くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

トヨタ公聴会、ロンダ・スミスの背後、周辺を洗うべきだ!

2010年02月24日 | Weblog
米議会に被害者として姿を現したあのご婦人。

議会証言に至る経緯を含め、背後関係や、交友関係を洗うべきではないのか?

日本のマスコミ、ジャーナリズムは当然それくらいのことはしていると思うのだが、念のために。
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日本の教育を考える: 海外派遣教員の「お土産」に隠された「ウソ」

2010年02月24日 | Weblog
米国にいるとき、私の子供たちは数年間、補習授業校(補習校)にお世話になりました。

米国内でもNYCのような大都市や、現地の教育制度や内容に不都合のある国や地域の場合は、日本人学校ですが、中途半端な規模の地方都市では補習校でした。

補習校にはとても感謝しています。

そこに来てくださった派遣教員の方々にも、現地採用の先生方にも、そして派遣教員を送ってくださった文科省や日本国民の皆様にも。

うちの子たちが帰国後容易に日本の生活・学校環境に溶け込めたのも、補習校のおかげあってのことと心から感謝しております。

ただ、派遣教員の制度には、いささかの見直しが必要かと思います。それについては、以前随分書かせてもらいました。

ここでは、最近気づいた点について触れたいと思います。

派遣教員の海外での勤務内容がどのように評価されるのか、また何を要求されるのかはよく知りませんが、どうやら何らかの「お土産」が必要なようです。言い方を帰れば、文科省に対して「私は3年間の間にこういう実績を残しました!」という証を立てる必要があるみたいです。

ただ、現実問題3年の任期というのは、決して長くはありませんし、そもそも日本国内ですらない見ず知らずの土地へ行って、いかに相手は日本人子女やその保護者とはいえ、3年で実績を出せと文科省が要求しているとすれば、それは無理というものです。

最近は任期にも若干の柔軟性が与えられたようで、2年から4年ということみたいですが、3年以上いた方、いるんですかね? まあ、通常は3年ですね。その3年の最初の一年は、「学び」の期間です、というかそうあるべきです。そこのところの認識がない派遣教員は、現地の人間にとっては、「かえって来てくれなかった方が良かった」ということにもなりかねません。何が何でも日本式でとか、自分の日本での経験に固執する人は、うまくいきません。まあ、実際問題、何かをしようと意気込んできたところで、相撲取りがいきなり土俵から海に飛び込んで相撲を取れるものではないように、何ができるというわけでもありません。つまり一年目から実績なんて出せません。

2年目でようやく、自分の置かれた状況が見えてきて、的確に動けるようになります。ご家庭があって派遣でこられた方は、ようやく、2年目になって家庭のなかも落ち着くのではないでしょうか。この時点でも現実が見えていない人は、もうどうしようもありません。保護者からは不満が出まじめますし、学校運営そのものにもよからぬ影響が出てきます。また、連れてきたお子さんが現地の学校で不適応を起こそうものなら、2年目でもなかなか仕事には専心できないかもしれません。

三段跳びでいえば、一年目はホップ、次がステップ。そして、3年目がようやくジャンプのとき。つまり、ようやく3年目で実績云々なんて余裕が出てきますが、1年なんてあっという間です。しかも、忙しさという点では日本にいるときと変わりません。9時5時なんていうのは無理です。となると、何とか帰国までに実績を、ということになるみたいです。

保護者として、また運営委員会に参加した立場からみて、明らかにこの先生、無理しているなあとわかる場合もありました。無理はご本人だけにかかればそれは自業自得ですが、生徒たちを巻き込むことがあります。というか、そうなる可能性が高いです。教育実績ですから、そうなってしまいます。

あるいは、業績を誇張して文科省に伝えるという方法もあるみたいです。業績報告のうち、実際のご自分の業績と呼べるものは、本当はせいぜい半分くらいで、あとは前任者やあるいはそれ以前に既に下地ができていたり、既に施行されていたものであるにもかかわらず、「私がやりました、始めました」みたいな報告を帰国後される方もいました。最近は、インターネット上で存じ上げている派遣教員の方の報告等を見ることができますので、「あ、この先生、他人の手柄をまるで自分だけの業績のように行っている!?」なんてのも、正直なところ、ありました。

