くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

神足裕司って何様?: 大嶽親方の責任の取り方

2010年06月30日 | Weblog
神足裕司さんは、「すべての権利を手放す」という親方なりの責任の取り方だったとみる。一方で、復帰が絶望的になった今、こうした責任の取り方は、「損得計算が見え、子どもっぽい虫の良さがある」とも指摘した。親方がインタビューで琴光喜をかばう発言をしたことについても、子どもっぽさがあるという。

以上抜粋だが、このハゲだるま何様のつもりというか、いささか上から目線じゃないか、人の腹の底を見透かしたような気になって?

大嶽親方、すなわち元関脇貴闘力。若貴時代を支えた「脇役」の一人だった。個人的には好きなタイプの相撲取りではなかった。
子どもの頃から、四つ相撲を得意として技のうまさを見せる力士が好きで、あの「黄金の左」と双葉山ですら適わないと風格のある土俵入りで印象深い輪島や、近年では私生活のまずさや実像における人格はメディアが作り出したイメージとはかなりかけ離れている(悪い意味で)と言われている若乃花(貴の兄)等が好きだった。「おしん横綱」と呼ばれた隆の里も好きだった。一方、突き押し相撲を得意とする力士は、取り口の見目も美的によくなく、ましてや突き押しをかわされて前のめりに負けた時の無様さといったらみるに絶えず、一時期将来の大関候補と目された麒麟児や現尾車の琴風、近年では引退した出島や雅山の類を応援する気になったことがない。贔屓目がまったくないせいか、出島、雅山が横綱はおろか大関の地位を維持することも難しく、いずれ陥落するであろうとの私の予感は的中した。大受がその好例であるが、子どもの頃から相撲を見てきた経験則からいって、そうなるだろうと思ったのだ。

それはさておき、貴闘力、取り口から贔屓の力士ではなかったが、見ていて気持ちの良い力士であったことには違いなかった。

あのガチンコで知られた力士が、今賭博問題で渦中の人となろうとは。しかも、どうやら相撲界に彼の生き残る術はないらしい。
おそらくタニマチ筋が新たな食いぶちを紹介して何とか生きていくのであろう。しかし、相撲界を追われるこれからの人生は失意の余生となるに違いなく、しかも博打好きという宿痾を抱えた人である。再び身を持ち崩すのではないかとの不安を払拭することはできない。

る反小る」が、私はあの涙に「演技」はないと信じたい。彼が語った内容がすべて真実か否かは知らぬ。賭博と暴力団のつながりの可能性に
思いが至らなかったというのは、相撲界とその世界との昔からの接点を考えると、にわかには信じ難い。が、琴光喜の今後を案じる彼の涙だけは信じても良いのではないだろか。

だからこそ、あのハゲだるまの人の心の奥底まで見透かせるのだと言わんばかりの高慢ちきな物言いが、特に損得計算が「見え」という断定的な物言いが、むしょうに鬱陶しく、いまいましい。

お前は「ネ申」か?と言いたくなる。

ただ、そういう知ったかぶりでもしないとメシを食えないというのが、コラムニストというこの世の中別にあってもなくてもいいような、もしかしたらある意味ヤクザ屋や相撲取りよりも存在価値の無い連中の現実なのかもしれない。ということで、大目に見てやるべきなのかな? そうでもしないと「ハゲだるま、○○で逮捕: 生活苦による犯行」などということになっても本人はともかうも世間が迷惑するし、私生活やら仕事やらでどうやら火病ってしまった半島役者のように電気コードで自分の首絞められるのもはた迷惑なことだし、ましてやサンミュージック所属の某女性アイドル歌手のように頭から豆腐を出して死なれてしまうかもしれないから。
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相撲協会のケジメのつけ方: 名古屋場所の天皇賜杯

2010年06月30日 | Weblog
相撲協会は今あえて「まな板の上」状態に甘んじているようだが、武蔵川の記者会見でのあの態度なんかみてると、ほんとお前らわかってるのか?という気がしてしまう。

今回の騒動、私的には今更騒ぐことか?という印象が強く、マスコミや相撲ジャーナリスト、識者の類の「いい子ぶりっ子」、文科省の卑怯な「ほっかむり」の方が気になって仕方がない。

が、今マスコミが中心になって反相撲協会的な世論が形成されたかのように見える中、相撲協会も「世の流れ」には抗えない。

で、何かをせねばならないわけだ。

私はそういうことなら、名古屋場所は中止にすべきだと思ったし、武蔵川はじめ首脳部は自ら退き、外からの「血」も入れて運営体制の刷新を行うべきであると考えている。

それゆえ、名古屋場所開催は手ぬるいと思うし、武蔵川はじめ首脳陣の自発的動きは鈍すぎるとも感じる。

ところで、その名古屋場所だが、この際天皇賜杯を陛下に対して恐れ多いことではあるが、ご遠慮申し上げるべきではないのだろうか。今のような体たらくのなかで相撲協会に天応賜杯は、分不相応である。

おそらく宮内庁から表立って「取り下げる」とは言ってこないであろうが、だからと言って今の相撲協会に賜杯は豚に真珠どころの騒ぎではない。賛否両論の渦中で開催される名古屋場所での天皇賜杯の存在は、陛下をも騒動に巻き込むことにはなりはしかいか。しいては皇室の権威をもそこね、またもやマスコミの餌食にされはしないかと危惧するのだ。

それだけえはなく、総理大臣杯についても、菅内閣は取り下げるべきである。あるいは相撲協会に自ら自体させつべきではないのか。民主党政権、文科省も自分たちの不作為いや怠慢を棚に上げて相撲協会を批判するのであれば、その点徹底的に筋を通してほしいものだ。

武蔵川理事長、自ら「今の相撲協会が天皇杯を賜ることは恐れ多く、新たに生まれ変わるまでの間、ご遠慮申し上げたい」くらいのことは言えないものか?

いや、たとえ日本国民であろうとも武蔵川に「日本人の心」はわからないのだから、そんなことを期待するだけ無駄かもしれない。

だから、安易に帰化なんかさせるな? ましてや貴下もしていないヤツらに参政権なんか?

ほんと、つくづくそう思います。
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来る参院選、投票には行きません!

2010年06月29日 | Weblog
批判は覚悟ですが、私は投票には行きません!

だって、行っても入れるべき候補者がいないんですから!

