くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

「不敬罪」中井ハマグリに、「お辞儀拒否」の横道

2010年11月30日 | Weblog
国会で宮殿下をヤジったのって、中井だそうじゃないか。

まあ、こいつならと思うべきかもしれないが、民主党ってのはホント左巻きか、クズみたいなのしかいない・・・。

民主党の存在は日本の民主主義を滅ぼすかもな。
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無粋な役者なんていらねー!: 海老蔵はしばらくドサ周りでいいんでは?

2010年11月29日 | Weblog
対談なんか読んでて素養の低い御曹司だなあとは思っていた。

同年代?の亀次郎や、親父と同じ世代では高麗屋兄弟、更にはその親父の世代の死んだ松嶋屋なんかに比べたらなんて思っていたら、おまけに酒の飲み方まで無粋極まりないときたもんだ・・・。

今回、痛い目にあって一皮むけてくれたら幸い。

それでも懲りないなら、もうあんな屋役者どうなってもいいでしょ? どうせ、大したもんにはならんよ。正直、あの見た目はそうそう出てくるもんじゃないから惜しいとは思うが、ゲイは経験と技量と姿かたちだけでどうにかなるもんじゃない。今は、三つめしか売りがないから、何やってもポテンシャルを感じさせながらも薄っぺら。で、どうやら、素では薄っぺら以下というか、チンピラに毛が生えたどころか毛が抜けた程度のものらしい。もう「若いうちは」なんていう歳でもない。

無粋者が江戸歌舞伎の大名跡の後継者?  

冗談だろうと、血の繋がっていない初代や七代目、九代目あたりが草場のかげで慟哭しているんじゃないかね?

この際、顔面の機能を犠牲にしてでも、もうあのにらみができなるくらいになった方が、損して得取れじゃないが、役者としては差し引きプラスになるんじゃないかなあ?
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最近のバカ親たち: 我が子が学校で「居残り」させられて文句をいうバカ親

2010年11月29日 | Weblog
何らかの罰として教師が子どもを学校に居残りさせるというのは、私が子どもの頃にはよくあったことだ。

かくいう私も居残りさせられたことが一度ならずある。大体、その原因は帰宅途中の道草、悪戯を女生徒に密告されてのことで、ときには密告者の勘違いや誤解が招いた悲劇もあったりしたものである。

アメリカなんかではいまだ「居残り」は当たり前の罰である。

ところが、日本では、いや私の大学時分からの友人の子供が通う学校では、「居残り」に親が文句をつけて取りやめになっているそうである。

親の言い分としては、子供の帰宅途中の安全が確保できないとのことで、一見ごもっともなようで、実は「一寸待て!」なのだ。


少なくとも、その学校ではかつて居残りは宿題を繰り返し忘れる生徒に対して取られた措置で、居残って忘れた宿題を終わらせなさいという類のものだったそうだ。

となると、そもそも、親は何をしていたということにならないだろうか? 宿題すなわち家庭学習の範疇であり、こうなると、やったかやっていないかは親の責任に属するはずである。つまり居残りさせられた親というのは、我が子の家庭学習について親としての監督を繰り返し怠った親ということではないのか。宿題をやらない子供が一義的に悪い。しかし、家庭でのできごとである以上、子供の怠慢を許した親にも責任はある。

その結果の「居残り」であり、その時間を使って遣り損ねた宿題を学校が面倒をみて終わらせてくれるというのだ。感謝こそすれ文句をいうべき筋合いのものではあるまい。

自分たちの親としての無責任、無能を棚に上げて、「居残り」をさせるなというふざけた輩なのである。

帰り道が危ないというのであれば、時分で迎えにこればよいではないか。

今時共稼ぎで両親とも迎えに行けない? 

そんなこと、学校の知ったことではない。仕事が重要なのはわかるが、我が子の養育、親としての責務も重要なはずだ。果たすべきを果たさずに、仕事があるから迎えに行けず、子供の安全が確保できないから居残りはダメ?

まったく、自分の側の落ち度、責任をそっちのけの手前勝手な言い分である。

こういう親だから、我が子が学校で何をやっているかさえ把握できないのだ。

しかし、親から文句を言われてすごすごと「御説ごもっとも」と引き下がる学校も情けない。

いや、学校にそうした理不尽な妥協を迫る世間、世論、そしてその形成に少なからぬ影響力を持つマスコミも悪い。

アメリカだったらこうはいかない。そもそも、苦情をいう親は滅多にいない。苦情を言ったところで、学校側はそれをはねのける。小学校といえども停学、落第、退学もあり得るのだ。一旦退学などにでもなれば、その学校を管轄する教育委員会に属する他の学校に転校できる保証はない。場合によっては家族でお引っ越しなどという事態にもなりかねない。

訴訟を起こしても人種問題でも絡まない限りまず親側は勝てない。

日本ではこうはいかない。学校も教師も制度、世情に裏打ちされた「権威」というものによる裏付けがない。したがって、下手をすれば、親は愚か子供に舐めたマネをされても何もできない。更に下手をすればマスコミの餌食になってサンドバック状態になる。

こんな状態で、体罰はいけないだとかアメリカの右ならえをしていては、学校の秩序は保てない。そして最後にそのツケに苦しむのは子供田たちだ。

知人はPTAの席で学校の先生に「うちは居残りさせてください。なんなら先生方の語意判断でひっぱたいいただいても結構です。

賛同する親、眉をしかめる親、ひく親、さまざまな反応だったそうだが、個人面談の際に担任教師から知人の奥さんは「(子供の)お父様のようなご理解ある保護者がいてくださると、私どもも心強い」と言われたとか。

心を病む教師、不祥事を起こす教師、すさむ教師・・・。適性だけでは語れない教師の引き起こす問題の背後には、明らかにそしてより大きな別の原因があると思わざるを得ないのだが・・・。

それはさておき、バカ親の子は不幸であり、これまたバカが再生産される。トンビが鷹を産むなんて滅多にないことなのだから。
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海老蔵のようなのを「青二才」という。いや、単なるガキか?

