くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

橋下徹は政権を狙ってはいない、

2012年01月30日 | Weblog
と私は思う。すなわち国政進出=自ら総理の座を狙うということではないと思う。橋下氏が真に賢明であり、野心や政治権力に目がくらんでいなければ。

総理の座を狙うには「隙」が多すぎる人である。それはご自身もいやというほどわかっているはずだ。

いずれにしても、国政に進出するのであれば、組むべきはパフォーマンスばっかの渡辺「みんなの党」でもなければ、東国原でもない。

「護符」を手中にすべし! すなわち石原都知事閣下と組むべし。もちろん、組み方と組むタイミングはよーくみ極めねばなるまいが、石原氏は必ず「隙」の多い橋下氏の「護符」となって身を助けるはずだ。

国家にしても企業にしても、組むべきは、頂くべきリーダーはそれなりの「運」を持った人間でなくてはならない。私はここ数年「強運」のリーダーを職場にいただいて、そのことを痛感する。決してこけないのだ。こけても一時的なもので最後には必ず我が意のとおりにことをなすのだ、その人は。

一方、安倍政権以来我が国は「下げチン」ばかりを総理にいただいてきた。金持ちに生まれても運のない麻生太郎など、その典型である。

野田総理も「下げ」というほどではないが、やはりさほどの「強さ」はない。

橋下氏も以前ここでも述べたがいずれこける相の持ち主だ。ならば、不倒翁の都知事閣下と組むか、神輿に担ぐを上策とすべきである。





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ダルビッシュは退路を断ったのか?

2012年01月30日 | Weblog
ダルビッシュの札幌ドームでの記者会見、いまだにどう解釈してよいものか個人的に判然としない。

特に、あの日本球界ではモチベーションが云々のくだり。

あれはどう理解したらよいものか。

ダルビッシュ本人からではなく、聴き手特に他球団の打者はどう見いたのだろうか。人によっては非常に面白くなく聞いたのではないだろうか。なぜなら、「お前たちなんかもう相手にしてられねえ」って言ったようなもんでしょう、あれは? 

そして、ダルビッシュ本人はなぜあのようなことをあえて言ったのか。また、なぜあのような言い回しをしたのか。
単純に考えて二通りの可能性があるのではないかと思う。まず一つに、もう日本の球界に戻る意思はなく、向うで少なくとも現役選手としての野球人生を全うするとの意思表明であったのだろうか。そして、あえて喧嘩を売ったようにもとられかねない言い方をして、日本球界と決別したのだろうか。二つ目には、ダルビッシュといういまだ25歳の青年の未熟さ、思慮の足りなさによる「事故」だったのだろうか。ファンを意識するあまり、ファンには自分の本意を伝えたいという点に重きをおいたあまり、「本音」をあのような言い方でポロリと口にしてしまったのではないのか。あのようなことを言うことで同業者がどう捉えるかというところまで考えが至らなかったのではないのか。

いや、それはあるまい。25歳とはいえ世間一般の同年代とは違う。そこらあたりの思慮分別はあるはずだから、やはり、あえて日本球団とたもとを分かって、自らの退路を断ったのではないのだろうか、と思いたい。

が、某球団のベテラン選手のかつての脱税騒動をはじめ、プロ野球人の世間知らずという点も指摘されたことがあるだけに、やはり社会的未熟さゆえの言動だったのか・・・。


いずれにしても、相当数の同業者、特に同リーグ他球団の打者連中に対する侮辱とも取られかねない発言。期してか期せずしてかいずれ日本球界へ復帰などということになれば、マスコミはともかく、そうそう暖かく迎えてもらえないかもしれない。などとくだらないことを心配するのは、私がダルビッシュのような才能も実力も胆力も財力もルックスもない凡夫であることの証明であるのかもしれない。

まあ、それは事実なのだから仕方がない。













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石原都知事閣下、新党で国政復帰か?: タイミングとパートナー問題

2012年01月29日 | Weblog
保守の立場からすれば、民主党政権を打倒し、新たな政治の枠組を構築しようとするのであれば、やはり石原都知事にする声が出てくるのは当然のことなのだろう。

既に弱い80を目前にした爺様に今更という声も出て不思議ではないが、所謂保守陣営はそれほど人材不足なのだ。特に既成政党に飽き足らない保守層からしてみたら、既成政党にすっかり根を下してしまって期待しても期待外れか肩すかしのような発言や行動でがっかりさせてくれる安倍だとか石破では心元ない。かといってそれにかわる「保守」政治可は見当たらないというのが、現状である。

都知事閣下が何らかの形で組むのではないかと目されている橋下大阪市長についても、保守の目から見れば、果たしてどこまでこの人物が「保守政治家」とみなし得るのか、「得体の知れなさ」を感じてしまうのは、この人物に如何ともし難くつきまとう「胡散臭さ」からして致し方あるまい。

さて、都知事閣下これからいかがされるか?


