くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

筋を通せよ、横綱審議会!

2008年01月29日 | Weblog
初場所後、横審の朝青竜への評価は上々のものだったとか。

爺さん、婆さん、雁首揃えて寝ぼけたこと言ってんじゃーねーよ!

そもそも、優勝争いに最後まで絡むのは、横綱として当然のはずだ。

二場所不出場というブランクを考えれば、いかに横綱とはいえ、それにもかかわらず、ということなのかもしれないか。が、これまたそもそも、その不出場というのもドルジ自身の不行跡・不品行が引き起こした自業自得が原因のはずだ。手前のせいで不出場になっておいて、その挙句に復帰の場所で横綱の名を汚すような体たらくを土俵の上でされたんじゃあ、たまったものではない。それこそ、引退勧告に会い値する。

すなわち、今回の13勝2敗の成績は、「当たり前」であって、なんら評価に値するものではあるまい。

その上でむしろ横審は、ドルジに厳しい注文を出すべきではなかったのか。土俵のい外では相変わらずの傍若無人ぶりを見せたというではないか。カメラマンや記者を威嚇し、怒鳴る。たかが27やそこらの若造が「何様」のつもりなのだ。確かにドルジはそんじょそこらの若造ではない。いやしくも天下の横綱である。であれば、多少の傍若無人や不遜は許されるのか。むしろ逆であるはずだ。横綱には心技体の充実が求められるという。ドルジ自身が土俵入りで身につけた化粧回しのごとくだ。そうであるならば、むしろ、ドルジのふざけた振る舞いは、常人以上に許されざるもののはずだ。

なぜその点を横審は指摘、叱責しないのか。相撲協会も、横審に言われなくとも、指導すべきではないのか。特に高砂の相変わらずの高砂のだらしなさには腹立たしさよりも哀れを感じてしまう。

横審のこの無節操ぶり。齢だけではなく社会経験も十分に重ねたてきたであろう面々にしてこの体たらく。それが今の日本の現実でもある。
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橋下府知事、「校庭の芝生化」と言うけれど・・・

2008年01月29日 | Weblog
校庭の芝生化。

地球温暖化、都市部のヒートアイランド現象という問題を前に、環境対策と言う点では幾ばくかの効果を期待できるのかもしれない。

実際に芝生化した学校現場からは、以前よりも子供たちが外に出て遊ぶようになったとの声もある。子供の体力低下が指摘される現状において、それはそれで芝生化のプラスの可能性として評価されるべきなのかもしれない。実際、芝生の上で、それも裸足で走りまわるのは気持ちの良いものである。

一方、芝生化には問題点もある。その一つは、手間の問題だ。芝生はタフな植物だが、だからと言って世話の必要がないわけではない。水も十分にやらねばならないし、季節ごとに肥料を変えて与えてやる必要もある。伸びれば刈り込まねばなるまい。特に芝生は夏季の手入れが肝要である。そこで耐暑用の肥料や水を適切かつ十分に与えねばあっという間に緑を失ってしまう。雑草等の除草も必要だ。しぶとい雑草にはそれなりの威力を持つ薬を与えねばならない。伸びれば刈り込んでやらねばならない、それも結構頻繁に。これらの作業、米国で芝生のある家に住んだ経験を持つ者として言うならば、決して「楽ではない」と指摘せずばなるまい。炎天下汗だくになって芝の手入れをした時が懐かしくも、もう一度してみたいとは思わない。

芝生の世話はタダではできない。水を使えば水道代がかかる。それも夏には相当額の。肥料購入、維持・管理に必要な機器類。場合によっては業者委託も考えねばなるまい。生徒を使うという手もあるが、薬品を使用する場合もあり、安全管理の懸念がある。芝刈りなどは、子供には危なすぎる。一旦事故でも起きれば、マスコミの餌食にされて、芝生化推進は逆風に晒されるであろう。そうなると、教師がやるか、やはり業者委託しかあるまい。ただ、前者の場合、ただでさえ負担増に苛まれている教員に更なる負担を強いることになる。業者ともなれば、コスト面でも負担が大きくなる。

