに後に「毒酒を飲んで渇きを癒す」ということになるかもしれない。菅がかりに総理を辞しても政界で生きていこうと考えるのであれば、スルーではないやり方で首の皮一枚つなげておく方法もあると思うのだが、まあそれもあるまい。

かくして、菅はやがて歴史にその「汚名」を残す。





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衆院議長はクズばっか。: 河野、横道は「英霊」を政治的に利用するゲス野郎。

2010年08月17日 | Weblog
戦没者追悼式典。

前衆院議長河野某は、英霊並びに両陛下を前に、自説を臆面もなく述べ、式典を自らの政治の具に利用したが、現議長もまた
同じく。

こういう恥知らずをいつまでのさばらせておくのかねえ、わが国は。
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鳥越俊太郎はジャーナリストではなく、単なるデマゴーグ。

2010年08月17日 | Weblog
別に親米ではないが、鳥越俊太郎の反米言説は酷過ぎる。

終戦記念日前のスパモニでのこと。

戦後の主だった紛争は、米国の思惑、政策、国内事情の所産だそうな。

冷戦も軍産複合体によるものだそうな。

じゃあ、何かい、ソ連は米国の世界戦略の犠牲者だとでも?

冷戦に対して、ソ連は何らその原因たるものを成していないとでも?

そういえば、鳥越氏、ソ連のソの字も言わなかったが、それってどういうこと?

鳥越史観では、ソ連は無罪?

キューバ危機も、すべてアメリカは悪い?

1979年のソ連のアフガン侵攻は正当な行為だとでも?

鳥越俊太郎という人間は、もしジャーナリストを自負するなら、少しは恥を知るべきだ。

それとも、メディアを通しての自らの影響力=権力に酔って、自分のイデオロギーを世間に浸透させるためなら多少のウソも
平気でつく?

最低だね・・・。それともガンをやって、死ぬ前に手段を選ばず欲望のままに何でもやってやろうってか? 

いずれにしても、外道だな、この男。
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最近のNHKは、反日番組ばっか

2010年08月17日 | Weblog
カラー映像を若い役者に見せて語らせるって番組。

あれ、何?

「ゲゲゲの女房」に出ていた工藤某というイケメンが、毎度おなじみの日独比較をほざいていたが、あれはシナリオの内なのか、それとも無学な芸人がバカを晒した姿を編集なしでそのまま流しただけなのか。

もうウソばかりの単純な日独比較はよそう! その点同じNHKでも日韓の一般人集めてやった討論形式番組での岡本行男の発言のこそ傾聴に値する。もっとも、岡本という人は米中に対する言動は実に腰が引けていて情けないし、沖縄に対してもやたらと尻尾を振るのが気になる。それに、日韓併合時の両者の関係に対する加害・被害の二分法は、到底受け入れられないものがあるが、それでも、ブラントの有名なひざまづきという行為を安易に「心からの謝罪」とすべきではないとの間接的私的、安易な日独比較を戒める発言は立派であった。

それにくらべて工藤某の発言。あのイケメン個人の無知ゆえの発言なら本人にレクチャーしたうえで取り直しか、注釈を付けるべきだった。あのまま流すというのは、公正中立の国営放送としては無責任だ。もし役者にシナリオをそのまま言わせたというのであれば、罪は更に重い。

在日番組でも思ったものだが、NHKの反日ネガティブキャンペーン、ますます露骨になっていないか?
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ここは中国ではなく日本のはずだが?: コメダ珈琲店でのあり得ない「不潔」な出来事

2010年08月17日 | Weblog
名古屋某所にあるコメダでの目撃談。

昼食を取ろうと入って席に着いた時、すぐ近くの席で子どもがコップを倒し水を床にこぼしてしまったところを目撃した。親らしき大人に床を拭いてくれるよう頼まれた店員が間もなくやっていきたのだが、その直後の女性店員の行動に私は凍りついてしまった。