まず、新党結成という方向でいくのであれば、そのタイミングが肝心である。そこを見誤りマスコミ、国民の関心を失っていった新党は過去にもあった。あえて桝添新党とは言わないが。「みんなの党」というポピュリズム臭ぷんぷんたる政党も一時の注目度たるや今はいずこである。

都知事の旧知の「盟友」亀井静香氏は、早々の立ち上げを望んでいるようだ。まあ巷間にある3月危機だとか6月解散を目してのことなのだろうが、都知事閣下は急いでの立ち上げには反対らしい。私もこの点は都知事閣下が正しいと思う。亀井氏は国民新党の民主党政権との関係もある、さりとてこのままでは一蓮托生で次の選挙では奈落に引き込まれてしまう。起死回生の生き残りをかけるなら、ここは新党結成しかないということなのだろうが、今新党を立ち上げたところで、急ごしらえにならざるを得ず、結局「保守」の結成のはずが玉石混交となり、かつ今のタイミングでは自民、民主からの離党を促せるほどの情勢でもあるまい。急いては事を死損じるではないが、亀井氏の事情に引きずられてはなるまい。新党結成への動きは止めずとも、今矢庭に結成に立ち至るべきではない。


次に、その亀井氏を含め誰と組むかである。まあ、亀井氏はいずれ新党結成後ではなく結成過程において「排除」せざるを得まい。もはや、国民世論は同氏にほとんど何も期待していないのではないか。かつては都知事とイデオロギー的に近い立場にある政治家として頭角をなしたが、国民世論が政治の刷新を求めつつある機運において、亀井氏の一連の発言は、民主党と連立を組んだとはいえ、その一方で政策的には「守旧」の印象を否めないものにしている。それに小泉郵政改革以来、この人は余りにも手あかがつき過ぎたし、残念ながらキャラ的には目をひくところもあるが(「静香」という容貌や言動とは真反対にフェミニンな名前も手伝って)、そのキャラゆえに一国の宰相たるの器、自らの命運を託するに足る指導者と目する国民は極めて少ないのではないか。そんな「耐用年数」切れの政治家と組んでの新党は、マイナス要因にしかならないのではないか。またあのようなクセのある老練な政治家を引き入れては、結成後の災いのもとにもなりかねない。この際、都知事閣下には「泣いて」切るしかあるまい。

橋下氏はどうする。がっぷりに組まない方が良いだろう。連携はしてもがっぷりに身内にしない方が得策だ。維新の会とも連携にとどめるべきで合同は回避すべきだ。繰り返すが、橋下は必ずいずれ石ももマスコミに負われる身となる可能性がある。あまり上を見過ぎればすっころんでしまうことになる。こればかりは生まれ持ってのものもある、致し方ない。分際をわきまえるしかないのだ。位人臣を極めるなどということを臨んではいけない人なのだ。残念ながら、それが今の世の現実である。

愛知の大村。所詮役者が違う。敵対しない程度にうっちゃっておけば良い。向うは名古屋の河村との関係もあるし、都知事と河村では同じ一橋出身とは言え、相いれない部分が多すぎる。大村は大した「薬」にはならない。三州に大物なし。家康豊田佐吉は例外とすべきだ。尾州、三州すなわち愛知県人に「刷新」は無理だ。行って過ごせば、その意味がよくわかるはずだ。なんとも面白みも新味もない華のない地域なのである。率直にいって「進取の気性」に乏しい。


石原という極めて強運のもとに生まれ、生後強運を得てここまで来た人物の今後の去就、これは国政の今後を占うに当分は無視できないもので有り続けるだろう。


追記 それにしても石原家には何がしか助言を与えるものがあってあれをああしているのだろうか。
   自民に身を置くとはいえ、御長男氏も「華」はないが、なかなかそう簡単には倒れないものを
   持っている。助言者がいる(いた)とすれば、どなたであろうか。



















































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NHK[カーネーション」: 無理な不倫騒動の描き方

2012年01月28日 | Weblog
糸子と周防の不倫、けったくそ悪いから見んとこと思えども、家人がチャンネル権を握る当家において、私も相変わらず見ていますが、見下げた女としか言いようがない。今までのNHK朝ドラでここまでロクでももない人間が主人公であったことってあったっけ?

罰が下るといいながら、いざ責められれば開き直ってるし。周防の女房子供、心配かけた親せき縁者へのわびの言葉もないし・・。善作が生きていたら、ぶん殴って家から叩きだしていただろうなあ。

もし自分の娘があんな不始末しでかしたら、刺し違えはしないけど、まあ手が出てるわなあ・・。で、髪の毛ひっつかんでそのまま家から放り出して、勘当、縁切り、もう二度と敷居またぐな、かな。 DV? そんなの知ったことか、ですわ。で、空いての家族んところ詫びに行くかなあ・・。追い返されるかもしれんし、散々ののしられるかもしれんし、場合によっては殴られるかもしれんけど、自分の娘のしでかした不始末、仕方ないと思います。

まあ、それはさておき、それに原作読んでないからあくまでもドラマベースでの話ですが、ちょっと不倫の描き方が???じゃないですか? NHKさんもどう描写して、どう収めるか苦慮したんでしょうけど。

まず、エエとしこいたおっさん、おばはんの男女関係なんだから、肉体関係が無いってことはありえないのでは。でも、朝生の田原某は「不倫」で始まった亡き妻との関係について、正式な関係になるまではプラトニックだった的なこと書いてませんでしたっけ? 本当かいなと思うんですけど。肉体関係が無い限り司法上「不貞」ではないから、そう言い張ることで「不倫」ではないと弁解したいだけじゃないのかと疑うんですけど。それはさておき、ドラマを見る限り「この二人いつどこでしてんの?」と考えてしまう私はアホだろうか。いや、アホなんですけど。あまりにもアホで家人に聞くこともできません。でも、やはり健康な男女ならば、そういうなりゆきになるはずなのになあ・・。そりゃ朝から「セカンド・バージン」みたいなのはNHKも躊躇したんでしょうけど。

