くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

石原都知事のバンクーバー五輪コメント

2010年02月26日 | Weblog
実に真っ当なコメントだと思う。

開会前から散々マスコミが煽り、「メダルを期待!」などとはやし立てた挙句が、今のところ、メダルはわずか4つ。 しかも「金」なし。

実に情けない状況である。「無様」の一言に尽きる。

ところが、メダルなしという結果でも、マスコミは「健闘!」、「入賞!」とはやし立てることをやめない。

メダルを期待という期待自体が、選手の実力を無視した、ひいきの引き倒しのような時もあれば、選手が実力を出せず、ふがいないことになった時もあるが、メダルを期待しながら、逃した相手に「よくやった!」というのは、負け犬の戯言に等しい。

負けは負け。今回の91人?の選手のうち、ほとんどが負け犬だ。中には、ほとんどドン尻や、失格など「どの面下げて日本に帰ってくるんだ」という連中もいる。

予算の効率的配分という点からみて、もう次は参加しなくてもよい、そんな価値すらない協議もあった。そして、それも今回も無様な結果による。

浅田も銀メダルだというが、かつてはキムよりも上だったのが、抜かれた結果だ。どこかで、浅田の努力と育成方法に問題があったということだ。

これも事実上、無残な「負け」しかも、逆転負けである。

「負けは負け」と認めよう。そして、健闘!頑張った!ではなく、悔しい!から始めよう。

でなくば、何時までたっても、負け犬報道の垂れ流しは続くし、結果も出ないだろう。

でも、キム・ヨナなんかみていると、背負っているものが違うように感じるなあ・・・。日本選手のほとんどは、「自分のため」でしょ?だから、あの国母とかいう小僧みたいなのが出てくる。キムはそうじゃない。そしておそらく今回躍進目覚ましかった他の韓国の選手も。

教育のせい、という一言では片付けたくないが、そこから変えないと日本の五輪成績は対してよくならないだろうなあ。

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トヨタ問題の正体はやはり「日本叩き」: 馬脚を見せた米国連邦議会公聴会

2010年02月26日 | Weblog
トヨタ問題をめぐる米国連邦議会での公聴会だが、ついにその「正体」を確信する瞬間があった。

それは、議員の一人がトヨタという一企業の問題を、トヨタではなくMade in Japanに置き換えた時だ。

これは二つの点において、非常に重大な意味を持つ。

まず第一に、今回問題となったトヨタ車は、すべてが日本で生産されたものではなく、アメリカの現地工場で製造されたものも含まれている。米国トヨタは現地法人であり、法的には、米国の会社であり、部品の現地調達率等の基準を満たしていれば、それはトヨタ車でありながら米国製品、つまりMade in USAということになる。にもかかわらず、日本製だというのである。米国のトヨタが法的に米国企業であることを、立法に携わる立場の者が知らぬはずはない。とすれば、意図的に「トヨタ車=日本製品という図式を捏造し、そうした」虚偽」をもとにトヨタ批判を行ったことになる。

第二に、いかに存在感が大きいとはいえ、一企業の問題を日本製品に置き換えたことは、今回の問題の米国だけにはとどまらない注目度を考えても非常に問題であり、国民を代表する議員が議会という場において行った発言としては、非常に不適切といわざるを得ない。訴訟社会米国で、あのような発言をすれば、訴訟の可能性すらあることを、法の専門家が知らぬはずはないし、それくらいのことにも注意を払えないようではそもそも米国の政治の世界は生き残れない。しかし、今のところ、あの発言を問題視し、批判する声が米国内で、特にメディアで出ているとは聞かない。

トヨタの米国邦人としての一面を完全に無視し、かつトヨタ車の問題を日本製品の問題とする、この「すり替え」こそ、米国議会のなかに、トヨタという一企業ではなく、日本企業さらには日本経済を叩こうという魂胆があることを我々は見逃してはならない。

米国メディアや識者のなかには、今回の騒動は日本叩きとは別だとの見方、主張もあるが、少なくとも米国議会について言えば、そうは言えないようだ。国民の代表であり、現実に選挙という国民の憂いし表示によってその地位を維持することがえきる議員が、公聴会という絶好のアピールの場において、民意にそぐわぬ発言をするはずはない。とすれば、今回の「すり替え」は米国世論というものを意識して行われたということではないのだろうか。時事、ネット上にはBuy Americaを訴える声がある。こうした世間の声に政治家の側が応じたものではなかったのだろうか。

今、トヨタは米国の思惑、もしかしたら政権をも含めた国策によって、攻撃に晒されている。しかも、その矛先はトヨタだけではなく、日本製品そのものに向けられていると認識すべきである。いうなれば、米国が「戦争」をしかけてきたのであり、上述の議会での発言は「宣戦布告」に等しいものだ。もっとも、戦闘行為は「布告」前に始まっているのだが。

ある日系自動車会社は、米国市場において自社は日本企業ではないとのスタンスを取り、したがってその会社の日本人駐在員は、あえて日本人会を作ることもなければ、あっても参加しないと、米国在住の知人から聞いたことがある。

その日系企業も今回のトヨタ騒動を「他人の不幸は・・・」などと能天気にならずに、自分たちは何十年米国で商売をし、根をはろうが、結局米国社会からは日本企業としか見られていないのだ、ということを自覚した方が良いのかもしれない。日本人会を作らないなどというパフォーマンスは何のやくにも立たないということを理解した方がよいかもしれない。

自分たちは、いつまでたっても所詮エイリアンなのだと。

そして人種も違えば、宗教も言語も違うエイリアンは、目立ちすぎれば、米国人の気に入らなければ、疎んじられ、手段を選ばず攻撃、排斥されるということを。

米国に限らず外国で商売をするということは、そういうことなのだと。

今米国経済は苦境にある。ビッグスリーは苦境にあえいでいる。であればこそ、よそ者だけがうまくなっているのをおもしろいはずがない。トヨタ叩きは、トヨタゆえのものえはなく、明日はわが身であると覚悟した方がよい。

米国は今、トヨタだけではなく、日本が気に入らないのだ。そして、トヨタは、日本はまんまとその機会を米国に与えてしまったわけだ。

もっといえばトヨタの問題それ自体、どこからどこまでがトヨタが生み出した問題なのか、いまだわかっていないではないか。

そにもかかわらず、日本政府、財界は少しの防御策を取ろうともしない。「なぜ、トヨタの問題であり、日本製品すべてに同様の問題があるかのような誤解を与える発言は不適切」くらいのコメントを発することができないものか。

