くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

自民の愚挙、民主の暴挙

2008年04月30日 | Weblog
民主主義という制度の下で政治家としての権力を手にした者たちが、自らの手で、自らの依って立つところの政治システムを切り崩す様は、無意識の自壊行為にも見えて、哀れですらある。

世論の更なる離反の可能性を知りながら、あえてその道を選ぶ自民党。政治家たるもの、あえて世論の求めぬ方向に国家の舵を取ることも時には求められる。しかしながら、今回の暫定税率復活に関しては、永田町、霞が関の利権構造の求めるところに過ぎず、天下国家云々とは何ら関係ない。これを愚挙と言わずして何と言おうや。

旧態然たる民主党の「実力行使」。河野衆院議長の苦言は、まったく世論である。
有象無象の集まる市民運動ではないのだ。国権の最高機関たる国会内において、プラカードやステッカーで抗議行動とは、果てには議長の「封じ込め」とは、昔の野党といささかも変わらぬ無様である。政権と担わんとする政党のすることではない。議場において議論を尽くさずしてかの「実力行使」は、憲政を冒とくせとする暴挙以外の何者でもない。

我が国に議会制民主議はもはや瀕死である。その主因は政治家にあることは言うまでもないが、ガソリン価格の高下に躍起する国民の責任も大きい。議会制民主主義が死に瀕しているのであれば、それを救わぬ手はないが、あえて民主主義を捨てる選択も救国の手段としてはありなのかもしれない、民主党の憲法無視の国会戦術にふとそう思ってみた。

造反有理という言葉もある。そして黒猫白猫ともいう。結果良ければあえて手段にとらわれる必要などないのかもしれない・・・。
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長野にはためいた五星紅旗

2008年04月26日 | Weblog
沿道のあの大陸国旗の数、あれは一体何を意味していたのだろうか。

「聖火を出迎え」に行った在日大陸人たちがたまたまあれだけの数集まったとして、あれだけの数の旗が集まるものだろうか。中にはずいぶんと寸法的に大きなものもあったが・・。

それにしても、あのリレーの様相はいかにも象徴的ではなかっただろうか。北京北京と言うものを如実にあらわしていたように思ったのは私だけか。聖火ランナーを十重二十重に警備陣が過囲む姿。そしてそれは長野と言う町や、そこに暮らす住民、遠藤でリレーを一目見ようとする人々から隔絶されてしまった姿。あれこそは、民意やら国際世論と隔絶されたかたちで粛々とすすめられようとしている北京五輪の縮図ではないのか。

それにしても、参加した日本人ランナーたちの馬鹿ずらには呆れた。球場では現役時代からよく吠え、監督としては鉄拳も辞さなかったあの星野も、今回はほえずじまい。それどころか、何ともしまりのない顔で先頭走者を務め、北京政府のお先棒を担ぐ結果となった。走ってるのだがよたってるのだか判らぬ姿でマラソンを「走り」、世の同情を買うことでしか飯が食えなくなった「元」お笑い芸人も、北京にしっぽを振ってまでもメシにありつきたかったようだ。

中にはスポンサー事情で、不承不承走らざるを得なかった者もいたようだが、それにしても一人くらいは気骨のあるやつがいても・・・、と今時の日本人に期待しても詮無いことなのかもしれない。

五星紅旗はためく長野、あれが未来の我が国の姿とは思いたくもない。今日のチベット、明日の我が身とならぬを祈るばかりだ。
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民主党の政治センス

2008年04月26日 | Weblog
かつて、総選挙でのスローガンが「日本をあきらめない」だった。何とも有権者の気持ちをがけっぷちに追い込むようなフレーズに、民主党の政治センスの無さを痛感した。

結果は、惨敗。もっとも、この不細工なスローガンが無くとも、当時の岡田代表の政治センスの欠如というマイナス効果がなくとも、郵政解散と相成った次時点で同党の敗北は既定路線化していた。

今回山口補選では、「チェンジ日本」だそうだ。これまた何とも子供じみたというか、相変わらずだなあ・・・としか言いようがない。それでも、同補選は民主党の勝利に終わのだろうが。