それから金曜日のアレはなんですか? 子供がしゃしゃり出てきて「ウチのお母ちゃんは・・」っての。あの時代だったら、子供が口出す話やない!ってことになるはずだし、今でも子供に口を出させるべきではないことって家庭内の会話や話し合いでもあります。子供を子供として扱わずなんて方針の家庭もあるようですが、子供に大人の男女関係の是非なんかわかるはずもなく、そこに子供に口はさませてはいけません。ところが、ドラマでは一同黙りこんでしまう。
中でもなさけないのは、糸子の母親。おろおろするばかりの決して賢母ではないですね、あの女性は。しっかろせんといかんときにできんというのは、男女問わずダメですわ。子供がわけわからずでどう言おうが、「あんたらのお母ちゃんは人間として最低のことをしてしもうたんや!」。まあ、面と向かって言うわけにはいきませんけど、スタンスとしてはそこがボトムなんだから、子供のわけわからずの母親の弁護にただ黙りこむというのは、知恵が無さ過ぎるし、ドラマの組み立てとしても安直に過ぎますね。

あと近藤正臣の組合長、不倫容認の。あれもあり得ない対応だと思うんですけどねえ・・。あるいは、あの男、余程のたぬき。組合あるいは地場産業の利益のためには、不倫なんか瑣末なことには平気で目を瞑れる、容認すらしてしまう
そろばん勘定に長けた男。もしそならきっと、糸子と周防にいい顔しておきながら、北村に対しても同情してみせたり、一緒に怒ってみせたりしてるんじゃないかと。どうも、あの人物像、リアリティーがないんですよねえ。そしてその原因は近藤の演技にあるのではなく、脚本にあると思いますよ。


無理しているのが見え見えなドラマ。そんなことだったら最初からあんなの選ばんとけばよかったのにと思います。













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NHK「平清盛」: 伊藤四朗の白河院はミスキャストだったのでは?

2012年01月26日 | Weblog
伊藤四朗という役者が「巧者」であることは否定しないが、皇族だとか公家、大名等のやんごとない役柄(まあ、系図捏造の氏素性のしれない徳川殿はじめでーみょうふぜいがやんごとないかどうかについては、雲井の近いあたりからは大いに異論もあろうが)は無理だと思う。

どんなにうまい役者でも、やはりニンを無視してはいけない。播磨屋に切られ与三をやれといっても無理な話だし、中村屋に由良之助もこれまたあり得ない花話しであるように。もっとも、「ラマンチャ」の高麗屋に直侍をやらせるなんて無茶ぶりをする松竹のことだから、まだ若い中村屋あたりならいずれ歌舞伎座や南座の大舞台で「四段目」や「七段目」をなんてことになるのかもしれないが、まあ、冒険主義にも程度というものがあろうものだ。

伊藤四朗の本領は「下々」を演じて発揮されると思う。それも相当な「下々」あるいは、下も下、社会からあぶれ出たような訳を。

随分昔になるが伊丹十三の「ミンボウの女」での伊藤のやくざ役での演技は実に見事であったが、彼には「民草」が似あうのだ。


子供の時分、ベンジャミン伊藤等、コメディアンとしての伊藤を見ていた自分から思っていたのだが、彼の「目つき」にはある種の「怖さ」がある。それを再認識したのは「伊藤家の食卓」だった。目が笑っていないのだ。ベンジャミンの時には私もまだまだガキんちょ、今のように理屈っぽく考えていたわけではないが、言葉には言い表せない何か違和感を、ベンジャミンとしてのおかしさと彼の容貌の怪異さ、特に目つきの凄みとの間に感じ続けてきたのである。

白河院という人を「妖怪」的に描こうとしたのであれば、伊藤のその「容貌」、「目つき」ゆえ、キャスティングとしては「妙」とみるべきなのかもしれない。

が、そこに貴人の風情はまったくなかった。伊藤の演じる白河院の僧形は、「院」というよりも氏素性知れずも叡山かどこかからのし上がった政僧、道鏡のごとし、であったように思えたのは私だけだろうか。

「王家」論争をめぐっては、それをもって制作側に皇室軽視の思惑があったと断定するつもりはなかったが、伊藤の白河院(伊藤自身の思想傾向は保守的なはずだが)という配役を見ると、やはり皇室の権威を貶めたいか、あるいは敬意の欠如・不足があるのやもと勘繰りたくはなる。軍人役に悪役っぽい役者を多く配するドラマに制作側の反軍イデオロギー傾向や有る方向に傾いた歴史観を疑いたくなるように。


最後についでながら、伊藤の容貌で思いだしたが、同じくNHK「カーネーション」のほっしゃん、あの人も独特の顔特に目つきをしていると思う。それは以前から感じていた、「お笑いに似つかわしくない目つきの人だなあ」と。ただ、個人的には「カーネーション」での演技はなかなかの好演であったと思う。これでお笑い芸人ではなく役者としての境地が新たに開かれたのではないだろうか。もっとも、ああしたチンピラっぽい役柄、ヤクザ系統をTV・ドラマネタにし辛い時節柄、どこまで彼の出番があるかは不明だが、役者としての可能性を示せたのではないだろうか。




























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痴漢防止ポスターに見る「(逆)性差別」

2012年01月25日 | Weblog
月末、札幌出張が決定、たぶん。

久々にすすきので生ラム食べてきたいと思います。生ラム食べると牛肉の焼肉はちょっとくどいですね。たらふく食べても、あとで口の中がラムは結構すっきりしているんです。もっとも、あの臭いがダメって言う人もいるんでしょうけど。あの臭いが苦手な人はモンゴルはいけませんね。人が集まる場所は、独特の臭いが漂っていますから。特に公衆トイレ、列車。

それはさておき、札幌行きは夏以来なんですが、前回地下鉄に乗っていて気になったのが「専用席」と痴漢防止啓発ポスターの絵柄。

まずは、シルバーシートでも優先席でもない「専用」席。「優先」ではなく「専用」ということは、高齢者、妊婦、乳幼児連れ、障害者、負傷者以外は座るなってことですよね。でも、結構そこだけ空いていたんですけどねえ・・。
台湾の「博愛座」の方が「優先」よりも聞こえが良いかなあと。ましてや「専用」って、なんだか堅苦しいというか融通が利かないというか・・・。感情的に余り好きではないですね、「専用席」。

ところ変われば品変わるじゃないですけど、やはり「内地」とは違うんでしょうか、どこか発想の仕方が?