選挙区選出なんて、わけのわからん筋肉頭に、これまた得体の知れない弁舌だけはさわやかなオッサンいや爺さん。そして後は
最初から「玉砕」覚悟、ある意味戦中の帝国陸軍よりも肝の据わった代々木に立派な本部のある党の候補プラスその他泡沫しかいないんですから。

比例区も、私にしてみれば「俺が関係ねーんだからみんな呼ばわりするな」みたいな有権者をバカにしたような低脳な名称の党だとか、立ち枯れだとか痩身だとか、かいかぶ(いや改革)だとか、わけのわからんのが雨後のタケノコ、いや雨後の毒キノコみたいに乱立する一方で、かたや「昔の名前で出ています」みたいなというか年老いた岡場所の女郎みたいな、つまりとてもまともに相手にできないようなカビ臭いというか下手すりゃ腐臭がするような既成政党ばかり。


これでどう選べって言うんですか? 納豆とトマトとふき(←匂いを嗅ぐだけで吐き気がするんです)のうちからひとつ選んで食え!みたいな、こりゃ拷問でしょ?

それに昨年の夏がトラウマになっているようなんです。

あの夏は苦悩しました、私なりに。自民党はもうウンザリだ、セメント屋のひょっとこ息子なんかに騙されないぞという思いと同時に、かといってあの胡散臭い政党に期待する気には到底なれない。かといって、第三の選択もない。でも、一度は本格的な先見交代を・・と思って投票所に行ったのですが、いざ、投票用紙を前にして、私は立ちすくんでしまったのです。

ほんとにそれでいいのか、○主党と書いていいのか、同党の候補者名を書いていいのか?と。

何とも言えない不確かさと不安に襲われたのです。で、結局、民○党とは書かず、同じく同党候補者名のかわりに補習系泡沫候補名を。



既成政党には、というか既存の政党政治にはもう何も期待していない。今私が期待するのは、この国が奈落に落ちることと、そこから既成の発想にとらわれない手法でこの国を劇的に変える動きが出てくることだけです。

それまでは、あえて非国民的行為であるとは知りながら、私は選挙権を行使しません。

非国民結構、私の心は憲法を含めた現在のこの国家体制から既に離れ切ってしまっていますから。


国家体制の否定すなわち反体制?

冗談はよしてください。私にとって「日本国」という国家の真髄はソレ、アレですよ。それをしやしめるような憲法の下で、それをないがしろにするような連中が政権の座にいる国なんて、私にしてみたら真の「日本国」ではない。こんなまやかしの「国」に
対して盾ついて反体制よばわりされても、チンピラに外道呼ばわりされるようなもので、片腹痛いとしか言いようがありません。

まあ、サヨナラ今の日本国。ということで、選挙権は不行使、が今回の選挙に対する私の「一票」です。

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根も葉もない噂?: イチローは種なし

2010年06月25日 | Weblog
名古屋近辺限定なのか、それとも知る人ぞ知る無実無根のガセ情報なのかはたまた真実なのか知らないが、イチローは「種なし」という噂が存在する。原因はおたふく風邪だとか。

私はてっきり子どもは要らない、子どもは邪魔という人なのか、あるいは嫁が年増過ぎて時期を逃してしてしまったかのどちらかだと思っていたのだが・・・。

ちなみに、情報源はタクシーの運ちゃんです。
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最近の日本人のダメさ加減: 日刊ゲンダイ様の仰るとおりだ!

2010年06月24日 | Weblog
先日の日本-オランダ戦をめぐる報道に関して、同じマスコミ仲間の「日刊ゲンダイ」が、「惜敗」報道一色を批判している。
勝たねば意味がないと。

http://news.livedoor.com/topics/detail/4845577/

ん、ゲンダイなんかと同じ穴のムジナ扱いは御免こうむる。それはわからないでもないが、今回に関して言えば、ゲンダイの言い分にはまったくもって、同感である。惜敗であろうが何であろうが、負けは負け。負けにかわりはないのだ。

この現実から眼をそむけるかのような報道姿勢。しかも、ほぼ一色。試合中の松木の解説になっていないフレーズだけの叫びというか、ごたくの類もウンザリしたが(と同時にセルジオの何時までたってもうまくならない日本語も聞いててイライラするが)、試合後の各マスコミの報道姿勢にもうんざりさせられた。

実際、こうした報道姿勢は、今回の日蘭戦に限ったことではない。

オリンピックでもそうだ。入賞すらできなかったのに、「健闘」をたたえ、メダルを逃せば「惜しい」、「よくやった」。

これは負け犬根性というか、何やら某国の小説に出てくる阿Qなる人物の精神構造に共通するものがあるのではないかとすら思えてしまうのだ。

なぜ、日本人はこうなのか? いや、何時からかこうなってしまったのか?

ひとつの可能性は、やはり先の大戦の敗北である。私たちの祖父さん、親父世代が「日本軍は強かったが、物量に負けた」と口にするのを聞いたことがあるのは、私だけではないはずだ。

昔は私もなるほどと思ったものだが、いずれにしても負けは負け。物量で負けたというのなら、なぜそもそも物量に勝る相手と戦をしたのだ。負けるために戦をする馬鹿はいない、はずだ。相手が物量に勝るとわかっていたのなら(実際わかっていたのだが)、なぜ物量の劣勢を補うべき戦い方をしなかったのか。した? とてもそうは思えない。あの軍事的な合理性を見いだしがたい西太平洋から南太平洋ほぼ全域への戦線の拡大は、それが米軍ならともかくも、当時の日本軍の身の丈とその背後にある総合国力から考えて、「あり得ない」戦争の仕方であった。

繰り返すが、いずれにしても、負けは負け。大負けしたのだ。

それを直視できないから、「強かったが、物量で・・」などという情けない、今なら聞いていて恥ずかしくなるようなごたくを並べるのである。

そしてこれこそ、我が国が、敗戦から今に至るまで延々と学ぶべきを学んでこなかった原因の根本ではないのか?

「あの戦争は間違った戦争だった」、「負けてむしろ良かったのだ」という類の議論も、「物量で」とは異質に見えて実は根は同じなのではないか。つまり、敗戦を正面から直視できないがゆえに、それを「国策の誤り」とか「侵略戦争」、「負けて良かった」で全面否定してしまうのではないのだろうか。

ところで、その点において、先帝陛下はそうではなかったことは、既に公開されている皇太子(今上陛下)への敗戦まもなくの書簡に明らかであり、その内容は「物量で負けた」を事実上一蹴しているのは実に興味深い。

ただ、60年前の敗戦が、日本人を、シビアに場合によっては峻烈を極めることになるかもしれない自己批判、同胞批判に立ち向かう根性なく、敗北を敗北として直視できず、そのかわりに負け犬の互いに傷をなめあうがごとき「惜しい」、「健闘」、「感動を与えてくれた」の言葉のなかに「現実」が埋没させようとする、ヘタレで姑息な民族にしてしまったのだとしても、我が国の歴史上最大の痛恨事のみが、唯一の原因ではないかもしれないとも考えるのだ。

よくよく考えてみれば、「物量に負けた」と見苦しくも情けない言い訳をした(する)爺さんたちの世代は、敗戦時はその多くが立派な大人であり、彼らは敗戦前の日本社会で育ってきたのである。ということは、もしかしたら、敗戦以前から日本人には今に通じる「負け犬」的ヘタレさがあったのではないだろうか?

