くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

Nothing Ventured, Nothing Gained. ←「西洋かぶれ」

2010年02月18日 | Weblog
Nothing Ventured, Nothing Gained というブログで国母問題が、「国母選手批判が日本のイメージを悪化させている(国母選手頑張れ!)」で、国母問題を論じている。論調はタイトルを見ただけでも大よそ知れるのだが、いまだにこういう「西洋かぶれ」がいたものだと、驚き、呆れた果てたしだいである。

以下、部分抜粋。

抜粋その1

 以下にあるJ-CASTニュースの伝えるところによれば、アメリカのヤフー利用者の反 応は、「これがニュースなの?」「服装とか髪型とか、一体誰が気にするんだ」というも のらしい。

 このようなアメリカ人の反応は、極めてまともなものであり、他方、国母選手へのメディ ア、ネット、抗議の電話をかけている人々の反応は、はっきり言って、馬鹿馬鹿しいし、 日本の民度を失墜させ、日本の国際的評判を貶めていると言っても過言ではない。

著者は、上掲の「アメリカ人の反応は「極めてまっとう」としているが、実は「アメリカのヤフー利用者の反応」を「アメリカ人の反応」と強引・露骨にすり替えることで、一般論化し、あたかも米国における一般論調ないしは認識であるかのような、「疑似現実」をデッチ上げて、自論に説得力を持たせようとする「詐術」に他ならない。

そしてその「デッチ上げ」による「アメリカ人の反応」とは異なる日本国内のおおよその反応は、「日本の民度の失墜」につながるとまで、言うのであるが、これには、あいた口がふさがらない。アメリカ「様」のご意見にそぐわなぬものすなわち低劣との決めつけは、アメリカンスタンダードこそ至上であると言っているように聞こえるのは私だけだろうか。今時、これほどまでに、アメリカ様に精神的に「忠良」な人間ってのが、もうケケ中以外にもいたとは・・・。

抜粋その2

 テレグラフ紙の記事に対する、海外の反応を見ていると、「どうにも日本人がなぜ問題視 するのか理解できない」、「あの服装がスノーボードというスポーツ界の服装でし  
 ょ?」、「日本人は理解できない」など反応が多く、本当に日本人としてこうした話題が
 取り上げられてしまったことに恥かしさを感じる。

 川端文科大臣など政治家ともあろうものが国会でこの問題につき、大衆迎合的に、批判意 見を述べたようであるが、そうした立場にある者がかかる批判をすることが、国際社会に おける日本の異常性を際立たせ、日本の評判を落とすことに気がつかないのであろうか。

ここでは、更に「アメリカの反応」という一般化では自論へのサポートとしては不十分と考えたのか、「海外の反応」、「国際社会」とやらを持ち出してきた。で、海外の反応こそが、「正しい基準」であり、それに矛盾する日本国内の反応は、「恥ずかしい」ということになるらしい。

ちなみに、日本人のなかには、内と外という二分法を国際社会にもあてはめ、「日本」と「世界」という二分法的な発想がいまだに根強い。もっとも、「世界」という場合、それが欧米やアメリカのみをさすことが多いのだが、そこからは「日本」の外の「世界」が極めて多様であるという視点、認識が抜け落ちていることが多い。著者はそうした日本人の自他の比較の仕方を知ったうえで、あえて「国際社会」というものを持ち出すことで、日本の異質性、異常性を強調しようとしているのではないだろうか。まあ、これもやはりペテンの類と言わざるを得ない。

抜粋その3

 欧米は概して、服装等については、非常に寛容である。特にアメリカの場合は、異質なも のを受け入れる度量の広さこそが、フロンティア精神から受け継がれてきた良き伝統であ り、それが国力の原動力でもある。

欧州への訪問経験はあっても生活経験のない私に、欧州を語ることはできないが、少なくとも米国に関する限り、服装への寛容さというのは、確かに日本と比較した場合そうかもしれない。私の業界だけを見ても、米国の方が服装には寛容で、出勤・勤務時に背広、ネクタイでなければならない、ということはない。まあ、私の業界は、日本国内でも他業種に比べれば、芸能界ほどではないにしても、服装、髪型には随分寛容である。が、アメリカの同業会では更に寛容である。夏は、Tシャツ、短パンもOKという場合もある。

さて、その米国においても、服装について「個人の表現の自由」と無条件に認知しているわけではない。したがって、私は、上に「場合もある」としたのだ。さすがに職場の性質上、「Tシャツ、短パンは好ましくない」と考えている人も、相当数いることからである。義務教育レベルになると、地域や教育委員会の方針によって差異はあるものの、学則にドレスコードは存在する。かなり詳細にドレスコードを定めた学校、自治体もあり、驚いたことがある。同様に、教職員にもドレスコードは課されている。髪型や髪の染色の色を問題視され、学校から処分を受けたという実例もある。

英国において、仕事で「ディナー」に参加した経験がある。私の同業者の集まりだから王侯貴族やセレブの集まりなどとは程遠い「貧乏人」の集まりで、業界的には洋の東西を問わず「リベラルな」人間が多いのだが(この点、私は異端中の異端である)、そこでもドレスコードが設けられていた。

このように、英米に限っても、服装による「表現の自由」に対する「寛容」には、明らかな制約があるのが事実だ。著者はこの点を知らぬのか、あるいは意図的に無視して、再び過大に「欧米の寛容」を強調することで、自説に説得力を持たせようとの、これまた読者に対する「詐術」ではないのか。

抜粋その4

 多様な価値観があるのが民主主義の前提であり、価値の押しつけは、民主主義国家では許 されるべきではない。

いかに、民主主義国であるとはいえ、国家、地域社会、国際社会等あらゆる人間集団のなかにおいて、我々は無条件に我々個人の持つ価値観にそって行動できるわけではない。民主主義国家であるはずのドイツではヒトラー、ナチをめぐっては、個人の価値観で発想することは自由でも、それを表に出すことには法的な制約がある。人間が集団で生活をする以上、個人の価値観がそのほか大勢と異なる場合、多数派によって制約されたり、本来は受け入れがたい価値観を押し付けられるなどということは、いくらでもあることだ。「価値観の押しつけは、民主主義国家では許されるべきではない」というのは、確かに多くの賛同を得ようが、現実においてそうした「観念」に徹頭徹尾沿うことはあり得ないし、現に、価値観の押しつけのない社会など、いわゆる民主主義国家においても存在しない。要は、著者は「観念」と「現実」をすり替えしまっているのだ。これが意図的なものでないとしたら、「ビョーキ」とまではいわないが「イタイ」御仁である。

このブログ記事を最初から最後まで読むに、この著者、どうやら、欧米の価値観こそが「上等」なものであり、それに矛盾する行為は「民度の低さ」の証左ということになるらしい。が、それって、まさに欧米の「価値観の押しつけ」を肯定していることにならないのだろうか。要は、論理矛盾ではないのか。


米国人あるいは欧米人が、国母問題に対する日本国内の反応を批判したとして、それは彼らの考える価値観ないし、「(現実問題として彼らの国、社会においても決して無条件ではない)表現の自由」から出たものであり、歴史や文化、伝統、価値観等必ずしも同一ではない日本人にとっての「表現の自由の範囲」というものが、それと異なるからと言って、とやかく言われてはたまったものではない。欧米的視点からも我が国の価値観への批判こそ、価値観の多様性の否定に他ならないのではないのか?

文明開化や敗戦に打ちひしがれた時代ではないというのに、こういう「化石」のような「欧米バンザイ」論者がいまだに棲息していようとは、驚きでもあり、同じ日本人として情けなくもある。

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