2010年11月26日 | Weblog
まったく同情の余地なし。

親父もあちこち頭を下げなくちゃあならんから、さぞや大変だろう。京都に行って、座頭格の藤十郎には当然のことながら、松嶋屋などなど。

30過ぎは役者としてはまだまだ「はな垂れ」の類だが、社会人としてはもう「若気の至り」ではすまない。もっとも、役者の世界のこと。音羽屋、染高麗同様、海老も若い時に、しかも10代で隠し子をなして、別段なんのことはない世界なのだから、それは一般世間とは異なる。しかし、以下に別世界とはいえ、成田屋の御曹司である。しかも父親は大病をしている。そろそろ一門はおろか歌舞伎界の屋台骨を好むと好まざると背負わされる身のうえであることをもっと自覚すべき時であるはずなのだが・・。

聞けば、南座の顔見世の会見をキャンセルした夜に出歩いての出来事だとか?

いかに健康上の理由とはいえ、会見のキャンセル自体、上述の上方歌舞伎の「御大」方はじめ、処々方々に詫びをいれるべきことである。

にもかかわらず、同じ日に飲み歩く?

体の不調が本当ならば、それこそプロ意識の欠如と言わざるを得ない。健康管理がなっていないのだ。かつて病身を押して命を削ってまで舞台にたった先達たちがあってこその今の歌舞伎界だということを忘れてはならない。

礼を失するにもほどがあるというものだ。

しかも、その翌日にはごひいき筋への結婚あいさつが予定されていたという。ひいきへの「思い「というものが本当にあるのなら、しかも体の具合が良くなかったのなら、なぜ飲み歩こうなどという気になるものか? うがった見方をすれば、ひいき筋なぞに対した感謝の念もないということではないのか?

要するに、父団十郎の言った通り、人間ができていないのだ。

まだ30代前半、できていなくて当たり前?

いや、30代前半にしては人間ができ過ぎていなさ過ぎるのではないのか?

その人としての底の浅さが、かいま見えてしまうのが今の海老蔵の芸なのである。かつて、ここで海老蔵批判をしたところ、同年代の頃の播磨屋等よりはマシだというコメントをいただいたが、私はそうは思わない。私の知る限り、あの年頃の播磨屋には、もう同世代から頭一つ抜きんでたものがあったと思う。今はいざ知らず、40を過ぎても播磨屋にはある種の気むずかしさ、見ようによっては何か屈折したものがあるようなことを指摘する声はあった。私自身のわずかな経験だが、気難しいそうなとっつきにくそうな播磨屋に対して、腰の低い高麗屋というかれこれ20年以上前に得たイメージはいまだ記憶のどこかにある。もっとも、その時分から役者としては高麗屋よりも播磨屋であるという私なりの評価なのだが。

セリフ術等の「腕」もさることながら、やはり芸のもととなるべき「人柄」が未熟ゆえに、あの玄人筋から酷評された忠信だったのではないか。

南座は午前は松嶋屋は代役で大和屋に付き合い、午後はラブりんが外郎売だという。予想通りだ。あの座組みではそれしかあるまい。成田のおはこに代役を出さなくてはならないとは情けない話であるが、海老よりもラブの方が、台詞もよろしいのではないのだろうか? がんばれ、ラブりん! 個人的にはこの人かなりの期待株なのだ。仁左の「コピー」などという評もなくはないが、それでいいではないか。そこからラブ自身の芸風が生まれてくるのであれば、しかも松嶋屋の芸風を受け継いだものであれば、それでよいではないか。ラブこそ松嶋屋の将来を担う人、でしょ? だって、あのしんのすけに任せられないでしょう? 孝だって無理。仁左は立役である必要はない? でも、孝には親父はおろかラブほどの華もないですから。

海老蔵、ちょっと頭を冷やせ! としか言いようがない一件ですな。
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北朝鮮軍の韓国砲撃 2: 外政は内政の延長の典型か?