更にさかのぼれば幕末・明治にいわゆる西洋の衝撃に直面して、日本人は彼我の文明進歩の格差に驚嘆、場合によっては愕然としたのであるが、そこで出てきた理屈の一つが、我が国が欧米の後塵を拝したのも、徳川の失政によるものであるというもので、この代表例が鎖国批判である。ゆえに、神武創業に戻るべしというものであったが、その背景には神代にさかのぼり万世一系の天皇をいただく日本の優越というそれ以前から存在する自己認識に依拠し、それを回復あるいは欧米優位の国際社会において顕現させるという論理へと結びついていく。しかしながら、欧米列強との差、特に物質的、経済的格差は近代を通して一貫して彼我に介在し続け、その現実を前に出てきたのが、わが国の精神的優位という論理であったが、これも万世不抜の国体をいただく我が国という自己認識につながるのである。なぜなら、儒学的思弁を借用ないしは依拠することで世に類を見ない万世一系すなわちわが国の道徳的優越の証という論法は幕末・明治に至るとっくの昔に確立されていたからである。

誤解のないようにここでことわっておくのであれば、万世一系の国体を頂くわが国という自己認識に異を唱えるつもりはないし、それをことさら実証主義を大義名分よろしく振りかざして否定する気もさらさらない。いかなる国にも健国をめぐるあるいは現在ただ今の国家体制を肯定する「神話」は存在し、建国わずか200余年の米国ですらその例外ではない。国家に限らず人間社会がその統合ないし融合を維持していこうとするとき、そしてそうした営みは人間という生き物からは不可分であるのだろうが、「神話」の存在とそれがその目的において果たすべき役割と意義は変わらないであろう。その意味で天皇をいただくわが国が、「万世一系」の歴史認識によって立ち、国体の正当性を信じ、その永続を願うことは、かりにそれが文字通りの「神話」の類であっても、私はあえて肯定的にとらえたいという立場の人間である。

話をもとに戻せば、直視するに辛い現実をなにものかによってオブラートに包むようにして眺めることによって、自らの挫折や劣等性を認めながらも、それによって自尊心を完全に自己否定してしまわないようにしたいとの真理は働いて、かつて日本人は、欧米の優越に対して、自身の精神的優位を信じようとしたのではないか。

戦後は、未曾有の敗戦としかもそれに伴う有史以来の外国軍による占領という事態に直面し、完全自己否定、自己卑下を回避すべく物質的な優劣に言い訳を見いだし、あるいは戦争そのものを否定しようとしたのではないだろうか。

ただし、幕末・明治と戦後の間には大きな違いはあった。前者において当時の指導者たちは、彼我の優劣を非常に冷静かつ怜悧に受け止めたが、戦後の指導者たちは今に至るまで、とくに昨今は先の大戦しいては戦前の体制の全否定によって、敗戦の真の原因から眼をそむけているように見えてならない。いうなれば、幕末・維新の指導者は今日只今よりも厳密な意味でのリアリストではなかったのか。リアルなものから眼をそむけるリアリストなどというものはあり得まい。そしてその精神的には痛みを伴うであろう現実主義的姿勢は、彼らが武士という、究極的にはむき出しの「力」の優劣によってのみ生存することができる人種であったからではないのか。しかも、彼らは動乱期の血なまぐさい「適者生存」のなかで軍事的、政治的に勝利し、生き残った人間たちだったのだ。究極の真剣勝負を生きてきた者たちだけに、生き残るためには我が身に耐えがたき辛い現実をも受け止め、そこから生存の術を模索するだけの根性があったのではないだろうか。

それに比べれば、どこぞのどなたかが経験した市民運動など、ままごとにも及ばない戯言であり、落選経験を「苦労」と呼ぶなど、蚊にさされて大けがというようなものである。

これはなにもその「どこぞのどなた」だけに限ったことではなく、現在の日本人に総じていえることではないのか。現実を直視せずとも生きていられる世の中ゆえに、あえて辛い現実には目をそむけたがる。そしてそのためには実に取るに足らない理屈や言葉を弄することも厭わず、それを恥じることすらしない。

さて、まもなくのデンマーク戦で再び、自己弁護と欺瞞に躍起となるのであろうか。そして、わが国はいつまでこのややもすれば猿のオナニーにも劣るかもしれない行為を繰り返すのであろうか。

もう一度、かつて異常のどん底に突き落とされなければ、現実に直面する勇気とそれを克服しようとする根性は、我々今の日本人のなかには生まれてこないのかもしれない。








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「沖縄戦終結から65年」に思う: 「戦争は二度としてはいけない」だけで良いのか?

2010年06月24日 | Weblog
「戦争は二度としてはいけない。」


賛成だ。


だが、世の中有為転変だ。いつ何どき期せずして戦火を交えざるを得なくなるかもしれない。あるいは、戦うを上策とせざるを得ない局面に立ち至らないとも限らない。

そのような情勢下で、「戦争は二度としてはいけない」、「戦争反対」と唱え続けたところで、何の意味があるだろうか。下手をすれば座して死を待つことになりかねない。「平和」、「不戦」というものが、個人の「死」あるいは国家の「滅亡」という犠牲を払ってでもまもるべきだとはとても思えない。いや、これほどの逆説があろうか。本来、「平和」、「反戦」は、人の死を回避するための思想ではないのか。国家の滅亡を防ぎその繁栄のための思想か否かはいざ知らぬ。なぜなら平和反戦運動には反国家的な思想をもった連中も参加しているからだ。だが、我が身ばかりか他者の命までをも犠牲にしてまでも、平和・反戦はつかぬかれなければいけないなどという発想がまかり通るのであるとすれば、私からしてみれば、これはもう「危険思想」以外の何物でもない。

私は「反戦平和」というイデオロギーのために、我が身を犠牲にすることは御免こうむる。つまり、我が身に、我が国に危機が迫り、武器をとって戦う以外に他策なしという局面に立ち至れば、平和を破り敵を「殺す」ことになんらの躊躇もしない。むしろ「敵」という他者の命を奪うことを喜々として行いたい。

私は沖縄の人だけではなく、他の日本人にも問うてみたい。「戦争を二度としてはいけないはいいが、もし戦わざるをえない状況に追い込まれたらどうしますか?」と。

「戦わなくてもよいような努力が必要です」などというのは、答えになってはいない。「非戦の努力の最善を尽くしても不可避となったら?」という意味で私は問うているのだから。

それでも、沖縄の人たちは「戦わない」というのだろうか?


