くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

まだまだ健在、日本における「アメリカ」というブランド力

2010年10月24日 | Weblog
クリスピードーナツの日本進出の際のバカ騒ぎには、本場のそれを身近でしる者として少なからず呆れたものだが、今回はフーターズが進出だとか。

しかも、一号店は赤坂。

確かに、NYCにも、DCにもSFにもフーターズはある。が、赤坂に相当するようなエリアにあるかと言えば、決してそうではない。
その類のエリアからは外れたところにある。

他の地方都市でも、フーターズがダウンタウンのビジネス街のど真ん中というのはまずないはずだ。地方都市であればあるほど歳の中心地からは外側に出店している。

ロケーションと言う点については、上述のクリスピークリームについても同じことが言える。新宿に相当するような地域の出店というのはまずない。そもそも、同店は単独店舗もあるが、より一般的なのはスーパーのベーカリーセクションにガラスケースにおかれ客が好きなものを自分で箱か紙袋に入れるか、既に箱詰めにして売られている類のもので、レジで他の買い物と一緒に清算するというような類のものなのだ。都内有数、日本国内有数のショッピングエリアのど真ん中で大行列をなして買うような代物ではないのだ。

フーターズも、ビジネススーツにパシっと身を固めたしかるべき企業に勤める者たちが、出入りをするような場所ではないのだ。


果たしてそれを理解している日本人がどれだけいるのか知らないが、要するに、まだ日本では「アメリカから」のものにはそれなりのブランド力があるということなのだろう。そして、その理由は「アメリカから来たものだから」というところが多分にあるのではないか。

途上国が先進国の製品を「日本製だから」、「ドイツ製だから」と飛びつくのと大して変わりのない消費者心理と言えるのではないだろうか。

確かに「アメリカ」のブランド力は低下しつつある。それはもう既にここ数十年間の現象でもある。「アメリカひじき」の我が父母の世代にとっての「アメリカ」と、我々の世代のそれは明らかに異なるように。しかし、ブランド力がまったく滅してしまったというわけではないことは、クリスピードーナツへの熱狂と出店場所、そしてフーターズの出店場所が証明している。

そこから敷衍するならば、いまだに我々にはアメリカがよく見えていないということではないのか。アメリカ人にとってはスーパーで当たり前に帰るものを日本人は長い行列を成して買い求め、マスコミがそれを大々的に報道する。社会的にしかるべき立場にある人間がまず行かない店がしかるべき人間が多く集うであろう場所に出店することに、何らの違和感も覚えない。もっとも、近年の赤坂は一昔前とは趣を異にしているところもあるのも事実だが、それにしてもである。

国家安全保障を託する国であるのであれば、アメリカをもっと知った方がよいのかもしれない。その点、日本のアメリカ研究の盛んでないことも問題であるし、アメリカ研究者は一体何をしているのだと言いたくなる。ただ、研究者に類は、一般大衆のアメリカ観の啓もう活動など興味がないのかもしれない。だとすると、これもマスコミの役目なのだろうか。いや、マスコミにこそそれは期待できないと思うのだが。

昨今、若者のアメリカ留学は下火の一途だとか。某準公的機関が出す奨学金の応募者は今年度、驚くべきことにゼロだったとか。ゼロ!である。

若者よ、今こそ、アメリカを知ろうではないか。そのためには、アメリカへ渡ろうではないか。なに、そうすると大学の卒業が遅れて就職が心配だ? アメリカの大学を出ても就職に不利にこそなれ有利にならない? 経済的余裕がない? それを言われると辛い、確かに。

若者に冷たい国、彼らを大事にしない国日本。就職一つとってもそうだが、国も企業も「人材育成」の重要性を求めるなら、もっとそこんところ真剣に考えないと。明日は我が身ではなく、明日は我が子、我が孫の身だよ、本当に、冗談じゃなくって。

なに、今は親が子を平気で餓死させる時代だ?