橋下府政にとって、目下にして最大の懸案の一つは危機的状況を通り越し既に事実上「第二の夕張化」している府の財政を再建することであるはずだ。財政再建のための方策とは、その一つに支出の見直し、削減に他なるまいが、校庭の芝生化は、それに矛盾することになりはしないか。もっとも、府が行う芝生化は、府立の教育機関に限定されようし、かりに府内のそれ以外の教育機関にも広げようといううのであれば、それは府下にある市町等の自治体の理解と協力、そしてとりもなおさず同意が必要になる。しかしながら、大阪市をはじめとする府下の自治体にそれだけの体力があるのか甚だ疑問だ。かりに府立に限定して芝生化を実施したとして、その分だけでも今までにない歳出が生じることは不可避だ。府財政の再建を進めつつ、芝生化を進めようとするならば、その分に関しては、府民に何らかのかたちで負担を求めるしかあるまいが、それによってプラスの歳出を免れたとしても、財政再建には何らのプラスにはならない。それ以前に、有権者が芝生化に理解を示し、負担増に甘んじるかは甚だ疑問だ。ただでさえ、かりに橋下氏の言うようなかたちで財政運営を行うとした場合、公共サービス等において府民に負担を強いらざるをえない。そこに更なる負担がのしかかった時、府民が芝生化を積極的に支持するとは到底思えぬのだが。

国政レベルにおいては某政府首脳は「選挙中の公約だから・・」とのたまったが、その論法でいけば、校庭芝生化も「選挙中の公約」に過ぎないのだから、今後それが実現されるかどうかはわからない。それ以上に、当の橋下知事自身にどこまでの信念があってのことかも今のところは明らかでない。

校庭の芝生化など実は府政の全体においては瑣末な問題に過ぎないのだが、コスト削減を打ち出す一方で、同時に事実上のコスト増につながる政策を打ち出す橋本府政。これまではお手並みならぬ「舌並み」を拝見してきたが、これからは行政家としても文字通りのお手並みを拝見したいものである。
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最近の学校事情: 先生からの年賀状

2008年01月26日 | Weblog
私の子供が通う学校が特殊なのだろうか?

生徒名簿なるものがない。私の時分なら、生徒名、保護者名、住所、電話番号を記した名簿が毎年作成、配布された。ご丁寧に親の職業まで載っていた。

そういうものが悪用されるという事実や、個人情報保護という観点からの配慮なのかもしれないが、私の子供の通う小学校、幼稚園にはそれがない。

個人情報に関しては日本よりもとうの昔からうるさかったアメリカですら、生徒名簿は作成される。年度初めになると「載せても良いですか?」と同意書が来る。同意すれば、生徒名、住所、電話番号が記載される。不同意ならば載らない。

名簿がないから子供たちが年賀状を出せないのだ。今年も担任の先生からは年賀状をいただいたが、こちらは出せない。いただいた年賀状にも先生の名前しかない。
住所が無いから後から出すこともできない。

これって変じゃないですか? 

教師が年賀状を生徒に出し、生徒は出さない? これって、教育上マイナスはあってもプラスはありますかねえ?

それに、年賀状っていう文化が今後どうなるかはわかりませんけど、まだ当分続くでしょう。子供が年賀状を書くっていう作業も、教育のうちの一つ、子供を社会化する過程の一つだと思うんですけど・・。

アメリカ式に生徒名簿を作るとなれば一手間仕事が増えて、学校の先生方の負担は大きくなるのでしょう。それ以前に名簿作りそのものが負担なのでしょう。ですから、勘ぐってもしまいます。個人情報保護とか言いながら実は負担軽減という思惑も名簿廃止の背景にあるのでは?と。

特に息子の小学校、半日だけのいかにも手のかかっていない運動会をやる学校で、この運動会、保護者の間での評判はすこぶる悪い。まあ、そういう学校なので、
名簿の件もかく疑ってしまうわけなんです。

いかにアメリカ式にしても、名簿が存在する限り名簿の悪用の可能性は無くならないし、孤児情報保護上の危険性も伴うでしょうけど、危険性や危険性を言い出したら、何もかも怖くなって外にも出られなくなる。豆腐を扱うにも、これでけがをしないかなんて恐怖におびえることだって。そりゃ大げさか・・。


それはさておき、教師が年賀状を出して、子供が出さない、という点、私的には納得いかない。こんなことだから、親や子供が増長し、モンスターが出てくるんじゃないかとも思うのですが・・・。
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福田総理という人

2008年01月26日 | Weblog
いわゆる「ぶらざがり」取材での福田氏を見ていて思うのは、この人やはり首相の器ではないということ。

あの「飄々とした?」受け答え、いや実は記者質問に実際何も答えていないからかわし方というべきなのだろいうが、それが官房長官時代は世論抜けして、福田人気を上げた。今福田が官邸の主であるきっかけのようなものだ。

