くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

日本政府は正気か?

2007年04月30日 | Weblog
日本政府は一体何を考えているのだろうか。

時事通信は以下のように伝えている。

漫画「はだしのゲン」で核軍縮を訴えて-。日本政府は30日からウィーンで開催される核拡散防止条約(NPT)運用検討会議第1回準備委員会で、広島の原爆被害を描いた漫画「はだしのゲン」の英訳版を加盟国に配布する。世界で人気の高い日本の漫画などソフトパワーを活用し、各国の代表や若者たちに原爆の悲惨さや核軍縮・不拡散の必要性を伝えるのが狙いだ。
 日本政府は同委員会で、原爆投下前の被爆地の街並みを再現したCG(コンピューターグラフィックス)も上映。平和・軍縮をテーマにしたマンガ・コンテストの開催や、核保有国を含む各国の学生を日本に招聘(しょうへい)し、日本の学生との討論会を開くアイデアも提案する。 

政府の役人、政治家たちは、「はだしのゲン」を読んだことがないのか?

原爆の悲惨さを伝えたいはいいが、なぜ「はだしのゲン」でなければいけないのか?

昨今の日本の漫画の世界的な人気にあやかり、漫画のアピール性に期待してのことかもしれないが、ではなぜ「はだしのゲン」でなければいけないのか?

原爆を扱った漫画と言えば「はだしのゲン」。確かにそうではあるが、あの恐ろしく偏った歴史観や事実の不正確さを政府が国際的に拡散させるということになる危険性はないのいうのか? 

戦中日本に対する批判、特に昭和天皇批判は目に余るものがあるが、日本政府は同じ歴史認識を共有しているということなのか?

「はなしのゲン」の作者は、某政党のシンパないしは党員という説もあるが、もしそうだとすれば、そうした政治的、イデオロギー的な背景をもった作品を政府が利用するということもこれまたいかがなものであろうか?

「はだしのゲン」、私は全巻読んだが、決して子供に読ませたくはない漫画だと思うのだが・・・。あのイデオロギー臭と歴史認識の偏向には我慢のならないものがあるから。

日本政府は、正気の沙汰か?

安倍総理、これを放置するは、あなたの責任問題でもありますよ?
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綸言汗の如し その2の2

2007年04月28日 | Weblog
前稿では、私の立場表明をすることをすっかりわすれていた。

「綸言汗の如し」、このタイトルこそ、私の靖国における所謂「A級戦犯」合祀を」めぐる問題に対するスタンスなのである。

すなわち、所謂「A級戦犯」は分祀されねばならない。かりに靖国の現行の協議において分祀が難しいというのであれば、それを可能とする理屈を新たに作ってでも分祀すべきであると考える。

否、理屈は既にある。先帝陛下の思し召しがあるではないか。天意に背く靖国神社などというものがあってよかろうはずはない。いや、存在してはいけない。今ここに大御心の"幾分"明らかにされたのをもって、靖国神社はそれに沿う行動をとるべきなのである。

しかしながら、誤解されたくはない。私は、「A級戦犯」を十把一絡げに分祀しろとは言ってはいない。なぜなら、先帝もそうおっしゃってはおられない。もっと厳密に言えば、松岡、白鳥以外の具体的な個人名には言及されていないし、逆にその両名だけは具体名を挙げられていることからして、先帝のおっしゃられた「A級戦犯」=合祀されている所謂「A級戦犯」全員と安易に理解することもこれまた、現時点においては、無理がある。すなわち、現在ただ今明らかにされたのであろう大御心に沿えば、合祀されている「A級」全員ではなく、上記の二名だけをとりあえずという措置を靖国は取るべきではないのか。

繰り返しになるが、先帝がこの両名の合祀に抵抗感を持たれたとして、まったく不思議なことではないということは、我々肝に銘じておくべきであろう。両名は大御心にそぐわぬことをして皇運を貶めたのであるから。そのことは、日米開戦に障害の不覚と涙した松岡自身よく理解していたはずなのだ。

君上の無謬を私は信じないし、上を諫することは君臣関係のあるべき姿であり、また臣道のあるべき姿でもあると考える。しかしながら、先帝陛下のご生前の御心を私は諫言、諌止の対象とは考えていない。

ただ、ここで私自身気をつけねばならぬのは、私の「綸言汗の如し」の立場、すなわち分祀論が、他の連中の分祀論と「分祀論」という同一のカテゴリーにくわえられてしまうことなのである。私は、中国がどうこう言うからとか、かつての「被害者」たちに心情を慮ってなどという理由で分祀を言うのではない。むしろ、諸外国がどうのこうのとか、戦前あるいは近代日本の我が国の対外行動をまずは否定・非難ありきで評する歴史認識から出た分祀論に対しては断固「NO!」の姿勢を取るべきであると考える。私の分祀論は合祀された「A級」全員を対象にしたものでもなく、あくまでも叡慮に沿いたい、また沿うべき理由のある叡慮と思うからに他ならない。

であるから、先帝を利用して、現時点において、「A級」すべての分祀を主張する輩とは一線を明確に画したい。先帝が「A級」全員の分祀とは言っていない以上、その部分を勝手に拡大解釈して利用することは不敬である以前に、それがかりに先帝以外から出た言葉だとして、破廉恥かつ卑劣である。

