くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

日本の教育の欠陥: 体罰にかわる強制力の欠如

2011年07月31日 | Weblog
私は教育における体罰を否定しません。

もっとも、体罰か虐待かは社会通念上一定の共通認識の形成は可能なんでしょうが、やはり主観によるところも大きく、それゆえにこそ、体罰の行使には難しい部分もあることは否定しません。今のように、ちょっとしたことで「虐待だ!」ということになれば、余計に厄介です。

そうしたあれやこれやの調整は必要なのですが、基本的に、言葉で言ってわからなければ、体におぼえさせるしかないと思っています。人間所詮そんなものだと。動物の調教やしつけと同じ。まあ、なかにはエサでつってしつけるという考えのプロ調教師もいますが、これに対しては同業からも「麻薬」と同じ効果しか期待できない。動物の食習慣、健康管理という点から長期的にみていかがなものかという意見もある。

で、日本の現今の教育だが、体罰はいかん!という。とはいっても体罰は行われている。それが外に出ればマスコミのえじきになる。が、全体的にみて、私が子どものときに比べれば今時の学校は体罰はほぼ無きに等しい。教師も怖くておいそれとできないのだ。

これは米国も同じ。驚くべきか、私のいた州は少し前まで法的には体罰は合法だった。そんな州は減りつつあるとはいえまだかなりあるはずだ(でも半分以下)。でも、実際合法州でも体罰はまず行われない。そんなことをすれば
体罰としてではなく虐待としてのレッテルを張られ、マスコミの集中放火、両親による損害賠償請求で、人生ズタボロにされることまちがいなし。向うの教師なんてのは日本とは比較にならないほどの薄給である。損害賠償なんてされても、何も出せない。

ただ、向うの教師には日本にはない強い見方がある。それが「校則」である。


ん、日本にも校則はある?


確かにそうだ。だが、向うの「校則」は違うのだ。日本でも管理教育が批判的にとやかくされ、こんなひどい校則があるなんてことが取りざたされるが、実は、自由の国アメリカの校則もなかなか細かいのだ。服装規定なんて、ほんとにこんな事こまかに守れるんかいな?というほどある。そして、日本と明らかに違うのは、校則の「威力」が違うことであり、それは日本とは異なった学校と保護者・生徒との関係というものが背後にある。

日本の学校は保護者に対して実に弱い、というか弱くなった。なかには学校や教師を舐めてかかってくる保護者もいる。子は親の背中をみてという。親が舐めれば子も舐める。

これに対して、米国の場合、学校が下した決定の威力は大きい。まあ、なかには訴訟を構えて抵抗するケースもあれば、あまりに杓子定規、理不尽な裁定に泣かされるというケースもなくはない。それはそれで学校の立場の強さの弊害なのだが、日本のように家庭の眼に怯えながらということはない。(ついでにいえば、校内での校長の権限も日本とは大違いで、日本の一部教員のような舐めたマネをしようものなら、雇用を危険にさらすことになる)。

居残り、停学、懲罰的土曜補習、場合によっては退学というのが、義務教育でも当たり前にある。退学ともなれば、
広いアメリカのこと。新しい学校に移るために家族ごと引っ越しなんてこともなくはない。


今の日本では居残りすらおいそれとはできない状況なのだ。


日本の教師はサラリーマン化してしまった。いやいや、昔に比べたらそうかもしれないが、アメリカなんかに比べたら気の毒なくらいに過酷な労働である。米国の教師の職責は、子供が学校にいる間のこと。校外で子供が問題を起こせば、それは家庭の問題である。が、日本ではそうはいかない。子供の不始末のたびに、校長がマスコミの晒し者になり、頭を下げさせられ、さんざんに責任追及され、精神的にも追いつめられる。校務、雑務の多さは、米国の比ではない。生徒指導も実にさっぱりしたもので、「校則」が片付けてくれる。

日本の教師は咽喉などの不祥事が多い。いやいや、アメリカでも多い。それほどマスコミが騒がないだけのこと。私の学生時代のホストマザーの元夫は高校教師で、教え子とできてかけ落ちして姿を消した。中学生の男子児童と性的関係をもち、裁判にかけられても、自らの非を認めない若い肉体に狂った女教師も一人ならずいた。