しかし、これが首相として、となると別の話だ。

ただ、まあ、ああした受け答えしかできないんだろう、彼としては。何をどうしたいとか、日本国をどういう方向に導きたいとか、そういう確たるビジョンを持って総理の座を目指し、その地位に就いた人ではないのだから。

所詮器ではない、これにつきる。

自民党も、特に森本首相あたり、本当にこの人が選挙管理内閣になるなって思ってたんだろうか?だとすれば、やはり森さんの政局見通しはあてにならない。これ常識ってとこですか?
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親の因果が子の因果: 127人の無戸籍児

2008年01月22日 | Weblog
無戸籍児が、「道府県庁所在地と政令指定都市の計50市と東京23区に、少なくとも127人いることが毎日新聞の調査で分かった」とのこと。

その原因は、離婚前妊娠。前夫との離婚前とのやりとりでできた子である場合もあれば、前夫以外の男の子である場合もあろう。今どきDNA検査で簡単に判明することだ。

前者の場合はさておき、後者の場合、いわゆる不義密通の果てにできた「不義の子」。生まれながらの将軍ならぬ、生まれながらの不義の子というわけだ。

子供は親を選べるから子供に罪はない。無戸籍問題は法制度的に何とかせねばなるまい。

しかしながら、不義の子であることは厳然たる事実だ。社会通念上許されぬ形でこの世に得た生というわけだ。それゆえ、差別はいけないと声高に叫んだところで、人生において幾多の不利益を被るであろうことは想像に難くはあるまい。

私の子がそんな「不義の子」と結婚したいなどと言ってきたら、成人の婚姻は本人の自由だからいかんともならばいが、断固反対だ。祝福も援助もするつもりはない。

血や育った家庭環境というものは怖い。不義を働いた親の知をひき、不義をなした親に育てられた子供が、親と同じ所業を繰り返して自分の家庭を壊したケースを私は一つならず見てきた。その一例が私の小学校の同級生の元妻だ。男に走った母親に捨てられた女が、同じく母親になってから不倫に走り我が子を捨てた。あるいは、家庭や家族など見向きもしなかった父親をもった娘は、やはりささいなきっかけで突然子供を捨て、家庭を崩壊に導いた。

不義者の子供がすべからくまっとうに育たぬとは言うまいが、確率的に道を踏み外す可能性は高いと思っている。であれば、我が子にそのようなリスクを背負って欲しくはないし、またそのような危険因子をもった人間を身内にしたくはない。

これを差別だ、偏見だというのであれば、言うがいい。私は一向に気にしない。
地雷があるかもしれないとわかっている場所に、恋愛感情などという一時のもの、いつ醒めてもおかしくないものにつきあって、足を踏み入れるつもりはない。不倫などなんだので離婚、家庭崩壊となったとき、その被害を被るのは当の本人たちだけではないのだ。

不義者の子は哀れだ。望まずして、親の因果を背負わされる。いや、誰でもそうだ。産声を上げた瞬間から親の因果、先祖の因果を背負って生きていく。不細工な両親の下に生まれて、美人、イケメンはあまり期待できまい。貧乏人の子に生まれて物質的な豊かさは期待できまい。遺伝病をもった家系に生まれたら、それはまたそれでその負の連鎖を背負わねばなるまい。同様に、不義者の子は、不義を働いた親の子、身もちの悪い親の子、としての烙印を背負って生きていくしかないのだ。

そうした不幸な子供たちがこの世に生を受けないためにも、不倫、姦通には法的に
厳しく対応するしかあるまい。身の下の問題に公権力が介入するのか!という反発はあえて覚悟のうえだ。不義の子はまさに、身の下の問題の所産である以上、生まれてしまってさあどうしましょうという対応策も必要だが、同時に未然にそうした不運な子供を増やさぬための方策も必要ではないのか。不倫による妊娠の場合、強制堕胎あるいは生まれた後の間引きをしろ、とまでは言うまい。そうなる以前に、自分の性欲も満足に抑制できない連中に足かせをかけろと言っているに過ぎないのだ。

社会生活上、自由というものにはおのずと制限が生じる。まさか、セックスの自由だけはその例外などということはあるまい。
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福田和也という人