店員は既に事情を把握しており飲食物を運ぶものと同型のトレーに使い終えたお絞りを何枚か乗せてやってくるやいなや、そのお絞りで床を拭き始めたのである。

これだけでも、「冗談だろう!?」なのだが、それだけではなく、店員は床を拭いたお絞りを再びトレーにのせ戻っていったのである。あれはあきらかに雑巾ではなく客が普段使っているお絞りと同じものであった。

まさか、あのトレーは普段飲み物や食事を運んでいる・・・・? まさかそれはあるまい、と思いたい。

これが中国での出来事なら少しも驚かない。いかに昔に比べれば随分マシになったとはいえ、いまだ味噌も糞も一緒レベルの衛生観念の国である。

しかし、ここは日本だ。いかに名古屋とはいえ(笑)、日本の一部であることに違いはなく、そこで起こった出来事なのだ。

いかに使用済みのもので消毒殺菌も含め洗濯されるものであるとはいえ、客が手あるいは個人的には無作法だと思いうが顔を拭くお絞りである。客の前でそれを使って床を拭く。これがコメダの衛生管理方法として許容されているものだとしたら、私はコメダにはもう二度と行きたくはない。事実、そのとき私はすっかり食欲を失ってしまい外は猛暑にもかかわらずアイスコーヒーではなく衛生的により安全と思われるホットコーヒーを無理やり一杯飲んだだけで、早々に店を後にした。

コメダは名古屋近辺に行くたびに使っていただけに私に受けた衝撃と失望は大きい。

せめて、その店のみの管理体制の問題だと思いたいのだが、もしそうではなくコメダで広く行われている行為だとしたら、日頃我々客は一体衛生的にどのようなものを口にさせられているのか知れたものではない、ということになる。

私は以前にも禁煙をめぐってコメダを批判したことはあるがアンチコメダでもなければ、コメダのライバル企業の者でもない。
かれこれ10年以上コメダを使っている顧客の一人に過ぎないのだが、「あり得ない」光景を目にしてしまった衝撃がいまだ消えやらず、ここに改めて「コメダ批判」を記すしだいである。

天地神明に誓って捏造でない。もし、捏造だ、営業妨害だとい言うのであれば、何月何日、どの支店とはまで特定することもやぶさかではない。

厳密にいえば、目撃者は私だけではないので、その者を証言を添えても構わない。

かりに使いかけのお絞りに見えたものも、トレーも、床拭き専用のものだとしよう。しかし、常識的に、床拭き用の雑巾をトレーに乗せて運ぶ店というものは、少なくとも日本にはそう多く存在しまい。たぶん極めて希少な存在ではないのだろうか。李下に冠をなんとやら。客に誤解と不快感を与えるようなまぎらわしい清掃方法は採るべきではないのではないか。少なくとも、それを客の前ですべきではあるまい。コメダは客に対してそうした気配りもできぬような企業ではあるまい?

ともあれ、個人的に当分の間、コメダに行くことはないであろう。あれを見てしまった後に、あそこで飲み食いする気にはなれないのだ。





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菅総理大臣談話は、日韓併合条約の合法性を事実上否定している?

2010年08月10日 | Weblog
談話のなかに、「その意に反して行われた植民地支配」とある。

併合条約を合法とする国際法史上の通論によれば、これはおかしい。日韓双方が合法的に調印して成立した併合条約であれば、
「その意に反して」というのはおかしい。韓国内に異論はあったことは事実だが、国論として調印を決した以上、国家間関係において「その意に反して」というのは、菅総理自ら併合条約は無効だったと事実上言っているようなものだ。


菅が詫びようが反省しようが自由だが、私は詫びないし反省もしない。反省する点があるとすれば、朝鮮半島経営がわずか35年で終わってしまったことだ。台湾その他海外領土同様、朝鮮を失ったことは至極残念、と私は思っている。失地回復は現実的でないとして、かつて今以上に広大な領土を有していたことについて、我々は自国をもっと誇っていいと思う。

それにしても、こんなヤツが総理とは・・・。

民主党国賊政権は何時になったら終わるのだろうか?