学力的にも率直にいって日本の教員の方が明らかに上である。


昔のアメリカでは体罰はあった。体罰が姿をひそめ、その一方でそれを校則と学校の権威が代替した。日本からも体罰は随分あるいはほぼ消えた。だが、それを代替するものがない。その結果、どうしようもないガキやモンスターなんとかという保護者を生み出した。人間社会における強制力と権威の不可欠性を思い知らされるが、それが十分にない今の教育現場には傍で見ていて同情すらしたくなるほどだ。

確かに学校側というか教員にも自業自得な部分もある。教師が権威と敬意を失った一因は、教師自身にもある。組合運動なんかに血道をあげれば、そりゃあ世間はシラケル。子供もシラケル。学校も教育委員会も含め、いささか官僚化し過ぎて、家庭の失望と信頼を買ったのも事実だ。

だが、強制力あるいは「恐れ」を失った学校現場、その点をなんとかしないと今の好ましくない状況は少しも改善しないであろう。





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森元総理「かわいそう」に、ちょっとホロっと: 森喜朗氏ご子息祐喜氏の死

2011年07月29日 | Weblog
森元総理という人物、メディアを通してしか知らないが、少しも好きな政治家ではない。若いころの逸話のかずかず、それに関連したことを親せき筋から聞いたこともある。

自民復活のためには「粛清」されるべき人物だとも考える。

だが、親が子供に先立たれることほど辛いことはあるまい。同じ子の親として、今の森氏のご心中いかばかりかと思う。40をゆうに過ぎた息子にという声もあるかもしれないが、「かわいそう」の言葉は親としての本心から出た言葉に違いない。

一寸胸にグッとくるものがある言葉だ。

位人臣を極めても、人に命を救うには限界がある。それが我が子ともなれば、常人となんらかわりない無力さとのギャップが、哀れさをさらなるものにしているようにも思う。

そして森夫人の嘆きやいかばかりか。自らの文字通り血肉をわけた息子を失った母親の悲しみ。おそらくそれは父親のそれとは異質なより生々しいものに違いない。

子息の生前の悪評、愚行を今更言うまい。地元では代々大名主森家の跡取り、世間一般では有力政治家、総理の息子ゆえに、常人にははかり知れぬ「重圧」があったに違いない。それに耐えうる能力、資質がなければ、「重圧」は更なるものであったに違いない。選ばずして森家に生まれた宿命を背負い切れなかった挙句・・。人の「分際」も様々だが、能力なくしては全うできない「分際」もあるということなのだろう。

今はただただ我が子を亡くされた森元総理ご夫妻にご同情申し上げるとともに、故人の冥福を祈るばかりである。

合掌
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中村福助というのは・・・、

2011年07月29日 | Weblog
知恵が浅いアホなのか、まあありていにいえば頭が悪いのか、お調子者なのか、一体何なんだろう。

所詮役者といえばそれまでだが、まあそんな浅はかさがあの人の芸の「品の無さ」に時々現れるのかなあ・・。

歌右衛門の名を汚すことにならぬよう、口を開くのは舞台の上だけにして、もうしばし精進されますように。
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中国高速鉄道事故: 世論が当局を追求・・・

2011年07月27日 | Weblog
中国共産党が、ポスト毛沢東、ポスト文革の時代に入って、毛時代ほどに世論、世情を統禦できていないのは確かだ。そしてその傾向は強まる一方のいようにも見える。

江沢民時代に解き放たれたナショナリズム等まさにその典型であり、利用しようとしたは良かったが、今ではナショナリズムを無視して内外政策を策定することは困難であり、対日政策ではその傾向がとくに顕著である。

が、政権対世論ないしは民衆という単純な支配と被支配の矛盾の問題としてのみとらえることができないのが、政治の常である。これは何も中国に限ったことではない。

確かに今遺族を中心に中国世論は事故処理をめぐる当局の対応に憤っているようにもみえ、それはある一面の真実なのだろう。

が、世論による当局追求を許す政治条件が背景にあるとすれば・・?


より端的にいえば、当局批判が和の「ケツ持ち」がいるとすれば?