2008年01月21日 | Weblog
この人の博学ぶりには以前から恐れ入っているし、著書や雑誌等での対談等もおもしろい。あの才能は羨ましくもある。

最近は時々ワイドショーのコメンテーターとしても、顔を出している。

ところが、この人、TVに出るとまったくおもしろみが無いのだ。一言で言って、見た目にも、雰囲気的にも、コメント自体にも「華」というものがないのだ。活字ではあれだけおもしろい人なのに、映像となるとまったくインパクトなし。

慶大での授業も、あの無表情に単調な喋りなんでしょうか。

まあ、この人に電波芸人学者になってほしくはないから、別にTV映りが悪くても一向に構わないのだけれど、活字からは結構特徴のあるキャラという印象を受けていたから、あの想像に反した面白みのなさはがっかり気味に意外だった。まあ、その意外さが面白くもあったのだけれど・・。

でも、ご本人もなぜワイドショーなどに出ようと思われたのか。あれだけの才能の人なんだから、ご自分がその類の番組には不適だといううことに既に気付いていらっしゃると思うのですが。おこずかい稼ぎなんでしょうか? 

ちなみに、NHKならまだいけそうに思います、「華」の無いのはいかんともし難いですが。
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高村外相の「盲言」: この際閣僚辞職、自民党離党で政治家としての「本道」を歩むべし!

2008年01月20日 | Weblog
高村外相いわく、衆院解散は「任期満了が憲法の本道」だとか。

この人、弁護士資格を持ついわゆる法律の専門家のはずだが、それでもってこういうこと平気でいうかなあ・・・? まあ、この発言は政治家としての発言として受け止められるべきなんだろうけど、それにしても、立法府に身を置く者としても「おバカ」発言ですな。

4年の任期を得て総選挙を行うことが憲法上の衆院の本道であるならば、同じ憲法に明記された首相の解散権は憲政の本道ではないということになる。であるならば、内閣不信任案が決議された場合に、首相が解散・総選挙を決断した場合も、これは「本道」ではなく、総辞職こそが「本道」という解釈も可能になる。ただし、その憲法に不信任案が議決された場合におけるそれら二つの選択ははっきりと明記されている以上、つまりいずれも合憲である以上、内閣不信任案の議決、さらにはその提出そのものが憲法の「本道」ではないいうことを示唆することになりはしないか。

また、任期満了に伴う解散こそが「本道」であるとして、それがやはり憲法に規定されている衆院の優越を否定することにはならないが、その根拠を幾分弱めることにもなりはしないか。4年という衆院の任期は言うまでもなく参院の6年よりも短い。すなわち、衆院は参院にくらべより頻繁に民意の審判を受けねばならない。言いかえれば、その任期の短さゆえに衆院の議席状況は、参院以上に民意を反映したものということが言える。それが優越の根拠の一つのはずだ。ただ、同時に解散というものがあり、解散のない参院よりもこれまた同じくより民意を反映する立場にあることも、衆院に優越的立場が与えられるゆえんではないのか。それにもかかわらず、任期満了以外の解散・総選挙を「本道」ではないとする高村氏の発言は、衆院の優越をも危うくするものであり、憲法の趣旨をも危うくしかねない。

更に言うなれば、高村発言は、これまでの歴代自民党総裁すなわち歴代総理の多くを批判するものでもあり、しいてはこれまでの政権党としての自民党の所業を批判したものとも受け取れる。近くは小泉総理に例をあげるまでもなく、これまで何人もの総理が解散・総選挙をおこなってきたではないか。これも憲法の「本道」ではないというのであれば、結党以来長くそして繰り返し自民党は「わき道」か「けもの道」かは知らぬが「本道」ではない憲政にもっぱらしてきたことにはなりはしないか。高村発言は自民党の歴史そのものを断罪したものとして評価されてもいたしかたあるまい。自らの属する政党をそこまで言うのであれば、閣僚辞職は言うに及ばず、離党してはいかがか。それこそ、政治家、法律家として歩むべき「本道」ではないのか。

いやしくも一派閥の領袖であり、かつ外相の重責にある者が、政治的下心丸出しの軽々しい発言をするものではない。まるで下帯一枚で袴もはかず公道を闊歩するような恥ずかしい発言だ。

しかしながら、高村正彦という政治家が所詮この程度のもの、ということが明らかになったという点では評価にあたいする出来事であるかも知れない。
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