くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

野田聖子とミッツ・マングローブ

2012年07月31日 | Weblog
遠見で見ると似ている二人。
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姓名判断からみる木曽川中学生死亡事故

2012年07月31日 | Weblog
助かった子供の姓名はわかりません。

が、亡くなった3名。姓名判断学上、非業の死があっても不思議ではない名前ですね、三人とも。

非科学・迷信と切り捨てるか、未科学として盲信せずとも一定尊重するか・・・、それは個人の判断です、もちろん。

偶然といわれてshじまえば、それに反駁する説得力ある手立てはありません。でも、偶然も重なれば、気を付けてみようかと思うべきでは? かたくなに排除する必要もないと思います。

それはさておき、


合掌


追記 川は怖いです、本当に。身を以て体験しています。一寸先は・・といいますが、文字通り一寸先に進んだだけで水流の加減ががらりと変わるのが川です。川幅およそ300メートル、若気の至りでは済まない愚行でした。並の泳力では危険すぎます。しかも服を着たままの子もいたとか。水を吸った衣服の重さに気付いた時には、アウトです。

マスコミのみなさん、学校をやり玉にあげないでくださいね。早速教頭に対応させていましたけど、学校は無関係ですら。指導の有無?それは家庭に問うべきでしょう、まずは。


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北川智子批判 その2: 自説Lady Samuraiの自己批判以外に、今後の展望はない

2012年07月30日 | Weblog
まあ、ささいなあことですが、元寇の講義の際に、モンゴルの音楽?

元朝は蒙古人の建てた王朝なので、悪いとはいいませんが、元が日本に対して取った姿勢は、それがすべからくモンゴル式ないしは独自の統治方式、対外姿勢をとろうとしたわけではないという証左なんですけど。たとえば、大都故宮の構造なんかが示しているように、中華王朝としての側面をフビライは否定していません。そして、彼の対日姿勢もある意味、実に中華王朝的だったあわけで・・・。

そこをちゃんと説明せずに、モンゴル音楽だけ聞かせてしまうと、元寇ってのが、蒙古対日本っていうだけの図式になってしまいますね。それは対外関係としての元寇の位置付けとしてはまずい。教え方としても、理解の仕方としても。

他の記述でも、彼女の日本史理解の「危うさ」を感じてしまう点がいくつかありました。

やはり、修士からPh.D.取得まで、いくらなんでも早すぎます。それまでに日本史研究の素養を培ってきたとしても早すぎますので、そうではない彼女の場合は・・。
いくら頑張っても、一日24時間。短期間でできることとできないことがあります。まあ、そもそも日本史研究への目覚め方がちょっと拙いといううか、それ自体首をひねってしまう部分があるという点、そしてその点をこれまで修正せずにきてしまったという点で、最初の方でボタンのかけ違いがああったと思います。しかも、そのままに学位とってしまっては、なかなか軌道修正できないですねえ・・。

「若い」なあとも感じます。ハーバード大の某教授を実名で事実上批判していますが、あえて名前をさらす必要はなかったですね。それから、成功経験の裏には試行錯誤があったはずですが、それがなかったのか、それとも、あってもあえてオミットひてしまったあのか・・。その結果、彼女の成功談はとても薄っぺらに感じるというか、今後に向けての危うさを感じてしまいます。

挫折がなかったあのであれば、できるだけ早く挫折を味わっておいた方が良いと思います。風雪人を磨く、です。

彼女が今後日本史研究者としてやっていくためにも、挫折が必要ですし、そのためにはLady Samuraiを自己批判的に再検証し、あえて公然と自己批判する必要があると思います。厳しい言い方ですが、自ら挫折の機会をつくるべきです。Lady Samuraiの看板を掲げ続けては、早晩、学界からは相手にされなくなります。アメリカの日本史学会の殻に閉じこもって生きていく? それでも、どうなんでしょう。厳しいと思いますよ、今後は。

それに学界に国境を設けることは、彼女の本意ではないと思うのですが。そうであればなおさらのこと、Lady Samuraiに対してあえて批判的自己再検証をおこなうべきです。



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ロンドン五輪柔道: 某国選手のキタナサ

2012年07月30日 | Weblog
私も少しばかり柔剣道はかじっているので、ずぶの素人よりはわかると自負しているのだが、それにしても、某国の選手、

あいかわらず、

汚い柔道するものですね。

何も某国の選手だけがとは言いません。日本人でもきわどいことする(した)有名選手、男女問わずいました。誰とは、微妙なことになるので、あえて言いませんが。

ただ、某国はある意味「札付き」。

昔からやるんです。

そういう民族なんだよなあ・・・としか言いようがないです。



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北川智子『ハーバード白熱日本史教室』、こりゃヒドイ内容だ!