・・・・、返す言葉がございません。年寄りが自分の老後のためには、若い世代を食い物にすることに躊躇せず、親は子を殺し見捨てることにこれまた躊躇せず。ならば、子や孫に殺されても自業自得の因果応報というものか。

この国は滅びるね、ほんと、このままだったら。
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映画「十三人の刺客」: 稲垣吾郎の松平侯

2010年10月22日 | Weblog
またジャニタレか・・、しかも「大根」の吾郎ちゃんと期待値低かったせいだろうか、意外というかビックリな怪演、好演には
おみそれいたしやした。

ただ、演技的にではなく、演出的に、殿さまに喋らせ過ぎでしょ。もっと、喋らせず無言のままに残虐行為を繰り変えず、そしてたまーに無表情にポツリと実際に吾郎ちゃんがいったセリフをより手短に言わせる。しかも公方様の異母弟の風情を失わないままに。

旧作に菅貫太郎がよかったという人がいるが、あの人はせいぜい旗本どまりの品格しか出せない人だった。権門の風格はそもそものニンで無理。つまり正真正銘の松平姓を名乗る格式、風情が出ていなかった。

その点は稲垣しかり。

それを演技で出せというのは、大名華族の類のいない今の世の中ではモデルもなく無理な注文かもしれない。

吾郎ちゃんよりベターな選択がいたかというとそれもなかなか思い当たらない。

あえて染高麗こと市川染五郎で、敵味方の親子共演もおもしろかったのかも。演技力も染の方が吾郎ちゃんよりも上は間違いなし。染はちょっとヒゲの濃さが邪魔だけど、あの端正な顔で、口数少なく淡々粛々と残忍な行為に及ぶ。きっと、吾郎ちゃん以上の凄みとグロさがあったと思うのだが。

いや、吾郎ちゃんは好演、見直した。

でも、権門大名にあんなにペラペラしゃべらせてはいけない。家臣は言わずもがなに主命に唯唯諾諾とする。そういう演出が欲しかったですね・・・。
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「柳腰論争」:国賊仙石vs.また男を下げた山本一太

2010年10月17日 | Weblog
仙石なんてのは、政治的に誅されるべき者であることは今更論を待たないと思う。

あの男を見ていると、学生運動崩れがいかに信用のおけない連中かということを再認識させられる。全員が全員とは言わないまでも、やはり、所謂団塊の連中というのがどうも主義的に怪しく、また人格的にも胡散臭いという認識をもっておいた方が安全だということなのだろう。

若い時に脳内に入り込んだ主義・思想はやはり完全に消すことはできないのだ。その点でいえば、いまや保守派言論人として誰もが疑わないであろう西部某などというのも、疑ってかかるべきなのかもしれない。政界でいえば、元官房長官の塩崎なんていうのは、元中核派だから、これもやはり疑うべき人物、もっと言えば決して総理なんかにしてはいけない男の一人に違いない。

更に敷衍するならば、やはり、「転向」した人間というのは信用してはいけないということだ。仙石だって以前は反体制の人間だったわけで、それが今ではどっぷり体制側に身を置く人間である。ところがやっていることは反逆なのである。老若男女は関係ない。今は保守派だからって、昔をよく調べないとすっかり騙されることになりかねない。教科書論争のかつてのヒーローだった家永某も、戦中は大政翼賛的な言説を繰り返してきたわけだが、戦後その点を指摘されても、しらばっくれて言い逃れようとしたことがある。現在ただ今だけではなく、過去もよくよく見ないと人という生き物を知ることは難しいということなのだ。

そういえば前総理もかつては民青と関係があったなんて噂を読み聞きしたことがあるが、そうだとしたら、あの男の一連の行動もうなずけなくはない。

三つ子の魂ではないが、若気の至りというのも本人の気付かぬままに後遺症は消えないものだし、なかには仙石のように「化けの皮」をかぶって獅子身中の虫になるようなずるがしこいのもいる。

イデオロギー的立ち位置を変えた人間は安易に信用するな。利用価値があれば利用すれば良いが、決して利用されるようなことにならないよう気をつけねばなるまい。所詮は「毒」なのだから、使い方しだいでは命取りにもなりかねない。


さて、国賊仙石に対して中国語での意味を引き合いに、「柳腰」の撤回を求めた山本一太先生。この人ほどメディアに出ても人気の出ない政治家というのも珍しいが、その一つの理由が「容貌」にあると思う。誰から見ても、カリスマ性も、華もないあの見た目。美醜は人によって感ずるところが違うだろうが、山本氏に関していえば、どうしても世論の信用、支持を得られるようには見えないし、地元はさておき、実際に日本全体では得られていない。つまり、それまでの「役者」でしかないということだ。