「お土産」をもって帰らなければならない「宮仕え」のつらさは察して余りあるものがあると思いますが、保護者の立場からすると、はっきり言ってがっかりです。というのは、「誇張」というのは、ある意味「虚偽」、「ウソ」ですから。教師もヒトですから、ウソもつくでしょうが、必ずしも自分の手柄ではないものをまるで自分のもののように言うのは、どうなんでしょうか? そんなことをしておいて、教員として子供の前に堂々と立てますか?
教員としての「倫理」もさることながら、「志」はどこに置き忘れられてしまったのでしょうか? 「不正」をしておきながら、子供たちに「正しさ」を解くとすれば、それは偽善以外の何ものでもなく、文科省のみならず、子供や保護者さえも騙していることになりませんか?

たとえ話をしているわけではありません。「家政婦は見た!」ではありませんが、私は偶然ネット上で見つけてしまったのです。「必ずしも真実ではない」報告を。

まさかあの方が・・・と、非常にショックでした。

万一、その方が「正真正銘ご自分の実績」と信じていらっしゃるとしたら、その方は物事を冷静的確に理解する能力を何らかの事情で失ってしまわれたとしか思えません。

「見解の相違」などという言葉でごまかせるものでもありません。その方の前任者、前々任者の報告と比較すれば、「ウソ」は容易に見破られてしまうでしょう。

もっとも、派遣教員に同情するところがあるとすれば、3年で実績・業績を求める教育行政並びに教育現場にも問題はあるのでは? 家族を帯同して海外で教えるということの大変さを真に理解しているのであれば、「土産」など求めるべきではない。いや、特別求めているわけではない、活動報告させしてくれれば良いのだ、という言い分もあるかもしれませんが、派遣教員の側には「たかが報告」という意識はないのではないでしょうか?それゆえに、事実上「ウソ」をついてまで、実績を誇示しようとする教員が出てきてしまうのでは?

日本の教育行政のなかに、教員に手を「悪」に染めさせてしまうような構造的問題があるとすれば、それを改めるに躊躇すべきではないのではないでしょうか?そうすることで、一番ほっとするのは、実は派遣教員自身ではないのでしょうか?
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相撲道・・・・・(嘆息)

2010年02月24日 | Weblog
今朝の某新聞に外国人力士への相撲道云々との小論を見た。

それはもちろんのことだが、プロに限らず昨今の相撲を見るにつけ、果たして今の日本人や日本相撲協会にそれがでええきるとはとても思えない。

大相撲の、引き技の多さは毎場所相変わらずだ。大関クラスでもそれをやるのだから、下がやったとしても不思議ではない。

そういえば、現理事長も、大関時代だったか、彼自身は既に優勝圏外だったと思うが、圏内の力士、確かニ代若乃花だったと思うが、猫だましをくらわせて勝利した。勝負は勝負で勝ちにかわりはないが、子供ながらにしらけてしまったことがある。

「理事長は日本人の心がおわかりでない」とかつて軍部が現理事長と同じ出自を持つ東郷外相に言った言葉を投げかけるつもりはないが、あれは今思っても、残念な一番。もしかしたら「相撲道」の退廃は既にあの時期から始まり、現理事長も現役力士として加担していたと言えるのかもしれない。

ただ、「日本人」としては新参者の現理事長に、就任当初から果たしてどこまで相撲協会改革ができるのか疑問には感じていたが、それは決して杞憂ではなかったようで、実に残念。

アマチュア相撲の試合もひどい。ガッツポーズが土俵の上で華を咲かしているのが現状だ。
アマチュア相撲など早々見る機会はないが、実に見苦しい状況を呈している。

力士も力士なら、それを許している指導者も指導者である。

こんな状況で、外国人に相撲道の何をどう教え込むというのだろうか。

子供のころから相撲を楽しんできた私の悲しみと腹立ちは、今「もう相撲を見るのはよそう」という気分、つまり諦め、失望へとかわりつつある。
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英語ができない(拙い)=無能、という米国のお国柄