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敗戦を記憶し続け、捷戦を忘却しようとする国

2010年08月10日 | Weblog
原爆忌、終戦記念日、そして閣議決定されたという日韓併合100周年に関する菅総理大臣談話。

日韓併合は別として、原爆忌、終戦記念日はすべて、65年前の敗戦と戦争の惨禍を思い出し、記憶し続ける契機として語り継がれてきた。

しかしその一方で、日清、日露の両戦役をはじめとする勝ち戦の記憶は、語り継がれているのだろうか。少なくとも、負け戦に比較して勝ち戦についての記憶の継承は、極めて消極的といわざるをえないというのが、現状ではないだろうか。

これは先の大戦のみならず日本の近代の歩みを、近代の対外交渉を否定的に捉えようとする思潮が戦後一貫してあるからに相違あるまい。

日韓併合について反省の文言が盛り込まれるであろう総理大臣談話も、そうした歴史観の産物というべきであろう。聞くところによれば、とりわけ、今の官房長官は特異な歴史認識の御仁であるという。

日清、日露の御戦はおろか、日韓併合も我が国史の「誇るべき一頁」と確信する私からしてみれば、やはり、こうした傾向は自虐と言わざるを得ない。

日韓併合に関しても、私はいささかも個人的にそれを反省し謝罪する気にはなれない。少なくとも法的に批判されるべきものでないことは、既に国際法史の世界ではある種の常識であり、いまだに国内において不法だ無効だと騒ぐのは韓国である。官房長官殿は、名前や文化を「奪った」ことを罪悪視されているようだが、合法的に植民地となった朝鮮において行われた創氏改名や文化政策は当時の大日本帝国の法制に何らもとるものではない以上、長官殿のお考えは単なる感情論に過ぎない。さもなくば、過去を現在ただ今の価値観によって断罪しようとする、あるべからざる行為であり、その刃は必ず後世自身に振り下ろされることを覚悟すべきである。そもそも、法律家である者が法論を軽んずるとは、これ、医師が医術を捨て神仏に手を合わせ、迷信にすがって病を治そうとするに等しい行為であり、既に法律家としての立場を事実上放棄したとみなされよう。

私は敗戦こそ恥じれど、それ以前の幾多の勝ち戦を少しも恥とは思わず、軍事強国、植民地帝国であったかつてに我が国を誇りにすら思う。少なくとも、今の我が国の情けない姿に比べればはるかにまともに見える。

そして私は過去を他国に対して謝罪しない。する必要すらないと思っている。かりに謝罪すべき点があったとして、それは金リン諸国との関係を含め、すべて数十年前に解決済みであり、今更蒸し返すべきことではない。相手側はそれを仕掛けてこれば断固はねのけるべきであり、ましてや、我々自身がそれを無視変えずなど、我が身に鞭打ちその快感に酔いしれるがごとき倒錯の境地としか言いようが無い。

我が国は精神を病んでいる、そして官房長官殿はじめ政治家たち、国の指導者たちも精神を病んでいる。健全な国民精神の回復なくして我が国の明日は展望できない。



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右太衛門の「旗本退屈男」

2010年08月09日 | Weblog
今時代劇専門チャンネルで右太衛門のTV版「退屈男」が放映中である。

実は、この番組、昭和48年に放映されたもので、私をその時見ているのである。既にその時分、まだ物心ついてまもないころであったが、時代劇好きであった。どういうわけか子どもの頃から明治維新以来の「近現代」を当時歴史的背景など知るよしもないのに生理的に嫌う傾向があった。西洋とか東洋、和風、洋風などというものの区別がつかない年頃であったが、いわくいいがたく洋物やそれ風のものに対する違和感を感じていたのである。時代劇を好み、やがては歌舞伎を好むようになるのは当然の帰結だったのかもしれない。

だが、「退屈男」は嫌いだった。なんなれば、右太衛門が嫌いだったのだ。役柄と衣装に不釣り合いな年化柄と容貌、そして周囲から浮いた演技がダメで、子どもながらに、「この退屈男、かっこわるい!」と言っていたことを、自分ながらに覚えている。よもや、それが一世を風靡した「御大」だとは当時知るよしもなかったのである。