米国は今「戦争」をしかけてきているのだ。何もせずば、ただやられるだけだ。




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トヨタ問題: 「トヨタ(日本)叩き」の背景には「偏見、蔑視観」がある

2010年02月26日 | Weblog
ワシントンポストは、24日付記事において、豊田社長の冒頭の英語でのスピーチに対して、あえてheavily accentedと付けた。

なぜ、あえて、「強いなまりの」としなければならないのか? 米国の地方都市や田舎ならいざ知らず、大都市では、そこかしこで「なまり」のある英語が飛び交っているではないか。地方都市でも、留学生を多く抱える大学を持っていたり、移民して日の浅い人々がくらすところでは、同じような現象がみられる。

セールス関係の電話で、「なまり」の強い英語に出くわすのは今の米国において、決して珍しいことではないはずだ。

マスメディアに従事するものとして、自国のそうした状況を知らぬはずはあるまい。もし知らぬというのであれば、ジャーナリズムの世界から足を洗った方が良い。「目」の見えぬものに何ができるというのだ。

米国における英語がそのような状況にあるにもかかわらず、あえて「強いなまりの」としたところに、ある「意図」ないしは「感情」を読み取らざるを得ない。

では、その意図ないし思惑とは?

まずは、豊田社長が英語に「不自由」であるということを基調することで、社長本人のみならず、トヨタに対する読者のイメージを低下させようとの「意図」だ。英語ができない、得意ではないということが、米国社会でどのようにみなされうるかについては、既に述べたところである。

同時に、トヨタ社長が英語を母国語としないだけではなく得意としないということを強調することで、トヨタという存在が米国社会において「異質」なものであるとの印象を読者に与えることになる。

その異質なものが米国内で手広く商売をし巨利を得ている。一方、自国のライバル企業はいま重大な危機にひんしている。「米国」の一部ではない「異質」なものが、自国の企業よりもうまくやり、しかもその成功の裏には同胞市民の血と涙があった、ということになれば、「恥を知れ」の罵りに同調する米国市民が更に増えたとしても不思議ではない。同時に、トヨタに対する不信と怒りを更に掻き立てることになっても不思議ではない。この世界に人種、民族、宗教、国境によりウチとソトがある以上、人がウチをソトから守ろう、ウチをより重んじ、ソトを警戒するのは、実に自然なことである。

ポストのいう「強いなまり」が、そうした自然な人間心理に更に訴えかけ、米国世論の反トヨタ感情を更に掻き立てる効果を果たしたとしても、驚くべきことではなく、米国一流紙の記者がそこに気づかぬはずはあるまい。

要はワシントン・ポストは、米国議会同様に、トヨタを叩きたいのだ。そして叩く背景には、トヨタ問題そのものだけではなく、「英語が満足にできない異質なヤツラ」との認識が
あるということだ。英語が不十分な人間を公正に評価しない傾向のある国のメディアが、あえて英語をあげつらうということは、ポストは豊田社長ならびにトヨタを端から敬意をもって遇する気などないということなのだ。簡単にいってしまえば、欧米が非欧米に対して従来とってきた「上から目線」である。

この「強いなまり」という表現。これを米国市民に対してつかった場合、おそらく「差別」、「偏見」という批判は免れまいし、よほどの確信犯か間抜けでもない限り、そうした表現を新聞記事という公器で使うことはあるまい。それをあえて豊田社長に使ったということは、国内のマイノリティー等に使えば問題になるおそれのある表現も、エイリアンの、日本人の豊田氏に使う分には、米国世論は問題視しないとの計算があってのことと思われる。
要は、豊田社長は、彼が米国人ではないっがゆえに、そしてあの英語ゆえに、対等のものとしての扱いを受けることができなかったということではないのか。

英語が十分ではないがゆえの「態度」というのは、公聴会での議員たちにも見られた。一部メディアが奉ずるように、豊田社長の答弁に露骨な苛立ちを見せる議員がいた。ちなみに、YesかNoかと迫る手法は、いらだちの現われというよりは、真相究明の方法としては実に意味がないのだが、あれは米国ではよく法廷戦術としても使われえる手段で、率直に言って、相手のポジションや論点を明確にするためのものというよりは、相手に好きなようにしゃべらせず、二分法的な論法に相手を追い込むことで、自分に有利な展開を導き出そうという常套手段である。

むしろ、私が感じたのは、いらだちの本当の原因は、ある新聞が報じているように、通訳を解してしか離せない豊田社長の英語の不自由さに対してではなかったのか。議員たちの態度は、英語を母国語としない人間に対する米国人のみせる忍耐力のない態度として、決して珍しいものではない。だが、これも、米国人が英語能力の有無にいかに不寛容かつ高飛車な態度をとる人間たちであるということの証左であり、英語が不自由であるがゆえに豊田社長という人間を端から色めがねで見、彼の話す内容に対しても、それを真摯に聞こうなどという気はなかったのではないだろうか。

要は、議員たちには、豊田社長に対する、そして日本人に対する、偏見、蔑視があるということだ。そういう連中に、何を語ろうが、虚しいだけだ。

いや待て、議員の一人は、黒人だったではないか?などとは言うまい。米国社会における人種的少数派間の対立、差別問題は今更言うまでもないし、有色人種である日本人を馬鹿にしたり差別したりするのは、何も白人だけではない。むしろ、黒人やらヒスパニックに露骨な扱いを受けたという経験を持つ日本人は私だけではない。

植民地において被支配民族同士がいがみ合い、さげすみあうという構図は、かつての大日本帝国にもあったのだが、それに似ているのかも知れない。

私は米国のすべてを否定するつもりはない。米国には都合10年以上いたことになるが、楽しい思い出もある。ある意味尊敬すべき国家、社会、国民であるとも思う。今後も決して見くびってはいけない国だとも思うし、決定的な対立を生ぬべきではない相手だとも思う。だが、おぞましく、決して我々を対等の人間として敬意をもって扱おうとはしない国、社会、人間たち(すべてとはいわないが)であるとも考える。

そういう土地で、そういう人間たちに囲まれて生活をし、商売をすることの難しさを、トヨタ問題は、改めて教えてくれたのではないだろうか。






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ロンダ・スミス(Rhonda Smith)はますます怪しい・・・・

2010年02月26日 | Weblog
トヨタ問題の議会証言で強烈な印象を残したロンダ・スミス女史。

なんと、事故を起こしたレクサスを売却していたというではないか。乗るのが怖くなって売却した車を、他人に買わせるこの神経は見上げたものである。他人は事故を起こそうが知ったことではない、ということではないのか。