2010年11月24日 | Weblog
どうやら唐突な行為でなかったらしい、今回の攻撃。北は既に韓国軍の演習に対して事前警告を行っていた由。

それにしても、ならばなぜ民間人を含めた無差別砲撃だったのか。

民間人を標的にしたとなれば、韓国の李政権も数か月前の韓国海軍艦船撃沈事件以上の強硬な態度を示さざるをえまい。ましてや前回の対応を国内で批判されたという苦い経を同政権は持っている。二の舞は繰り返したくはあるまい。北にとって韓国以上にその動向の気になる米国にしても、民間人をも殺傷して躊躇しない「ならず者国家」との交渉の席においそれとは付けまい。オバマ政権も世論に無関心ではいられないのだ。ましてや、中間選挙で手痛い敗北を喫した後である、相手の誘いにまんまと妥協するような姿勢を見せれば、議会からの批判も必至であり、議会運営は更なる困難を伴いかねない。

もちろん、こういう見方もできるかもしれない。識者の中には核施設公開だけでも米国に対する「刺激」としてはじゅうぶんであったはずなのに、なにゆえ更なる過激行動なのかと。たしかにそうした見方も可能だが、北はそうは考えていなかたのかもしれない。更なる威示行動を取らねば、米国は動かないと踏んだのかもしれない。

もしかりに、そいうだとすれば、やはりそこまでして米国を交渉の席に引きずり出したいうだけの国内事情があるということではないのか。

その一つは、国内経済の疲弊である。このままでは立ち行かなくなるということなのだろう。中国からの支援、対中貿易が経済制裁の効果を滅しているとの指摘もあるが、経済制裁にまったくの効力がないというわけではないと思われる。また、同時に北からしてみれば経済制裁故に不可欠となっている中国への経済的依存が、今以上に深化するは避けたいのではないのか。北の中国の関係はお世辞にも円満ではない。それは双方の建国以来どうなのだ。更にさかのぼれば、ともに抗日闘争を展開する時点から決して
安定的かつ平和的なものではなかったのだ。北から見れば、中国は利用価値はあるが信用は置けない隣国なのだ。金正日は反中感情の持ち主と言われているし、もしそいうだとすれば、彼だけがそうなのではあるまい。中国からの援助の見返りに国内に抱える資源を「搾取」されるに、指をくわえて座視するほど間抜けな連中ではあるまい。換言すれば、東シナ海で相手のなすがままの亡国よりはその点で「まともな国」なのである。

しかし、中国の支援は死活問題である。

ならば、国内の経済的苦境を打開し同時に対中依存を減ずるためには、他国からの援助を引き出すしかあるまい。その対象は我が国であり、米国であろうが、前者は後者の動きを無視しては動けぬし、拉致問題が阻害要因になっている。しかし、後者が援助に動けば、前者も否応なくその方向に動かざるをえまい。北がそれくらいの目算を立てていてもいささかも驚くことではないし、むしろ北のそうした予測は正しいとみるべきであろう。

国内問題のもう一つは金氏支配の国内的安定化を図りたい、特に軍との関係でそうしたいとの思惑があるのではないだろうか。
亡国の国賊が「暴力装置」という言葉を吐いて非難されているが、その「暴力装置」の掌握こそが政治権力の伸張、維持のカギとなることは古今東西ほぼ例外はない。北朝鮮軍は、国軍であると同時に朝鮮労働党の私軍的性格を持つ。もしかしたら、隣国のそれと同様に、党への帰属度の方が強いのかもしれない。隣国の場合、軍権こそが権力を握るカギであることは、歴代指導者がそこのこだわったことからもわかる。国家主席を辞した初代「皇帝」は決して死ぬまで中央軍事委員会主席の椅子を手放すことはしなかった。2代目の四川の小男もそれが最後まで手放すことのなかった公的地位だった。3代目も党トップのいすは手放しても、軍トップにはその後2年固執した。当代がどうするかは2年後に判明する。物理的強制力をもたぬ政権の脆さは、国家の脆さにも当てはまる。それに気付いていないのは、某国だけかもしれない。病身の金父が若い息子の将来を気遣えば、いかに軍を掌握するかという点は死活にかかわる。軍の意思と面子を重んじれば、軍が強硬な対外姿勢を望めばそれにある程度は答えざるをえないだろうし、韓国軍に演習で好き勝手をされては面子・こけんにかかわるというのであれば、その意を汲まねばなるまい。軍が反旗を翻せば、さしもの独裁者も一個の無防備な生身の人間でしかないのだ。北に軍組織には金の相互監視体制、相互牽制装置が張り巡らされており、一枚岩的に体制転覆をはかる等無理であるとの説もあるが、孤独な独裁者から見れば、リスクがゼロでない以上は、暴力装置をもたぬ党・政府組織などに依存するよりは、軍をいかに取り込むかに腐心するのは当然なのである。某国において文化大革命を起こした人物の政治的なまっとうさ、聡明さは、軍を「革命」という名の権力闘争の両輪の一方に据えようとしたことにこそあるのだ。

一方、「軍」の感情を逆なでする言動・行動を繰り返す政治指導者もどこぞにいるが、あいつらこそアホなのだ。まさか「軍」が下手なマネはしないだろうと舐めているとしたら、状況しだいではどうなるかわからない、そのあたりの危機意識が無いということであり、こういうオメデタイ連中に国家を託している我々には不幸このうえないといしか言いようがない。

北は今回の事件で更に窮地に追い込まれるのか。いやそれはあるまい。むしろ、ボールを握らされたのは周辺国なのである。
どこも北とガチンコする気がなければ、北を潰す気概もない。能力はあってもしたくないし、できない。まったく、舐められたものであるが、見ようによってはここまでの綱渡りまで「できる」胆力をもった国家指導者を持つという点で、北は我が国に勝っているのかもしれない。

国民にメシを食わせていないではないか?

では、我が国の政権が国民を食わせているのか? そうではあるまい。過去の遺産に乗っかっているだけで、それを食いつぶしなら生き延びているだけなのだ。そして食いつぶしの原因の一端は現政権にある。その点、北の政権と大した違いはない。むしろ、大国相手に丁々発止できるだけ、見上げたものである。













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北朝鮮軍が韓国側を砲撃!?