他の人たちは?

我が身や家族の生命が、自国の存続が危機にさらされても、戦う以外に危機を回避する手段がない状態に陥っても、「戦わない」という人間がいたとしたら、私は彼らを「同胞」とはみなしたくはない。「非国民」でもいいが、あえて「人でなし」との非難の言葉をぶつけたい。

もっといえば、存在していて欲しくはない「存在」でしかない。

本当に上述のような危機に直面した場合、そういう輩は一体どのような行動を取るのであろうか? 反戦平和をとなえつつ座してあるいは逃げまどいながら無抵抗のまま死んでいくのか。それとも我が身を守るために、反戦平和を貫くために、敵に降るのか。敵に降っても生命の保証が完全ではないとしたら、対敵協力に身を転じるのか?

可能性として否定できまい。人は所詮我が身が大事なのだ。

そういう危険性の秘めた「存在」の存在を放置しておいて良いのだろうか?

「戦争は二度としてはいけない。でも、戦うの已む無きに至っては、あえて戦う」、これこそが人として健全かつ真っ当な考え方ではないのだろうか。でも、「してはいけない」の後をなかなか大ぴらに言えない今の日本の社会、これはやはり異常である。




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暴力団との関係って言うけれど・・・・: 大相撲野球賭博問題

2010年06月24日 | Weblog
私は暴力団とかヤクザという連中のシンパでもないし、親族、一族にそういう類がいるわけでもない、私の知る限り付き合いのある限りの「血のつながり」の範囲では。

正直言って、あの類の人間を同等の人間とは思っていなし、あの類の人権の尊重なんていうのにまったく興味がない。理想をいえば、消えてなくなってほしい存在である。特に日本人に「なりすまし」ているヤツラとか、「なりすまし」のくせに右翼やって国士気取りのやつらは消えてしまえ、消せないのなら「祖国」に妻子含めて一族もろとも送り返してしまえと思っている。

でも、相撲界と暴力団の関係について連日騒ぎまくるマスコミには、お前ら一寸待てと言いたくなる。

まず、マスコミが「暴力団とのつながり」を批判できる立場にあるのか? 特に、ここではTVマスコミの皆さまだ。
TVには、ドラマ、歌番組、バラエティーと、所謂ヤクザ、暴力団と直接、間接に個人的なお付き合いや、事務所を通してつながってしまっている連中がわんさといるではないか?暴力団がいかんというなら、今後美空ひばりの映像は一切出すな!あの女と山口組三代目との密接な関係は誰もが知るところではないのか? 相撲取りやヤツラの野球賭博と暴力団の接点どおろの問題ではない。なのに、そっちはスルーで、こっちは大騒ぎというのは「片手落ち」ではないのか? それに暴力団とのつながりをかねてより噂されている某大手プロダクションの「従業員」がわんさとTVに出ているが、それは問題ないのか。そいつら使って番組を作ってタレ流すというのは、これも「暴力団とのつながり」になるのではないのか。たとえ間接的であっても、関係ないことはあるまい?自分たちはOKで、相撲取りはダメってか?そりゃ、デブ差別か、低学歴差別だろう? でも、大学出の力士は、中高しか出てない芸人よりは高学歴だぞ?


それに、暴力団とかかわっちゃあいけないというのであれば、その末端のやつら、はしくれのはしくれ連中がシノギにしている露天商なんてのに場所貸して商売させている神社、仏閣ってのは批判の対象にならんてか?確かに、露天商は野球賭博とは違う。前者は少なくとも知る限りで違法性はないが、後者はあきらかに違法だ。でも、いわゆる反社会的勢力に属したり、それに末端で連なる連中の「資金源」になっているのではないか?そんな連中に、神仏を司る連中が場所が提供することで、やつらのカネ儲けに加担しているというのは問題ないのか?

もっというなら、そういう連中から物をかってる我々一般市民はどうなるのだ?「反社会的集団」と徹底的に戦う、徹底的にヤツラを排除するというのであれば、やつらを食わせている一般市民も批判してみてはどうか?

これをいっちゃあオシマイかもしれないが、そもそも暴力団、ヤクザの類を根絶できるなんて思っている人間がこの世にいるのだろうか。警察は絶対そうは思っていない。いるはずがない。いなくなっては警察が困る。あらゆる意味で警察と暴力団・ヤクザはもちつもたれつの関係なのだ。○暴なんて「紙一重」なんじゃないのか?時々「ミイラ取りが・・」なんてのもいるではないか?

ヤクザをこの世から消して、本当にこの世の中よくなるのか? 世の中必ず「はみ出し者」は存在する。学校だってそうだ。必ず「落ちこぼれ」は出る。ものをつくれば必ず「規格外」が出るのと同じだ。その「規格外」の受け皿が暴力団とかいうあの世界ではないのか。受け皿がなくなって野放しの一匹狼にでもなられた日には、社会の安寧という点では、余計に厄介なことになるのではないか。

確かにヤツラのやっている行為には看過できないものもある。明らかに反社会的であり反国家的ですらあるものもある。ヤクなんてのはその最たるものだ。

一方、「キャシャーンがやらねば」ではないが(知らない?・・・)、ヤツラがやらなくて誰がやるみたいな下下の下下たる商売もあるではないか。下下たるものでもないと不都合な商売。芸能なんてのもそうだろう。どこのまともな家庭や親が自分の子どもを芸人にしたいと思う?衆目を前にして、我が身を晒して身銭を稼ぐなんて商売、売春婦とどこかどう違うというのだ? 50歩100歩だろう。私は、「職業に貴賎あり」と思っている人間だ。しかも「人の平等」も信じていない。「生まれながらの平等」とか「天は人の上に人を・・・」などという何らの根拠もなく、しかも絶対に証明不可能であろうイデオロギーを「真理」などと考えている人間にでくわすと正直言って、反吐が出るとまではいわないが、おもいっきり見下げてしまう類の人間なのだ。(またそういう人間に限って、人間関係がドライであったり、人情の機微を解しないのが多いようにも思うのだが。)「課長島耕作」を読まなくなったのも、フィリピン編だったか(随分古いなあ・・・)、主人公が人間平等を「真理」だという台詞をみて、思いっきり白けてしまってからだ。話はそれたが、昔から人がしたくないような仕事、でも社会にはあった方が良い仕事、ないと困る人もいる仕事を請け負う連中が存在してきた。江戸時代のエ○、非▲なんてもその類だが、ヤクザ屋さんもそうではないのか?