そういう低劣な人間が「恥を知れ」とは・・・。その言葉、そのままスミス女史に返すほかない。

しかも、事故車は、その後何ら問題なく走行したというではないか。

となると、「あの女はやはり怪しい」という可能性が、消えないどころかますます高まる。
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豊田社長の英語

2010年02月25日 | Weblog
思ったほど、悪くはなかった。

きつことをいえば、高校の時分に留学経験があると聞く。10代までに会話を学ぶのと、20代になってからではどういうわけだか、発音という点で随分と差が出る。男性よりも女性の方が発音が良い傾向にあるという性差にようなものに加えて、この年齢の壁というも少なくとも発音という点に関して言えば、大きい。その10代に会話を学んだはずにしては、イマイチ。きっと、その時は短期留学だったのだろう。

読む英語としては、通じない英語ではない。もっとも、議員のなかには、外国人の英語等滅多に聞いたことがない連中もいるだろうし、それが一般のアメリカ人でもあるから、どこまで通じたかは定かでない。マイクに近づいてくれと途中で言われたが、もしかしたら、よく理解できなかったせいかもしれない。ただ、外国人との接触が多い人間であれば、あの英語は十分に通じる英語のはずだ。日本人独特の語調であるが、それは致し方ない。あれを消すのは、決して容易ではない、特に男性には。

もっとも、読む英語で通常の会話力を計ることはできないので、彼の英語がどこまで国際ビジネスで通じるかは疑問だ。

また、あのスピーチで議会やマスコミ、そして彼らに煽られた世論のトヨタに対する態度や感情が和らぐかという点については、現時点では何ともいえない。どうも結論ありき臭いところを見ると、大した火消し効果はないように思うのだが。

ただ、ある角度からみれば、豊田章男という人物、運は強いはずである。もっとも、個人の人生、運気のみで決まるはず等なく、ましてや周囲に運気の悪い人間がいれば、その影響を受ける可能性がある。おそらく、豊田氏の場合、前任の渡辺氏の運気を受けてしまったのではないか。渡辺氏、トヨタの社長までなったのだ、実力だけではなく運気も強かったということが言えるかも知れないが、実はあの人には、最後でこける運気を宿した人であるはずで、実際そうなった。その渡辺時代の「ツケ」を豊田氏は背負いこまされたということなのだろう。そして、それをどこまで克服することができるのか、見ものである。

追記 それにしても、鳩山政権もマスコミも、トヨタには冷たいと感じるのは、私だけか。
なかにはすっかり米国のメディアと同じ論調のところもあるが、マスコミの客観性なんてのは幻想であるのだから(それはマスコミ自身が既に証明している)、もう少し国益を考えてはどうか?トヨタに今こけられて、我が国にプラスかマイナスかぐらいわかるだろうに。
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トヨタ問題にみる「アメリカ社会の公正さ」?

2010年02月25日 | Weblog
一部マスコミは、今回のトヨタ問題に対するアメリカ社会の反応に、同国の「公正さ」を垣間見ることができるとの報道がある。

つまり、アンチ・トヨタ、トヨタ・バッシング一色というわけではなく、一部の州やそこを選挙区とする政治家からは、擁護の声やトヨタ叩きの不公正さを批判する声も上がっているというのだが、果たして、これをもって即「アメリカ社会の公正さ」ということができるのだろうか?

私は、そうした見方に組するには、いささかの躊躇を感じざるを得ない。

確かにアメリカには「公正さ」というものに対するひたむきさという側面がないわけではなく、「義を見てせざるは」などというものがほぼ絶えてしまい、不正を目にしてもなあなあで済ましがちな我が国の惨状に比べれば、あの国の国民精神はいまだ健全性を失ったわけではない感じたこともある。

しかし、トヨタを擁護する声が上がっているというが、それは真に現在吹き荒れるトヨタへの逆風に「不公正」なものがあると考えているからなのだろうか。

例えば、トヨタを擁護する一部政治家たちだが、彼らの多くは、トヨタが雇用を生みだした地方を選出選挙区あるいは地盤とする者たちだ。トヨタ叩きが経営に打撃を与え、生産・操業縮小などということになれば、それがそのまま失業問題に結びつく可能性もあるのだ。そもそも、トヨタを招き入れた地域は、外国企業を必要とする経済状況にあるということであり、概して元々富裕であったり地元住民を十分に食べさせ地域経済の底上げを促せるだけのの地場産業を持った州とは言い難い。つまり、住民を食わせていくためには、トヨタが生み出す雇用が必要な地域の政治家たちであり、彼らの政治生命を保つためには、トヨタにこけられたり、逃げられたりしては困るのだ。

アメリカ人は、合理的かつプラグマティックな連中である。我々日本人ほど情緒に左右されることはない。それは消費行動にも見られ、古い国か地域のようなこだわりはあまり見せず、良いものであればどこの国のだれが作ったものであろうと買う。もっとも、そこに人権問題なんかが絡めば教条主義的とも思える反応を示すという別の側面もあるのだが、「黄色いジャップ」の会社であろうが、富をもたらすのであれば、それを受け入れ、利用することに躊躇はしない。

トヨタ擁護の背景なんていうのは、「公正さ」云々というよりは、そんな「実利的」な思惑から来たものではないのだろうか。オバマ政権が具体的な地域経済振興策を打ち出し、それが具体的効果を見せることができれば、トヨタへの彼らの風向きも変わることだろうが、今のところそのような動きは政権にはないし、かりにトヨタ排除後の施策が示されたとしても、それが功を奏するには時間を要する。

あの公聴会。あれは「猿芝居」以外の何ものでもない。結論ありきの政治パフォーマンスであり、かりにトヨタの首脳陣がパーフェクトな対応をしたとしても、彼らがトヨタに対する批判的姿勢を変えることはないであろう。トヨタ問題の原因究明があの公聴会の真の目的であるのであれば、テネシーの婆さんの「涙ながらの怒りの訴え」など必要がないはずだ。あのような演出を加えたところに、議会そして米政府の思惑と、米国におけるトヨタ問題の「本質」が隠されているのではないだろうか。それは「公正さ」などとはまったく無関係のものだ。

トヨタは製造業にたずさわる立場としてしくじった。これは間違いあるまい。しかし、それを利用しようとしている連中がいるということであろう。そしてトヨタは見事やつらの策略にはまったということになる。豊田社長がいかにエクセレンント・ジョブをしようが、ワナにはまったネズミがそこから逃れることはそうそう用意ではない。
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トヨタ公聴会、ロンダ・スミスの背後、周辺を洗うべきだ!

2010年02月24日 | Weblog
米議会に被害者として姿を現したあのご婦人。

議会証言に至る経緯を含め、背後関係や、交友関係を洗うべきではないのか?

