くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

何の因果で・・・: 知人の死

2010年02月22日 | Weblog
知人が亡くなった。

特別親しいわけでもなく、ここ2年ほどは会ってもいなかった。その知人が亡くなった。しばらくの闘病の末のことだったとか。闘病中であることすら知らなかった。

あまりにも早い死。結婚してまだ月日の浅い奥さん、きっと父親の顔など覚えていないであろう子供たちを残し、両親はおろか祖父母よりも早く、あの世に行ってしまった。

良い意味で、どうしたらこんなふうに育つものかと思うほどに純真で、誰からも好かれ、かわいがられた。「こんなんで、社会生活を送れるのだろうか」とも心配したが、知人はそんな天職ともういべき職を見つけ、一生懸命に働いていた。

なのに・・・。

そんなに多くはないが、知人にまつわるエピソードが思い出されて、悲しい。

残された家族、特にご両親のこと、子供のことを思うと、同じ親として、ただただ心が痛む。

不幸があった際に、遺族に対してよく「お気持ちをお察し申し上げます」という言葉が口にされるが、私は知人の遺族の気持ちを察することができない。私も家族を亡くし悲しんだ経験を持つが、子に先立たれ、連れ合いに先立たれたことはないので、そういう経験をした人の悲しみ、苦しみを察しようとしても、察するに余りあり、「お察し申し上げます」などとはとても言えない。

因果応報という。そういうことは、確かにあるものだ。ただ、知人の場合、そしてその遺族の場合、何の因果で・・・とただ嘆き悲しむしか私にはできない。

「気を確かに」、「がんばって」などとは、口が裂けてもいう気にはなれない。今の遺族に、それほど酷な言葉はないはずだからだ。それだけはわかる。慮ってくれる人々の気持ちはありがたいが、「何をどうがんばれというのだ」という思いにもさせられてしまうのだ。

何の因果で・・・、どうして・・・、今の私にはそれしか言えない。

もし唯一救いとすべきは、知人が病と闘病の肉体的、精神的苦しみから救われたことかもしれない。とは言っても、幼いわが子を残して、あの世に旅立てるものだろうか。もし最後の最後まで意識があったとすれば、気にかけていたのは、自分の苦しみよりも、残していく妻子のことではなかっただろうか。

今更あれこそ想像してみたところで、知人はもうこの世にはなく、遺族と悲しみが残されたことには変わりがない。そして、遺族はその悲しみを背負いながらこれからも生きていく。それが癒えるのは一体、何時のことだろうか。子供の年齢を考えるに、決して短くはあるまい。

何の因果で・・・・、繰言のように思うしかない。

コメント
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