2012年07月29日 | Weblog
いやあー、正直言って、北川先生の北米の大学の日本史っての、無茶苦茶ですわ。何がって、北米ではという一般化が、ありていに言って無理がある。ここまで極端な言い方されると「ウソ」です。

こんないい加減な事書いて、北米のまじめな日本史研究者への冒涜のみならず、何も知らない日本の読者をたぶらかして印税稼ごうっていう、ヒドイ商売の仕方だと思います。そもそも、”Lady Samurai"なんていう造語自体、学術研究上大問題なんですけど。ハリウッド映画かヒストリーチャンネルレベルならともかくも・・。

いや実に・・。
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またトヨタが不細工な・・・: 新型ポルテ

2012年07月27日 | Weblog
どこをどうしたらこんな不細工な車を作れるんだろうか・・・。

デザイン陣の力不足いや才能の無さなのか、それとも社内機構に問題があるのあ。

どうも、後者が主因だと思うんだが・・。

それにしても、消費者をバカにした車だね、これは。
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NHK「はつ恋」、最終回を見せてもらえず・・・

2012年07月18日 | Weblog
結局最終回どうなったんでしょうか?

我が家は実は見てないんです。

奥方が前回の成り行きをもって、御不快を召されて「もう見ない!」ということになって、チャンネル権(って古語です?)を持たない私はただ従うしかなく。

彼女的には、去っていく母親を負う子供の姿で、主人公を許せなくなってしまったみたいで、「もう見ない」ということになったとか。

確かに、ある意味いかに過去のいきさつはあるにしても、そんな簡単に男女の、ってことになっちゃうの?っていう違和感はありましたが、あの子供のシーンは、見ていてつらかったというか、夫婦してウルウルしてしまいました。我が子にあんな思いをさせてまで自分の思いを貫く母親っているんですかねえ・・・、ドラマ以外で。

奥方的には、ありえない男女関係?いや、実は・・。女心は「ディープオーシャン」、何が棲んでいるか、浅はかな男には知る由もありません。

でも考えようによっては、我が奥方のように見る人をあそこまで感情移入させるドラマって、すごくないですか? 今どき、あれだけ濃密登場人物の絡みを描けるって、NHKうらいでは? 民放のカスってばっかのドラマ制作者にはできないかも。さもないと「ミタ」みたいに意表をつくストーリーでないと視聴率とれないですからねえ。要は、日ハムの斉藤みたいなもの。直球勝負できる力量がないんですよ。

で、どうなったんだろうか。あの調子でハッピーエンドはないはず。だって、旦那だって、これでもかっていうくらいヒドイ裏切り方されて、元のさやっていうのはあり得ないでしょうから。となると、主人公、最後は死ぬしかないんだろうなあ・・。じゃないと丸く収まらず、悲しく、むなしいだけでのドラマになってしまうでしょう?
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国号を改正しよう!: 「日本皇国」

2012年07月17日 | Weblog
日本国というのは、やはりよくないんだねえ・・・。

「国」を「國」の旧字で数えると、やはり凶数。大日本帝国(「國」)の方が断然よい。

改称すべきだと思います。そもそも、「日本国」というのは、「正名論」的観点からもどうなの?ということになると思います。

とはいっても、今更大日本帝国は無理でしょう。

ならば、大日本国(國)。

あるいは、日本皇国(國)。これが一番国体にふさわしく、つまり正名をなしていると思うんですけど。

「大」字はつけたくないですね。そもそもこれはシナ的発想です。日清戦争終わってからどこぞの散粟国家が、その国の史上初めて「大」字を国号に冠したんdすけど、いまだにやってますね。「大」字を。天皇を「皇」と呼びたくないのと同じ心理が、背景にあると思います。それもあえて、いまどき本家本元のシナさえ冠していない「大」字を戴きたくはない。

ならば、日本皇国(國)が一番かと。

名前は大事ですよ、ホント。
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大津いじめ自殺事件と学校評価制度の”危機”?