さあ、靖国神社側はどう動くのであろうか。以前、富田メモの出た後の動きはなかったと、私は理解している。それどころか、私の記憶が正しければ、その後に分祀しないことの再確認をしているはずである。今回も分祀に向けて動くことを期待しても無駄だと正直思っている。

それに、分祀を不可能にしているもう一つあると考えている。以前にもここで述べたが、朝敵藩のお殿様が宮司である限りは、そうした思い切った行動はとれまいと。

天皇陛下の御親拝復活のためには、どうしたらよいのか?もう道は一つしかないのだが・・。靖国側の頑なな姿勢にいらだちを感ぜずにはいられない。
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綸言汗の如し その2

2007年04月27日 | Weblog
昨年、所謂富田メモなるものに関する報道により、靖国神社への所謂「A級戦犯」の合祀に対する先帝陛下の叡慮あるいは大御心"思われるもの"が公になった。

その結果、先帝陛下の思し召しなるものを恃みに、A級戦犯の分祀を主張する向きもあれば、富田メモの史料的信頼性を問う声もまたあり、更には、ネット上では選先帝に失望したなどという声まで上がった。

私は、専門家ではないので、あるいは所謂アーキビストではないので、富田メモが先帝の思し召しをどこまで正確に伝えているか判断する術を持たない。すなわち、メモの史料的な価値を云々する立場にはない。

但し、富田メモの内容は決して驚愕すべきものではないと考えている。メモによれば合祀されたA級戦犯のうち、松岡外相と白鳥駐伊大使の具体的な名前は挙げられているが、先帝がこの二人の「英霊」としての合祀に抵抗感を持たれたとして、昭和史を若干でもかじったものならば驚くことではないはずだ。独伊との軍事同盟をめぐる問題で、二人は積極推進派であったのに対して、先帝はその対極にいらしたのであるからして、我が意に添わず三国同盟を推し進め、結果、国運を未曽有の難局に追い込んだ者を「英霊」として親拝することを忌避されたとして不思議ではあるまい。

名前こそ出てこなかったが、もしや先帝陛下、板垣あたりにも抵抗感をお持ちだったのではあるまいかと推察するが、私のような下々の最たる者が、叡慮を詮索するは僭越至極、不敬の極みというものだ。

この富田メモをもって、「さあA級戦犯分祀だ!」と息巻くのはいいが、上記のごとくそこには一部の個人名しか出てこず、先帝がA級戦犯全員の合祀を疑問視されていたとは断定できないのではないのか。

そのことは、今回の卜部日記にも言えることではないのか。

それはさておき、それにしても、卜部侍従の所業に、不快を覚えるのは私だけであろうか。以前の入江日記もそうだが、叡慮のお側に身を置く者どもが、勝手に見聞したことを他言ないしは暴露するというのはいかがなものであろうか、君臣の関係において、果たして妥当のこととは到底思えない。戦前ならともかくも、戦後の」象徴天皇制の下にあっては天皇と侍従の関係はもはや君臣のそれではなく、天皇が公的存在である以上は、侍従によって記された天皇の姿は公にされるべきものということか。あるいは、歴史学的な学問的な重要性において意義ある行為と自己評価してのことなのか。私的には、学問的な価値や意義が「錦の御旗」よろしく大手を振ることに、学問ないしは研究というものがそんなに偉いかといいたくなる。研究者・学者という連中が上から下に世の中や自身の研究対象を見ているのではないかとすら思えてくる。侍従の方々もどういうつもりだったかは知らないが、こっそり記録して観察対象の死後になって暴露するというのは、あまり品のよろしいことではないとしか思えぬのだが。もっとも、先帝陛下の御許しのもとで記しかつ公開したというのなら話は別だが。

閑話休題。

続く。
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安倍政権は倒されねばならない!

2007年04月27日 | Weblog
カルタゴは滅ぼされねばならない。大カトーは演説の終わりをこの言葉で締めくくったというが、私はここで言いたい。

安倍政権は倒されねばならない!、と。

なぜか? 今回の訪米ののっけからいたく国益を損ない我が国の体面を傷つけたからである。

つまり慰安婦問題での「謝罪」である。

慰安婦が辛酸をなめた? 確かにどうかもしれない。売春の世界をこの世の苦界とも呼んだことからして、身をひさぐことの辛さは筆舌に尽くしがたいものがあるに違いない。

ただ、だからと言ってなぜ謝罪なのか。インドネシアの旧宗主国オランダの女王ないし首相が、「からゆきさん」に申し訳なく思うと「謝罪」を求めるバカがどこにいるというのだ。

米国大統領が、終戦後我が国に設置された進駐軍向け「慰安所」に関して、「辛酸をなめた方々に申し訳なく思う」などと言うであろうか?あるいは元パンパンの皆様、ご苦労をお察し申し上げ、米国元首並びに軍最高司令官としてお詫び申し上げるとでも?