政敵を叩くためにはそれくらいするのは当たり前であるはずだ。

もっとも、自分たちが実権を握れば、自分たちも同じ目にあるかもしれない。しかし、だからといって、今世論を利用して権力闘争を優位に進めよううとの思惑をも捨て去ってしまうのは、あまりにもひ弱な精神であると言わざるを得ない。そして共産党の連中がそこまでナイーブな連中だとも思えない。


一体誰が、叩かれ、誰が叩くことで得をするのか。

来年後半をにらみつつ、あらゆる事象は政治的に利用され得る、そんなこれからあと1年少し・・。


追記
米国のデフォルトはまずないでしょう。ありえない。

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被災地での自衛隊こそ真の「皇軍」ではないのか

2011年07月27日 | Weblog
我が国が天皇陛下を頂く以上、たとえ陛下がかつてのように大元帥陛下ではなくとも(またそうである必要もないと思うが)、自衛隊は「皇軍」であると私は思う。


もっとも、「皇軍」という言葉には抵抗を示す向きもあろう。

たしかに「皇軍」はかつて、その名をおごり、その名を貶めたことがある。大元帥陛下の意にそぐわぬ行為を陛下の名をかたり強行した事実は、許し難いものがある。

しかし、今の自衛隊はその「負」の遺産のうえに成り立つものではない。

そして、今回、被災地での自衛隊の活動は、まさに陛下のお言葉に沿うものではないかったのか。であれば、今の自衛隊こそ「皇軍」の名を冠するに値する我が国の国軍ではないのか。

そういえば、軍歌「陸軍」は以下の歌詞で始まる。


天にかわりて不義を討つ忠勇無双の我が兵は、、、


ここでいう不義とは対外的なものなのだろうが、今我が国に仇なす「不義」は国内にもあり。そしてそれこそが最大の脅威である。

ならば、「皇軍」によって「不義」を撃滅するというのも、政治的選択としてアリではないのだろうか?

少なくとも、オプションとしてはアリのはずだ。

まさか、我が国においてそれが現実のものになるとは思えないが・・・、いやなりえるかな?

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中国高速鉄道事故: 党内権力闘争に影響

2011年07月24日 | Weblog
しないとも限るまい。

胡温体制やその周辺に連なるあたりを攻撃し、来年以降に向けて権力伸張を図ろうとする連中には、今回の事故はまさに「天佑」であろう。

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現代(ヒュンダイ)対策? 続き

2011年07月21日 | Weblog
要は、↓みたいなことをやっていてはダメ!ということですよ。


これ↓が出たときには、結構期待する声があったわけだが、




ふたを開けてみたら、な、な、なんと、



この田舎臭いシロモノに「劣化」していたと。あまりの豹変ぶりに、私も唖然としました。

コンセプトから量産型への変遷過程での事情ってのはどこの自動車会社でもある話だけど、例えばBMやダイムラーなんてここまで激しく、まるで別物か?と思うほどに酷くかわってはいないけどなあ・・・。

あ、こんなのも・・・。



新たに投入される小型SUVだそうな。で、またこのレクサスのブランドイメージを損ないかねない
安っぽいグリル。トヨタはほんとこういうのが好きだねえ・・・。

だめだわ、こりゃ。
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現代(ヒュンダイ)対策? そんなの簡単だよ!

2011年07月21日 | Weblog
要はパッケージング! 以前からここで、パッケージングがトヨタなんかのアキレス腱になると指摘してきたが、まさかこんなにも早くそれが現実になりつつあるとは・・。

北米ではこんなデザインのヒュンダイが売れている。昔ヒュンダイなんていったら、映画なんかでも笑いのネタにされていたんですけど、レンタカー屋で「レクサスにしますか、それともヒュンダイ?」みたいに。





同系列のキアも以下の通り。



一方、最近のダメダメなホンダの北米市場用パイロット。


昨日書いたとおり、最近のホンダ車の悪いところが非常に顕著に現れています。

同じくホンダシビック。


何がダメ?  韓国車と比べて、個性無さすぎ。平面的過ぎ。押し出しが無さ過ぎ。米国人も中国人も押し出しのつよいの好きだから。欧州人も、こんなのっぺりしたデザインは好みません。

かりにこんな車海外市場で売ったら、不細工といわれるのは必定。



トヨタsai。何が悪いって、やはりんのっぺり、無個性、そしてこのなんとも昔ながらのシルバーのグリル。

と思っていたら、もうすぐこんな車が出てくるそうです。ヒュンダイの更なる躍進に加担するようなもんですよ、これじゃあ。


新型カムリだとか・・・。うそであってほしいです。

あと、今の日産マーチ! あの先祖がえりみたいな新見のないデザイン、質感のなさはなんですか? ありゃ、ヒュンダイ、キア、大宇以下ですよ。


何がいけないのでしょうか? 日本人デザイナーあるいは日系自動車会社で働くデザイナーの質が低い? それとも、デザインから製品化への過程に問題がある? 雑誌なんか見てると、どうも後者のような気がするんですけど、個人的には。なんでこの段階でファイナライズしないの?と思うようなのが結構あります。このまま出せば、十分いけるのに!と思うのが。実際製品化されて出てくると、実につまらない車になっている。きっと、今度出てくるレクサスなんかもそうなるのでは?