しかしその後、週末にしばしば放送された映画版「退屈男」を見るようになってからは、かえってあの大時代な顔かたち、化粧、演技に魅せられるようになっていった。その理由は簡単で、当時80年代の初めからなかばであったが、TV時代劇は私が子どもの頃から生理的というか本能的に嫌っていた「近現代」の臭い、雰囲気が強まりつつあったからである。千葉真一の「影の軍団」シリーズ等その最たるものと感じ、あれはもはや時代劇ではないとすら思っていた。「影の軍団」に限らず、特に女優陣から時代味が消えていくことが非常に気になった。これに対して「退屈男」はじめ古い時代劇映画は、変質しつつかつ衰退しつつある時代劇へのアンチテーゼのように思え、私はそれに楽しむとともに、いつしかTV番組字よりは若いということもあったのだろうが、それでもその時ですらもう十分に「退屈男」の出で立ちには無理があった右太衛門が好きになっていた。あの「大きさ」はまさに画面のなかでも「御大」であり、当時すでにあれだけの存在感を示す時代劇役者は希少価値的な存在となっていた。

それから更に30年近くが過ぎ再びTV版「退屈男」に出くわした。当時右太衛門は60半ばを過ぎ、やはり子どもの目にはウソをつけないものだ。今見ても、正直滑稽さを禁じえない。いでたちから演技まですべてが「浮いて」いるのである。しかしながら、「浮いて」いるからこそよりその存在が際立ち、しかもその原因は右太衛門にあるのではなく、周囲の共演者に、変質しつつある時代劇に、そして日本社会そのものにあるのではないかと、今は、思うのである。

あの台詞回し、立ち居振る舞い、表情、どれもが古めかしく、大時代なのである。しかし、動きの一つ一つが決まっているのである。立ちまわりはさすがである。時代劇が本来持つべき「劇画」性がそこには濃厚に含まれているのである。要するに、見ていて気持ちが良いのだ。

後年、息子の北大路欣也が「退屈男」を演じたが、それは時代の要請というものもあって致し方なかったのであろうし、制作側もそう考えたからにそういないが、実に「近現代」的な雰囲気のもので、父親のそれとは随分違っていた。私としては、あえて北大路には濃いー化粧で父親移しの大仰な演技をしてもらいたかったと思う。むしろそのほうが、年配者は昔を懐かしみ、若い父親を知らない世代は、見慣れぬ演技にむしろ新しさを感じたのではないだろうか。残念ながら、北大路の「退屈男」が私に残したものは、フラストレーションだけであった。

先日ももう一人の「御大」千恵蔵の大石に、千恵蔵のニンでは必ずしもないとは思いつつも、その時代味と存在感に感服したものだが、右太衛門の退屈男にも、同じものを感じ、この酷暑のなか、いくばくかの清涼の感なきにしもあらずなのである。

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横審って、何様?: 横審委員長鶴田のおそらく意図的な越権行為

2010年08月08日 | Weblog
鶴田のジイさんがまた何かほざいたそうだが、横審って諮問機関だろう?しかも理事長の選出や続投・辞任なんて諮問の対象外のはずだ。それにもかかわらずアレコレとメディアに喋るというのは、これは明らかに諮問の対象単位を超えた越権行為だ。

鶴田というもうろく爺さんがいかにどうしようもない男かは、以前にもここで書いたが、そんなヤツにあれこれ聞くマスコミもマスコミだ。

そしてペラペラしゃべる方もしゃべる方だが、この人たち外部から理事長が来ることで、自分たちも入れ替えら得る可能性があることを危惧しているんじゃにのか。要は保身のための武蔵川援護射撃。

横審批判ってのはあまり聞かないが、マスコミも協会同様こいつらも吟味の俎上に載せるべきだろう。今のままだったら、横審はご意見番というか権威になってしまうぞ。

少なくとも、鶴田にその資格はない。
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