米国を含め西洋列国の指導者が、我が国に対して、かつての横浜等外国人居留地での買春行為を我が国に謝罪したとも聞かない。

もっとも、中には、いや米国に限らず我が国と同じような経験を持つ国々はすべからく謝罪すべきであり、他国が謝罪しないからと言って我が国もそうしなくてもよいということにはならない、などという考えもあるのかもしれない。

しかし、少なくとも当時と今では我が国の法制度を含めて売春をめぐる環境ないし認識はずいぶんと異なるものがある。当時、我が国の法制化にあって、売春は合法であり、また売春というものは合法・非合法を問わず、個人の商行為に過ぎない。

安倍総理自身が言った「狭義の強制」、これ自体間抜けなことを言ったものだと思うのだが、つまり政府ないしは軍の慰安婦集めへの関与を実証する確たる証拠も無い段階で、そうした個人間の商行為に対して国家が謝罪するなどというバカげた話があってよいものか?


しかも、なぜアメリカで謝罪なのだ。米国はこの慰安婦問題とは無関係のはずだ。関係のない国で謝罪をする。安倍総理、ご乱心か?

いや、乱心しているわけではないのだ。米国下院での慰安婦決議阻止と米マスコミの日本非難を沈静化させようとの狙いだとか。

乱心はしていなくても、学習能力は無いらしい。そのあたりは元家庭教師の平沢衆院議員に聞いてみるしかあるまいけども、これまで歴史問題で我が国政府が何度となく事態の沈静化を図るべく、謝罪めいた言葉や自分たちに非があるような発言や対応を取ってきたことを、安倍総理はご記憶にないのか? 昭和57年の教科書問題しかり、河野官房長官談話しかり。

だが、その結果、事態は果たして沈静化したのか? そうではないではないか?歴史教科書のありもしなかった文部省による検定を通しての記述内容の「歪曲」は、いまだにあったということで内外に広く認識されているではないか。河野官房長官談話に関しては今更何もいうまい。

歴史問題で、その場しのぎで安易に妥協したり、矛を収めて、うまくいった試しがないのだ。

今回も、一部報道によれば、安倍発言があったからと言ってマイク・ホンダらは対日非難の攻撃の手を緩める気はないというではないか。あくまでも日本政府の公式謝罪を要求すると。

どこぞの国は、今回の安倍総理の対応を見て、歴史カードの有効性を再確認しているのではないだろうか。先日の某指導者の国会演説にしても、歴史問題は今後一切持ち出さない、歴史カードは一切切らないとは一言も言っていないどころか、むしろ内容的にはその逆。日中関係は「過去」によって規定されるべきであると明言しているに等しい内容であったではないか。

歴史で飯は食えない。もっといえば、歴史で自己の主張を貫いたところで腹の足しにはならない。たしかにそうだ。だが、歴史問題をめぐる歴代政権や政治家たちの杜撰かつ浅はかな対応の結果、国際社会における我が国の体面を大きく損ね、その結果さまざまな側面において我が国が不利益をこうむってきているという事実を直視せねばなるまい。対中ODAなどその好例ではないか。歴史問題でのいたずらな妥協や、歴史事実を無視した過度な贖罪意識がなければ、あれだけの援助を続けることはなかったはずだ。中国側は日本からの援助には賠償性があると公言しているではないか。そしてそのODAが中国という決して親日的ではない国家の勃興の一助となってきたのだ。これを国益を損ねる行為、国を危うくする行為といわずして何と言おうやである。

私は、安倍政権をして売国・亡国政権と呼ばずばなるまいとさえ思っている。

再度言おう。安倍政権は倒されねばならない!
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安倍総理の腰砕け

2007年04月21日 | Weblog
靖国あいまい戦術の次は、慰安婦で再び敵の軍門に下った安倍総理。

河野談話などという売国行為を継承する売国内閣を私は支持しません。慰安婦問題は謝る筋合いの問題ではないのです。軍による強制の有無を実証するものがない以上、その点で謝罪など必要なし。安倍総理の言われる広義の責任にしても、それは戦後ないしは今日の価値観から出た責任論でしかない。かりにそうではない、同時代的にも、というのであれば日本だけが責任を追及され、日本のみが謝罪していないとして糾弾されるのは不当である。もし米国ないしは他国が日本の当時の責任を当時の尺度をもってして追及するのであれば、彼らの慰安婦問題や戦争犯罪、人権蹂躙問題も並行して追及すべきだ。自己批判を行うべきなのだ。それをなしに片務的に日本にばかり償いを求めるこの不公正、絶対許してはいけないのに・・・、安倍総理ときたらいともたやすく腰が砕けた。

いただいたコメントに、安倍政権は自民党独裁政権、根っからのファシストというものがありましたが、現政権は公明党との連立政権であり、自民党も公明党とその支持母体である某宗教団体とは切りたくても切れない関係で、独裁なんて大層なものではない。

安倍総理がファシストだとして、私はファシズムを頭から批判するつもりはあるいません、正直言って。危機管理の手段のひとつとして、政治的オプションなんでしょうね。かつて、イタリアのムッソリーニ政権を危機管理政権として支持したではありませんか、ウインストン・チャーチルも、ケネディー大統領のご尊父ジョセフ・ケネディーも、そしてあの非暴力運動のマハートマ・ガンジーも。ファシズムに共通するような側面を持つ戦時体制というのは、先の大戦は民主主義とファシズム・全体主義の戦いだったとほざく国にも存在したのだ。あのキャビネットスタフにメモを取ることも許さなかったという強権4選大統領の国も戦時という非常時には程度の差こそあれそういう側面があったのだ。それを忘れて、ファシズムはけしからんと頭から否定する気には、私はなれない。非常時には非常な体制や手法が必要になる場合もある。その点で政治は柔軟性を欠いてはいけないのだ。

そもそも、安倍総理ってファシストか?ムッソリーニのファシズム論に拠れば、安倍氏がもしファシストを自負しているのであれば、中途半端な腰抜け落第ファシストなんだが?