日本のマスコミ、ジャーナリズムは当然それくらいのことはしていると思うのだが、念のために。
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日本の教育を考える: 海外派遣教員の「お土産」に隠された「ウソ」

2010年02月24日 | Weblog
米国にいるとき、私の子供たちは数年間、補習授業校(補習校)にお世話になりました。

米国内でもNYCのような大都市や、現地の教育制度や内容に不都合のある国や地域の場合は、日本人学校ですが、中途半端な規模の地方都市では補習校でした。

補習校にはとても感謝しています。

そこに来てくださった派遣教員の方々にも、現地採用の先生方にも、そして派遣教員を送ってくださった文科省や日本国民の皆様にも。

うちの子たちが帰国後容易に日本の生活・学校環境に溶け込めたのも、補習校のおかげあってのことと心から感謝しております。

ただ、派遣教員の制度には、いささかの見直しが必要かと思います。それについては、以前随分書かせてもらいました。

ここでは、最近気づいた点について触れたいと思います。

派遣教員の海外での勤務内容がどのように評価されるのか、また何を要求されるのかはよく知りませんが、どうやら何らかの「お土産」が必要なようです。言い方を帰れば、文科省に対して「私は3年間の間にこういう実績を残しました!」という証を立てる必要があるみたいです。

ただ、現実問題3年の任期というのは、決して長くはありませんし、そもそも日本国内ですらない見ず知らずの土地へ行って、いかに相手は日本人子女やその保護者とはいえ、3年で実績を出せと文科省が要求しているとすれば、それは無理というものです。

最近は任期にも若干の柔軟性が与えられたようで、2年から4年ということみたいですが、3年以上いた方、いるんですかね? まあ、通常は3年ですね。その3年の最初の一年は、「学び」の期間です、というかそうあるべきです。そこのところの認識がない派遣教員は、現地の人間にとっては、「かえって来てくれなかった方が良かった」ということにもなりかねません。何が何でも日本式でとか、自分の日本での経験に固執する人は、うまくいきません。まあ、実際問題、何かをしようと意気込んできたところで、相撲取りがいきなり土俵から海に飛び込んで相撲を取れるものではないように、何ができるというわけでもありません。つまり一年目から実績なんて出せません。

2年目でようやく、自分の置かれた状況が見えてきて、的確に動けるようになります。ご家庭があって派遣でこられた方は、ようやく、2年目になって家庭のなかも落ち着くのではないでしょうか。この時点でも現実が見えていない人は、もうどうしようもありません。保護者からは不満が出まじめますし、学校運営そのものにもよからぬ影響が出てきます。また、連れてきたお子さんが現地の学校で不適応を起こそうものなら、2年目でもなかなか仕事には専心できないかもしれません。

三段跳びでいえば、一年目はホップ、次がステップ。そして、3年目がようやくジャンプのとき。つまり、ようやく3年目で実績云々なんて余裕が出てきますが、1年なんてあっという間です。しかも、忙しさという点では日本にいるときと変わりません。9時5時なんていうのは無理です。となると、何とか帰国までに実績を、ということになるみたいです。

保護者として、また運営委員会に参加した立場からみて、明らかにこの先生、無理しているなあとわかる場合もありました。無理はご本人だけにかかればそれは自業自得ですが、生徒たちを巻き込むことがあります。というか、そうなる可能性が高いです。教育実績ですから、そうなってしまいます。

あるいは、業績を誇張して文科省に伝えるという方法もあるみたいです。業績報告のうち、実際のご自分の業績と呼べるものは、本当はせいぜい半分くらいで、あとは前任者やあるいはそれ以前に既に下地ができていたり、既に施行されていたものであるにもかかわらず、「私がやりました、始めました」みたいな報告を帰国後される方もいました。最近は、インターネット上で存じ上げている派遣教員の方の報告等を見ることができますので、「あ、この先生、他人の手柄をまるで自分だけの業績のように行っている!?」なんてのも、正直なところ、ありました。

「お土産」をもって帰らなければならない「宮仕え」のつらさは察して余りあるものがあると思いますが、保護者の立場からすると、はっきり言ってがっかりです。というのは、「誇張」というのは、ある意味「虚偽」、「ウソ」ですから。教師もヒトですから、ウソもつくでしょうが、必ずしも自分の手柄ではないものをまるで自分のもののように言うのは、どうなんでしょうか? そんなことをしておいて、教員として子供の前に堂々と立てますか?
教員としての「倫理」もさることながら、「志」はどこに置き忘れられてしまったのでしょうか? 「不正」をしておきながら、子供たちに「正しさ」を解くとすれば、それは偽善以外の何ものでもなく、文科省のみならず、子供や保護者さえも騙していることになりませんか?

たとえ話をしているわけではありません。「家政婦は見た!」ではありませんが、私は偶然ネット上で見つけてしまったのです。「必ずしも真実ではない」報告を。

まさかあの方が・・・と、非常にショックでした。

万一、その方が「正真正銘ご自分の実績」と信じていらっしゃるとしたら、その方は物事を冷静的確に理解する能力を何らかの事情で失ってしまわれたとしか思えません。

「見解の相違」などという言葉でごまかせるものでもありません。その方の前任者、前々任者の報告と比較すれば、「ウソ」は容易に見破られてしまうでしょう。

もっとも、派遣教員に同情するところがあるとすれば、3年で実績・業績を求める教育行政並びに教育現場にも問題はあるのでは? 家族を帯同して海外で教えるということの大変さを真に理解しているのであれば、「土産」など求めるべきではない。いや、特別求めているわけではない、活動報告させしてくれれば良いのだ、という言い分もあるかもしれませんが、派遣教員の側には「たかが報告」という意識はないのではないでしょうか?それゆえに、事実上「ウソ」をついてまで、実績を誇示しようとする教員が出てきてしまうのでは?