今度こそそれはさておき、上述の痴漢ポスター。二つの手がからまった図柄なんです。「絡まっている」なんていうと隠微に聞こえるかもしれませんが、正確にいうと、女性の手が男の手をつかんでいるんです。そう、明らかに「この人、私の○●を・・」っていう現行犯!の状態を図柄にしたものなんです。

けどね、これって、どうかと思いませんか?

そりゃ、世間で痴漢の被害にあうのは「女性」っていうのが相場なんでしょう。なかには女性と思いきや「女性」ならぬ「女装」だったなんて投稿動画を見たこともありますけど。

その点否定しません。世の中痴漢行為をはたらくほとんどは男であって、その被害を受けているのは女性であろうことは。

でも、世の中痴漢はすべて男ですか? 「漢」というからには男なんですけど、世の中「痴女」ってのも実際にいるんですよ。もちろん私はその被害にあったことはありませんけど、某元トレンディー俳優さんなんか学生時代に通学途上電車のなかでズボンかパンツのなかに女性に手を入れられたって話ししてましたけど、私の大学の後輩も通学中に・・。


いるんですよ、中にはそういう大胆な女性方も。


もしかしたら、実際には私たちが考えている以上に痴女って多いかもしれませんよ。ただ、男はその被害を受けてもそれを「被害」だとは思わないのでは? 後輩も「○●◎が起っちゃって、思わず感じちゃいました!」なんてあっけらかんと喋っていましたけど、もし私がその立場だったら、今じゃなくて、当時の若いやりたいざかかりの頃ですけど、同じ反応したんじゃないでしょうか、心身ともに。


期せずして大事なところやその周辺もモソモソ、ゴソゴソ (シコシコ?)されて喜ぶのは男で、喜ばないのは女?なのかもしれません。

だから世間では、というか認知できる限りでは、「痴漢」行為の被害者は女性。

でも、現実には100%そうというわけではない。

でも、札幌に限らず、痴漢防止ポスターって、皆女性を被害者、男性を加害者として描く傾向にありませんか?

これってある意味、痴漢行為に対する固定観念の固定化、しかも必ずしも事実と一致しないものの固定化につながるのでは。そしてそうした現実との不整合を伴う認識が差別を引き起こすのでは?


まあ、ぶっちゃけ、そんな小さなことどうでもいいんです。

でも、日頃、男女同権だの、平等だと、機会均等だのと騒ぐ連中ならば、そうしたことに熱心なプロ市民なり学者なり、政治家なり、いかに瑣末なこととはいえこうした差別・偏見の温床になるような事態を、彼らならばこそ無視してはいかんのじゃあないですか?

でも、得てして彼らは男性が虐げられているケースに対しては寡黙ですよねえ・・・。思うに彼らのすべてとが言わないが、一つの傾向として男女差別の問題を階級闘争的な文脈でとらえているんじゃないだろうかと? ならば、男の立場を擁護するなんて発想は期待しても無駄と・・。


















































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大川小学校児童のご遺族の皆さん、校長を責める前に自己批判すべきでは?

2012年01月24日 | Weblog
まだ魔女狩りが続いていると知って驚いた。

3回目の説明会。

また生き残ってしまった校長は晒し者。これじゃあ、文化大革命をとやかくは言えない。

何とも執拗というか粘着質と言うか・・・。

子供を悲劇的なかたちで失った親や家族は悲しみと怒りのやり場を学校や教育委員会に求めているのだろう。
私も個人的に石巻市や教育委員会の責任を「無し」とはしない。

教育委員会というところは、残念ながらお役所的というか、現場知らずなところがあって、現場教員のなかにも批判、不満が無くはない。なかには元々は現場教員だったのに「優」な先生だったのか、若くして教育委員会に引き抜かれ、そこで10年以上なんて教師にも会ったことがある。確かに頭の切れる人、事務屋としては仕事の実によくできる人だったが、言うことが理屈っぽく、現場の実情にそぐわない空理空論が多かった。そうした人がやがて教頭、校長として
現場に舞い降りてきた日には、教員たちにはしんどいことになる。


避難場所が特定されていなかったのは、想定が甘かったとの判断は免れまい。

裏山への避難経路も確保、整備されていなかったという。これも生徒を無事保護できた他の地区の学校に比べて、やはり批判されても仕方ないのかもしれない。

しかし、大川小学校のある地域は少なくとも明治以降は冠水を経験していない地域であったのではないのか?

防災、災害避難は大かた過去の経験値というものが下敷きになる。「権威筋」の未来災害予想などクソの役にもたたないことは、今回に限らず過去にも繰り返し証明されてきたわけである以上、やはり過去に頼るしかない。震災後評価されている「てんでんこ」も経験値から出た知恵である。

その過去の経験値から大川小学校関係者や地域住民が甘くかつ結果論的にいえば致命的な判断を下したとして、一体どこまで教育委員会、学校を責めるべきであろうか。


特に一学校の校長に怒りの、批判の矛先を向けるのはいかがなものか。

本来なら「無事で良かったですね」と声をかけら得るべき一個人のはずだ。家族は本心「無事でよかった。運が良かった」と思っているはずだ。でも、そんなことはとても口にできる状況ではないはずだ。「針のむしろ」という言葉があるが、校長とその家族の今の心境は「針の・・」どころか「生き地獄」ではないだろうか。