もう安倍政権はどうでもいい。少しでも期待した私が甘かった。こうなったら、参院選をもって政界再編を期待するしかないのかな?
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春季例大祭、安倍ちゃん行くの行かないの?

2007年04月21日 | Weblog
靖国神社の春季例大祭が始まるが、安倍総理は行くのか、行かないのか?

既に一部新聞報道でも出ていたけれど、たぶん行かないだろう。私はそう見ている。総理が行かないであろう理由は二つ。日中関係と参院選。そしてこの二つはリンクしている。温家宝の訪日まもなくに靖国に行けば、温総理はメンツを失うばかりか、中国政府としても猛反発するだろう。仮にそうしたくなくても、そうせざるをえまい。同時に日本国内でも騒ぐ分子がいるだろうし、そうした輩の声を大きく取り上げるのが我が国のマスコミという奴らだから、それに世論は左右される。世論が安部けしからんという方向性に向けば、参院選は大丈夫かと疑心暗鬼になるばかりか安倍批判を口にする連中が自民党内、政府与党内に出てくるであろう。かくして、安倍総理の靖国参拝は、日中関係と参院選を否応なくリンクさせる。

加えて近頃所謂「従軍慰安婦問題」で議会の一部やマスコミが騒いでいる米国とのこともある。慰安婦に靖国が加われば、NYTをはじめとしたマスコミなんかは更に反日のボルテージをあげるだろう。となれば、米国政府も、ブッシュ政権も安倍訪米をひかえて対応に苦慮するし、それよりも何よりも、安倍政権が対米ということで苦慮するだろう。

だから靖国に行かない?行くべきではない?

私は少しもそうは思わない。日中関係、参院選、対米関係、いずれを考慮に入れても行かないことが妥当な判断だとも決して思わない。

日中関係でいえば、総理が靖国に行こうが行かまいが、歴史カードというものは今後も日中関係において中国の「道具箱」の中にあり続ける。温のあの説教じみたというか国会演説みればすぐわかる。歴史を鑑にってことは、日中関係は今後も歴史のくびきに置かれるってことに他ならない。それにしても、よくあの演説を黙って聞いてられたものだね。途中退場した政治家いなかったの?何が2000年来の友好だ? 2000年来、他国を蕃国視、属国視しておきながら、友好だとは片はら痛い。孫文のあの有名な大アジア主義演説もそうだが、中華思想への批判なしに、日中関係を友好の歴史、あるいは兄弟関係になぞらえる。この自己批判のない誤謬だらけの歴史認識こそ、正さねばならないのであって、それさえしない、いやできない相手に歴史を鑑になどとは言われたくはないものだ。説教強盗に説教されるようなものではないか?


話がそれたが、ここで対中関係改善に配慮して靖国を引っ込めれば、引き続き中国にとって歴史カードが有効であることを示すようなものだ。では安倍総理が行ったらどうなのか?やはり中国は歴史、歴史!で騒ぎ立て、対日非難を声高にぶちあげるであろう。結局、靖国の問題にしろ、歴史にしろ、「引っ込める」イコール問題解決にはならない。「引っ込める」イコール対中譲歩でしかなく、問題を引っ込め、棚上げにした結果出し抜かれて今があるのが、尖閣問題であり、ガス田の問題ではないのか?それに今年は7の付く年。もういろいろと歴史がらみで動いているでしょ、中国は。こちらが引っ込めて譲歩しても、向こうは引っ込まないということなのだ。譲歩などしないということなのだ。

要は歴史問題、今までの無為無策が痛いところだが、ここで断固としないともう押され続けるだけだ。押されても背後がまだずっと地続きならよいが、そうとは限らない。


では参院選はどうする? 中国に譲歩せず、中国の反発を顧みず参拝して、勝てるのか?安倍政権は持つのか? 負けてもいいではないか? 確かに負けようによっては今後の政権運営、国会運営は難しくなるが、結局は衆院での優位があることを忘れてはいけない。それにそもそも負けて当たり前の選挙、議席を減らして当然の選挙なのだ、与党にとっては。美空ひばりの歌ではないが、「勝つと思うな」であり、「負けてもともと」の選挙。要は負け過ぎないにこしたことはない、という程度が与党の目標でよいではないか。負けて倒閣ってことにもなるまいよ。倒閣とあいなって誰ぞが総理・総裁になったところで、政局・国会運営が困難なことには変わりないはずだ。今安倍を倒すメリットってありますかね。下手すれば政界再編含みで総理総裁のイスもへったくれもなくなるかもしれない。参院選への靖国参拝インパクトなんてものに臆病になる必要はない、と思いますぞ、安倍総理。