2010年11月23日 | Weblog
今のところ、原因、詳細は不明。

韓国軍の演習に反応したとの見方も。

あるいは、究極の瀬戸際外交ということか?

砲撃・交戦となってはもはや瀬戸際ではない? いや、いや、平壌は周辺諸国の足元を見ているのかもしれない。

中国の経済的影響力しいては政治的影響力が強まっているとはいえ、それは限定的なものだ。そもそも、昔から中国の北に対する影響力は知れている。「血で結ばれた」とはいうが、全体的に見れば、相互不信には相当なものがらい、センチな関係というよりは互いに不即不離の利害関係に絡め取られたくされ縁、狸と狐の化かし合いが、両国関係の本質なのだ。

確かに中国が北の側につくという可能性はゼロとは言えないが、今のところ、北のケツを持つ、みたいなことを中国がするわけもなく、そんな事をして軍事衝突の局地解決の可能性を放棄すれば、それが自らの身に火の粉が降りかかり、単なるやけどではすまなくなるのかもしれないのだ。

韓国も意を決して第2次朝鮮戦争にのぞむ等という意気地など今のところ持ち合わせていない。好調と言われる経済を犠牲にするはずもなく、実はその経済は相変わらず脆弱なもので、半島有事がなくとも世界情勢の変転いかんではどうなるかわからないのだ。

米国も、イラクもいまだ片付かず、アフガンは英国、ソ連の二の舞、三の舞いの泥沼状態であり、国内経済もいまだ明るくはない。復活したGMが日系をはじめ外国同業者の強敵になることは容易に予想できるし、長期的に見て相対的優位を失いつつも、その速度は大河の流れのごとくであり、米国は必ず復活するが、今はまだ三つ目の前線を構える余裕はない。しかも半島有事ともなれば、動員規模はイラク駐留、アフガン作戦の比ではあるまい。

日本など、言うに及ばぬ、無様である。

以上を見透かしたうえで、究極の瀬戸際をもってして、米国を交渉の席に引きづり出そうとの意図やもしれぬ。もっとも、そんなことをせねばならぬほど向うは向うで差し迫った事情があるのだろうし、いずれ死ぬ金正日にしてみれば、自分の目の黒いうちに、若い息子の立場を少しでも強化しようとするのであれば、対米関係を改善することで、国内の諸問題をも解決したいところではないのか。対米関係が片付けば、他はそれに付いてくるはずである。どこぞの国の経済制裁とやらも更に形骸化する。

米国人専門家に各施設を開陳して間もなくの今回の砲撃事件。タイミング的にもよすぎる。

では、中国はどうする。米国はどうする。

事態の悪化を両国とも望まないはずだ。が、やはりカギは米国である。米国としては直接関与は当然せず、事態の早期終息を望むに違いない。対北非難は強まるだろうし、緊張はしばらく続くが、だからといって軍事対決は選択枠に今のところあるまい。ならば、水面下なり、北の期待通りの展開を追うしかないのではないか。

もっとも、韓国世論が激して李あきひろ君がにっちもさっちも行かなくなれば、米国も苦慮することになろうが、今の韓国世論に経済を捨ててまで対決するなんて気概があるとは思えない。

ならば、対北非難と関係諸国との連携強化で弱腰ではないことをアピールするほかないのではないのか?

日本? 再び、ものの数にあらず。北からしてみれば、放っておけということだ、完全に見くびられているのだ。


以上、あくまでも、北に瀬戸際的思惑があるとしたらとの仮定での話なのだが、はてさてどうなりますやら。私は、東アジア大乱は、わが国に重大な試練と苦悩をもたらすが、いずれ歴史はそれを天祐と呼ぶことになると思うのだが・・。

国家革新の好機になる、と考えるのは甘すぎか?
















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仙石の人相

2010年11月20日 | Weblog
政治家なりたての頃と今。

同級生を見ても、人相さまざまである。えらく疲れ生気の無い濁った眼に変わり果てた者もいれば、良い意味で年相応に見えないいまだ若さはつらつの表情を浮かべるものもいる。社会的にも成功し、いかにも自信に裏打ちされ、「負けた!」と思わずにはいられないほど自信に満ちた人相、風貌のものもいる。

生来の美醜が無関係とはいわないが、人相はその人の歩んできた人生の「映し鏡」、ということなのだろう。

その点、仙石という人の人相の変わり様は相当なものである。しかも、悪い意味で。率直に言って、今の仙石の人相は相当な悪相なのである。

仙石由人、少なくともこの約20年、彼は一体どのような人生を歩み、そしてあのような不愉快な面構えになり果てたのだろうか。あの「顔」に、滅びの気配がする・・、と私は思うのである



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あえて売国奴仙石を弁護する: 自衛隊=暴力装置発言

2010年11月20日 | Weblog
何を隠そうや、私も自衛隊に限らず、強制力、破壊力をもった組織、システムを「暴力装置」と呼んだことがある。

ただ、それを否定的な意味で使ったことはない。

ゆえに国家権力、いや国家そのものが否定されねばならない対象であるなどと思ったこともない。その点は、反国家思想の「啓蒙」を受けたと言われている売国奴仙石とは大きく異なる点なのかもしれない。