残酷な話である。

数年おきに勤務校を変わる教員に、校長に、一体どこまでの避難対策ができるというのか。既定の避難マニュアルに従うだけというのが通常ではないのか。学校長の個人的判断で避難方法や経路、場所の変更や避難路の設置などできるものではない。そんなことは言わずもがなのはずだ。

ましてや上述の通り、過去の経験値によれば、今回のような事態は想定できなかったはずだ。その想定の是非を元利色とは言え一現場職員でしかない校長に問うのはいささか度が過ぎるというものだ。

最新の報道によれば、校長不在の震災発生時、教頭は裏山への批判を主張したというではないか。それを反対したのは、地域のことを教員などよりもより知っているはずの地区行政区長だったという。

地域住民である「長」のつく人間に反対されて「それでも」と言うだけの度胸ではなく、自らの判断が正しいと確信するだけの論拠を教頭が見出せたとはとても思えぬ。もし私が教頭の立場であれば、地元民の反対に対して、「地元の人がそういうのであれば」と自論をひっこめたと思う。

繰り返しになるが、当時校長は不在だった。正当な理由での不在だった。そこで悲劇が起きた。そして、避難対策の「落ち度」を今責められている。「人災」だと言って。教育委員会自身「人災」を認めている。だが、それを言われた校長はまさに「地獄に生きる」思いだろう。

生き残った休職中の教員のことも心配だ。かつては「逃げた」とのいわれなき批判に晒されたこともあるという。実際はそうではなかったそうだ。とっさに複数の児童を助けたそうだ。で、それ以上なにができたというのだ。末端の一教員にまで判断ミスを問うのか。そんな権限はないはずだ。組織を経験した者ならそんなことは容易に理解できるはずだ。学校は、教頭はそう判断したが、自分と自分の学級だけは別行動をとるなどという判断をできる教員などドラマの中でもなければ文字通り皆無であろう。生き残って、可能な限り児童を助けて、今「学校」の一部として批判に晒される。これこそ「死ぬ」こと以上の過酷ではないのだろうか。

サンドバッグを求めている。亡くなった児童の家族たちは。悲しみ、怒りを思いっきりぶつけるサンドバッグが欲しいのだ。

親として理解はできるが、そんなあさましい行為は辞めるべきだ。少なくとも、校長や生き残った教員という一個人に怒りの矛先を向けるべきではない。

同時に、大川小の学区に暮らしていた児童の保護者たち、あなたたちは勤務校を数年おきに異動する教員たちよりも地元のことをより知っていたのでないのか。ならば、あなたたちの日頃の防災意識、防災対策はどうなっていたのでか?
今回のような事態を想定していましたか? 具体的対策は? 子供に、我が子にどのような防災教育を行ってきましたか? 

あなたたちにだって、想定外だったのでしょう、今回の事態は? あなたたちの暮らす地域の行政区長が裏山への避難に反対したくらいですから。山への避難こそ危険という判断は、経験値による地元から出た判断だったのですが、そうした認識が地元にある程度あるいは共通認識として共有され得る素地があったのではないですか?

ならば、今回の悲劇はあなたたちの認識の甘さにも原因があるということではないのですか?

行政や教育委員会を避難するのもいいでしょう。でも、彼らの認識をあなた方も共有していたのでは?

他人を責める前に、まずは我が子を守り切れなかった我が身の不明を責めてはいかがですか、校長を糾弾し続けるくらいなら?


そして、校長にも家族や子供がいるという点にも思いをはせてみませんか。お子さん方、自分の父親が晒し者にされて、どんな思いでしょうか?

やり場のばい悲しみ、怒りはわかりますが、それを立場的に事実上無力であった一個人に向けるというのは、もうやめにしませんか?

それとも、校長に「お前も死ね」とでも言いますか? あえて責めて責めて追い込もうとでもいうのですか。

他人を傷つければ、いずれあなた方自身をも傷つけることになるのです。もうそんなことは本当によしにしましょう。
亡くなられたお子さんがた、親のそんな姿をみて、喜びますかねえ? 









































































































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長谷川博己しかり、最近は爬虫類系イケメン(?)が流行り?

2012年01月23日 | Weblog
NHK「カーネーション」の主人公の不倫相手役の役者さん、確か同じNHKの「セカンドバージン」はじめ最近よくドラマに出ていますが、同ドラマ出演の長谷川博己といい、爬虫類系顔。

韓流イケメン?、私自身はぜんぜんイケメンだとは思わない。正直目鼻立ちの整ったのは華流スターの方が多いと思うんですが(特に台湾の原住民とのハイブリッド系とか)、その韓流でも爬虫類顔がちょくちょく。もっとも、エラが張っているという点では、両生類系というべきでしょうか、こればかりは民族的な特徴もあっていかんともし難いんですが(それに韓流スター、髪型で隠れているだけで意外と絶壁頭が多いのでは? これもあちらの古来の風習もあってか多いんですけどね。それともあのせんべい布団のせいかな?)・・・。

私は、同性として経験値的に爬虫類顔に「良い人」無し(あるいは少なし)、だという認識をもっています。

実際、人相学上も爬虫類系はあまり良くはありません。

そういう男だから女房子供いるのに不倫しちゃって、自分の家庭ばかりか相手の家庭にも波風を立てる・・。制作側はそこまで考えて配訳したんでしょうか? だとしたら、なかなか奥深いドラマってことでしょうか?


それはさておき、今時の女性方、爬虫類顔のどこに異性を感じるんでしょうか? 爬虫類が苦手な私にはわかりまペン!