日本の教育行政のなかに、教員に手を「悪」に染めさせてしまうような構造的問題があるとすれば、それを改めるに躊躇すべきではないのではないでしょうか?そうすることで、一番ほっとするのは、実は派遣教員自身ではないのでしょうか?
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相撲道・・・・・(嘆息)

2010年02月24日 | Weblog
今朝の某新聞に外国人力士への相撲道云々との小論を見た。

それはもちろんのことだが、プロに限らず昨今の相撲を見るにつけ、果たして今の日本人や日本相撲協会にそれがでええきるとはとても思えない。

大相撲の、引き技の多さは毎場所相変わらずだ。大関クラスでもそれをやるのだから、下がやったとしても不思議ではない。

そういえば、現理事長も、大関時代だったか、彼自身は既に優勝圏外だったと思うが、圏内の力士、確かニ代若乃花だったと思うが、猫だましをくらわせて勝利した。勝負は勝負で勝ちにかわりはないが、子供ながらにしらけてしまったことがある。

「理事長は日本人の心がおわかりでない」とかつて軍部が現理事長と同じ出自を持つ東郷外相に言った言葉を投げかけるつもりはないが、あれは今思っても、残念な一番。もしかしたら「相撲道」の退廃は既にあの時期から始まり、現理事長も現役力士として加担していたと言えるのかもしれない。

ただ、「日本人」としては新参者の現理事長に、就任当初から果たしてどこまで相撲協会改革ができるのか疑問には感じていたが、それは決して杞憂ではなかったようで、実に残念。

アマチュア相撲の試合もひどい。ガッツポーズが土俵の上で華を咲かしているのが現状だ。
アマチュア相撲など早々見る機会はないが、実に見苦しい状況を呈している。

力士も力士なら、それを許している指導者も指導者である。

こんな状況で、外国人に相撲道の何をどう教え込むというのだろうか。

子供のころから相撲を楽しんできた私の悲しみと腹立ちは、今「もう相撲を見るのはよそう」という気分、つまり諦め、失望へとかわりつつある。
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英語ができない(拙い)=無能、という米国のお国柄

2010年02月24日 | Weblog
一般論として言えば、米国では、英語ができない、拙いというのは、その人の能力に対する評価を下げる原因になる。

しゃべってナンボというところがあり、沈黙は「無能」の烙印を押されるおそれのある国でもある。

思うに、日本において、日本語の得手不得手でその人間の能力をはかるということは、あまりしないはずだし、それが資質評価に重大な影響を与えることもあるまい。

だが、米国ではそうではない。米国人は概して気さくでフレンドリーであることには違いないが、英語ができない相手には必ずしもそうではない。相手のしゃべっていることがわからずに、尋ね返すと露骨に嫌な顔やバカにしたような表情をされたり、不愉快な反応をされるという経験を持つのは、私だけではあるまい。こちらとしては、もう少しゆっくりしゃべって欲しいから尋すわけだが、相手が同じスピードでかつ大声で返してくる。相手の表情次第では、かりに怒っていなくても、怒っているように見えても仕方がない。でも、大方のアメリカ人は、その点に気づいていないのではないか。

東アジア研究で院生をしていた米国人の友人が言っていたことを思い出す。彼の中国人の奥さんと付き合い始め、両親に彼女を紹介した際、まだ彼女の英語は十分ではなかったため、彼の母親の言ったことを理解できなかったのだという。すると母親は大きな声で同じ言葉を彼女の耳元で繰り返したというのだ。中国人の彼女は、その後彼に「あなたのお母さんを怒らせてしまったようだ」と落ち込んでしまったというのだ。もっとも、この一件は、彼が「そうじゃないんだ」と説明することで(実際、母親は怒って大声を出したわけではなかったのだが)、ことなきをえ、彼らはその数年後にめでたくゴール・イン。今も西海岸で結婚生活を続けている。

この例をもって彼いわく、「アメリカ人っていうのは、外国人が自分たちの言っていることが理解できないでいると、理解できないということ自体理解できないか、自分たちの声が小かったのだと誤解する人が多いんだよね。だから、大声になるんだ。うちの母にしてそうなんだから。でも、相手からしてみたら、なんで怒られなければならないんだ?ってことになるんだよね。」と。「うちの母にして」というのは、彼の両親はともに東海岸の某有名私大の教授であり、インテリ層にして昔からの資産家。そういった社会階層の人間ですら「外国人がネイティブの会話を理解できない原因や、相手が理解できないときにどう対処すればよいかをわかっていない」のだから、一般人は尚更のことだと言いたかったのだ。

インテリからしてそういうお国柄である。インテリでも非英語圏、非欧米圏と深くかかわったことのある人たちは、上述の彼のように対処の仕方を知っているようだが、インテリでもアメリカ国内どっぷりという人たちに、それを期待することはできないし、してもいけない。

そういう「文化」の国である。トヨタ社長の英語いかんでは、「社長としての資質・能力」に更なる?が付けられ、トヨタ叩きに拍車をかけることになる恐れも少なくはないだろう。

これをもってアメリカ人ってのは・・と批判をするのは容易である。ある意味、実にやっかいな人間たちではあるが、これが「現実」である以上、それにうまく対応していかないことには、あの国でうまく商売をすることなどできないのだ。

まあ、要は、十分な英語力を身につけるしかないと思うのだが・・・。トヨタ社長は以前から自分の将来が見えていたはずだ。であるならば、もう少し英語というものへの研鑽を積んでも良かったのではないだろうか。彼の英語では米国社会からそれ相応の扱いを受けることはなかなかに難しい。トヨタの社長という肩書がなければ、下手な英語をしゃべる典型的なアジア人のアジア人、チャイニーズ? ジャパニーズ?くらいの扱いしか受けないということを、彼はどれほど理解している(いた)だろうか?
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「ニン」違いが招いた悲劇: 田村正和主演「樅の木は残った」

2010年02月23日 | Weblog
先週末、一人でこれを見た。

私以外の家族は、「がばいばあちゃん」を別室で見ていた。私は「がばい」そのものよりも、最近の島田洋七が婆さんを商売道具にしている様があまりにも露骨で好きになれず、見ないことにしたのだ。

何と言っても、「樅の木」が周五郎の代表作の一つだ。歴史解釈としては当然異論もあるところで、周五郎の描いた原田甲斐をそのまま「実像」とみなすには躊躇せねばならぬが、物語としては実におもしろい。「先代萩」の仁木弾正と正反対の描き方だけに、なおさらだ。周五郎も「商売」的な感覚で、そのあたりを意図的に突いたのではないだろうか。

それはさておき、このTV版「樅の木」はいただけなかった。かつてNHK大河で平幹が主演したこともあるが、当然私は見ていない。当然、すなわちそういう年ではないということだ。
であるから、比較という意味ではないのだが、いただけなかった。

何が、良くなかったのか? 原作を読んだことがある者として言えば、平幹の甲斐も容貌が丹精過ぎたと想像するが、田村正和も同じく。原作の甲斐とは全く違う。おそらく原作の甲斐を演じることができたのは、以前なら緒方拳(も容貌的には原作とかけ離れている)か、山努あたりではないかと思うが、山は見た目が怪異過ぎるし、伊達家の重臣という見た目ではない。なかなかはまり役的な役者はいないもので、現在ただ今なら尚更である。そうなると、ストーリーそのものは尊重しつつも、原作とはかけ離れた原田像を追求するしかないのかもしれない。