それから対米関係。以前に「これぞ好機」ってタイトルで慰安婦問題について書こうとしていてそれっきりになっていたが、米国との間の歴史問題というのも、いつまでも封印しておくのは無理というものなのだ。日中関係が、おおよそ江沢民のあの素人丸出し外交で日本世論の反発を買って以来、日中の歴史認識のズレというものへ封印が解かれて、箍が外れてしまったようなところがある。ネットの発達・普及がそれを更に助長したとも言える。日米関係にしても、歴史認識のズレは封印されてきた。ペリー以来の日米関係をめぐる評価、日米開戦をめぐる評価、原爆・空襲をめぐる評価等々、シリアスな認識のズレがあるにもかかわらず、そこについてはあえて触れてこなかった。というか、日本側が敗者という立場もあり、あえてアメリカの主張するところの歴史解釈に異議を唱えてこなかったというべきであろう。しかし、それもいつまでも続くものだろうか。どこかで封印解いて適度にガス抜きをしないことには。もっとも、歴史認識の差異については、アメリカの日本研究者たちの無作為が批判されてしかるべきだなのだが、実は彼らに今後日米歴史認識において日本にとって好ましい動きを期待しない方がいい、しても無駄というのが、筆者の見立てである。アメリカの日本研究者、中国研究者などいわゆる東アジア専門家たち、研究者にあるまじく、米国の官製歴史認識の信奉者が結構多いのだ。中にはハルノートを読み上げて、米国人の学生に、「君たちが日本人なら、この要求をのめるか?」と問いかける大学教員もいないではないが、そんな人でも、総じて近代日本の対外政策、特にアジア政策には手厳しい。手厳しいというよりも偏っているのだ。事実、中国や韓国の対日歴史認識と米国人のそれとの間には共通点が多い。

ではどうする? 米国内の日本研究者に期待薄である以上、我々日本人が何とかするしか、口を開くしかない。

そんなことをすれば日米関係を歴史問題の泥沼に落とし入れ、中国を利するだけ。北鮮を利するだけ? そもそも歴史認識なんて各国異なるのだから、それを外交問題化すること自体異常なのだ。その以上を恒常化させてしまったのは、我々が中国などに良い思いをさせてしまってきたからに他ならない。手段を選ばず、これは大陸人に限らずのことだ。ただ、日米関係のように、一方的が他方の相手の言い分なり解釈に唯唯諾諾と押し黙り続けるというのは、いびつだ。そのいびつさが生じる「ガス」はどこかで抜いてやらねばならないが、中国の更なる強大化という前提で思考するならば、そのガス抜きの次期は早いにこしたことはない。中国がさらに強大化した後になって、日米関係をぎくしゃくさせては、相手を利するだけになる。一時的な対米関係の困難は生じても、むしろ多様な主張を受け入れる柔軟さが米国にはあり、民主・人権という点に我が国の対外戦略の軸を置き、その点で米国と価値観を共有しているのだ、という点をうまく「演出」できれば、歴史認識の差異は、大同小異ということで、かすんでいくはずだ。

ただ、そのための問題点が一点。それは我が国の英語での発信力の弱さ。対外宣伝、情報戦略の心もとなさである。先月、慰安婦問題をめぐるLAタイムズ記事にかみついたロス総領事、あるいはかつてアイリス・チャンとTV討論という無謀にして愚かな戦を試みた斉藤某駐米大使(当時)の戦い方の稚拙を見れば、我が国がかかえる重大な欠損がわかる。ここを何とかせねば、世界や米国の耳には届かないのだが・・。

安倍総理、今回行かずに何時行くのですか? 終戦記念日、それとも秋の例大祭?春は行かないけど、秋は行く? 胡錦濤国家主席に来てもらえないから行けない?別に来なくていいじゃないですか、今回の温家宝の訪日のようにしたい放題されるくらいなら?もっとも、そうさせたあなたもいけないのですよ、安倍総理。今のままでは、あなたは相手にとって組みやすい相手でしかない。もっと対話のできるタフネゴシエイター にならなければ・・・。


付記 ところで温家宝の演説を受けた扇参院議長の答礼演説、あれは扇女史の意趣返しだったのか? それとも事前準備の原稿をそのまま読んだだけで、温家宝の「読み飛ばし」に即応できなかっただけなのか? もし前者だとしたら、天晴な方ですね。でも、もし意趣返しだったのなら、もう少しはっきりやってほしかったですね、「前もっていただいておりました温総理の演説原稿にありました・・・」と一言付け加えて。それえくらいやってもバチあたらないし、それくらいやらないとダメですよ、あの大陸人というのは。
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「産む機械」ならまだしも「産むだけの機械」

2007年04月21日 | Weblog
「バカ親」の続編。

先日の柳沢厚相の「産む機械」発言。私も柳沢氏の政治脳の小ささを非難したが、授業参観やPTAで声をひそめることもなくペラペラ、くちゃくちゃの母親どもを思い出して、こりゃヒトであっても、人間ではないなあと思ってみる。「産む生き物」か、まさに柳沢氏曰くの「産む機械」だ、ありゃ。