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NHK「カーネーション」: 糸子はん、ついにやってもうた・・・

2012年01月22日 | Weblog
絶対口にしてはならん言葉をついに吐いてしまった・・・、二人とも。

あのなー、そりゃ、実際に不倫した者の家族とか、その被害者を見たことない人は、ふんふんって冷静に見てられる。

でも、現実はまさに「修羅場」、「生き地獄」。

幼馴染、女房が高校の同級生と不倫してて子供二人残して、「愛」か「肉欲」かしらんが逃避行。

それからの残されたダンナ、子供、その親兄弟の味わった辛苦たるや・・・。はたで見ていても「あの女殺したろか!」ってくらい思いますよ。もうかれこれ10年以上たつけど、表面的にはなーんも無いように見えるけど、実際、
傷跡どころか傷はいまだにふさがっていません。勤め人の旦那は不景気の世の中おいそれと転職もできずで、子供たちを両親に預けて親子生き別れ。両親もこれから老後をってところに再度の子育て、孫育て、しかもその最中にお爺さんの方は病気になるし。お婆さん、数年のうちにすっかり白髪頭になって、やせ衰えちゃったからねえ・・・。「孫と一緒に死のうとも思った」って。資産家だけど、カネではどうにもならないことって子育てにはあります。

娘の不始末に向うの親も相当シンドイ思いをしたらしい。孫には会せてもらってないらしい。

一番の被害者はやっぱり子供。近所ではあれこれ噂されて、それが子どもの耳に入って学校であれこれ言われる。意地の悪いガキなんか、事情を知ってわざと「お前のお母さんどこいったの?」 中学生にもなれば「あいつの母親、男と逃げたらしいぜ」となる。

母親を恨むなと言っても無理なことで、きっとそうした気持ちは一生どこかに残るんだろうなあ・・。血肉分けた実の親を恨みつづける。なんとも残酷な話で・・。


他にも不倫の後の悲劇は見たことあるけど、そりゃ、涙と憎しみ、うらみしか残らんよ、被害者のもとには。


そういうこと考えると、私のなかで糸子ってのは、「外道」。もう人間として終わった。

実際のコシノ母も、どこまで自分の行いを悔いていたんだろうか?


あの糸子って女は、確かに強いけど、手前勝手なやっちゃなあ・・・。


なんで「好きでした」を心の奥底にしまって封印せんかったんだろう。

で、男も男だわな。

だから、NHKも安易に不倫を題材にするなって言うのに。20年以上前に不倫ブームをつくった某民放じゃああるまいに。






























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NHK「カーネーション」: 「不倫・略奪愛」もそのまま描く?

2012年01月19日 | Weblog
まさか、NHKがとは思うが、朝っぱらから「身の下」相談ネタをやる昨今のNHKである。もしかしたら、事実をそのままって可能性も否定はできない。

コシノ三姉妹の御母堂様、後家になって後、戦後既婚者の男性と内縁関係に。つまり事実上に略奪婚、不倫。

まあ、そういう曰くつきの女を主人公のモデルにしてしまったわけで、今後どうするんでしょうか?

朝っぱらから昔風で言うところの「よろめきドラマ」路線やるんでしょうか?

そういえば、昔は午後1時ごろからライオ奥様劇場とかやってました。よろめき系じゃないんですが、嫁姑もので市毛良枝がブレイクしたのも、この番組。和田アキ子が主演したこともあったんです。もちろん、よろめきではなく元気がとり得なだけの幼稚園の保母さん。

それはそうと、例の周防とかいう職人と・・・な展開になるんでしょうか。


でも、そりゃ不味い。

NHKだからとは言いません。

朝だからとも言いません。

だって、まだ御相手の、要は「被害者」の方々ご存命では? 例えば相手のお子さんだとか?

そんな古傷に塩をぬるようなマネしちゃあいけません。

それでもやるっていうなら、NHKさん、御家族さんの受信料を放映期間だけでもタダにしてあげなさい。

もしかしたら、古傷なんてもんじゃなく、いまだになまめかしく傷のままかもしれません。沢田研二の歌にあったじゃないですか、「体の傷なら治せるけれど、心の痛手はいやせはしない」って。その通りだと思います。

あるいはせめて、相手の男が実は長崎のピカで家族を全員亡くしていたくらいの設定にしてください。

でも、それでもご家族は思うでしょうねえ、「わてら、死人扱いかい!?」って。「バカにしとんのか、われっ!?って怒り狂うかもしれません。


それとも、その部分はスル―で行きますか?


それにしても、厄介なヒロイン選びましたなあ・・・。

まあ、今回そのまま描かれたら、将来鳩山元首相夫婦がドラマ化されたときにも、略奪愛はそのまま描かれるんだろうなあ・・・。






























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何をいきがっているんだろうか、このガキは?: 芥川賞田中慎弥

2012年01月18日 | Weblog
バカじゃないのか、この39歳。としか言いようがないなあ・・・、こういう輩は。
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札幌の隠れた?肉まんの名店: 澄川の「ふくらや」

2012年01月18日 | Weblog
南北線澄川駅から藻岩山を正面に見ながら南下すること約5分のところに「ふくらや」があります。

地味な店構えなので、雪深い今なんか車で行こうものならうっかり通り過ごしてしまうかもしれません。精進川を越えて、モールまで来てしまったら、もう行き過ぎです。

「ふくらや」の肉まんおいしいです。 札幌の地元では既にTVで取材もされていますし、大泉洋もごひいきだとか?
まあ、肉まんというのは、中身の味付けや具材により好き嫌い別れるところでしょう。私は、北京なんかでお目にかかれるシンプル系が好きです。しいたけだとか竹の子のゴタゴタ入っていない肉と薬味だけっていうやつ。味つけも甘い系はダメ。だから広東系の甘ーいチャーシューの入ったのはぜんぜんだめ。シンプルな塩系、醤油系がいいです。北京の西単の入り口に有名な饅頭屋があります。肉は醤油でまっ茶色ですが、ものすごく濃い―味付けです。まあ、これは私のなかでは例外的な存在として、基本的に、饅頭をわったときに見える中身の色が白っぽいのが好きです。