というのは、以下の車もプロトタイプが発表されたときには、もっとシャープな姿だったんですが、出てきたら、おかしな丸みというか、曲線が出ていて・・。しかも、このグリル・・・。


でも、作り手側だけの問題でしょうか?

20年ほど前にこんな車が内外で売られたんですが、国内ではさっぱり売れませんでした。月に400台いかないということも。


今北米でinfinitiブランドの日産フーガも同じ状態だとか。日本人って相変わらず曲線の強い車が嫌いなんでしょうか?

とすれば、こんなのもダメ?



まあ、さすがに最近は「いつかは・・・」なんてキャッチフレーズも姿をけしたし、今時こんな車に「いつかは」なんて思う人もいなんでしょうけど、いまだにこんなのが国内市場では売られ買われているんです。



要は消費者にも問題があるのかもしれません。

自動車評論家のなかには、日系自動車会社は海外ばかりみて車作っているなんてこと言う声ありますが、↑みたいな車を買う連中に合わせていたら、↓みたいなのは出てこないでしょうねえ・・。



ただ、あえて「救い」をいえば、相変わらず韓国車のインテリアはちゃっちいです。確かに昔に比べれば随分よくなりました。でも、デザインのここ数年の劇的な進化に比べて、ちょっと遅れを採っています。例えば、



どうみても、ホンダのマネです。ハンドル、パネルなんか露骨なマネですが、ホンダほどにこなれていない。っていうか、ホンダのオリジナル自体、大したことないというか、最近の「まとまりのなさ」が良く現れているのだと思いますけど。

そういえば、先代ソナタは、リアが先代アコードそっくりで、ネットで騒がれました。

その現行ソナタのインテリアがこれ。



カムリを意識していますね。でも、やはり安物感がぬぐいきれません。

以上のように、インテリアに関してはまだまだ。まあ、何百年も白一色のボロしか身にまとってこなかった人たちです。どうしても、インテリアに「文化の蓄積と質」が出てしまいます。

それはアメ車にもいえます。外観が気に入っても、中を見ると、いかにもアメリカ的な品のないシルバーやウッドの使い方。あれにはゲンナリさせられます。

その点、英国車はさすがにうまいですね。

私は個人的に、日本車のインパネはそんな嫌いじゃない。アメ車は見た目もさることながら、使い勝手もよくないです。ドイツ車はどうも横のラインが好きみたいですが、BMもベンツもアウディーもそうで、なんか無個性で好きではないです。フランスは最近随分良くなったように思いますが、どうも落ち着きというかまとまりが悪い。

その点、日本車はとりたててよいとは思いませんが、使い勝手等含めれば悪くはないです。

そして、明らかに韓国車よりも。

でも、パッケージングは・・・。

なんとかならんのですか? トヨタ社長も社長就任時言ってませでした、「かっこいい車を作る」って? でも、上述のカムリ、社長自らチラ見せもありましたが、どうも社長の言葉通りにはなっていない、そんな気がします。







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徳大寺氏の言うとおり、最近のホンダの体たらくは目に余る!

2011年07月20日 | Weblog
フィット・シャトル、あの不細工な車はなんだ、一体? あの取ってつけたような不格好なサイドとリア。
実にこなれていないデザインだ。ちぐはぐなのだ。



それにしてもここ数年のホンダはおかしいよ。

なんともとりとめのない珍妙なデザインばかり出してくる。


その一例が、アキュラのラインナップ。



これが2006年頃に出てきてから、アキュラは北米の自動車評論家連中の中でも好悪のはっきりと別れる、私としては冗談だろ?と思うようなおかしなシルバーべったりのフロントグリルを前面に打ち出してきた。

まあ、その少し前からホンダ車のフロントグリルが、妙に安っぽく見える素材を使うようになり、なんで?と思っていたら、上記のとおり。この前のモデルはよかったんだけどねえ・・。

このシルバー強調のグリルは、今ではアキュラの「顔」になってしまっている。

そして、それは現行フィットの特にハイブリッド、そして今回シャトルにも受け継がれている。


冒頭でこなれていないといったが、そのもう一つの典型がこれ。



なんおいう前後のアンバランスさ! 一昔前にヒュンダイがこんなハッチバックみたいなのを出していた。ソナタだったっけ?