そこへもってきてあのくだらない「柳腰」論争。あれを見て「山本一太、やるな!」と思った人はまずいないだろう。むしろ、「くだらない」、「子供じみている」と感じた人の方が多かったのでは。何も、仙石の肩を持つつもりなんか少しもないのだが、
私にしてみれば「税金泥棒!」ものの低能な国会質疑であった。

政府の対応が「柳腰」か否かはさておき、同語をめぐって日中両国語間に相違があるからといって、撤回しろとは、つまり同語は中国語での語意をもって用いるべきと言っているに他ならないではないか。日中間に語意の相違があるのかかわらず不注意に用いたことが問題だというのであれば、そんな言葉は他にもいくらでもあるではないか。日中間に限らず日韓間にだってある。それをいちいちつつくのは言葉狩りとも取れるし、しいては日本語の主体性を否定する行為ともとられかねない。仙石らの対中姿勢が弱腰ならば、山本氏の言い分は日本語の中国語への従属を肯定するものに他なるまい。そうなれば、菅政権、山本一太、双方50歩100歩で、いずれも日本国の政治家としては不適と言わざるを得ない。

それにしても、山本氏は何故あのような幼稚な論争を仕掛けたものだか。しかも、TVカメラの前で。国民の注目を集め少しでも人気を上げることができるとでも思ったのか。もしそうだとしたら、山本氏は政治家として「アホ」としか言いようがない。

小泉時代、あれだけメディアで小泉擁護の論陣を貼りながらついぞ小泉総理に重用されることのなかった山本氏。小泉氏の人を見る目があったということではないのか。箸にも棒にもかからない小物の贔屓ぶりをむしろ迷惑がっていたのではないだろうか。

もっとも、同じく小物の私ですら山本氏が「大したことのない男」であることはわかるのであるから、小泉氏の山本氏に対する薄遇をもってして、小泉氏の観察眼を買い被るべきではないかもしれないのだが・・。

それにしても、あれきしの小物が跋扈する政界って一体何なのだろうか?





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八代亜紀、デビュー40周年: なぜ記念アルバムに入っていないラッキーマンの主題歌?

2010年10月09日 | Weblog
あの歌、本来の八代亜紀を知らない子供らに大受けだったが、子どもの頃から彼女の歌なら嫌というほど聞いてきた私にとっても
あの歌は「心の癒し」だった。

「ラッキー クッキー 八代亜紀」に大爆笑した後、

特に、「あなたはいーま 幸せですか?」のときの彼女の声に歌詞の続きならずとも、「わたしいつも幸せです」と思わされてしまうというか、あの歌に喜ぶ子供らを見てそう感じたものである。

あれが美空ひばりの声で「幸せですか?」と問いかけられても、「・・・」だったのだろうが、なぜだか八代の独特の声には「幸せ」を感じてうように心にぬくもりを感じたのである。

ところが、彼女の40周年アルバムに「ラッキーマンのうた」は加えられていない。

当たり前じゃないか! と言われれば、その通り当たり前なのだ。40周年の記念にあのおちゃらけソングがあるはずがないのだ。

でも、個人的には、やはりあの一曲は八代の代表曲の一つなのだ。「舟唄」の歌う情景に実感を感じなければ、「雨の慕情」は女歌で男の心情には響いてこない。それに対して、「あなたはいーま」は違うのだ。

記念アルバムが無理なら、TVでサザンの「いとしのエリー」歌うことができるのであれば、いつか「ラッキーマン」もTVで歌ってもらえませんか? できれば紅白で?

無理、無理?

なら、「年忘れにっぽんの歌」で?

それも無理?

じゃあ、「演歌の花道」で?

え、もうやってない? それにそもそも演歌じゃない?

っていうけど、最近あっちの世界系のオーラ出しまくりの氷川君だって、いまだに演歌歌手扱いでしょ? 松村某とのことをフライデーされなくたって、最近の衣装やあのカラダの動きみてると、どう見たってノーマルな男じゃないでしょ? あの人、もう開き直ってるな、きっと。本人的にはカミングアウトしたいんじゃないの? でも、事務所や信濃町がウンと言わないんじゃ?

性癖は関係ない? 美川も演歌だって?

そーかー、じゃあ、「のど自慢」で?

NHKが首を縦に振らない?