世の中からはみ出しながらその隙間を埋める存在というわけだ。

これを排除しようとしたら、世の中いっぺんにガタピシ建てつけがわるくなる。警察なんてのは、そこらあたり一番よくわかっているはずで、「暴力団の撲滅」なんてのは要は社会秩序を保つための御題目であって、真実暴力団と呼ばれる連中に向けられたものではない。そりゃ、程度問題で、程度をこしたら取り締まらねばならないし、ヤクザ屋も自分たちの都合があるし、そもそもはみ出した連中だから世間様の都合なんて考えずに自分たちの私利私欲だけで動くことがあるから、それに対しては当然「ムチ」もつかうし、それだからこそ、警察と暴力団はまったく一から十までなれあいというわけではない。

売春防止法なんてのをつくってみたが、できてみたら、その道の同性方には目の敵にされたなんて「日本昔話」の寓話の一つでも加えたいような笑い話でありながら含蓄のある実話もあるわけだが、世の中えてしてそんなものである。たしかにあの世界は女性にとって「苦界」であった。入りたくて入ったわけではない。向け出そうにも抜け出せない。だが、そこで生きていかねば他に道がないという女性にとって、その世界が「違法」ということになってしまっては、これまた自分たちの存在そのものを否定されたに等しいということになる。男が社会からはみだし、あぶれてヤクザ、チンピラになるように、女もやはりはみだし、あぶれる。そんな女が生きて行くには、水商売か「苦界」しかあるまい。要は受け皿だったにもかかわらず、その受け皿を取り上げて、じゃあ、この世の「苦界」は消えたのか?

世の中そんなものである。

清き水に魚なんとかというが、人の世の中そんなものだし、人は知らず知らず清濁を併せのんでいるのだ。

相撲界だってそうだ。「相撲」という神代からの「伝統」を背負い、力士は綱を締めば超人的ともみなされるように、「清」を背負わされる一方で、昔から、がちんこばかりではなく八百長もあれば、その筋と関係を持ち、またそうすることで飯が食えてきた。いわば、濁を飲んできたわけだ。

マスコミだってそうではないか。「公器」ぶったところで、裏では清濁なんでもありではないか?「公器」といいつつ私利私欲で動くところもあるではないか?

世の中凡そ皆が皆そうして生きているのではないのか?

「清」ばかりに生きる企業人がいるか、百姓農民がいるか? カネのわらじをはいてでも、そんな連中にはお目にかかれまい。
もし自分こそはと思っている御仁がいるとしたら、そいつは真性の馬鹿である。救いがない。おそらくいるとすれば、竹の園生の奥深くにしか・・・、かもしれない。一視同心、そこには清も濁もないのかもしれない。いや、清は清のままに、濁は濁のままに包容するということではないのか。それこそ否定されねばならないという向きもあろうが、私はむしろそこに「神」を見るのである。司りはしない。これは世に広くある「神」のイメージとは異なるかもしれないが、一方で受け止める力、これもまた常人のなかなか及ぶところではなく、その意味において天地始まって以来の連綿のなせる「神的」なものであると思うのである。

話を戻せば、野球賭博は法律上問題がある。したがってそれに関与した以上は刑罰は免れまい。率直に言って、「相撲界というのはそうしたものだ」、「いたずらに伝統に手を突っ込むな」とは思いつつも、現在ただ今の社会法制度、価値観にあらがえるわけでもない。それらに照らして現在ただ今のバッシングは「致し方なし」とも思う。琴光喜の追放もやむを得ないかもしれないし、名古屋場所の中止もまたその際致し方ないとも思う。デーモン小暮閣下はじめ熱烈な相撲ファンのなかには名古屋場所開催を主張する声もあるが、中止は対世論対策的観点からもひとつのケジメとして必要かと思う。

もっと言えば、武蔵川理事長はじめ首脳部は総入れ替えにすべきであろう、やはり、武蔵川ではダメだった、やはり。
協会の運営の主導権を力士出身者から取り上げるべきかもしれない。理事会から元力士を徹底排除しろとは決して言わないが、理事長は力士で無い者、しがらみのない無いものがつくべきかもしれない。

相撲の伝統はわかるが、相撲界はドラスティックに変わることでしか生き残れないような気がしなくもない。

だが、その一方で、マスコミの「自分たちこそ正義でござい」とか「相撲界と暴力団の関係なんてまったく知らなかった!」みたいなスタンスでの報道姿勢、相撲界叩きにはウンザリする。

もしかしたら、マスコミ連中、相撲界バッシングによって、相撲協会の公益法人資格のはく奪、NHKでの放送中止(永久)によって相撲放送を自分たちのものにしようなんて・・・、そんなセコいこと考えていないよなあ?


















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播磨屋の老い

2010年06月19日 | Weblog
昨晩の鬼平犯科帳スペシャル、久々の新作に期待しながら見たが、正直いっていまいち。


何がいまいちなのか? 脚本がである。あの終わり方がなんとも消化不良だ。原作を覚えていないのだが、原作がそうなら仕方ないとしても、いまいちの掘り下げであった。

まあ、それはさておき、播磨屋も今年で66歳? 台詞に老いを感じたのは私だけであろうか? 芝居での播磨屋の魅力は、人物描写の妙や、台詞にある。鬼平でも台詞のうまさが光るが、播磨屋独特の低音に「老い」を感じたのだ。

他の出演者も歳をとったものである。特に女優陣。

役者は老いて更に芸を上げるものである。物故者では先代(13代)仁左、先代羽左。存命中であれば、藤十郎、トミー、そして最近見ない(多分舞台ではもう見れない)ジャッキー。70にしてさらに大輪の薔薇を舞台に割かせることは役者の世界では珍しいことではない。