私にしてみれば、「暴力」なるものの否定そのものを無意味だとい思っている。

遠い未来において人類の精神文明がどこまで進歩するか否かはいざ知らず、今日只今そして近未来において、我々人類は「暴力」とは決して縁を切れまいし、「暴力装置」の存在とは不可分の関係にあり続けるであろう。

もっといえば、私は必要とあらば「暴力」を何らかの目的を達成するための手段としてもその存在意義を否定しない。

したがって「自衛隊は暴力装置」と聞いても、なぜそれが批判されなければならないのか感覚的にその批判精神というものを共有できないのである。

確かに、一般論として「暴力」という」言葉に良いイメージは浮かばないのが世間一般の感覚だろう。「暴力団」なんて言葉は一般化しているのもその証左だろう。もっともと、私的には漫画家楳図かずお氏の自宅を指して「色の暴力」とメディアを前に声を張り上げたオバちゃんの方に金バッジのオニイさん方よりも恐怖をおぼえたものだが、いずれにしても「暴力」は否定的、批判的ニュアンスをもって使用される言葉とおいうのが、世間の常識であろう。

が、それはやはり現実感覚の欠如の証左でもあると思う。国際情勢、またそのなかでの国家の保全、社会生活に潜むさまざまな脅威に対する保全は、それのみというわけではないが、好むと好まざると「暴力」の存在によって可能なのである。それを持ち、それを更に拡充させようとしたがゆえに、本来それによって守られるべきである国家、国民に悲劇をもたらしたケースもあるが、同時にそれを持たぬがゆえに悲惨を味わったケースの存在も、歴史は証明している。「暴力装置」がいずれの結果をも招き得るということを認識しつつ、両者の間でバランスをとることこそ求めらえるはずであるが、どうやら少なくとも今の日本では、前者が過剰の認識され、その結果、仙石発言が批判的な注目を集めているのではないだろうか。

仙石発言を「飛んで火にいる」とばかりにやり玉に挙げた野党の諸センセイ方も、上記のことは十分理解したうえで、批判の矛先を向けたはずである。もしそうでないとすれば、そんな人間に国政を任せることにこそ恐怖せざるを得ないが、そうではなく理解したうえで発言を政争の具としたのであれば、それこそ批判されねばなるまい。

まさか、あの売国奴の肩を持つことになるとは思わなかったが、一寸の虫にも何とやら。坊主憎けらや袈裟までではなく、以下のあんな下郎であろうとも、擁護すべきと自分自身が信ずる部分においては、やはりそうしてやらねばならないと思うのである。

自衛隊は暴力装置です、ええ、日々の精勤に頭を垂れるべき我が国の冠たる「暴力装置」なのです。
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山本晋也"監督(?)"の松平健「批判」はいかがなものか?

2010年11月20日 | Weblog
女房に自殺されてしまったマツケンへの同情論に対して、今はいざ知らず昔は確かに映画監督だった山本晋也が、「自分だったら女房と一緒にいた」と牽制をいれた、いや事実上批判したというが、果たしてこれまたいかがなものか。

予期せぬ事態だったわけではなかったことを考えれば、マツケンの留守中の対応は熟慮の末と言えるかどうか疑問は残るし、批判も完全に回避はできまい。

ただ、マツケンあたりになるとどうなのだろうか。

自分の都合だけで仕事を減らしたり、地方公演をカットしたりなんてできるのだろうか。一座を組めば、そこに加わる役者や裏方の生活がかかってくる。本人に一座を率いて全国を回ることに躊躇があっても、周囲の事情がそれを許さないということもあるはずだ。

いや、もしかしたらそんな入り組んだ事情などなく、単にマツケンの女房を思う気持ち、配慮が不足していたのかもしれない。
それをより単刀直入に愛情の不足と言いかえることもできるかもしれない。

ただ、そのあたりの事情が明らかでないままに、批判めいたことを言ってのけるのもいかがなものか。

普通に考えて、女房に突然悲劇的な死に方をされ、幼子と一緒に取り残された夫の悲しみ、辛さ、自責の念は、それを経験した者には、持ち得る想像力を十二分に働かせたところで、理解できるものではあるまい。

ならば、普通に考えて、打ちひしがれているであろう相手に対して、容赦なく「おれだったら」の言葉をぶつける山本「監督」の言動こそ、問題視されてしかるべきではないのか。

もしかしたら「監督」は、事情を知っているのかもしれない。そのうえでのマツケン批判なのかもしれないが、視聴者にはそんなのわからない。視聴者に自分の知っている事情に言及もせず、批判めいた言葉だけを口にすれば、視聴者はどう受け取るのか。映像を通して飯を食ってきた人なら、容易にわかりそうなものだと思うのだが?