いや待て、も少し若ければ、播磨屋の甲斐という手があったのではないか? いや、今でも? ちなみに、播磨屋の仁木は立派である。まあ、当代の仁木役者であろう。海老は、まだ若過ぎる。

容貌の問題はさておき、田村の甲斐にはいくつか難点があった。まずは、声。あれは一体どうしたというのだ。しわがれて聞きづらい。最初は演技かと思ったが、そうではないらしい。最後の最後まであの調子であった。あの声が忠臣甲斐の「苦渋」を感じさせなくはないが、あれでは「騙そうとする側」に対しての腹芸にはなっていない。それから、年齢にも70に手が届かんとする田村に50を過ぎたばかりの甲斐は無理があるというのではないが、年の差をもう少しメイクで補うべきであった。声のせいもあろうが、時々甲斐が初老に見えることもあった。もっとも、あの時代に50を過ぎれば立派な老域ではあるが、時々見せた田村の姿、表情は、少し若づくりに過ぎる芝居の外記のように見えないこともなかった。もっというならば、陰腹を切っているようにも見えた。もっとも、甲斐は国老として兵部一派に組することを選択した時点で事実上「死を覚悟」したであろうし、その意味では既に腹を切っていたということも言えようが、いかにも兵部に同心下と見せかけても、その本心が見透かされそうなほどに有る意味悲壮に見え、あれでは酒井でなくとも信用するには躊躇せざるを得ない。そして、最後の刃傷場。歌舞伎とは違った意味で、もっと鬼気迫るものがあっても良かったのではないか、とはあくまでも個人的な感想である。

こう言ってしまっては身も蓋もないが、田村は甲斐のニンではないように思う。

ニンといえば、伊藤の伊達安芸と笹野の伊達兵部。この二人が巧者であることは言うまでもないが、いかに巧者とはいえ、ニンが違えば何とも無残なことになる。いかに大枚をはたこうが、アワビで牛ステーキは作れぬ。いずれも、とても戦国で成り上がった大名家とは違う名門伊達一門に連なる人物には見えない。こういっては失礼だが、両人とも、元々が百姓・町人の顔立ちである。せいぜい良いところが、下級武士だ。そのため、身なりはおれなりでも、伊藤の安芸はせいぜい、家老にしか見えない。伊藤は正直言って面妖である。かつて伊丹十三作品で演じたやくざに何ともいえぬ凄みがあったのは、芝居のうまさだけではなく、あの顔にあったと思う。そのような役者に東国の大守一門役は無理である。役者としての技量で補えるものではない。

笹野の兵部も、とても独眼竜の実子でありたとえ3万石の大名としては小身とはいえ一藩の主には見えない。「釣りバカ」の運転手ならぬ駕籠かき風情にしか見えないとは言わないが、高禄取りの藩士にすら見えないのも事実だ。あの容貌で、あの殿様姿は、笑いを狙ったとしか思えないが、あのドラマでそれはあるまい。完全なミスキャストである。本人にも気の毒である。所属事務所の意向で仕方のない出演だったのか、本人の選択だったのかは知らぬが、仕事を選ぶことができる腕と実績をもった役者のはずだ。伊藤もそうだが、仕事は選ぶべきだ。さもなくば、自らの「うまい役者」としての名声に傷がつく。

製作側も配役にはもっと熟慮が必要だ。現代劇も時代劇も、役者のニンの重要性という点ではかわりあるまい。随分昔、キムタクが佐藤浩市の大石相手に堀部安兵衛を演じたことがあったが、あれも「悲惨」であった。見ていて痛かった。タカラヅカを見ていると私は、まるで拷問にあっているような生理的な苦痛を感じるのだが、それとは違った意味で、キムタクが哀れという意味で、心が痛んだものだ。最近の時代劇は、「三成、かねつぐ」と呼び会うNHK大河もそうだが、ヅラをかぶった現代劇が多い。もっとも、歌舞伎というのは初演当時は、ヅラをかぶった現代劇みたいなので、忠臣蔵などは太平記の時代を借りた現代劇みたいなものだったのだから、ヅラ付き現代劇のどこが悪いという見方も可能かもしれないが、家老に向かい「あんた」もさることながら、キムタクの時代味の無さには、かわいそうになった。この問題は「武士の一分」でも克服されていなかったところを見ると、彼には時代劇は無理。つまりNHK大河は無理ということなのだろう。そういえば、同じSMAPの香取の近藤もひどかった。まあ、中居くらいなら、地頭晒して、三枚目的な三下やくざや町人くらいならえきそうに思うが。

役者のニンとはそれほど怖いもので、ニンを軽んじれば、今回のような「失敗」となる。

どうやら裏番組の「がばい」にやられたのか、視聴率も振るわなかたようだ。「がばい」ごときにあの「名作」をもってしてやられるようでは、時代劇の行く末がますます案じられるが、あの失敗作をより多くの人が見ていたとしたら、より多くの人を失望させ、やはり結果は同じ。時代劇の将来にはマイナスということになったであろう。

原作がしっかりしているだけに、最後の刃傷は田村のイマイチの演技にもかかわらず、それなりに見ごたえはあったが、あの結末を招いた酒井忠清役としては、もう一人の名バイプレーヤー橋爪功も、いささか凄みが不足していたように思えたのは、やはりニン違いが原因かもしれない。



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何の因果で・・・: 知人の死

2010年02月22日 | Weblog
知人が亡くなった。

特別親しいわけでもなく、ここ2年ほどは会ってもいなかった。その知人が亡くなった。しばらくの闘病の末のことだったとか。闘病中であることすら知らなかった。

あまりにも早い死。結婚してまだ月日の浅い奥さん、きっと父親の顔など覚えていないであろう子供たちを残し、両親はおろか祖父母よりも早く、あの世に行ってしまった。

良い意味で、どうしたらこんなふうに育つものかと思うほどに純真で、誰からも好かれ、かわいがられた。「こんなんで、社会生活を送れるのだろうか」とも心配したが、知人はそんな天職ともういべき職を見つけ、一生懸命に働いていた。

なのに・・・。

そんなに多くはないが、知人にまつわるエピソードが思い出されて、悲しい。

残された家族、特にご両親のこと、子供のことを思うと、同じ親として、ただただ心が痛む。

不幸があった際に、遺族に対してよく「お気持ちをお察し申し上げます」という言葉が口にされるが、私は知人の遺族の気持ちを察することができない。私も家族を亡くし悲しんだ経験を持つが、子に先立たれ、連れ合いに先立たれたことはないので、そういう経験をした人の悲しみ、苦しみを察しようとしても、察するに余りあり、「お察し申し上げます」などとはとても言えない。