そんなこと言って、八代さん本当は「ラッキーマン」の件、あまり触れられたくないとか? 紅白でトリを務めたこともあるレコード大賞歌手としては「恥部」? でも、北島御大だって「おじゃる丸」歌ってますよ、しかも紅白の余興でも? 細川たかしだって、以前「おそ松クン」の主題歌を?

八代さん、お願い、一度TVで歌って! 
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東京ですらまだこのレベル・・・?: 「観光立国」日本の嘆息すべき現実

2010年10月09日 | Weblog
一昨日まで半年ぶりに上京していた。都合1週間。過去に都合8年半過ごした東京は、やはり今生活する地方都市とはあらゆる意味において違う。住めば都で地方の暮らしも悪くはないが、街を少し歩けば、「刺激」が量的にも質的にも違い過ぎる。

ただそんな東京も、まだまだ課題は多いと思わざるを得なかった。

我が国が今後「観光立国」を目指すことについて、大かたの日本人に異論はないと思う。各論で言えば、急増する大陸人観光客に対する期待と不安などがあり、諸論あるところだろうが、国内の豊富な観光資源をメシの種にするという点では総論的に国民的相違は既に積極、消極論を含め形成されているとみて差し支えあるまい。

ところが、わが国の首都にして最も国際化の進んでいるであろうはずの東京にして、観光都市としてはいまだ「田舎」、「未開」と言わざるを得ない現実に、いささか「観光立国」がいまだ掛け声だけで内実を伴っていないものではないかと思わざるを得ない場面に繰り返し遭遇した。

その一つがホテルである。

1.我が国のホテルは総じて部屋が狭い。これは彼の大陸人観光客の口からもしばしば聞かれる言葉だそうだ。清掃などと言う点において、総じて我が国のホテル、旅館は優れている。しかし、狭い。比較的新しくできたホテルでもそうで、採算面ということも考慮しての結果なのだろいが、彼の国の富裕層をさらに取り込もうというのであれば、今のままではダメである。

2.朝食サービスの質がいまだ十分とは言えない。出張と言うことで、所謂オークラ等のレベルに泊ったわけではないが、都心の二つのそこそこ名の知れた外国人なかでも欧米系の客が多いホテルで、あの朝食のレベルはいかがなものかと思わざるを得なかった。
 1)まずは飲み物だが、カフェインフリーのコーヒーがなかった。それにコーヒーが濃すぎる。これは日本のホテル全般に言えることで、欧州人や日本人には良いかもしれぬが、アメリカ人やカナダ人には濃過ぎて飲めたものではない。私は何もアメリカンコーヒーが良いと言っているのではない。個人的には「あんな不味いもの」の類であるが、北米人を客として迎える限り、彼らの好みへの配慮があっても良いはずだ。
 2)シリアルにファイバー系のものが含まれていない。
 3)パンの種類が少ない。これは、ホテルの朝食に限ったことではなく、サンドイッチ類を食べていて常に感じることなのだ
が、欧米ではもっとパンの種類が豊富である。
 4ドーナツ系が少なすぎる。しかも、アイシングの付いたものがないときうのは、いかがなものか。
 5)ベジタリアンやダイエットに関心のある客への対応が、ほぼ皆無と言ってよいほどできていない。
 6)フルーツ、サラダ系の種類が少なすぎる。
 7)マーガリンはまったくの「禁じ手」だ! 今回宿泊した二軒のうちひとつは、バターでなくマーガリン・・。そういう類の
「まがいもの」をおくべきクラスのホテルではないはずなのだが? 高級すし店で、カニかまでもってカニずしをうたうに等しい
貧乏じみるにも程がある行為と言わざるを得ない。私が支配人なら、担当者は即刻交替。そんな意識の低い部下は要りません!
 8)ソーセージがまずい、相変わらず。日本のホテルはそこかしこ止まったが、いまだに上手いリンクソーセージに出ったことがない。肉汁に乏しいまるでダイエット食のようにぱさついたものばかりだ。満足なリンクも置けないようなホテルは、少なくとも北米系の客は取らない方がいい。もうこれは定番中の定番なのだが? ついでにベーコンの調理の仕方もさることながら、日本で普通に売られているベーコンは、あれはベーコンなんて呼ぶべきものではないことを知るべきでは? 例外は沖縄くらいかな?