2012年07月17日 | Weblog
一部メディアが、いじめ隠ぺいと学校評価制度の関連性を指摘している、繰り返し。

そこで尾木ママが繰り返し登場する。

私は、尾木氏に足しては、批判的な意味あいで言いたいことはある。あのオネーキャラは、姑息なやり方だと思うし、彼の思想的な背景についても疑念を抱くべき点があると思っている。

が、尾木氏は今回学校評価制度そのものを批判、否定しようとしているわけではないと、解釈する。

改善すべき点があると指摘しているのであって、全面否定ではない。

とすれば、私も尾木氏の立場を支持したい。

今回の一件をもって、マスコミ報道の仕方をもって、学校評価制度そのものが存廃の危機にさらされることを危惧する。

学校評価は絶対的に必要である。

学校は無謬でも完璧でもないのだから、評価されてしかるべき。他人の子供の「命」を預かる場であれば、学校、教員も評価を恐れてはならない。そうであるならば、教育現場を去るべきである。

だが、評価の仕方にはやはり問題があるのだろうし、評価する相手は果たして適切なのかと疑問点も残る。

だから廃止ではなく、改善すべきなのだ。

ただ、世論のなかに廃止の声が高まりはしないか、杞憂であればよいが。

また、そうした世論の「芽」が出た場合、それを利用して自らを評価制度から解放しようとする連中も出てくるのではないだろうか。それも、学校関係者、教員のなかに。

学校評価制度は維持されねばならない。評価のないところに進歩も改善もあり得ない。評価を恐れるものは、「社会」から我が身を隔離し、引きこもりか、遁世者にでもなればいいのだ。あるいはそれこそ「自殺」という逃避の仕方もあるかもしれない。

人が人の中で生きていく以上、評価、批評からは免れることはない。この現実を受け入れられない者に生きる余地はこの世にはそれほどない、ということではないのか。
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尖閣問題: 孫崎享という売国奴の無知

2012年07月17日 | Weblog
孫崎氏の発言は、実に馬鹿げている。

元外交官の発言とも思えない。もっとも、他国の外交官であるならばともかくも。

14世紀に中国軍事力が云々発言。軍事力が及んでいたとは、あいまいな物言いである(外交官らしく?)。かりにそうだとして、軍事力が及んでいたすなわち統治の所在を意味しない。もしそうだというのであれば、米軍の力の及ぶところ・・という言い分が可能になる。

それ以上に問題なのは、氏の「無知」である。14世紀といえばおそらく明朝のことに言及しているのだろうが、同王朝が盛世を過ぎて尖閣に軍事力を引き続き及ぼしていたとは考え難い。さもなくば、琉球王国の南海貿易が衰退することもなかったはずである。

更にそれ以上に問題なのは、次の清朝が尖閣を自らの統治権の及ぶ地域とはみなしていなかった事実を氏は、知らぬようだ。もし知っていてあえて「14世紀」にのみ言及したとすれば、これを彼の属する国家への「反逆」的言説といわずしてなんと負うべきか。

ありていに言って、売国奴、ということになる。

清朝を飛び越えて明朝にまでさかのぼる理由はどこにあるのか。まさか、清朝は満族の建てた王朝だから正統ではないとでも言いたいのだろうか。

ならば、現在ただいまの中国の版図の正当性もまた否定されねばなるまい。明朝の版図は清朝の半分にも及ばない。満州はもちろんのこと、内蒙古、チベット、さらには四川省の多く、青海省、新疆ウイグルのほとんども放棄さねればならない。

更には台湾もしかりだ。

こういうある意味「宦官」にも及ばぬ御仁が元外交官にして、元防大教授とは・・。おぞましいというか、情けないことである。



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原発問題: 仙台での意見聴取会

2012年07月16日 | Weblog
いろいろな意味で大失敗でしょう。

まずは、あの東北電幹部社員。そういう場じゃないって最初からわかるもんだあろうけどねえ・・。KYというのか、単にアホなのか。もし東北電の回し者じゃなければ、
会社とっしても余計なことしてくれたって思うのでは? それに、東北電っていう立場上、会社方針に異論を唱えられるはずもないから、最初から「者を代表して」っていうつもりだったんだろう。その意味で計画的。でも、聴衆やメディアがどう反応するかまでは予想できなかった? ってことはないでしょう、幹部社員が?