マニフェストしかり、チェンジしかり、横文字がお好きな方々の集団と見受けられるが、軽佻浮薄の感は否めない。

こんな政党に政権をかませますか? とは言っても、「じゃあ、他に選択あるかよ?」というのが今の現状。

自民党は既に自壊状態だ。「馬子にも衣装」というが、そもそもその器でない人間を総理・総裁の椅子に着けたものだから、今や自民も大変だ・・。馬の脚は言いすぎかもしれないが、並び大名しかやったことのない三階役者にいきなり生締着けて主役を張らせるようなものなのだ。本人も本人で70になって己を知らずとはこれまた情けない。さっさと辞めたがいいが、辞めるにもタイミングがあろうし、フライドは人一番高いという、始末の悪いことに。次に控えし候補たちを、今の執行部の面々や各派閥の領袖方は喜ぶまい。山口補選敗北、暫定税率復活で更に支持率低下で、もう後はない、ということになろう。外交の福田というが、胡錦涛来日やサミットが下がりきった支持率を若干なりとも浮上されるとは思えない。

政権交代が否応なく今まで以上に現実味を持ち出したということか・・・。それにしても民主党政権、今の福田政権以上に無様なことにならねば良いが・・。何と言っても政治センスも政治カンもない連中だから。
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あえて死者に鞭を打つ: 都はるみの情夫中村一好

2008年04月24日 | Weblog
先ほど一寸ワイドショーを見ていたら関西大教授の白石女子が、あえてと断りながら、故中村一好氏を批判。

白石女史と言えば、以前私がここで批判をした「男はオオカミ」発言の男尊女卑ならぬ女尊男卑主義者。

しかしながら今回は、女史に同感だ。

不倫に走って女房子供に辛酸を嘗めさせ、首をくくって不倫相手に生涯消えぬであろう傷を負わせるという、あっちこっちで人を不幸にするという、ある意味厄病神的存在。仕事人としては「天才肌」だったそうで、現にいくつものヒットを出したわけだが、同じ男としては、最低、男の風上にも置けないろくでなしな人生を送った人ということになる。

男女に関係なく、人として手前勝手にもほどがある。

あってはならない生きざまの一つには違いない。こういう人生だけは送りたくないものだなあとつくづく。

上述のワイドショーのなかで中村氏の分骨云々という話もあったが、これって一体どういうことなのだろうか。もし未亡人側から出た話であるとすれば、夫を掠め取った相手に分骨とは、できたお人だなあとも思わぬでもないが、都側からの要望であるとしたら、この女もどこまで盗人猛々しいんだとしか言うほかない。そしてどこまで中村氏の家族を侮辱すれば気が済むのだと。人がそこまで悪性になれるはずはない。少なくとも後者ではないと願うばかりだ。

それにしても白石女史、先回の「オオカミ」発言といい、男性に対する見方がなかなか厳しいように思うのは、気のせいであろうか・・。
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長野聖火ランナーは、チベットの敵、

2008年04月23日 | Weblog
と思われても致し方無いな。

それにしても、一人くらい辞退者出てこないものかねえ・・・。そこまでして走る理由で何なんだろう? 北京の太鼓持ちか? 某野球監督あたりは、北京にハニートラップかまされてたりして。男やもめだからねえ・・・。そりゃないか?
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世の中には不要な命もある: 光市母子殺害事件

2008年04月23日 | Weblog
元少年に死刑判決、当然と言えば当然だが、良かった、良かった。

死刑廃止論者ではない私にとっては、ごくごく真っ当な判決。拍手喝采。かといって、亡くなられた被害者が帰ってくるわけでもなければ、残されたご主人のあまりにも深い心の傷が癒されるわけでもないのだろうけれど。

廃止論者のなかには、冤罪云々を理由にあげる人もいる。確かにそのリスクはある。志布志事件のようなひどいことをされて濡れ衣をきせられ、首をくくられた日にはたまったものではない。