私が、播磨屋の老いに淋しさを感じたのは、そこに自分自身の老いに気付いたからなのかもしれない。

が、それとともに、播磨屋の芸を継ぐ者がいないという事実があるがゆえなのではないだろうか。初代が一代にして作り上げ、当代が見事に引き継いだ名跡と芸がいずれとだえるかもしれないと思うと、文字によってではなく、命から命へと受け継がれていく芸というものの儚さを痛感せざるを得ないのである。

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空の神兵

2010年06月18日 | Weblog
私は結構軍歌が好きなのだが、知る限りでは、海軍系というか海軍ネタの軍歌はどうもいただけないものが多い。よくもまあこんなセンスのかえらもないような歌詞に曲に、と思うのが総体的に多いのだ。

一方陸系は、いくつかお気に入りがある。

その一つが「空の神兵」。高木東六の作曲だそうだが、あの時分に軍歌としては異色の曲調。いかにも戦局いまだ悪からずの頃のものだが、それから3年年数ヵ月後を思うと、何とも言えない気分にさせてくれる曲なのである。なんと言ったら良いのか、あまりにも逆説過ぎて、余計に敗戦のみじめさを否応なく感じさせられてしまう明るくも物悲しい滅びの匂いのする曲なのである。

反戦歌っぴのだが、「暁に祈る」も曲も歌詞も悪くない。

やはり反戦歌っぽく、「逃匪行」。これも曲がいい。


一方どうにもこうにもゲスに思えて嫌いなのが、「露営の歌」で、曲は好きなのだが、歌詞が気に入らない。特に二番は、最初から最後まで胸糞悪い。先帝陛下はあの曲をお聴きになられたことはあったのだろうか。二番の終わりまで聞かれて、いかが思召したか。父に死ねといわれ、戦友が天皇陛下万歳!・・・・。別に天皇陛下万歳が少しも悪いとは思わない。日本人として自国の象徴の万歳を叫んで何が悪いとすら思うのだが、あの歌詞だけは胸糞が悪くなる。

そうそう、個人的には「水師営」も好きだ。曲の荘重さが乃木大将にふさわしいと思うのは、私だけ?
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大相撲野球賭博問題、今更だとは思うのだけど・・・

2010年06月18日 | Weblog
私からみれば、なぜ今更騒ぐという気もする。

勝負師が賭博を好む傾向にあるというのは、何も相撲取りに限ったことではない。そこにきて、元力士の一人がTVで行っていたが、あの目立った風体でおいそれと競馬や競輪の類に足を運ぶこともできない。

それにあの狭い「世間」のなかで賭けごとなどというのは、今に始まったことではなく昔から、その昔も江戸の昔からのお話しであり、その頃の「賭け」なんてのは下手をすれば人の命にもかかわるような大ごとになる可能性すら秘めていた。そうした世界の「伝統」みたいなものをなぜ今更騒ぐのか、叩くのかという気がする。

昨今スキャンダル続きの相撲界を「水に落ちた犬」とするならば、それをマスコミがあえて叩くという構図に見えて仕方がないのだ。


こういうと、賭博の背後には暴力団が介在しており、公益法人である相撲協会に属する力士が反社会的勢力に資金源を供給するような行為は言語道断!という批判が返ってこよう。

御説御尤もである。それは正論である。

しかし、大相撲と反社会的集団と呼ばれる連中とのしがらみもまた今に始まった話ではない。「興業」とそうした連中との密接なつながりは昔からのものであり、これもまた今更になってとやかく言ったところで、社会の一つの構図であり続けてきたのが現実ではないのか。そのなかにどっぷりと浸かって生きている力士や元力士の親方連中に向かって上述の一本槍で批判を浴びせたところで、彼らも「それでは、そうした反社会的勢力とは金輪際すっぱりと縁を切り」などと表向きには言えても、実際問題言葉通りにはできまい。

文科省だって今までそうした事実を知らなかったはずはあるまい。見て見ぬふりをしてきたはずだ。

マスコミもそのはずだ。

それをこの期に及んで、一斉に手のひら返したように相撲界を叩く。では、監督官庁としての文科省の今までの対応に問題、責任はないのか。「社会の公器」を自任するマスコミは、問題の所在を知りつつも今まで看過してきた「公器」としての「不作為」を
批判されるべきではないのか。

そもそも、マスコミのなかでも芸能界と持ちつ持たれつの関係にある映像マスコミは、相撲界を批判する立場にあるのだろうか?
相撲界を叩くのなら、芸能界と反社会的勢力との昔からの関係も叩いてはどうか? 警察とそれらとの関係もえぐってみたり、暴露してみてはどうか? そんなことはまったく知らない、知らなかったなどというふざけた言い訳は通用しない。例えば、山口組三代目と「お譲」の関係は昔から周知の事実のはずだが、それにもかかわらず「お譲」で飯を食ってきたのがマスコミではないのか。

もっとも、「お譲」は実弟の不始末をマスコミにとやかくされ、某国営放送の年末番組出場を辞退するに至るが、その時このスキャンダルを騒ぎ立てることで飯を食ったのもマスコミだった。

正論を振りかざす一方で、時にはヤバイことを知りながら持ちあげてメシのタネとし、時にはさんざん叩いてやはりメシのタネにする。メシのためなら何でもありというのが、マスコミであり、今回は相撲界がその餌食にされているということではないのか。


とはいっても、相撲界に対する世間の目線はすっかり醒めきっている様子である。ただでさえ日本人力士の体たらくや、相撲自体が面白みを失った結果、人気は下がりっぱなしである。そこへもってきての暴行死事件に、朝青竜問題、大麻問題、そして今回の賭博。賭博は今に始まった問題ではない、相撲興行と反社会的勢力の関係は昔から、といったところで説得力はない。

となれば、やはり相撲協会としては時代に歩み寄るしかない。これ以外の現実的選択はあるまい。

まずは、一部が主張するように、金銭的に協会およびその周辺は被る被害は甚大であろうが、名古屋場所を休止としてはどうか。

当分は天覧相撲の類も遠慮すべきである。もっとも、それ以前に陛下や相撲好きな愛子様も今の状況で国技館にはお越し願えまい。宮内庁がそれを許さないだろう。

続いて、教会組織の大改革であり、理事長を含めた理事会のメンバー構成を元力士以外中心のものに改組し、協会運営の実権を元力士の手から切り離すべきではないのか。理事長は外部からしかるべき人物をもってきて当てるべきである。率直に言って、利力士や元力士に、公益法人を円滑に運営していく能力や経験があるとは思えない。まずはどう考えても彼らの知的能力は決して高くはない。教養の類もどう考えてもさほどあるまい。しかも10代、遅くとも20代前半に「相撲界」という狭く特殊な社会に入り、それ以外の世間を知らないままにきた人々である。そんな人間に社会通念に基づいて等と説教しても、あまり理解されないであろう。ならば、彼らから協会運営の実権を奪ってしまうしかないのではないか。