因果応報という。そういうことは、確かにあるものだ。ただ、知人の場合、そしてその遺族の場合、何の因果で・・・とただ嘆き悲しむしか私にはできない。

「気を確かに」、「がんばって」などとは、口が裂けてもいう気にはなれない。今の遺族に、それほど酷な言葉はないはずだからだ。それだけはわかる。慮ってくれる人々の気持ちはありがたいが、「何をどうがんばれというのだ」という思いにもさせられてしまうのだ。

何の因果で・・・、どうして・・・、今の私にはそれしか言えない。

もし唯一救いとすべきは、知人が病と闘病の肉体的、精神的苦しみから救われたことかもしれない。とは言っても、幼いわが子を残して、あの世に旅立てるものだろうか。もし最後の最後まで意識があったとすれば、気にかけていたのは、自分の苦しみよりも、残していく妻子のことではなかっただろうか。

今更あれこそ想像してみたところで、知人はもうこの世にはなく、遺族と悲しみが残されたことには変わりがない。そして、遺族はその悲しみを背負いながらこれからも生きていく。それが癒えるのは一体、何時のことだろうか。子供の年齢を考えるに、決して短くはあるまい。

何の因果で・・・・、繰言のように思うしかない。

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日本人の「おもてなしの心」は、大したことない その2

2010年02月21日 | Weblog
空港ランキングのニュースをネット上で見たが、日本も「おもてなしの心」がそんなに大したものなら、アジアのそのほかの主要国際空港に劣るランキングというのはどういうことか。

日本人自身は、自国・自国民を評して、細かいところまで行き届くというが、もしそうなら、今回のようなランキングにはならないのではないか。

確かに、成田をはじめ日本の空港には「おもてなし」以外に、克服せねばならない点が多々ある。成田の乗り継ぎの不自由さなどその際たるものだが、日本の主要空港の問題点はそれだけではない。

とにかくエンターテイニングではないのだ。羽田のショッピングエリアが充実しているというが、あの空港ビル、構造的にくつろげない。特に、チェックインカウンター周辺の混雑ぶり、狭さ、座るスペースの少なさは致命的だ。

成田となると更に酷い。まずは第一ターミナル。あのトイレの狭さはない。古い建物で構造上仕方のないことという言い訳は客には通じない。店もおもしろくない。第二ターミナルもしかり。海外の大規模空港に比べて、何とも華がないというか、楽しめない。

日本人のいう「おもてなしの心」、確かに他国に比べて優れたところがないわけではない。だが、国内的には通用しても、対外的には「不便」で「不親切」な点もまた多々ある。そこに気付かずに自国の「おもてなし」を誇っているのだとすれば、「井の中の蛙」とはまさにこのことである。

ホテルの料金体系、いたるところでのスペースの狭さ(国土が狭いという言い訳は台湾の例を見るように必ずしも通用しない)、分煙の不徹底等、外国人観光客を楽しませ、くつろがせ、「また日本に」と思わせることを阻害する要素がいくつもある。

観光客を外から呼びたければ、香港、台湾、韓国といった「先進国」に素直に学ぶを乞うべきだ。

自己満足の「おもてなし」では、いつまでたっても「観光立国」が画餅のままだ。

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「事実」と「幻想」としての台湾イコール親日国家

2010年02月20日 | Weblog
台湾には、特に若者たちは日本に関心を示してくれる層が結構いる。それは今回の家族旅行でも感じた。

ただ、小林よしりんが「台湾論」で描いたような熱烈な日本への親近感を私個人は感じたことはない。確かに、今回も観光地や台北の街角や飲食店で、こちらが日本人と知ると非常に青い層良く話しかけてくれる若い世代に何人も出会った。しかし、その一方で、無関心な層も結構いるように感じた。台湾にとってやはり一番関心のある国は、やはり大陸と米国ではないのか。特に後者に関して言えば、台湾人のあの国への依存度は自らを「属国」と自虐的に揶揄することを好む我々日本人以上ではないだろうか。特に、エリート層の対米傾斜はかなりのものと見た。半ばバカらしくなるほどの学歴社会である。博士号を持たぬ者は人としてみなされない、というのは大げさだが、そういう声は台湾人自身からも聞こえてくる。エリート層、富裕層の多くは、米国留学組が多く、しかも彼らの多くは学士号にとどまらず、修士・博士号までも米国で取得してきている。前々総統李登輝は米国で修士と博士号を取得している。現総統馬英九はハーバードの法科大学院出のジューリスドクターである。

ちなみに、ジューリスドクターを法学博士と訳すのはやめた方がいいのでは? ジューリスドクター自身が「法学博士」と自らの肩書を訳すケースもあるが、Ph.D.なんかの博士とはまったく別物で、一部では「法務博士」と訳す場合もあるようだが、そちらの方が正確だろう。米国の有名大でPh.D.を取得した友人いわく、無知ならともかく意図的な「法学博士」の訳は、経歴詐称に等しいとよく言うが、私も同感だ)。我が子にもいずれは米国留学をと思う親は多いようで、台北のアメリカ人学校にはかなりの数の富裕層の子弟が通学しているとのことだ。道理で下校時にアメリカンスクールの前を通った時、ベンツ、MBW,レクサスの類がアメリカ人学校の周囲に何十台という単位で停車していたが、その中に乗り込んでいく台湾人の子供を多く見かけた。

一方、アメリカ人学校のすぐ向かいにある日本人学校はと言えば、駐在員から聞いたところでは、片親が台湾人で日本人学校に通わせる家庭はあっても、両親が台湾人で日本人学校に通わせるケースはまず皆無だとのことである。

これが台湾の「親日」の現実である。

今の政権もそうだ。親日、知日政治家や政府関係者が一体どれだけいるというのか。既に前政権でもそうだった、陳水篇自身、日本に特別の思い入れがあったとは思えない。李登輝の親日姿勢も多分に政治的な思惑を含んだ演出とみるべきで、そのまま受け入れるべきではない。

大衆文化という点で台湾のある世代に日本への関心は高いが、それは台湾の対日観の一部を映し出しているに過ぎない。別の一面においては、日本と台湾のつながりは、細くなる一方だということを忘れてはなるまい。このまま、日本の経済力がプレゼンスを失い、同時にポップカルチャー、流行の発信源としての魅力も失うことになれば、日台のつながりは確実に弱まり、それは台湾人の対日観にも当然のことながら変質をもたらすであろう。