ただ、その一方で、私はこの世には不要な命、存在してはいけない、あるいは存在しない方が良い命というものもある、と思っている。したがって、不要なあるいは存在させていては世間に害を及ぼすかも知れぬような命を処分するためには、死刑は必要であると思うのだ。

冤罪のリスクに力点を置くか、それとも社会やそこに暮らす圧倒的多数の不要ではない、生かしておいて危険ではない命の安全確保に力点を置くかといえば、私は躊躇せず後者だと答える。

命は尊い。だが、それゆえに、圧倒的多数の尊い命を保護するために、不良かつ不要な命を排除すること、間引くことは致し方ない。

元少年などは、私からしてみれば、存在意義のない命なのだ。存在していてはかえって、世間に害を及ぼしかねない命のなだ。刑に服して更生する可能性がゼロとは言い切れまい。ただ、あれだけの残酷な犯罪を犯しかつ、あれだけの見え透いた言い訳を法定で言ってのける人間の更生後の「安全性」に私は信を置けない。三つ子の魂百までという。あの犯罪はきっと元少年の性根にその原因の一端があるとも思うのだ。ならば、更生に望みを託すことはあまりに危険すぎる。ならば、処分してしまった方が良い、と思うのだ。

あの私から見れば何とも異様な弁護人たちの主張の中には、元少年の決して幸福とは言えない生い立ちに情状酌量を求めるものもあるというが、私は基本的に生い立ちなど情状酌量の理由にすべきではないと思っている。その点で、被害者のご主人にまったく同感なのだ。人はそれぞれ異なった環境の下に生を授かり、育っていく。いわゆる選択不能な所与の条件というものがある。銀のスプーンをくわえ祝福されながら生まれてくる場合もあれば、その日暮らしのなかで望まれずに生まれ育つ場合もあろう。ただ、人はそれぞれの異なった所与の条件を受け入れ、そしてその中で生きていくしかないのだ。家庭環境のせいで、親のせいで、学校のせいで、社会や世間のせいで、犯罪に走ってしまいましたなどというのは、絶対にしてはいけない言い訳であるし、耳を傾けてはいけない言い訳でもあると思うのだ。かりに辛酸を嘗めるような人生だっとして、そして人それぞれの所与の条件の中で真っ当に生き抜くことができなかったとして、その責任は当の本人に帰せられるべきものであるべきなのだ。

畠山鈴香なども、父親のDVや学校でのいじめをもって情状酌量を求めてたようだが、「そんなの関係ねえ!」。

見苦しい言い訳をしている時点で、反省、贖罪などと言われても、信ずる気にはなれない。

無駄な人生、無駄な命などない。おおよそそうなのだろう。ただ、世の中例外はある。害虫ならぬ「害人」というやつだ。その例外にどう対処するか。「処分」、「消去」で良いではいか。何を躊躇することがあるというのであろうか。

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堕ちていく日本: 「後期高齢者」への感情的反発にみる無様

2008年04月22日 | Weblog
制度そのものについて言うのではない。ここで取り上げたいのは「後期高齢者」という言葉に対するマスコミが喧伝するところの世間の反応である。つまりマスコミが伝えるところのそれが疑似現実ではないという前提での話という意味である。

批判の多くは多分に感情的なものだ。厚労省側に配慮が足りないと言われれば、確かにそうかもしれない。いかにも人情の機微に疎そうなエリート官僚による名称といえばそれまでだ。自分たちの造語が世間に、特に高齢者にどう受け止められるのかという他者への想像力を欠いた名称だと言われても致し方ないとは思う。

ただ、感情論を離れて日本人の男女を合わせた平均寿命からみた場合、75歳以上はまさに人生の「後期」のはずだ。つまり75歳以上を「後期高齢者」として範疇化したところで、それはそれが誤謬だとは言えない。

「後期高齢者」ではない立場からの「配慮を欠いた名称だ」との批判は、高齢者の気持ちへの配慮から出たものとすれば、私はそれを肯定したい。

一方、巣鴨界隈限定の現象なのかどうかは知らないが、街頭インタビューに答える「後期高齢者」たちの同じような批判には、私は首を傾げるどころか、正直、同じ日本人として、彼ら人生の先輩たちに情けない気持ちにさせられる。