2010年02月24日 | Weblog
一般論として言えば、米国では、英語ができない、拙いというのは、その人の能力に対する評価を下げる原因になる。

しゃべってナンボというところがあり、沈黙は「無能」の烙印を押されるおそれのある国でもある。

思うに、日本において、日本語の得手不得手でその人間の能力をはかるということは、あまりしないはずだし、それが資質評価に重大な影響を与えることもあるまい。

だが、米国ではそうではない。米国人は概して気さくでフレンドリーであることには違いないが、英語ができない相手には必ずしもそうではない。相手のしゃべっていることがわからずに、尋ね返すと露骨に嫌な顔やバカにしたような表情をされたり、不愉快な反応をされるという経験を持つのは、私だけではあるまい。こちらとしては、もう少しゆっくりしゃべって欲しいから尋すわけだが、相手が同じスピードでかつ大声で返してくる。相手の表情次第では、かりに怒っていなくても、怒っているように見えても仕方がない。でも、大方のアメリカ人は、その点に気づいていないのではないか。

東アジア研究で院生をしていた米国人の友人が言っていたことを思い出す。彼の中国人の奥さんと付き合い始め、両親に彼女を紹介した際、まだ彼女の英語は十分ではなかったため、彼の母親の言ったことを理解できなかったのだという。すると母親は大きな声で同じ言葉を彼女の耳元で繰り返したというのだ。中国人の彼女は、その後彼に「あなたのお母さんを怒らせてしまったようだ」と落ち込んでしまったというのだ。もっとも、この一件は、彼が「そうじゃないんだ」と説明することで(実際、母親は怒って大声を出したわけではなかったのだが)、ことなきをえ、彼らはその数年後にめでたくゴール・イン。今も西海岸で結婚生活を続けている。

この例をもって彼いわく、「アメリカ人っていうのは、外国人が自分たちの言っていることが理解できないでいると、理解できないということ自体理解できないか、自分たちの声が小かったのだと誤解する人が多いんだよね。だから、大声になるんだ。うちの母にしてそうなんだから。でも、相手からしてみたら、なんで怒られなければならないんだ?ってことになるんだよね。」と。「うちの母にして」というのは、彼の両親はともに東海岸の某有名私大の教授であり、インテリ層にして昔からの資産家。そういった社会階層の人間ですら「外国人がネイティブの会話を理解できない原因や、相手が理解できないときにどう対処すればよいかをわかっていない」のだから、一般人は尚更のことだと言いたかったのだ。

インテリからしてそういうお国柄である。インテリでも非英語圏、非欧米圏と深くかかわったことのある人たちは、上述の彼のように対処の仕方を知っているようだが、インテリでもアメリカ国内どっぷりという人たちに、それを期待することはできないし、してもいけない。

そういう「文化」の国である。トヨタ社長の英語いかんでは、「社長としての資質・能力」に更なる?が付けられ、トヨタ叩きに拍車をかけることになる恐れも少なくはないだろう。

これをもってアメリカ人ってのは・・と批判をするのは容易である。ある意味、実にやっかいな人間たちではあるが、これが「現実」である以上、それにうまく対応していかないことには、あの国でうまく商売をすることなどできないのだ。

まあ、要は、十分な英語力を身につけるしかないと思うのだが・・・。トヨタ社長は以前から自分の将来が見えていたはずだ。であるならば、もう少し英語というものへの研鑽を積んでも良かったのではないだろうか。彼の英語では米国社会からそれ相応の扱いを受けることはなかなかに難しい。トヨタの社長という肩書がなければ、下手な英語をしゃべる典型的なアジア人のアジア人、チャイニーズ? ジャパニーズ?くらいの扱いしか受けないということを、彼はどれほど理解している(いた)だろうか?
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