一体、この会社は何をしたいんだろうか?

もう車づくりの情熱は冷めた?

それとも、カリフォルニアでのデザイン力に問題がある? 人材が集まらん?

大企業病?

現行アコードのデザインがどたんばまでなかなか決まらんってことがあったそうだが、で、出てきたのが今の。
まあ、アコードの名前で歩北米なんかでは売れているが、それにしても・・・な古めかしいデザインで、今のソナタなんかと比べたら、その古さというかコンサバさが際立つ。

まあ、ソナタに限らず最近のヒュンダイのデザイン重視は、居住性を無視したところもあるのだが、あの押し出しの強さは日本じゃあだめだろうけど、欧米では目を引くだろうなあ・・・。

思うに、大企業病なんですよ、ホンダさんも。まあ、その兆候は随分前からあったからねえ・・・。それに、宗一郎の時以来の独自色でこだわり過ぎだね。こういっちゃあなんだが、自分たちがこだわっているほど消費者側はこだわっていないし、kだわっているつもりが、今のホンダ車には悪い意味でも個性しかないでしょ、ブサイク、均整の悪さ、意味不明さという点でのみ。

今から10年もしない昔は、ヒュンダイと生産台数同じくらいだったのでは? 今じゃあ、もう独自路線じゃあ追いつけないほど差を付けられてしまって・・。

やばいよ、ホンダさん。


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三枝の文枝襲名は、まったくの無意味だ

2011年07月18日 | Weblog
あえて、あえて、本人の名誉のために「古典ができない」とは言うまい。

かわりに、「古典をしてこなかった」と言っておこう。襲名を期に再び古典をするかもしれないので「古典をしない」とも、あえて、しない。

が、古典芸でその地位をしかるべきものにしてきた名跡を、古典で名を馳せたわけでもない人が襲名して一体何の意味があるのだろうか。

襲名にはそれを契機にして芸人に更に芸道に励ませるという効用も期待できるものだし、その場合の芸道と先代はじめ先人の磨いてきた芸を踏まえつつといいた意味が含まれるのが普通だ。だが、今回に限っては、既に70に手がとどこうかという「老齢」での襲名である。今更、再び初心にかえって古典を始めたところで、さしたるものは期待できまい。なんせ、他人の芸を見てかなわぬと古典から逃げた人なのであるから、40代、50代ほどの気力があるとも思われぬ60代後半になって「再起」をはかろうとしても、気持ちばかりか体もついてはこないだろう。

まさか、本人にそのことがわらなぬわけでもあるまい。

ならば、なぜこの期に及んでの襲名なのか。

芸道云々とは別のところに魂胆があると見るのは、ゲスの勘繰りというものだろうか。

東京の未亡人がしゃしゃり出るばっかで息子たちの腕はさっぱりな一門のような襲名も困ったものである。大名跡でもない「○平」なんてのを継いだくらいで大騒ぎされては堪ったものではない。が、この一門の襲名とは違った意味で、素直に「がんばれ!」とは言えない襲名と言わざるを得ない。
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吉右衛門、泣かせるねえ・・・。

2011年07月16日 | Weblog
会見のなかで、鷹之資にも言及。

いやー、それにはホロリとくるねえ。

天王寺屋も、草葉の陰でさぞや喜んでいることだろうよ。

鷹之資には、人様の恩義を忘れ立派な役者になってもらいたいものだ、少なくとも自分で「人間国宝」だなんて威張り散らすような見た目だけの役者にはなってほしくないものだ。今回の富樫も、華は十分過ぎるほどあるんだが、いかんせん実がない。これも一概に若さゆえとは言えないんだろうなあ・・・。
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高嶋政伸離婚騒動 2: 言わんこっちゃない・・・

2011年07月16日 | Weblog
早速「マザコン説」報道。

マザコン男が、性格の不一致を理由に、離婚回避を懇願する妻を捨てる、って何ともまあ男の側にとってみたら格好の悪い話だわなあ・・・。

真偽のほどはさておき、「マザコン」ってだけでも、高嶋は株を下げるであろうに、加えて「やり直したい!」と言う女房と離婚となれば、世間には「女房を捨てた」という見方も出てくることは避けられない。となれば、高嶋は更に男を下げて、仕事も・・。

それくらいの計算はできるだろうに、それでも離婚したいって、よほどの女なのか、それとも、よほどの高嶋自身に「マザコン」の可能性も含めて問題があるのか・・・。

だから、言わんこっちゃないのになあ・・・。
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そうそう、中村小山三もお忘れなく!