相撲協会にとって特に運の悪いことには、理事長が武蔵川であるということだ。「理事長は日本人の心がわからない」とまるで東郷外相に軍部が言い放ったようなことはすまいが、やはりその出自ゆえに思いきった行動は取れないのではないだろうか。半島にルーツを持つ相撲取りは武蔵川だけではない。古くは力道山もそうだ。武蔵川自体、横綱になれた。またあの大横綱も純粋な日本人ではない。民族的に日本人ではない横綱は昔からいるわけだし、民族的に日本人ではない人間が理事長にまで昇りつめたことからも、相撲界があながち閉鎖的、守旧的な社会とは言い切れないようにも思える。が、やはり理事長ともなると、ましてや旧習に重大な変更を加えようとすれば、出自が障害になるのではないだろうか。

一部では元鷲羽山の出羽の海が理事長ならという声もあるという。が、この際、武蔵川は引責辞任し、新理事長ならびに新体制はこれまでとはまったく違ったものにしつつ改革を行うというのは?

子供の頃から相撲に慣れ親しむ者としては、今の惨状は実にもどかしい限りである。
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キムタクの容貌の衰え

2010年06月14日 | Weblog
加齢による容貌の衰えは不可避だ。老化を遅れさせることは可能だが、老化を止めることはできない。

キムタクドラマを見ていて持ったのだが、いやより正確にいえば最近のキムタクを見て既に感じていたのだが、肌の劣化が目立ってきていないか? 明らかに太ったと思うし、それに従って肌のたるみが・・・。今晩のドラマなんて、もうアップに耐える顔ではなかった。イケメンはイケメンなのだが、最近の衰えはなんだか・・・。

どうするんだろうね、キムタクもこれから?

時代劇はダメダメだから、大河の主役ははれないだろうし、今までのようなドラマもきつくなってくるだろうし・・・。


まあ、ファンではないから、大きなお世話か?
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菅直人の政治センスの無さ: その一例、『琉球処分』

2010年06月08日 | Weblog
菅直人次期総理(まだ現時点では正当な総理ではない)いわく、只今『琉球処分』という本を読んでいるとか。

私は琉球処分に関する書籍、論文の類を以前随分読んだことはあるが、『琉球処分』というタイトルの研究書は知らない。
金城正篤氏の『琉球処分論』なら知っているが、菅氏は「論」とは言っていなかった。

よもや、研究書ではなく、小説の『琉球処分』ではあるまいな?

まさか、それはあるまい。一国の総理になる人間が、研究書、学術書ではなく、多分にフィクションの含まれる歴史小説を読んで「勉強」などという低次元なはずはあるまい。もしそうだとしたら、菅という人間、政治家としてではなく一般人としても決して知的レベルの高い人間ではないことは間違いない。世の中、歴史小説を読んで歴史を学んだと思っている人間が少なからずいるが、菅もその一人か。いや、そんなことはあるまいし、あってはならない。どうあれ、彼は我が国の総理になる人なのだ。

それはさておき、この件、すなわち菅氏の具体的書名への言及、これこそは、氏の政治センスの欠如を如実な例示に他なるまい。
具体的書名に触れれば、世間はその本を見てみようということになる。そして、当然書中の議論、解釈をめぐり賛否両論が起こる。なかには、「このような謬説をもとに沖縄政策を練られてはたまったものではない」という声すら出てこよう。総理の沖縄理解に適不適が問われれば、総理の沖縄政策への世論の支持も揺らぐことになりかねない。

かりに書名ではなく、「琉球処分」という歴史的事象に触れるにとどめたとしても、それもやはり決して最善ではない。基地問題を扱うのになぜ「琉球処分」なのだという反論、批判は当然出てくる。

もちろん、万人が支持をする政治家も政策も存在し得ない。

が、批判を最小限に抑えるという努力は、政治を行う上においては常に念頭においておかねばならないことだ。

せめて、沖縄史に関する書籍を読んでいると言っておけばよかったのだ。この際、琉球史ではなく沖縄史というべきなのだ。

もっといえば、より曖昧な言い方で、自分なりに沖縄問題とその周辺について調べている、再考察しているくらいに言いとどめるべきだった。

そんな判断すらできない総理は、総理の資質にあらず、と言わざるを得ない。沖縄という敏感な問題だけに、書名にまで踏み込んで言及するというのは、はっきりいって、政治的愚行であった。
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立命館アジア太平洋大学と同大の学生は、マーク・デュレイ氏に釈明を求めるべきだ!

2010年06月08日 | Weblog
立命館アジアい太平洋大学の首脳陣、一般教職員、学生は、以下を読むべし。


http://news.livedoor.com/article/detail/4812211/


貴学で教鞭をとるマーク・デュレイ氏は以上にように発言しているが、これが貴学の学生の実情なのだろうか?

もしそうであるとすれば、実に嘆かわしいことである。


しかしながら、事実に反するというのであれば、あるいは少なくとも貴学関係者がそう認識するのであれば、国際会議という公的場において発言をしたデュレイ氏に公的な場において釈明あるいは更なる説明を求めるべきである。

事実と異なるというのであれば、氏の発言は明らかに貴学と学生への侮辱に他ならない。貴学はそ汚辱を氏に対する公開の質問、反論によって雪ぐべきであるし、また学生の名誉のためにもそうすべきである。自身の学生たちが国際的な場において辱められたにもかかわらず何もしないというのであれば、立命館アジア太平洋大学は、教育機関の看板を下ろし、即刻閉校すべきである。

更に、デュレイ氏の発言に事実と異なる点があるとすれば、氏に対しては公的な場における貴学ならびに学生に対する謝罪を求めるべきであり、それを氏が拒否した場合には、教壇を去らせるべきである。学生に対していささかの敬意を払わず、しかも本人たちがいないことをいいことに国際的な場において散々侮辱した人間に、侮辱された学生たちを教え続けさせるなどということは、あってはならないはずだ。

学生も黙しているべきではない。もし諸君らの属する大学が何も行動を起こさないというのであれば、諸君らが行動を起こすべきである。学生会など何らかの組織があるはずである。そこを中心にして、行動を起こすべし!