それから、あのチンピラ言葉の聴衆。抽選だから仕方ないけど、ああいった下品なのが紛れ込むと、うまくいきません。さっさと排除しちゃえば良かったのに。って、そんなことしたら、メディアの袋叩きになるわなあ・・。ああいうのは、ある意味公論の敵だから、聴衆のなかから一人くらいは「黙れ」って言えなかったのかねえ・・。逆に同調していたヤツいたでしょう?

それにしても、やり方が下手だねえ、政府も。
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ヤンキー先生こと義家弘介氏の人相

2012年07月16日 | Weblog
今TV見てますけど、この人、人相悪くなったなあ・・・。

メディアに出だした頃に比べえると、目つきが・・。

政治の世界に入るとこうなちゃうんだろうか。

政治家も人相悪い人多いからねえ、輿石、仙石。

それから髪の毛増えてません。昔スケスケだったんだけど・・。
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産経新聞の人生相談: 小池龍之介という僧侶の”異常”な感覚

2012年07月14日 | Weblog
型破りな坊さんという認識しかなかった。

が、どうやらこの御坊、型にはまっていないのは僧侶としてだけではないらしい。

産経新聞に毎週一で連載される「人生相談あすへのヒント」での彼の相談者に対するほぼ一方的ともいうべき批判のしようには、少なからず驚きをおぼえるとともに、いや驚きを超えて不快感すらおぼえるとともに、この方が今まで歩んできた人生、生き方だけではなく、ものの考え方自体が社会通念を逸脱しているという意味で、「型破り」なのだと感じた。

まず、相談内容なのだが、相談者は神奈川県在住で結婚10年目の30代女性で、再婚からあ間もなくして不倫・妊娠の末に再再婚した義兄に対する義父母の「ゴキゲン」ぶりや、彼らが我が息子の不倫の末に捨てられた元嫁を悪く言うさまに不快感をおぼえ、気持ちの整理がつかないというもの。

これに対して小池氏は、冒頭から以下のように相談者に対して批判的な文言を浴びせかけるのである。


  「世の中の善悪は、わが輩が決める。他人はわが輩の基準に従うべきである!!」とでもパラフレーズできそうな、支配欲が見え隠れしているようです。

確かに、相談者の行動には、やりすぎ、行き過ぎな面もなくはないと思う。というのは、自身の不快感を「主人を通じて(義父母)に伝えている」というのだ。義父母との関係というよりは、夫とも関係に配慮して、あるいは夫の気持ちに配慮して、そうするべきではないと思うのは私だけであろうか。夫婦といえども、やはり元は他人である。配偶者の親兄弟について、ましてや配偶者に面と向かっての批判は、かりに理屈のうえで正しくとも、よくよく慎重であらねばならない。さもなくば、感情的に配偶者との間に摩擦を生み、しこりを残すことにもなりかねない。良好だった夫婦関係が双方の家族をめぐってぎくしゃくし出すという例は、必ずしも珍しいことではない。そもそもが感情と肉体(と打算?)でつながるに過ぎない人間関係が到底かなわない「血」でつながった人間関係を軽く見てはいけないのである。

女房に我が親をとやかく言われた相談者の夫の反応は知る由もない。その通りの思ったのか、それとも不快ではあってもそれを表に出さず妻の言い分に耳を傾けたのか、あるいは感情的に反発したものか。その点に触れていないということは、小池氏の指摘の通り、相談者には独善の癖があって、夫がどう感じているかという点にまで気がまわらないのか、それとも、夫は同意あるいは聞き流しのいずれかの反応を示したものと推察する。

しかしながら、「世の中の善悪は、吾輩が決める」かのようとまで断じたり、義父母への思いや姿勢を「攻撃性」とまで断じる、小池氏にこそ言い過ぎの感が否めない。

ではなぜ、小池氏の相談者に対する姿勢はそこまで「苛烈」なのか。その答えは次のくだりにあるように思う。

   ご主人の両親が、自分の長男を幾分ひいき目に見て過ちに目をつむってしまうことや、孫さえできればうれしい、なんていうことは、ごくごく普通の、よくある人間
   心理です。(「ごくごく普通」を強調したいらしく、、、、と付されている)