むしろ「人情の機微に疎いのではないか?」などとその人格を問われるべきは、山本「監督」なのかもしれない、のでは?
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予想を裏切らなかった駄作、映画「桜田門外ノ変」

2010年11月13日 | Weblog
ようやく時間を見つけてみることができたのだが、期待通りというべきか、予想通りのおもしろくない映画だった。

監督が佐藤純彌と知った時点で、こりゃ「おもしろくない映画になるぞ」と予想したものだが、その通りになったわけだ。
佐藤の映画はこれまで、角川の一連の「証明」シリーズ、今回「桜田門」出演の北大路欣也主演の「空海」、緒方拳が大黒屋光太夫を演じた映画(題名失念)、そして「男たちの大和」と見てきたが、どれもこれも実に退屈な作りなのである。ことさらにクライマックスを作って盛り上げるような手法も好きではないが、佐藤の映画というのは実に大味、薄味で映像にも演出にもオモシロミがない。それに映像自体が古臭い。その佐藤らしさが今回もいかんなく発揮されたというわけだ。

率直に言って、あれではNHKの「そのとき歴史が動いた」の劇場版みたいなもので、実に叙述的なのである。

あえて見どころはと言えば、やはり大掛かりなセットまでこしらえて撮った「変」そのもので、あればかりはさすがの迫力。
「御城」のまん前で譜代筆頭格の名門大名にしてかつ幕府の実権を握る大老が白昼堂々、しかも自邸の目と鼻の先で首を挙げられるという本来ならばあるべきではない「無様」な死に方をしたことに、昔からその場を思い描いてみてはグロテスクなゾクゾク感を味わったものである。特に大学の学部時代に履修した「幕末政治史」で、教授の史料をもとにした詳細な講義には興奮しながら聞き入ったものだが、それゆえにこそ、これまでTVドラマ等で描かれてきた「変」には到底満足がいかなかった。という意味では、今回初めてかなり満足した。ほぼ、自分が思い描いた通りの井伊掃部暗殺の顛末であった。

ただし、あくまでも、「ほぼ」である。通説では井伊のか駕籠に刃を向けたのは二人だけではないはずであるし、首を挙げた有村は、勢いよく雪の上に転がったそれを切っ先に刺したことになっているが、映画はそうではなかった。原作小説がそうだったのかは知らないが、通説通りに描いて欲しかったものである。

後は私にとってはあくびの連続であった。厳密には、主人公が事件後農家に身をひそめる姿を遠見にする姿に若干
鼻にツーンとくるものを感じ、追ってを逃れた高橋親子が寺内の一間を借りともに自害するシーンに、自害した側ではなく、武士の情けを聞き入れて血に染まるであろう部屋を貸した男の心意気に、「かくあれかし」と関心したものだが、それ以外は退屈に時間を遣るしかなかった。


で、結局、何が言いたいのかとも思った。

登場人物の描き方も実に散漫というか皮相なのである。関鉄之助にしろ、井伊にしろ、烈公にしろ、人物が十分に描かれているとは到底思わなかった。

水戸浪士らから憎まれ恨まれ果てには命を取られた井伊とは、いかなる人物だったのか。「花の生涯」や「井伊大老」に描かれているような先見の明を持つ悲劇の名君だったのか、それとも英明ではありながらも政治手腕が剛腕に過ぎ、すなわち稚拙に過ぎ、
あえなく因果応報としてのあのような惨死に至ったのか。

伊武雅刀の井伊では、映画としてはヒールとして描きたいのか、そうでなくばどう描くつもりだったのかが曖昧模糊のままであった。

関鉄之助の人となり、思想背景すなわち水戸学の影響もいささかも描かれてはいなかった。そもそも、大沢たかをに侍役は無理があったのではないのか。

「再現フィルム」を延々2時間余にわたって見せられて、1700円(東宝シネマ)はいささかコストパフォーマンスが悪過ぎた。















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憲法に拠らない政治社会変革の可能性

2010年11月09日 | Weblog
最近のいろいろな動きを見ていると、所与の条件しだいでは近未来において、憲法が正当化していないかたちでの政治社会変革は我が国に生ずる可能性もまんざら否定できないように思えてきた。

それは単に民主党政権の失政によるというものだけではなく、皮肉にも現行憲法によって裏付けられた体制が半世紀以上にわたって育んできた現実世界との矛盾、変化しつつある内外環境への対応不全という大枠の問題もあれば、前政権すなわち自民党政権が貯め込んできたものあるいは糊塗してきたものが民主党政権ごときでは解決どころかもはやそれを隠蔽し続けることすらできなくなってきたことにもよると思う。

憲法に拠らない体制変革が民意を背景とし、国民世論の支持を得るのであれば、憲法に矛盾する方法論によるものであったとしても、それこそ民主主義という観点から見れば、正当な行為であると論ずることは可能であろう。

そもそも、現行憲法自体が民意と乖離を初めてしまい、近未来においてかりに民意の多数が憲法の何らかのかたちでの改廃を望んだとすれば、それにそう政治行動こそ民主主義の実践であり、むしろ護憲こそ民主主義に矛盾するということになろう。

もっとも、一度そういうキワドイやり方でうまくいってしまうというのは、「パンドラの箱」になる危険性もなくはない。キワドイ方法で成立した体制が、いつか同じくキワドイ方法によって改廃されるという可能性は否定できないし、前例があれば尚更その可能性は高くなる。日華事変発生後、拡大を嫌う石原に対し、武藤章が言い放ったという言葉、まさにそれこそが好例ではないのだろうか。

但し、そこまで臆病になることはないのかもしれない。いや、そもそも論で考えてみれば、政治行動に定型を求めたり、暴力の政治手段としての排除という前提を儲けて、その枠組みのなかだけで思考し行動すること自体、「政治」というものにおいては愚かなことなのかもしれない。いかなる体制、制度も時々に改変の手を加えてやらねば持続は困難となるし、かりに改変により延命を図っても、いずれ終わりはくる。その終わりが平和裏のものであればそれにこしたことはないが、そうはいかぬのがヒトの世界である。この現実を前提とすれば、憲法に拠らぬ政治改革の時が来ることを待ち望むことは決して許されざることではないのかもしれない。