但し、デュレイ氏の発言が事実に反すると考える場合に限ってだが・・。

もし、氏の言う通りの事実が諸君らの学び舎にあるとすれば、諸君らは大いに恥じ自らを改めるか、この際大学生をやめるべきである。

事実でないというのであれば、大学側にデュレイ氏に対する対応を求めるべきであり、そのうえで大学並びにデュレイ氏が何らの反応を示さないというのであれば、氏の授業の集団ボイコットも辞すべきではない。学生代表は、氏に対して公的な場における対話を求め、公的な場において氏の釈明を求め、そこに事実に反する点があるというのであれば、反論し、氏に謝罪、発言の撤回を求めるべきである。

もし、氏の発言が事実でないにもかかわらず、諸君らが言われたままに何も行動を取らないというのであれば、これまた実に恥ずかしいことであり、情けないこと。率直にいって、「もの言えぬ」諸君らに、明るい未来は待っていないことだけは保障しよう。





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菅政権、このまますんなりとは絶対行くまいよ

2010年06月07日 | Weblog
その理由1

菅直人は、あれだけ若いころから政治に関与しておきながら、政治脳に乏しい政治家、すなわち大した素質のない政治家であって、とても一国の宰相の器ではない。その証拠に、代表選以来ことあるごとに「参院選」、「参院選」である。国民の多くが政治家の「国民生活、国の行く末はさておき、選挙第一」にウンザリしているのに、あいもかわず「選挙、選挙」。これでは小沢と同心。脱小沢など片腹痛い。要は「目先の政治家」。行動力云々とよくいわれるが、それだけしかない菅は所詮切り込み隊長でしかなく、御大将ではないということ。化けの皮は早晩剥がれる。

その理由2

菅伸子、これもこまった女である。薬害エイズのそもそもは自分であると、ダンナの値打ちを下げるようなことをいけしゃーしゃーとメディアに晒しまくる。女の浅知恵ここに極まれりの典型。鳩山幸も困ったもんだったが、あまりしゃしゃり出れば、いずれ「さげまん」となる。息子の源太郎をなんなんにしてしまった一事をとっても、女としてはロクなものではない。今後、菅が何かしたり言ったりするたびに、背後に伸子の存在があるのではと言われるのではないだろうか。菅にとっては少しも良いことではないのだが、伸子もそれがわからんかね?

その理由3

三役人事。仙石なんてのは、元々社会党だ。こういうヤツのイデオロギー的背景は警戒してしかるべき。天皇陛下をいただく国の
官房長官として果たしてふさわしいのか?枝野? この男に政治家としての将来性はさほどない。もう伸びしろがないということだ。それに今が華の政治家。今後は落ち目になっていく。そういう運気の男でもある。特に、幹事長に就いたのはマズかった。小沢本人はいざ知らず、その周辺の連中の恨みを買うことになるだろう、というか既に勝ってしまったのか? 的を増やして先があるとは思えない。小泉のような男ならしざしらず、枝野に世論を味方に我が身の盾とするようなカリスマはない。これは言っても仕方のないことだが、正直、不細工だ。女性有権者の人気は出まい。あの舌足らずの喋りも好印象を生み出すことに寄与はしない。そして玄葉。この3人のうちでは一番のお馬鹿でしょ、この人?別に仙石の東大、枝野の東北大に対して、上智だからというのではないが、これまた今以上に伸びる政治家には思えないのだが・・。

その理由4

閣僚人事。「残留閣僚」のなかに「なんでコイツを残した?」という連中がいる。その最たるのは中井ハマグリ。こいつは、痛すぎる。山田副大臣の農水相昇格もどうなんだろうか。中国系女性も今が華だろう。あの女は所詮メディアなれした「芸者」である。日本の政治家という自負があるのなら、日本名があるのだからそれで勝負してはいかがか? 

その理由5

菅政権には時が見方しない。要は最初から運がないのだ。運も実力のいち、運のない人間というのは、どうも見ていて痛々しく、救いがない。努力すれば、実力があれば、というほど世の中単純なものではない。複雑怪奇、魑魅魍魎の政治の世界なら尚更だろう。下手をすれば、菅かその次に民主党内閣は、米国でいうならフーバー政権のようになりはしないだろうか。もっとも、その後にFDRのような指導者が現れるとも思えないのだが。


その理由6

民主党という政党の存在の仕方そのものが間違っている。自民党をとやかく言えない程の寄り合い所帯であり、党としての国家観がない。国家意識すら希薄なのではないのか。寄合だけに持ち得ないのだ。中には、反国家思想の持ち主ではないのか、反国体思想の持ち主ではないのかと思われる面子もいる。イデオロギーの純化は政党としてある程度行われなければならないが、民主党にはそれがない。イデオロギーのことなる社会党、公明党と組んで自民党は堕ちた。民主党が政党として、しかも政権担当能力を持つ政党としてまっとうであるための手段はない。今の民主党としてはいかんともしがたい。つまり崩壊、分裂こそ民主党が進むべき道なのである。


菅に後継は原口あたりか? 前原か? まあ、菅政権がコケた後なら原口あたりの方が有利か。菅がこければ、そこで党三役や重要閣僚を担当した人間も、一蓮托生ということになる可能性がある。上述の党三役だけではなく、岡田、前原、そして財務相に昇格の野田もほとぼりの醒めるまで登板はあるまい。原口もそうだが、菅政権のがかいに伴い小沢やその周辺の巻き返しがあるとすれば、原口だけはなんとか生き延び、政権すら手にという事態が起こるかもしれないが、かりにそうなったとして原口も宰相の器ではない。あの男も今が一番良い時期ではないのだろうか? 
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菅新首相の支持率62.4%: ←政治家が国民をなめる理由

2010年06月07日 | Weblog
以下抜粋。

NNNが4~6日に行った緊急世論調査によると、菅新首相の支持率は62.4%で、鳩山内閣発足時の内閣支持率(67.7%)に迫る数字となった。約20%にまで落ち込んでいた鳩山内閣の支持率から一気にV字回復した結果となった。


いずれまた支持率は下降の一途をたどるのだろうが、小鳩から菅にかわっただけで、しかも小沢の影響力の消長もいまだわからない段階で、内閣支持率の激変。

民主政治は国民が利口でないとうまく機能しないもので、こういう単純で皮相な思考しかない有権者ばかりであるがゆえに、わが国の民主政治は衆愚政治化し、結果として国民が自らの首を絞めている。

本当にこの国の民主主義の進歩を望むのであれば、一時それを止めて「訓政」を敷く必要があるのかもしれない。今のままではわが国は民主主義体制であるがゆえに衰亡せざるをえないということになりかねない。

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