昔北京に行くと、季節関係なしに早朝から人の集まるところのあちこちで、天安門広場でも肉まん売りを見かけたが、
アレ系の肉まんです。だから、コンビニ系や中華街のサイズで話題をとっている大ぶりなのとは違います。昔北京駅前の食堂で売っていた肉まんもシンプリ系でした。ただ、中国は今でも、やたらと中身の小さい肉まんが時々あって、割ってみて初めて「あれ?」なんてことになるんですが、まあこれは「中国だから」ってことで納得しときましょう。日本でも衣ばっかのエビ天とかあるのと同じです。

とにかくお肉の味を楽しみたいシンプル塩味系の肉まんが好きな方は「ふくらや」、おいしいと思います。

あんまんは粒あんですが、上品な甘さ控えめでおいしいです。

そして隠れた名品はなんといっても大根まん! 飲茶に出てくる大根もちのようなのを想像していたんですが、違います。干しエビで味付けした千切りの大根が入っているんですが、これが!!!

おばちゃん一人で店を切り盛りしている様子。気前の良いおばちゃんで、たくさん買うと幾つかおまけしてくれました。


おばちゃん、その節は息子たちが文字通り毎度毎度おまけしてもらって有難うございました! あのうるさい兄弟がぱたっと来店しなくなって変だと思いませんでした? 実は、 札幌に住めると良かったんだけど、事情があって札幌転勤は急遽なしになっちゃいました。 でもまた札幌に行ったときには、寄らせてもらいます。火曜日は定休ですよね?






















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野田聖子の因果応報: 現代人の「勘違い」の一例

2012年01月11日 | Weblog
50歳で夫と別の女性の受精卵で出産。しかも障害を持って生まれてくると知りつつ。更に出産後もトラブル続きで、いまだ再度の心臓手術を待つ身の我が子。

これは、まさに、野田聖子氏本人の選択の結果なのである。

子供を欲しい、産みたいという一個人の気持ちを理解できなくはない。男であっても我が子の出産に一度ならず立会いその喜びを妻と享受した経験を持つ身として、我が子を得たいという気持ちは人として実に自然かつ真っ当なものだと思う。「子供なんか要らない」という既にメスとしての存在意義をも自ら進んで放棄するような「生き物」が少なからず巣食う世の中にあって、野田氏は実に健全な女性である。某私立汝学校でのてんまつや「野田姓」のこと、議員になってからの交友関係等、毀誉褒貶はさまざまな人だが、真偽は定かではないため(もっとも事実ならば明らかに国会議員に相応しくはないのだが)、その点での評価を指し置けば、実に同情に値すべき人である。彼女が「女性」という「男性」にはない出産の機能を持つヒトであることを考えれば、親になることへの切望と親としての喜びは「種付け」しあできなければ、授乳もできない男親の私のそれなど遥かに及ばないものに違いない。

が、彼女を美談の主人公にしてはいけないと思う。

国会議員の立場にあるものが、いまだ世間的評価・判断も一定しない他人の受精卵を使っての妊娠、出産に及んだという点について(たとえ精子は夫のものとはいえ)、いかがなものかと思わざるを得ない。

それ以上に私が納得できないのは、50歳という年齢で子を産むことの我が身はおろか我が子に及ぼし得るリスクの高さを知らなかったはずはなく、それをあえて承知で妊娠・出産に及んだ点である。例えば、35歳を過ぎればダウン症をはじめ生まれてくる子供が障害を持つ可能性は格段に高まり、40歳を過ぎれば尚更のこととなる。それが50歳にして・・。


そして結果は・・。


「なんとしてでも我が子を産みたい」という彼女の切実なる願いを考えれば、同情できぬでもない、決断であったと思う。

が、見方を変えれば何と「非情」な決断をしたものかとも思わざるを得ない。


「産みたい」という己の願望・欲望を貫徹するために、我が子に負わせた重荷の大きさたるや・・。

どこの親が望んで我が子に重荷を、もしかしたら一生逃れることができないばかりかその一生をも苦難に満ちたものにしかねない重荷を背負わせようとする親がいるだろうか?


そうなる危険性を知りつつ、妊娠・出産に及んだ野田氏の「我が身、我が思い優先」の姿勢を私は理解することはできないし、理解したくもない。


エゴ以外の何物でもない。それも生まれいずる我が子を犠牲にするかもしれない可能性を理解したうえでのエドである。ある意味、実におぞましい母親ではないか。

私はもし妻が同じ立場であったならば、離婚に至る可能性を覚悟してでも彼女を思いとどまらせるるであろう。なぜなら、親として我が子にあえて重荷を背負わせる選択など、親としてすべきではないと思うからだ。

それは明らかに「罪科」であると考えるからだ。

「生まれいずる命」は尊い。だが、その「命」に「生まれいずる」べきか否かの選択はない。随分昔に出た某エセジャーナリスト(私は彼をエセであり、デマゴーグであると思っている)の「殺す側・殺される側」の論理ではないが、もしかりに野田氏が妊娠後子供の障害を知って「堕胎」の選択をしていれば、見方によっては彼女は「殺す側」んも論理をとったことになる

それがいけないというのであれば、産むべきであり、実際に産んだ彼女の選択は正しかったのか?