と、現行憲法が保証する言論の自由のもとに、起こりうるかもしれない現行憲法並びに政治社会体制の否定に対してそれを許容可能とする私の言い分は、大いなる矛盾であるのかもしれない。

が、矛盾があって何が悪い、と開き直り論理の呪縛を拒絶することも、また政治的にはアリなのではないだろうか。政治における手段の良し悪しはすべて結果によって決まるというのは、暴論に過ぎるだろうか。

しかし、どう考えても、今後少なくともいささかの没論理性、乱暴さが政治に求められるような事態がやってくると予測するのは、私だけなのだろうか。
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尖閣問題: 次に海保に体当たりを食らわすべきは日本船だ!

2010年11月06日 | Weblog
政府は禁止しているわけではないというが、事実上尖閣への上陸はできない。

尖閣が個人所有であることもあるのかもしれないが、自国の領土へ足を踏み入れられないというのは、おかしなことだ。

そこで、今こそ一度上陸を試みてはどうだろうか。

きっと海保は阻もうとするに違いない。いや、阻んで欲しいのだ。

そこで、中国船よろしく海保の艦艇に体当たりをくらわすのだ。

いっそのこと、体当たりをくらわした側の船が沈没するか、一人くらい死んだほうが、絵的には良い。

そしてそれが報道され、映像でも流された日には、菅政権は更なる対応を迫られる。

領土をめぐり、中露からの圧力と、それに加えて国内からの圧力。世論に火がついて政権が対応不能になり、時局が混沌とすれば
なおのこと結構!

それくらいのことしようとする右翼団体でもいないかね? いや、右翼じゃあだめだ。こんな団体、人がといいような方が良い。

例えば、あの戦没者の遺骨収集やってる山登りの方とか。

いえ、別に死んでくださいなんて言ってません、御家族もいらっしゃるので。

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「文化勲章」に見る我が国の情けなさ

2010年11月05日 | Weblog
ノーベル賞やレジオンドヌール勲章をもらっておきながら文化勲章を拒否した大作家先生がいた。確か「民主主義以外の権威を認めず」とかほざいたはずである。

この御仁は、「あいまいな日本人」とか題して講演も行ったが、何事につけ「あいまいな言い回し」をすることを得意としている。沖縄集団自決の一件をめぐって明らかなように、言い逃れることもさすがノーベル文学賞受賞者だけあって巧みなことこのうえない。おそらく「あいまい」な言い回しをするのも、予想されうる批判をかわそうとのもくろみなのであろう。もしかしたら、同時に「あいまい」な言い回しを用いて他人の知恵の程を試すことに快感を覚える類の人間なのかもしれない。まあ、そういう輩はインテリと呼ばれる連中には決して少なくない。だが、うがってみれば、自分自身に何らかの権威性を認めているからこそ、人を試すような、人に理解してもらうために意を尽くさない傲慢な態度を取るのではとも思えてしまう。

文化勲章の拒否は、さすがに巷間「左巻き」文化人の一人と目され、保守層からは終生叩かれ、晩年にはその言行不一致で嘲笑の対象にすらなることもあった筑紫某ですらも、批判したほどで、確かに「国王」という権威手ずからノーベル賞を頂戴しておいて、「天皇」を通していただくことは忌避するとは、どう考えても「民主主義以外の・・」云々をそのまま真に受けるわけにはいかない。筑紫某の指摘の通り左翼体質は間違いなかろうが、それが他国の「君主」には向けられないということは、対日限定左翼なのかもしれない。

まあ、そんな胡散臭いのはさておき、ノーベル賞受賞者に対して後追いのように文化勲章を授与するのが、わが国の慣例であり、今回もその通りとなった。

が、なぜ、そうなのか?

我が国は国家として、ノーベル賞の文化勲章に対する優越した権威性を認めるということなのか。

もしそうだとしたら、実に情けないことであり、いまだ明治維新以来の欧米文化への優越者に対するような憧憬、翻って自己卑下のような感情が我が国の枢要に存在するということなのか?

それとも、「今更ノーベル賞の後追いは・・」と疑問を感じながらも、慣例、前例を重んじる「官」はそれを変えることができないということなのか。

そもそも、わが国はノーベル賞に騒ぎ過ぎではないのか。何もノーベル賞を真っ向から否定しようなんていうつもりはないが、所詮人が選ぶものだけあって、そこに人の「感情」が介入することは当然あり得るし、実際にあった、いや今でもあると指摘する声を個人的にも聞いたことがある。

湯川以前に日本人受賞者が複数出ていてもおかしくなかった。そのうちの一人については、ノーベル財団自身、選考しなかったことを誤りと認めていると、米国人のノーベル賞研究者から聞いたことがある。同研究者は、その背後に人種偏見があったとも。

では、今はないのか? もうないと言い切れるのか?