2011年07月15日 | Weblog
この人も人間国宝にしてください。

せっかく、大中村の遺言とはちがって棺桶に入らなかったおかげで、今じゃあなくてはならない脇の名手!

頼みますよ、是非 小山三も国宝認定してくださいよ!
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おめでとうございます!: 吉右衛門が人間国宝に!

2011年07月15日 | Weblog
もっと早くなっていても良かったはずだ。

音羽屋が先というのは、個人的には納得がいかなかった。なぜって、音羽屋は、正直言って「家の芸」をしっかりと継承しているとは思えないのだ。当代の弁天、そりゃあ当代一とは認めるが、6代目のそれに比べてなんともまあ重ったるい。

まあ、それはさておき、贔屓としてはめでたし、めでたし。そもそも役者に「人間国宝」なんていらんだろう!というのが本心だが、今はそんなことをいって水を差す無粋はよしにしよう。


でも、兄さんの先を越してしまったね。もっとも、兄さんの今の芸況では、人間国宝はおぼついかないねえ。丸本物がいただけない幸四郎なんて、あり得ないからねえ。松嶋屋も三男坊が仁左を継いだわけだから、ここは実力の世界ということで、兄に先んじても当然問題なし。ん、これもまた無粋だって? そりゃ、そうだ。


あの名調子、役の作りこみのきめ細やかさ、そして見る側の心のひだにふれる芝居のうまさ、これはもう、先代幸四郎や初代を超えているところもあるんじゃないだろうかと思うのは、私の贔屓の引き倒し? 

いやいや、播磨屋はこれからまだまだ進化しますよ! 親父の幸四郎だって、この前50代はじめのころと60代半ばのころの陣屋を見比べる機会があったんだが、後者の方が断然良かったから、播磨屋もきっと10年後には更によくなっているはず!きっと、もう他の追随を許さなくなっているだろうね。あえていえば、上方の松嶋屋くらうでしょう、播磨屋の向うをはれるのは。

そう、次の人間国宝は、松嶋屋! 才能を感じさせる孫もいるし、松嶋屋の未来も明るそうだ。まあ、長男さんところのあとつぎさんっていう心配事もなくはないけど・・。

そこで、人間国宝になった播磨屋さんにお願いなんですが、歌昇改め又五郎にどんどん良い役付けてあげてください!
あの人にはむかーしから注目してきたんだが、今以上に大役を与えても、立派にやるでしょう、彼なら! 七段目の平衛門なんてどうですか? あの名調子、愛嬌をもってすれば(でも、鬼平では存在感なかったけどねえ。映像になると
生彩を欠くのは大和屋と同じ?)、これからますます腕を上げるでしょう!


ああ、それにしても、うれしいなあ。自分の贔屓の役者がどうあれ国宝になるってのは。

「播磨屋のいる時代に生まれた幸せ」を、改めて実感している現在ただ今です。

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古賀茂明は犬畜生以下だ!

2011年07月15日 | Weblog
役人としての禄を食みながら、勤め先に対する批判をあちこちで開陳する。

これは方法論として外道の所業ではないのか?

犬も誰がえさをくれるのかを知れば、しっぽを振る。古賀氏の場合、禄をくれる相手に処々方々で噛み付く。挙句には著作というかたちで噛み付いて、金儲けまでしている。

要するに犬以下の所業なのだ。

批判するのはいい。透明性のない霞ヶ関や永田町の内幕をあらわにするのは良しとしよう。だが、それをするのは官を辞してからにすべきだ。批判の対象からメシをもらっておきながら、噛み付くというのは、どうにも道理に合わぬはなしではないか。いわば、主人をたばかって飯を食っているようなものではないのか。

子の親なら、見せてはいけない姿である。

官を辞せば路頭に迷い、家族を食わせることができない? かりにそうだとして、家族を言い訳にするのもこれまた卑怯。

最近はマスコミの寵児化しつつあるが、こんな手段を選ばぬ男を重宝がるのもいかがなものか?

なんてことをマスコミに言っても無駄?

確かにその通りだ。
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