自分の年齢、その現実をなぜ正面からとらえることができないのか。75歳以上ともなれば、男ならあと5年弱、女性なら10年余の余生しかない。一般論的にいえば、いずれ数年後には「死」が訪れる。「死」への恐怖はヒトとして致し方ないが、「後期高齢者」という言葉によってその不可避の現実を突きつけられて感情的に反発する姿は、あえて極言すれば無様という他ない。

所与の条件や不可避の現実を正面から受け止めることができない日本人が増えていると以前ここで書いた。「後期高齢者」への反発を見る限り、高齢者もまたしかり。人生の先達として若い世代に生きざまをもって範を示すべき世代がこのざまでは、「今どきの若い者は」などとは言っていられない。老若男女をとわず、今日本人が堕ちている、と感ずるのは私だけであろうか・・。

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天晴れ、善光寺!

2008年04月18日 | Weblog
天晴れ、その一言に尽きる。
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善光寺は英断を!

2008年04月18日 | Weblog
チベット問題と五輪、聖火リレーを別物として考える人は一体どれだけいるのか?

マスコミによる長野市内での、特に善光寺付近でのインタビューのなかには「どうかと思う」、「残念」の声が目立つように感じる。それがマスコミの編集、情報操作の産物でなければ、それらの声は中国側に対してではなく、チベット人ならびに彼らの抗議運動を支援する側に向けられている。

実力行使の抗議運動はいかがなものかと思う。

ただ、五輪への抗議運動自体とそうした無法なやり方は別物であるし、既定の法的手続きを順守したものであれば、抗議運動は許容されてしかるべき。許容されないことこそ、民主主義を標ぼうする国家においては、厳しく批判されてしかるべきことなのだ。

どうも、実力行使的な妨害行為、活動と抗議運動が混同されてしまっているような気がしてならない。

チベット人やその支援者による五輪への抗議活動を「残念」、「どうか」と思う人たちはもう一つ見落としていることがある。それは、五輪とチベット問題は別物ではない、ということだ。

少なくともチベット人の側からしてみれば、平和の祭典をうたう五輪が、自分たちの平和と人権を踏みにじってきた北京政府の膝元で開催されることははなはだしい矛盾でしかない。

また、聖火リレーはチベットをも通る。なぜあえてチベットなのか? 北京政府のこんたんは明々白々。その地に聖火ランナーを走らせることで、国際的にチベットは中国の一部であることを誇示するに他なるまい。

100万を超えると言われる仏徒を殺戮し、今もあまたの仏徒を迫害・搾取する北京政府の「宣伝活動」に、同じ仏徒の善光寺が加担するというのか。ならば、寺としての看板ははずし、単なる観光・商業施設に「宗旨がえ」した方がよいのではないだろうか。

追記 日本人聖火ランナーの中から辞退の声が聞こえてこぬのはこれいかに? 
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野村忠宏、勘違いしていないか?

2008年04月09日 | Weblog
アンケートで引退を決める?

冗談でなければ、ふざけているにもほどがある。不心得にもほどがある。

きっと冗談なのだろうけど、冗談にしては全然面白くない。柔道のセンスは抜群でも、笑いのセンスはゼロということか?

引退するか否か、自分の出処進退は自分で決めるべし。それすらできないのであれば、柔道着を着る資格すらなし。

そんな心持ちだから、負けるのだ。今回の敗北も、そうしただらしのなさ、人間としえの未熟、不出来が露呈しただけのこと。端から北京はあなたをお呼びじゃなかった。

アンケートを取って決めるなんて、そもそも、何様のつもりなのだ。功を成し、名を成した人間が、慢心し、増長し、そして堕ちていくことはしばしばだが、野村もその類ということか・・・。そうであれば残念なことだ。