妊娠後何カ月もたって胎児の障害が発見されたというのは、野田氏に限った話ではない。もしそうした事態に直面したとして、私と妻がそれでも産もう」と決断するであろうか、その立場にたってみないとわからない。ただ少なくとも、すんなろ「堕胎」という選択にはならないと思う。

だから実際に出産という彼女のした選択を理解できなくはない。

が、彼女の場合、生まれてくる子供の障害が想定外であったというケースではない。最初から常識のレベルで想定できたはずだ。にもかかわらず、出産以前に妊娠を選択したという時点で、むしろ発想としては「殺す側」と同じ論理が背景にあるのでないのか。つまり「子供のため」といいつつ実は最優先させたのは親である自分の都合。つまり、野田氏の場合、「産みたい」という欲望・願望である。

仏教的にいえば、我欲の果ての因果応報。それが今の野田親子の現状でないのか。親の野田氏が己の業を背負うのは致し方ないが、因果律のくびきに苦しまねばならないかもしれない子供は何とすれば良いのだ?

そしてこうした我欲へのひたむきさは、野田氏のみならず現代人間社会に多くみられる現象ではないのか。野田氏の「産みたい」もそれと真逆の選択である「産みたくない、産まない」という選択も、実は同根。根底にあるのは己の欲望なのだ。

戦後日本社会でいえば、そうした欲望は自由だの権利だの、人権だのという言葉によって正当化されてきた。我が身が今あるのは先祖代々の連綿たる家系の維持のおかげであることを忘れ、己の利益・欲望のために「産まない」選択をして、悪くすれば自らの家系に絶家の運命をもたらしてもいささかも臆しない輩がいる。家制度なんか、家系なんかという。忘恩以外の何ものでもなく、そういう連中こそやがて老後孤独のなかにもがき苦しみ朽ち果てて行く。これも因果応報、自業自得である。野田氏の場合は、「産みたい」という我が欲を貫いった揚句に、我が子に障害を負わせ、彼女自身もそれと向き合わねばならないというハメに陥った。彼女ばかりではない。彼女の夫、家族にも負荷を与えていることは想像に難くない。

しかも彼女の子どもは、彼女の胎内から出たとはいえ、彼女は本当の母親ではない。人種も違う。このことが将来子供のにいかなる影響を及ぼし得るか予想するのは容易ではない。私の周囲ではハーフの子供が、おのれのアイデンティティーや居場所に悩む姿を一例ならず目撃したことがある。それは日本社会の閉鎖性、不寛容さのせい? いや、アメリカでの話である。

私は野田氏にお勧めしたい。しでかしてしまった「業」は致し方ない。ならば、その余生のすべてを我が子につくすことにかけることである。ならば、国会議員のバッジははずされるべきであろう。ただでさえ国会議員と母親の2足のわらじは容易ではない。必ず普通の母親並ではいかなくなる。ましてや彼女の子供の場合今後普通の子供以上の世話が必要になるかもしれない。それにもかかわらず国会議員のままでいれば、議員としての仕事に負荷が生じる可能性が出てくるが、それでは国家国民に申し訳が立たぬ。議員としてあるべき姿ではない。

ならば、母であることはもうやめられないのだ。少なくとも我が子が独り立ちするまでは政治から離れて、母であることに専心してはどうか。我欲を捨てて・・・。

あなたがそうした姿を世間に示すことこそ、国会議員との2足のわらじをはき続けるよりも、国家国民に対する貢献度は高いと思うのだが?

























































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NHK大河『平清盛』批判: 低レベル知事井戸敏は兵庫の「ハジ」では?

2012年01月11日 | Weblog
大河をテコに地域観光振興というのは、今やパターンだが、大河は観光のためのものにあらず。

ましてや兵庫県のために制作されたものでもない。


史実等どうでも良いとは、これほど浅はかで「軽い」発言はない。 

知事という職を思えば尚更だ。

ナントカは歴史に学ばぬという。

もっとも、大河というフィクションから学ぶものなどあるとも思っていないが、
だから自分たちの銭儲けに都合のよいように作れというのいは、捏造だらけの韓国歴史ドラマと同じでいけと言っているようなもの。

こんな程度の男を知事に持つ兵庫の皆さん、恥ずかしくありませんか?





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だから思想・信条の悪い人間は「処分」するしかない!: 平田信容疑者の逃亡生活を助けた「元」信者

2012年01月10日 | Weblog
逃亡者を10年以上にわたって助けてきた元信者斎藤明美。

元信者。

「元」が、かつて自分が帰依した教団が犯した犯罪の共犯者を10年以上も援助・・・


だから、転向とか脱退、脱会なんて信じられないんだって!


一度脳ミソのなかにしみ込んだ思想は、その人間が死ぬまで消えないから。

そんなやつらが結婚して、子でもなしたら、思想・信条筋の悪いやつらが再生産されていく・・。


悪い思想を持った人間なんかさっさと「処分」すれば良いのだ。


人道、人権?



そう、その通り! その他大勢の人権、生命・財産を守るために、処分すればいいのだ! 無慈悲に、いやその他大勢への慈悲の心があるのなら、粛々とウジ虫を踏みつぶすように処分すれば良いのだ。


覚せい剤と同じ。一度おぼえた悪い思想は消えない。


元アカやそのシンパも同じ。だから、ナベツネとか塩崎とか自民党の、学生運動でがんばったオッサン、爺さん連中は信用しちゃあいけない。

だから、民主党も。


思想・信条による「大粛清」、スターリン流とは言わないが、それが今の日本には必要じゃないんだろうか?

反国家、アカとその新派、反国体思想(に一度たりともシンパシーを感じたもの)は、すべからくその対象とすべきだ。

「多様化」ではなく「純化」が今の日本には求められている。























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