いや、「産むだけの機械」なのかもしれない。産んで満足に育てていないもの。授業参観で自分や他人様の子供の背後で状況を憚らずしゃべり続ける「機械」たち。それを見た子供はどう考えます。「なんちゅう大人たちだ!」と思う子もいるかもしれないけれど、中には「あれOKなんだ」と思ってしまう子もいるだろう。特にその「機械」たちの「製造物」たちは、まだ幼い。中学生とか高校生のように親をある種客観的かつ批判的に見る年ごろではない。親、教師は相当に絶対的な存在として眼に映る年齢だ。その子らを前にしてあのようなマナー違反の常識外れをするということは、子供を育てていない、100%譲ったとして、育てているとして十分ではないし、適正な育て方ではない。つまり、産んだあとは、放ったらかしか、それに近い状態。

「産むだけの機械」しかも、その機械自体が良質でないときているものだから、当然のことながら生産された「モノ」も良かろうはずがない。

しかもその無印不良品「機械」のメンテと「製造物」のQCが十分にできていないことがことを更に悪化させる。すなわち、家庭における夫、父親のプレゼンスの少なさ。中には「機械」の尻に敷かれてしまってチャップリンの映画状態の夫たちも。
「機械」に自家製の油さして、自家製の原材料放り込んで、それでおしまいかい、夫、父親の役目って? 

「産むだけの機械」に生産設備の管理やアフターケアが全然ダメな製造者。親にもPL法適用が必要かもしれない。犯罪者の親も何らかの処罰受けるとか。非行や問題行動に走った子供の親は何らかの罰則を受けるとかね。被害者への損害賠償も含めて。世が世なら、一族に凶状持ちを出せば、社会的な制裁を受け大変なことになり、反逆者や謀反人ともなれば豊臣秀次の例に見るまでもなく、族滅なんてことにもなる。前近代のむごい話と思っていたが、「産むだけの機械」たちが引き起こす負の連鎖反応の可能性と怖さを考えると、家族・血縁つながりの連座制って、結構合理的な考え方かもしれないなあと思ってもみるのだ。

血とか家系、家柄って怖いってことなんだな、要は。犬や猫や馬の場合は、血統というものを大ぴらに語るくせに、ヒトの場合はそれはタブー。「お前のところは兄貴もバカだった。血が悪いんだ!」などとテープにとられているとも知らずほざいた教師が昔いたが、それは現実問題問題にならないはずがない。一国の指導者が血の優劣をを平気でのたまうことができるのは、私が知っている限りではシンガポールくらいじゃないかな? ただ、結構皆さん、心のうちではそれに近いこと思ってるんじゃない?そして、それって結構正しいと思うんだけどねえ・・・。細木先生がよく、占いは統計学っていうけれど、統計的な裏付け結構取れちゃったりしてね。例えば東大生の家計とか家柄とか見たら、代々東大出なんてことあるでしょ?あれ偶然とは言い切れないよね。血と長年によって培われてきた家系・家柄が能力を形成する、ってあるんじゃない? 

ならば、社会的に有害な結果をもたらす危険性が否定できない「産むだけの機械」やその管理者、製造物に対して社会は、何らかの予防措置取らないに越したことないかもよ?、などと極論なんだろうけど、憲法的にもそれはできない話でもあるし。それになんたって、そんな予防措置法みたいなのができたら、私もその対象者だね、血も家系も家柄も、下々の下々たるド平民だから。
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近頃のバカ親たち

2007年04月20日 | Weblog
本日は子供の授業参観。日本に帰国して以来初めての経験、もちろん。そして見られる方ではなく見る方としての参観も初めて。

しかし、近頃の親はってことで在米中から読み聞きはしていたが、参観の母親たちのマナーの悪いことといったら・・。

参観中の私語は一組ならず。しかもヒソヒソを超えた大きな声で。さすがに子供たちも気になったと見えて、何人もの子供がそのバカ親の方を振り向くも、一向に私語をやめようとはしない心臓の強さというか、無神経ぶり。

教師も何も言わない。ま、言えばお互い気まづくなるし、後々関係がこじれる原因になっても嫌だしね、根に持たれたりして。しかも女教師にバカ女親。同性同士の教師ー保護者関係って中々独特のものがあるわけで、特に女性同士は。それもわからぬでもないが、ありゃ放っておいてはいけなかったね。

個人の経験を一般論化することの危険は承知だが、あえて「ゴーマンかましてよかですか?(出身の名古屋弁的に言えば『ええキャーも?』になるのだが)ということで言えば、自分が子供の時はそんなことなかったということは、親が劣化しているということになる。親が劣化すれば、子も劣化するであろう。こうして日本人が劣化していく、というか既に劣化しつつある。

戦後戦犯の汚名を着せられてフィリピンで絞首刑にされた「マレーの虎」こと山下大将(ご本人は虎という動物の性質上、このニックネームを嫌っておられたようだが)は、処刑直前、敗戦したとはいえ母親さえしっかりしていれば日本は立ち直る旨を語ったというが、どうやら日本の母親はすっかり地に堕ちてしまいました。地に堕ちたどころか、チャイナシンドローム状態のようだ。

母親という立場をそっちのけで、自分の欲望をむき出しにし、それを最優先させる。パチンコに行って我が子を死なせるバカ親。息抜きがしたかったとスノボーに出かけやはり子供を死なせた人でなしの親(この母親に対する同情論があったのには驚いた、正直。私的には同情の余地なし。何が息抜きだ甘えるなって! 親になったら四六時中親なんだよ、好むと好まざると!)。子供を捨てて男に走る母親。そして授業参観に私語して、子供の授業を妨げる母親。これ全部、自分優先現象でしょ? 遊びたい、息抜きがしたい、セックスしたい、しゃべりたい・・。じゃあ、子供生むなって。できちゃったから仕方がない? できるようなことしたからだろうが? あるいは、できちゃうようなしかたしたからだろうが!