また、両親の対応を「普通のゆがみ」とも言っている。

が、そもそも相談者の義兄のしでかしたことは、簡単に目をつむってしまって良いような過ちなのだろうか。不倫の末に不倫相手を妊娠させたことが、そんなに他愛もない過ちだといえるのだろうか。しかも再婚して間もなくしての不倫だというではないか。司法は不倫を社会通念にもとる行為とみなす。損害賠償の対象にもなる。つまり、うっとに裏切られた義兄の再婚相手は、義兄とその不倫相手すなわち再々婚相手に対して、それぞれ数百万の損害賠償を求めることができるのである。もちろん、そのためには不貞行為の明確な証拠が必要であるが、判例主義を取る我国の司法ではそのような判断がなされるのである。

そして、そうした判断は、文字通り社会通念に照らしていささかも奇異なものではあるまい。麻木某という不倫をしていた女性タレントがテレビから姿を消してしまったように、世間にはいまだ不倫を良しとしない風潮が強い。

不倫によって、それをした当事者二人が気づつけるのは、何も不倫された側だけではない。その家族、親兄弟。不倫をした側の家族すら傷つくこともある。

義兄の両親も、我が子の不行跡が不倫された再婚相手のみならずその家族、親族、そして彼らが結婚した際に祝福してくれたであろう方々にご迷惑やご心配をおかけしたという気持ちがあるならば、孫が生まれたとはいえ不倫の末のいわば「不義の子」である。うれしくとも、それを表に出すことを控えるのが、常識ある人間のとるべき行動ではないのだろうか。

ましてや、我が息子が裏切った元嫁の悪口を公言するなど、言語道断ではないのか。いかに元嫁との間にいざこざ等があったとはいえ、我が子の社会通念にもとる行為をむしろ肯定するかのような行為は、「破廉恥」のそしりを免れまい。

義兄や義父母の行動に相談者が嫌悪を抱くのは、相談者の行動に行き過ぎがrにしても、至極当然、つまり、相談者は常識人ということではないのだろうか。

それに対して、「支配欲」だの「攻撃性」だのと、それこそ攻撃的な言葉をあびせ、不倫した息子をとがめる義父母に対しては、「幾分ひいき目」、「ごくごく普通」と実に寛容なのである。

なんともまあバランスの悪いというかズレた判断、感覚としか、私には思えない。

まあ、もともと「普通」のお坊さんではないようなのだが・・・。

あえて、「まだ33歳」とは言いたくないが、人生相談に乗れるような年齢ではないと思うのだが・・・。確かに、いたずらに歳を重ねればよいというのではない。が、やはり重ねないと見えてこないもの、わからないことというのもある。

小池氏の相談者に見せた「攻撃性」は、彼の若さゆえなのか、人格のんさせるわざか、それとも仏道修行の結果得た結論なのか・・・。

いや、実に、実に、何とも「普通」ではない、と思えてならない。

















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いじめ問題: そもそも、学校に・・・

2012年07月11日 | Weblog
多くを求めすぎなんじゃないのだろうか、日本人はというか日本の社会は?

いじめ問題は、一線を越えたら、公権力に預けてしまえば良いのでは? たとえば、恐喝なんてのは、疑いが生じた時点で、公権力にお預けで良いのでは? 学校が証拠の有無だとかそんなことをあれこれ詮索する必要はなしのでは? 