3.部屋に置かれている飲み物の種類も十分ではない。ひはりカフェインフリーは置かねば・・。飲み物と言えば、ポットの使用法についての英訳が不十分だったなあ、今度のホテル。あれじゃあ、客が間違った使い方してやけどでもしたら訴訟もんだ。

4.そして、料金体系。もう、おひとり様いくらは辞めたら? 観光庁もその「非常識さ」はわかっているだろうに? 業者側の
事情? 客の事情よりも業者の事情が優先では、観光立国も「おもてなしの心」もくそもない。


そもそも日本人は自分たちの「おもてなしの心」に根拠のない自信を抱いていないだろうか? そんなことではそのうち足元をすくわれる。我が国のサービス業の「おもてなしの心」なんて、総じて知れているという前提に立って考えるべきではないだろうか。特に東北地方のサービスの質はひどい。のろい、気がきかないは、東北各地で結構簡単に見られる現象。でも、本人たち気付いていないし、よそ者の言うことを聞くの嫌いだし・・・。

つぎに、東京の地下鉄の不便なこと。何が不便。大きな荷物もって行き来してみればすぐわかる。バリアフリーが不十分。エレベータが少なく、あっても狭い。観光客や障害者に配慮したものにはなっていない。比較的新しい大江戸線にしても、一体このご時世にどこのバカが計画したんだというくらい気がきいていない。六本木駅なんてひどかった。あの長いホームにエレベーターは一つ。しかも、狭くてすぐ満杯になる。スーツケース持ちや車いすには実に不快なエレベーターなのである。加えて、あの車両の狭さ・・。ロンドンじゃあるまいに。まあ、自分が世界の中心みたいな言動しかしない人がトップやっているから仕方がないのか? 「大江戸」というネーミングに反して、あれは「大東京の恥」だな。

同じく、東京モノレール浜松町駅。羽田のハブ化を進めるのなら、浜松町はいわば玄関口のようなもの。ところが、そのお粗末なこと。ホームから改札までのバリアフリー化もなっていないが、改札から外に出るまでの経路も狭くて、大変で・・・。そもそも、あのモノレールの車両自体、なんであんな作りなんだろう。体のデカイ欧米人にはあの車内の段差は、苦痛の原因以外の何物でもないのでは? 玄関口の整備不足は、これまたロンドンを笑えないね。

まあ、他にもいくつもあるが、「観光立国」の理想はまだまだ遠いなあと実感。もっとも、あのフランスパリにして、いまだにションベン臭い地下鉄駅は健在であるし、路上の不潔さはもなかなか改善されないわけだが、あそこはいろいろな欠点を抱えつつもそれを上回る観光資源的な魅力がある。果たして東京にそれがあるかと問われれば、答えはノーであることは言うまでもあるまい。

要は外を見ないままに、観光立国って騒いでいる人がほとんどなんじゃあ?という気がしてならないのだが・・?
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対極の平和を希求する思い: 「勧進帳」の問答と憲法9条

2010年10月06日 | Weblog
以下、「勧進帳」における弁慶と富樫の問答の一部である。私はいつもこのくだりに7代目幸四郎と15代目羽左衛門の「名品」を」思い浮かべる。先代幸四郎と弟先代松禄の問答を良かったという人もいるが、松禄は富樫役者というよりは弁慶役者。弁慶役者二人が対峙する問答は、重過ぎると私は感じた。やはり、15代目のあの朗々にしてよくようの効いたセリフに勝る富樫を私は知らない。

もっとも、台詞、声色が良ければそれで足るというものではない。今月新橋にかかっている松嶋屋の「盛綱」、台詞の妙は当代一には違いないが、芝居の巧さ、あの曰く言い難い間の演技は、声色の優れたとは言い難い先代勘三郎に及ぶべくもない。松嶋屋といえば、以前、孝夫時代に「馬盥の光秀」をやってし、当代吉右衛門の「松浦の太鼓」もそうだったが、大中村の「巧さ」を返って再認識させる結果に終わったような気がする。

それはさておき、以下に「日本国よ、斯くあるべし」が示されてはいないだろうか。


富樫 いかに候、勧進帳聴聞の上は、疑いはあるべからず、さりながら、事のついでに問い申さん。世に仏徒の姿さまざまあり。中にも山伏はいかめしき姿にて、仏門修行は訝しし、これにも謂れあるや如何に。