繰り返しになるが、引退くらい自分で決めなさい。あなたが引退しようがしまいが、日本国民の誰一人としておまんまの食い上げにもならぬし、命を失うわけでもなし。あなたの存在なんでそんな程度のものなのだ。五輪という「ショー」がなく、メディアというものがなければ、世間にとってはどうでもいい人間の一人。エンターテイメント的な存在という意味では、猿まわしのサルや、そこらの三文芸人と同じ類。それを勘違いしてか。一寸有名だからと言って調子に乗ってはいけない。そんなことでは、現役を続行しようが、引退して第二の人生を歩もうが、あなたの先行きは暗い。

所詮まだ30ちょっとの子にそれを言っても詮無いことなのかなあ・・・?

でも、ほんと、冗談だよね、アンケートは? うけ狙いが滑っただけだよね? あの見事な勝ちっぷりの、強い(強かった)野村がそんな間抜けなことを言うとは、思いたくはない。
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都はるみの”夫”の死: 不倫の結末

2008年04月08日 | Weblog
都はるみの”夫”中村一好氏が自殺した。

””が付くのは言うまでも無い、法律上の夫ではないからだ。中村氏を法律上の夫とする妻がいたからだ。法律上の離婚が、中村氏がなくなるまで成立することはなかった。

つまり、彼らは30年以上にもわたり、事実婚的な不倫関係を続けてきたことになる。

今回の自殺と不倫の直接的な因果関係はないのかもしれないが、不倫によって人々を踏みにじり、泣かせ続けてきた男女の末路がこれである。片方の非業の死をもって、不倫関係に終止符が打たれた。

男は自ら命を絶ち、残された女はこれからの人生、癒されぬ悲しみを背負って生きていくことになる。

悪行の果ての因果応報、実に恐ろしいものだ・・・。

合掌
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横綱の品格とは言うけれど・・・

2008年04月08日 | Weblog
朝青龍問題に端を発して、昨年来横綱の「品格」なるものをめぐってかまびすしい。

が、かりに横綱に求められるべき「品格」なるものがあるとして、それが問題視されてしかるべきはドルジ(と私は個人的に呼んでいる。さっさと土俵を去るべき人間だと思っているので、四股名では呼びたくない)のみか?

振り返って、古くは北の富士、輪島(個人的には好きな横綱だったが)の土俵外での立ち居振る舞いや交友関係が問題になったこともある。現九重の千代の富士も、弟弟子への暴行や八百長疑惑が取りざたされたことがある。近年では若貴兄弟が芸能マスコミを賑わせた。報道が真実だとすれば、いずれも綱を張る者としての「品格」には?がつかざるをえまい。

しかし、私の記憶の限りで、横綱の「品格」と言う言葉をもって千代の富士が批判されたことはないし、若貴もまた同じく。

となると、なぜドルジだけが、という問題提起もなされよう。ただ、私はそうした向きには組みしない。「品格」云々はさておきドルジには、明らかに問題があると考えるからだ。20代の若造が横綱の地位に胡坐をかいての傲慢不遜は目に余る。横綱として以前に、一個の人間として許容されるべきではない行状だ。

私はむしろ、そもそも横綱の「品格」とは何ぞや。またそのようなものに実態があるのか、あったのかと問いたい。と言えば、双葉山が・・・との反論もあろうが、双葉が特異なケースだとすれば、この傑出した一個人をもって横綱そのものを語ることは乱暴に過ぎる。所詮、相撲とり、男芸者、と思えば、「品格」云々で騒ぐのも馬鹿らしいことだとは思うが、それは相撲道なるものへの冒瀆になるのだろうか。私は子供の頃から相撲は大好きなのだが・・・。

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もはや聖火などではない: それでも走るか、萩本欽一?

2008年04月08日 | Weblog
前代未聞の聖火リレーではないだろうか?

あの厳重な警備陣に囲まれた聖火に「聖」なるものを感じることができようか?

ナチによって創始されたという聖火リレーが今、中共独裁体制翼賛の具と化していることをして、先祖返りというべきか?

欽ちゃん、あなたそれでもリレーに参加しますか? 

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