誤解のないように言えば、今回は授業参観、PTAという参加者のほとんどが母親という状況だったがために、今女親を取り上げてるのだが、だからと言って父親は劣化していないなんて言ってませんから!

男親であろうが女親であろうが、結局、最近の親のなかには、親としての分際をわきまえていない輩が増えてるってことなんだろうな・・。子供は出生拒否の自由もなければ、親も選べない。だからと言って「生んでくれと頼んだおぼえはねえ!」なんてほざくクソガキはそれこそ顔がはれ上がるくらい殴ってもまだ足りないくらいの大馬鹿野郎だが、子供のそうした「弱い立場」を斟酌せずに、親であることの責任をなかば放棄してしまったりとか、自分の都合で親になったり親をやめたりするような手前勝手なのが多過ぎるんだろうなあ・・。親になったら年中無休で親なんだよ。寝ててても、酒飲んでても、夫婦の営みしてるときも、親なんだから、最中に子供に何かあったら行為を中断してでも飛んでいかなくっちゃならない。それが親の分際っていうものだよ、言い訳抜きに。

こんなこと言ったら、余計少子化になっちゃうかな? 

でも、それくらいできちゃうくらい、我が子ってかわいいもんじゃないか?それが普通の親の心理ってものじゃないのか?

とにかく、日本の将来暗いかもね、あの親たち見ていると・・・。
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代理母って・・・単なる悪あがきだわな

2007年04月19日 | Weblog
人間、分際をわきまえないとね。というか、分際をわきまえてなさ過ぎですな、最近は。言い方かえれば、自分の置かれた境遇というか、自分を取り巻く所与の条件みたいなものに悪あがきし過ぎなのだ。もっと言い方を変えれば、自分の欲望・願望丸出し。ぜんぜん抑えが効かない。

某女性芸能人のMさん(ところであの人の芸能人でのカテゴリーって何なんだ?昔から疑問に思ってたのだがとプロレスラーTさんの子供も問題もそうだ。子宮頸がんになり、子供をあきらめた経緯はお気の毒としか言いようがない。というか、無事二人の子供を授かった私なぞには、想像の附かぬ悲しみと苦しみであった)あるに違いない。

だからと言って、代理母はいただけませんな。

子宮が無い=子供を産めない、これはもう現実として受け止めていくしかないでsじょ? 自分の欲望、子が欲しい、親になりたいという欲望を満たすためには、手段を構わず、なりふり構わずですか? それで子供を得たとして、親になれますか?子供をまっとうに育てられますか?目的のためには手段を選ばぬことに躊躇しない倫理感しか持ちあわせていない人間に育てられた子供がまともに、世間様に迷惑をかけない人間(これって重要でしょ!)に育ちますかね? トンビが鷹を産むこともある?確かにありますけど、そんなのレアなケースであって、一般論かすべきものではない。

少子化の昨今、代理母のぜひなどに拘っている場合ではない? これまた、手段を選ばぬ同じ穴の狢の言い分。

結局、上述の芸能人とレスラーの子供の件だって、最高裁判決が出てしまって、一番お気の毒なのはその夫婦ではなくて、子供ではないの? 無謀なことをしたものだから、親の因果を子供が重荷として背負わされてしまって・・・、罪だわな。私も人のことは言えんばいんだけどね、子供には罪なことしてしまったからね。

子供が産めない体になってしまったのなら、その現実に正面から向き合ったうえでどう生きていきか、それができなかったのだね。そしてその結果が・・。

人間もって生まれた分際はあるからね。親や家系、家柄は選べないし、性別も選べない。親も生まれてくる子をオーダーメードできないからね。イケメンになるべくして生まれることもあれば、不細工になるべくして生まれてくる。すべて分際なのだ、それをそれとして受け止めて生きていくしかない。

それができない人間多過ぎなんだよなあ、ほんと。

個人を強調し過ぎたせいもあるんだろうね、ここ数十年。もっとも、その反面、日本は個人を軽んじるというか大切にしなさ過ぎなところもあるけどね、別の部分で。

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関東学院大学林博史教授への質問: 所謂「従軍慰安婦」問題をめぐって

2007年04月15日 | Weblog
15日付朝日新聞に「強制連行を示す調書、東京裁判に各国検察提出」の記事。

まさにタイトル通りの内容なのだが、この資料の所在を確認したのが、関東学院大学の林博史氏である。

氏いわく、「これらは各国が作成した公文書であり、判決でも強制したことが事実認定されている。サンフランシスコ平和条約で戦犯裁判を受諾した日本には、これらの文書の意味は無視できないだろう」とのこと。

確かにそうだ。それらの資料は公文書である。しかしながら、

公文書=その内容はすべて真実、と言い切れるのか?
東京裁判の判決=すべて事実に即して出された妥当な判決と言えるのか?