弁慶 おおその来由いと易し。それ修験の法といッぱ、所謂胎蔵金剛の両部を旨とし、嶮山悪所を踏み開き、世に害をなす悪獣毒蛇を退治して、現世愛民の慈愍(じいん)を垂れ、或いは難行苦行の功を積み、悪霊亡魂を成仏得脱させ、日月清明、天下泰平の祈祷修(じゅ)す。かるが故に、内には忍辱慈悲(にんにくじひ)の徳を納め、表は降魔の相を顕し、悪鬼外道を威服せり。これ神仏の両部にして、百八の数珠に仏道の利益を顕す。

富樫 シテ又、袈裟衣(けさごろも)を身にまとい、仏徒の姿にありながら、額に戴く兜巾(ときん)は如何に。

弁慶 即ち、兜巾篠懸(ときんすずかけ)は、武士の甲冑に等しく、腰には弥陀の利剣を帯し、手には釈迦の金剛杖にて大地を突いて踏み開き、高山絶所を縦横せり。

富樫 寺僧は錫杖を携うるに、山伏修験の金剛杖に、五体を固むる謂れはなんと。

弁慶 事も愚かや、金剛杖は天竺檀特山(てんじくだんどくせん)の神人阿羅邏仙人(あららせんにん)の持ち給いし霊杖にして、胎蔵金剛の功徳を籠めり。釈尊いまだ瞿曇沙弥(ぐどんしゃみ)と申せし時、阿羅邏仙人に給仕して苦行したまい、やや功積もる。仙人その信力強勢を感じ、瞿曇沙弥を改めて、照普比丘(しょうふびく)と名付けたり。

富樫 して又、修験に伝わりしは

弁慶 阿羅邏仙人より照普比丘に授かる金剛杖は、かかる霊杖なれば、我が祖役の行者、これを持って山野を経歴し、それより世々にこれを伝う。

富樫 仏門にありながら、帯せし太刀はただ物を嚇さん料なるや。誠に害せん料なるや。

弁慶 これぞ案山子の弓に等しく嚇しに佩くの料なれど仏法王法の害をなす、悪獣毒蛇は言うに及ばず、たとえ人間なればとて、世を妨げ、仏法王法に敵する悪徒は一殺多生の理によって、忽ち切って捨つるなり。


弁慶のごとき破戒の者の言を持って国家のあるべき姿を語るを愚とするなかれ。むしろ、聖俗を知る武蔵坊の言なればこそ、なのではあるまいか。
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爆笑問題の論理矛盾: 昔話と憲法9条、「爆笑問題のニッポンの教養」を見て

2010年10月05日 | Weblog
NHK爆笑問題のニッポンの教養での小澤俊夫氏との対談。

ディズニーによるグリム改ざんを批判し、小沢氏のいう「人間の根源的問題あるいは本質から子供の目を覆ってしまっている」みたいなことで、意気投合。そこをあえて子供に見せて、教えることで生き方を学ばせるべきというのだ。


まったくだ。その通りだ。日本だってそうで、最近出版されているのカチカチ山のすべてとは言わないが多くは、婆さんの殺され方から「残虐性」が消されている。本当は、婆さんは狸に・・・。自分もつい数年前までそれを知らなかったのだが。


しかし、待てよ。憲法9条をあれだけ持ち上げていたのは、他ならぬ爆笑問題の太田だったのではないか?

憲法9条といえば、戦争放棄、戦力の不保持。でも、これって、それこそ人間の本質に「縛り」を賭けてしまって、封印してしまっていないか? 昔話からの残虐性の排除を批判するなら、憲法9条も批判すべきだろう?

利害対立を暴力あるいは闘争をもって解決をはかるって、実に人間らしくないか。というか、人類史が語るところではそれが人間の否定できない一面で、今でもそれはかわっていないはず。自衛だのどうのと言ったところで、こじつけが露わになってしまったイラク戦争みたいなのもあるし。

小澤・爆笑問題流にいえば、あえて国の交戦権、戦力の保持を認めたうえで、すなわち人間の本質的なところを認めたうえで、いかに戦争を回避して平和裡に対外対立を解決するか、平和を維持するかってことに腐心するってことこそ、あるべき姿なのではないのか。これこそ理想主義的平和主義のあるべき姿だ、ってことになるのでは?