ノーベル賞の選考過程での推薦制度にも問題があるとの指摘もある。そこに情実が入り込み、その結果ハーバードコネクションが
有利になるとの指摘もある。

以前、もう20年近くあるいは以上前と記憶するがノーベル財団への取材をTVで見たことがあるが、同図書館が所蔵する日本語書籍に安部公房のものが多かったことを記憶している。安部が早世せずば、もしかしたら日本人二人目の文学賞受賞者になっていたのかもしれないが、安部の文学作品に関しては、我が国内では賛否両論あり、なぜ財団が安部を選択したのか、そこに財団の主観や好みが介在していたとしたら、それと賞の専攻が無関係とどうして言えるだろうか。

ノーベル賞受賞は確かに容易なことではない。これは間違いないと思う。

しかしながら、一つの国家が自国の勲章を事実上他国のものの「下位」に位置付けるような行為は、慎むべきではないかと思うが、そこに疑問を呈さない我が国の政治家、マスコミ、世論もこれまたなんともはや・・・。
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「十三人の刺客」の稲垣吾郎をとやかく言ったら、肘を噛みつかれてしまった!(笑)

2010年11月03日 | Weblog
叩かれています。

よほど、お気に召さなかったのだろう。

でも、日本語能力ない方々ですな(笑)、なんてことを言うと更にかみついてくるんでしょうけど(笑)。

今回の演技で見直したって言ってるじゃないですか。

それに「大根」って、役者を評するうえでごく当たり前に昔かから使われてきたわけで、かの15代目にしても、その栄に浴したことがあるんですから! それを何も、「中傷」などと目くじら立てなくてもいいと思うんですけど。

ブログなんぞで、勝手に個人的な感想を書くなとまで仰る方もいる。ブログって、個人的なこと書いちゃいけない場所なんですか? もし、気に要らないとか、名誉を傷つけられたとおっしゃるのなら、どうぞ司法に訴えられてはいかがかと? 受けて立ちますよ? でも、経済的に大丈夫ですか? だって、私が勝んですから、そちらに相当の金銭的負担が行くと思うんですけど?
 
それから、「ジャニタレ」ってのも、いけないそうです(笑)。

もうこうなると「言葉狩り」じみてきて、空恐ろしくさえあります。我が国の民主主義なんてこんなもんですわ。相互批判は民主主義の前提みたいなもんですが、それすらまともにできないんですから。

「ん、そんな輩を相手にするな?」 

いえいえ、私は人によって態度を変えたりはしません。昔、新社会人の頃、それが露骨な上司にさんざんな目にあわされた経験があるので(私だけではなく同僚もそうでしたが)、「こういう人間にだけはなるまいよ」と思ったものです。あー、今でもあの上司の上へのあのいやらしいへつらい笑いを思い出すと、ぞっとします。でも、そんな人でも、家庭では良き夫、父親だったそうで。人は良いことをしながら悪いこともする。そしてまたその逆もしかり。どんな嫌な上司でも、そんな一面があると気付くには、もうしばらく時間が必要でしたけど。

どうも私の「肘」にかみついたお二方は女性と思われるが、この方々も、彼氏、旦那の前では良き彼女、女房に違いない!と思うことにしておきたい。

まあ、それはさておき、私は染高麗のファンではない。素質は買っている。最近は叔父さんについて学ぼうとしているようだが、
残念ながら父親の高麗屋がアレ、すなわち丸本物がダメで(糸に乗れてういない)、どう贔屓目に見たって爺さんの先代幸四郎や爺さんの大播磨の得意とした時代物の諸役は、すなわち高麗屋の家の芸は、ほぼどれをとっても叔父さんの方が実父よりも上なのだから、それはそれで正しい選択だと思うし、それを許している高麗屋も偉いと思う。あっちは覚えちゃいまいが、昔高麗屋と仕事の関係みたいなことで幾度か顔をあわせたことがあるが、十把一絡げみたいな若造にも毎度毎度丁寧にあいさつ、会釈をしてくれたのは、忘れもしない。きっと、寛大・鷹揚な心の持ち主なのだろう。

話がずれた。

染には期待しているが、どうも「ニン」が家の芸の継承者としてどうなのだ?と思ってしまうのだ。「ニン」だけは稽古で何とかなるものではない。それに、あの家系にしては声が良くない。それはきっと、本人が一番自覚し、苦悩していることだろうから、将来的には彼なりの幸四郎になるのではないかと思っている。

でも、あの芝居の巧さ(父親同様、丸本物はまだまだ)をもってすれば、そして演出がああではなかたら、より残虐性を貴種性とのコントラストで際立たせたであろう染の殿さまは、さぞや良かったと想像してみる。

演出ゆえに、稲垣も損をした。好演だっただけに、もう少し、あえて台詞を言わないことで、台詞を言うよりもより雄弁かつ巧みに、あの殿さまの屈折した内面を描き出すことができたのではないだろうか。宿場で追われる身となりながら喋り続けるというあの演出は、どうもいただけなかった。

誤解のないように言っておくが、これは稲垣の力量の問題ではなく、演出の問題だったと思う。

家臣らとともに宿場ん阿内を逃げまどう間、台詞のないまま表情、しぐさで心のうちを表現する。それが稲垣でできたかどうかはいざ知らず、染ならばできたに違いない、しかも稲垣よりも上手くと、私は思うのである。

これも気に要らない。こんなことブログに書くな?

じゃあ、なんだったら書いていいんだい?

稲垣の演技は完ぺきで、ジャニーズタレントは他とは素養が違う、実力が違う!とでも言えってか?

わたしゃ、白を黒とは言えい性分でして・・・。



コメント (4)
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