という疑問を呈せざるをえない。公文書がすべからく真実を語る資料であるなどとは、よほどおめでたいお人好しでもないかぎり信じまいし、東京裁判で主張されたところの共同謀議なるものが、実証史学の検証で耐えうるもあのではないことは、歴史家の林教授に向かって言うのは釈迦に何とやらであろう。

それ以上に私が林教授のコメントを難しい!と感じるのは、「サンフランシスコ平和条約で戦犯裁判を受諾した日本には、これらの文書の意味は無視できないだろう」というくだりである。 一体その「意味」とは何なのだろうか?朝日の読者のほとんどはパンピー(死語?)なのだから、そうした曖昧な言い方はせずに、もっと具体的に語ってもらいたいものだ。少なくとも頭の悪い私には教授が何をおっしゃりたいのかさぱりわからない(もっともカンサンジュン先生の横文字を織り交ぜた不可思議な言説よりかはましだが)。従軍慰安婦問題における強制性の有無の問題をめぐっては、政府としては、確かに教授のコメントの通り、国際法たる平和条約との絡みもあり無視できないものなのであろう。また政府でなくとも、特に歴史研究家にとって、この資料の存在を看過できるものではあるまい。ただし、繰り返しになるが、この資料が真実の「証言者」であると断定するには現時点では拙速であるはずだ。東京裁判を含め戦後各地で行われた軍事裁判に公正性という点から見て幾多の問題があったことが指摘されている以上、教授も歴史家としてそのことを無視するはずはあるまいし、であればあこそ各国検察が東京裁判に提出したこの「証拠」資料なるものが、果たして実証に耐えうる真実を含むものなのか否かについて解明することこそ、まさに林教授を含めた歴史家のなすべき仕事ではないのか?その部分の作業過程を経ていない現段階で、さあ資料が出てきたぞ、これが真実なのだなどと結論付けるおっちょこちょいなどいはしまい(いるかな?)。いたら、豆腐の角に頭ぶつけた方がいいのだが、林先生、まさか無視できない「意味」というのも、このことではないですよね。まさかね・・・。
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国民投票法案をめぐる朝日のおかしな物言い

2007年04月14日 | Weblog
朝日新聞というのは、本当におかしなことをいう新聞だ。

衆院において国民投票法案が今回のようなかたちで可決された責任は、「選挙の思惑を持ち込んだ安倍首相にある」。まず最初に私はここで「へ?」となってしまう。朝日いわく参院選に向け改憲を争点化したからだそうだが、民主国家において、しかも改憲が最終的には国民投票なしには行えないわが国において、民意を問う国政選挙において争点化して何が悪いというのか?改憲とは民意に問うべきものではないとでも言いたいのか?それとも選挙を通して問うべきものではないと言いたいのか? もし沿うdあとしたら、朝日と私の間には、民主政治における選挙のあり方というものに対して、大きな隔たりがあるとしか言いようがない。

同日の「改憲の道『なぜ急ぐ』国民投票法案」も、これまたおかしい。被爆者やらを持ち出して、「なぜ急ぐ」とのたまうが、60年前に施行された憲法が規定してきたにもかかわらず、それを具現化する法規定のなかった国民投票。これこそ、読売新聞の社説も指摘するように政治の不作為であり、批判されてしかるべきもののはずだ。その不作為の部分をさておき、「なぜ急ぐ」とはお笑いぐさではないか。


上述の朝日社説いわく、野党は与党による単独採決によって与党への攻撃材料を得たというが、はたしてそうか? 私はむしろ改憲にかかわる問題を党利党略の具にしようとした小沢民主党こそ批判されるべきだと思うのだが。自分たちの案を丸呑みしろ、さもなくば、ではお話になりませんわ、そもそも。最初から与党に単独採決させるための挑発行為もしくは、はなから協議の意思無しとしか思えない。

こういう手法が小沢の「賞味期限切れ」現象の最たるものなんだよなあ・・。

もっとも、私も今回の国民投票法案を諸手で支持するのではない。まず、年齢規定がおかしい。与党としては野党の意向を汲み、今回は単独採決でも、やがて来るべき改憲に向けて協調のきっかけだけは残しておきたいところなのだろうが、18歳は筋が通らない。他の選挙もすべて18歳にすべし、そのためにも改憲をと主張すると同時に、したがって国民投票も18歳でというのならわかるが、国民投票だけ18歳というのはおかしい。改憲という重要事項であればこそという理屈も通らない。重要であればこそ、それなりの見識が有権者に求められるべきはずであり、その場合年齢制限のラインは下げるのではなく上げるべきものではないのか。野党への阿りととられても致し方のない実に姑息なやり方だ。このような姿勢で国憲を論じられてはたまったものではない。もっとも、昨今の政治家の姑息は今に始まったものでえはないのだが・・・。
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