やむを得なかったら、使うことだってできるわけで、使える可能性があるとなれば、それなりの防衛力、戦力も持てたんじゃないの?

だって、憲法9条って、三匹の子ブタのうちの二匹が食われちゃって最後はオオカミが食われちゃったとか、婆さん殺されて料理されて食われちゃった、しかも爺さんが婆さんを・・・なんて残虐な部分を封印して寓意を伝えようとする「改ざん」された昔ん話と変わんないんじゃないか?

憲法の全部だってそうだ。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」するだって? こんなのウソだろう、というか、虚構を信じて生きていけるほどこの世の中甘くはないことくらい、尖閣問題をめぐる中国のめちゃくちゃさを見なくたってわかるってもんだ。そんな「信頼」なんて、世の中の現実、しいては人間の本質に目を瞑って、きれいごとの思いこみで生きて行きましょうって
言っているのと同じでしょう?

常識的に考えて、バカげた憲法ってことなんじゃないの? 少なくとも、この部分にかんしちゃあ「あんな憲法」ってことでは?

まあ、芸人だから、その時その時で言うこと違ったって、「芸人だから」ってことで許される、ってことにしておくべきなんだろうな。
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ビールのボトルの大きさ&世界史: ステュウット・ヴァーナム・アットキン氏の発言でふと・・

2010年10月05日 | Weblog
NHK教育のトラッド・ジャパンの最後の報を見ていたところ、ステュウット・ヴァーナム・アットキンいわく、英国に日本のような大びんのビールがないとか。

でも、あれって、日本だけってわけではないんだな、実は。

米国でも今は見なくなったように思うが、かつて、少なくとも、今から15年以上くらい前には大びんがあった。その一つが、サミュエル・アダムス(Samuel Adams)。米国人は、サム(サミュ)・アダムスと呼ぶ。

アメリカ史をかじったことがある人なら知っていると思うが、反英闘争初期の代表的人物だ。それがビールの名前に。
ステュウット・ヴァーナム・アットキン
独特の味わいで、日本人にはなじまないかもしれない。少なくとも、日本食には合わない。でも、向うのこってりな肉料理には会う。分厚いステーキやバーベキューリブを食べながらのサミュ・アダムスは最高である。そういえば、もうシーズンズ・ベストみたいな季節ものが出ているはずだ。きっと、中華にも合うんじゃないかな?

さて、このビール、昔は大びんがあった。今はないと思う。日本でも明治屋や輸入食材点で変えるが、小瓶のみ。米国でもいつしか小瓶しか見なくなった。


インドビールにも大びんあった、銘柄忘れたが。今はしらないけど。

韓国も、大びんというか中瓶ならある、あった。OBやカス。 個人的にはカスがいい。OBは沖縄のオリオンビールみたいにまずかった記憶がある。

台湾も、大びんないしは中びんタイプがあるし、中国もだ。確か北朝鮮も。


ちょっと待て。日本にあって、朝鮮、台湾もっていうなら、大日本帝国つながり?とも思ってしまうところだが、中国各地にも、インドにもってことになると、必ずしも大日本帝国による「グローバル化」ということにはなるまい?

1930年代に日本がのさばる前に大陸の最大勢力は英国のはずだ。そのあたりの列強間の大陸でのプレゼンスの大小は、かつての公使館街東交民巷にあった各国公使館並びにほぼそれに隣接していた兵営の大小に反映されている。イタリアがどういうわけか日本公使館並びに兵営に隣接してかなり広い土地を、しかも日本よりも広い土地を有していたのだが、やはり地図を見る限り最大は英国、続いて、ロシア、ブランス、そして日本。「門戸開放」で割りう込もうとした米国は実に狭いし、スペインなんか日本の敷地とやはり日本の正金銀行に挟まれて狭隘な敷地にあった。

英国といえば、それに、インド帝国である。英国王位は連合王国とともにインド皇帝の「冠」っを」いただいていた。


ということは、昔は、英国にも大びんがあったのではないか?と推察するのだが・・・?


米国も元はといえば英帝国の一部。

アトキン氏の行っていたことだけを聞いた視聴者は、大びん=日本独特なんて勘違いしてしまうかもしれないし、かりに韓国や中国の類似例を知っていても、東アジア限定って勘違いしてしまうのでは?


ビール瓶から読み解く、比較文化論、世界史、おもしろそうではある。


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