台湾人アイデンティティー(認同)についても、現時点で、それが何物なのか断ずることは難しい。いまだ、古事記に出てくる創生前の地球、日本列島のようなもので、これから先、海のものになるとも、山のものになるとも皆目見当がつかない。中華民族アイデンティティーに収斂されてしまう可能性すら完全に否定ができまい。

あの島の人々は、その歩んできた歴史ゆえに日に柔軟かつ功利的である。功利的といえば否定的に聞こえなくもないが、外来勢力の支配を繰り返し受けながらあの小さな島で生存していくためには、それは必要な生きる術であり、いつしかあの島の人々の住民性になってしまったのではないだろうか。金銭への日本人には考えられないような固執も、外省人文化に毒されたなどと表するよりもむしろ、歴史経験から得た習性というべきであろう。同じことは、その外省人にも言えるのではないだろうか。我が国よりもはるかに過酷な歴史経験をもつ大陸人の、日本人からしてみれば眉をしかめたくなるような功利性や金銭欲、物欲も、歴史によって形成された「生きる術、知恵」なのだろう。

そうした人間たちである。どう見ても、我々日本人よりは大陸の人間に似ている。ついでにいえば、衛生観念の欠如という点についても実によく似ている。大陸で見る「不潔「は、台湾でもいまだに見ることができるのだ。

今から10年後とはいうまいが、20年後、あるいは100年後、台湾の対日観は今のものとはすっかり様変わりし、昔は・・・な時もあったと振り返ることになるかもしれない。もし、そいうなることが我が国にとって望ましくないというのであれば、我が国としては、台湾との関係の構築について、もう少し真剣になるべきであり、台湾が大陸に飲みこまれるような事態にならぬようあらゆる努力と施策を惜しむべきではない。もっとも、民主党政権にそれを期待することが無駄であるとはわかっているが。

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「隣国」台湾に見習うべきこと その2

2010年02月20日 | Weblog
公共交通機関での人々の態度を、東アジア日中韓台の「四(三)カ国」の間で比較するならば、ワーストの順で言えば、中、日、韓、台ということになるのではないだろうか。

では、私がいう「態度」とは?

ここでいう「態度」とは、乗り降りの際の秩序正しさを指すものではない。もしこの意味で「態度」というならば、やはり日本人が群を抜いて公共的である。ワーストは言うまでもなく、中国大陸だ。韓台の優劣は、私的にはなかなかつけがたいように思う。台湾の場合、MRTの乗り降りは、警備員もいるせいか随分マナーというものが共有されてきており、大阪に遜色ないが、東京などには及ばない。やはり列を無視した乗車や、下車する客を待たずに我先に紀子もうとする客はいる。大阪の場合、おばちゃん以上の年齢に多いという印象だが、台湾の場合、年齢に関係ない。ただ、私見では女性の方が多いように感じた。中国は悪い意味で「別格」である。レベルが違いすぎる。特にバスは相変わらずひどい。台湾もバスはほめられたものではない。路線が多く一つの停留所に停車するバスの数が多いため、並ぶということに余り意味がないのかもしれないが、台北駅前の停留所では比較的皆列をなしてバスをまっている。列のままに乗客が乗るケースもあるが、列を作って待っていたのに、バスが来るといきなり列を崩して我先に乗り込もうとする路線もあり、こうなると路線ごとの住民の民度の違いによってマナーの良しあしも変わってくるのかもしfれない。きっと公共マナーでは悪評の高い大阪でも、そういうことがあるのではないだろうか。皆が皆、西成の人間と同じというわけではあるまい。

私がここでふれたい「態度」とは、席の譲り合いについてである。ここでは「別格」の中国にはあえて触れまい。触れれば、同じ人間として、濃淡はあるにせよ儒教文化の影響を受けた国のものとして、大陸のあり様は「無残」という他ない。では韓国、台湾はどうか。韓国では、年配者に席を譲るという行為はいまだ良く目にする。韓国人の知人いわく、昔に比べれば随分情けない状況になりつつあるというが、日本よりはましだ。その点、台湾は、韓国よりも更に我が国の上をいく。当然良い意味でだ。年配者がバスに乗車したとする。まだ車内にはかなり座席の余裕があるにもかかわらず、年配者に距離的に近いところにすわる台湾人は自ら席を空け、他の席に移るか、立ったままでいる。MRTなどでも不特定多数の年配者が乗車してくると、必ずしも特定の人物に席を譲るというわけではないが、若輩は自ら席を空ける。

それだけではない。妊婦や乳幼児を連れた女性にも席を空ける。よくよく考えれば、当然そうあるべきなのだが、果たして日本の現状はどうだろうか。

更には、子供にも席をゆずる。

もっとも、昔ながらの我が国の感覚でいえば、乳幼児はさておき、学齢に達した子供に席を譲るということには賛否両論あるかもしれない。昔は、子供は立っていればよい。むやみやたらと座りたがるものではない。それが鍛錬にもなるという考え方で、私の親もそうした考えだったから、あまり空席に余裕のないバスや地下鉄に乗った時に、空席を探そうとキョロキョロしていると叱られたものである。ただ、安全性という点からみれば、子供はできるだけ座らせた方が良いということになるのかもしれない。日本の公共交通機関は台湾ほど運転が荒くないから、より安全で車内で転倒するような危険性は低いのかもしれないが、危険性がゼロというわけではない以上、先ほど述べたように、議論の分かれるところかもしれない。私の子供たちは今回の家族旅行で、二度ほど年配者から席を譲られそうになり、私はそのたびに礼を言いつつ断ったのだが、郷に入らばということで言えば、あえて甘んじるべきだったのだろうか。

台湾でも、日本では当たり前に見かけるように、若くとも年配者に席を譲らない人もいる。
たった一度だけしゃがみこんでいる若い女の子を見たときには驚いた。昨今、日本では決して驚かなくなった光景だが、見苦しいにはかわりない。台湾で車内の飲食は禁止だが、それを無視しての飲食を見かけたこともあった。車内での女性の化粧、あれは日本でも今に始まったことではなく、子供のときから時々見かけたが、台湾でもやはり車内で平気で鏡を取り出し化粧を直す「バカ女」をみた。あんな女とは遊びでも寝たくないと思うのは私だけか?そんなことはさておき、ざせきの件だが、向うでは優先席は博愛座というが、そこに平気で座ったままの若者を短い滞在中にも何度か見かけた。でも、日本のようにそれが当たり前の光景ではないところに、台湾社会の健全さというものを感じるのは私だけではあるまい。


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