ちょっと古くなりますが、アメリカの子供向けアニメに「リセス」っていうのがあります。もう10年くらい前に放映していたものです。日本では今でもケーブルなんかでやっていると思います。

まあ、極端な描き方もしていますし、現実ではあり得ない漫画チックなやり取りも多々ありますけど、全体的に日本の学園ものとは違った雰囲気を見て取ることができますし、アメリカの学校現場の様子というものを反映もしています。

フィンスター先生や校長先生、あんな極端ではないですが、似たような先生、アメリカの学校にいなくもないです。いえ、います。フィンスター先生の私生活なんて、アメリカ人教師の「レベル」ってのをよくあらわしています。

彼女の規則、規則っていう態度、実は、アメリカの学校ってのは、校則違反には厳しいです。体罰のない分がそれで補われているように見受けられます。日本人からみたら、そこまでするか、ってこともありますから。アメリカの学校は自由で、というのは一面にしか過ぎません。くだらない校則や杓子定規な罰則適応ってのも当たり前の現象です。

それに、学校を社会と隔絶した場とは捉えていないので、公権力との距離は日本とは比べ物いならないくらい近いんです。学校も公権力に問題を委ねることに日本のような躊躇を見せません。というか、日本の場合、公権力に対して「アンチ」な思想や感情を持っている教員が多いのでは?昔、キム八っていう教師は、「官憲横暴!」なんて喚いていましたよね。子供ながらに「古めかしい言葉だなあ」なんて思っていましたけど、今でも背景としてのイデオロギー的残滓が、日本の教育現場には存在するのではないでしょうか。

家庭に対しても日本のように弱くはないです。もちろん、例外もあって学校の対応について「差別だ!」なんて騒がれると実に無力なんですけど。

あれもこれも学校任せ。そして、いざ問題がおこれば、学校をマスコミ含め総がかりで、場合によっては子供までもが加わって、叩きまくる。

これじゃあ、いじめなんて厄介な問題が発生しても、腰はひけてるは、十分に取り組むだけの余力も精神的にも肉体的にもない、ってことになりますよ、先生たちも。

なかには「事前に」とか「予兆を」なんていうバカもいますが、それいうんだったら、教師の動労環境を改善しろってことになりますよ。たとえば、少人数制だとか。っていうと、同じ教員仲間からも、特にOB連中から、「昔は」なんて批判が出てくる。昔なんか持ち出したところで、内外条件が昔とは違うんだからってことくらい分からんですかねえ・・・。

予防をいうのなら、個々の生徒に目が届きやすい、教師が目や気持ちを行き届かせる余裕をもてる環境を提供しなさいって、まずは! 教師も個人生活や家族があるんだから。「そんな覚悟で教員に」なんて精神論ぶってたら、そのうち教員のなり手がなくなりますよ。それで困るの結局誰ですか?
ホームスクーリングやりますか、仕事やめて? 

まあ、いじめなんて、ぶっちゃけなくなりません。大人の世界にもあるなないですか、日常茶飯事。それをさしおいて、学校だけで「いじめ撲滅」を避けんでも、むなしいだけです。大人に撲滅できないことが、生の感情をぶつけ合う傾向にある子供たちの世界でできるわけがない。

確実に起こるんです、いじめは。洋の東西を問わず。ならば、おきたときに、おこした相手に対して厳正に罰を与える、公権力を介入させてでも。

それだけのことだと思いますけど。
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大女優山田五十鈴 2

2012年07月11日 | Weblog
「大女優」である点については、疑うべくも無く。

ただし、同時に、決して誉められた生き様でもありません。ありていに言えば、「最低」の部類の生き方をした人でもあります。

陛下から文化勲章をいただいた一事をとっても、過去に照らし合わせれば実に節操のない生き方です。陛下にしてみたら「元(えせ?)アカ」でも赤子に変わりはないのでしょうけど。

「所詮芸人だから」ってことで、つまり、「かたぎの人間ではないのだから」でうちゃっておくことかもしれません。死んだ人でもありますし。

もしかしたら、今日的には、むしろ肯定的な意味で「奔放な女性」、「自分の気持ちに正直に生きた女性」という評価が下されるのでしょうか。あの松田某についてと同じように。

「滅私奉公」なんていうつもりもありませんが、でも、「私」とか「自分」を優先、大事にすることをつきつめていくとどういうことになるのか、普通に考えればわかることです。

もっとも、「女優」としてその道を極めた人です。もうあの手の女優って出てこないでしょう。であればこそ、ご自分の「業」の深さというものは、よくよくわかっていらしたんじゃないでしょうか。そして、「業」ゆえにわが身にふりかかった諸事についても納得されていたと思いますけどね・・。

それとも、人間なんていかに経験と齢を重ねようとも、そこまで達観できるものではないのでしょうか。私にはよくわかりません。
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