くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

「事実」と「幻想」としての台湾イコール親日国家

2010年02月20日 | Weblog
台湾には、特に若者たちは日本に関心を示してくれる層が結構いる。それは今回の家族旅行でも感じた。

ただ、小林よしりんが「台湾論」で描いたような熱烈な日本への親近感を私個人は感じたことはない。確かに、今回も観光地や台北の街角や飲食店で、こちらが日本人と知ると非常に青い層良く話しかけてくれる若い世代に何人も出会った。しかし、その一方で、無関心な層も結構いるように感じた。台湾にとってやはり一番関心のある国は、やはり大陸と米国ではないのか。特に後者に関して言えば、台湾人のあの国への依存度は自らを「属国」と自虐的に揶揄することを好む我々日本人以上ではないだろうか。特に、エリート層の対米傾斜はかなりのものと見た。半ばバカらしくなるほどの学歴社会である。博士号を持たぬ者は人としてみなされない、というのは大げさだが、そういう声は台湾人自身からも聞こえてくる。エリート層、富裕層の多くは、米国留学組が多く、しかも彼らの多くは学士号にとどまらず、修士・博士号までも米国で取得してきている。前々総統李登輝は米国で修士と博士号を取得している。現総統馬英九はハーバードの法科大学院出のジューリスドクターである。

ちなみに、ジューリスドクターを法学博士と訳すのはやめた方がいいのでは? ジューリスドクター自身が「法学博士」と自らの肩書を訳すケースもあるが、Ph.D.なんかの博士とはまったく別物で、一部では「法務博士」と訳す場合もあるようだが、そちらの方が正確だろう。米国の有名大でPh.D.を取得した友人いわく、無知ならともかく意図的な「法学博士」の訳は、経歴詐称に等しいとよく言うが、私も同感だ)。我が子にもいずれは米国留学をと思う親は多いようで、台北のアメリカ人学校にはかなりの数の富裕層の子弟が通学しているとのことだ。道理で下校時にアメリカンスクールの前を通った時、ベンツ、MBW,レクサスの類がアメリカ人学校の周囲に何十台という単位で停車していたが、その中に乗り込んでいく台湾人の子供を多く見かけた。

一方、アメリカ人学校のすぐ向かいにある日本人学校はと言えば、駐在員から聞いたところでは、片親が台湾人で日本人学校に通わせる家庭はあっても、両親が台湾人で日本人学校に通わせるケースはまず皆無だとのことである。

これが台湾の「親日」の現実である。

今の政権もそうだ。親日、知日政治家や政府関係者が一体どれだけいるというのか。既に前政権でもそうだった、陳水篇自身、日本に特別の思い入れがあったとは思えない。李登輝の親日姿勢も多分に政治的な思惑を含んだ演出とみるべきで、そのまま受け入れるべきではない。

大衆文化という点で台湾のある世代に日本への関心は高いが、それは台湾の対日観の一部を映し出しているに過ぎない。別の一面においては、日本と台湾のつながりは、細くなる一方だということを忘れてはなるまい。このまま、日本の経済力がプレゼンスを失い、同時にポップカルチャー、流行の発信源としての魅力も失うことになれば、日台のつながりは確実に弱まり、それは台湾人の対日観にも当然のことながら変質をもたらすであろう。

台湾人アイデンティティー(認同)についても、現時点で、それが何物なのか断ずることは難しい。いまだ、古事記に出てくる創生前の地球、日本列島のようなもので、これから先、海のものになるとも、山のものになるとも皆目見当がつかない。中華民族アイデンティティーに収斂されてしまう可能性すら完全に否定ができまい。

あの島の人々は、その歩んできた歴史ゆえに日に柔軟かつ功利的である。功利的といえば否定的に聞こえなくもないが、外来勢力の支配を繰り返し受けながらあの小さな島で生存していくためには、それは必要な生きる術であり、いつしかあの島の人々の住民性になってしまったのではないだろうか。金銭への日本人には考えられないような固執も、外省人文化に毒されたなどと表するよりもむしろ、歴史経験から得た習性というべきであろう。同じことは、その外省人にも言えるのではないだろうか。我が国よりもはるかに過酷な歴史経験をもつ大陸人の、日本人からしてみれば眉をしかめたくなるような功利性や金銭欲、物欲も、歴史によって形成された「生きる術、知恵」なのだろう。

そうした人間たちである。どう見ても、我々日本人よりは大陸の人間に似ている。ついでにいえば、衛生観念の欠如という点についても実によく似ている。大陸で見る「不潔「は、台湾でもいまだに見ることができるのだ。

今から10年後とはいうまいが、20年後、あるいは100年後、台湾の対日観は今のものとはすっかり様変わりし、昔は・・・な時もあったと振り返ることになるかもしれない。もし、そいうなることが我が国にとって望ましくないというのであれば、我が国としては、台湾との関係の構築について、もう少し真剣になるべきであり、台湾が大陸に飲みこまれるような事態にならぬようあらゆる努力と施策を惜しむべきではない。もっとも、民主党政権にそれを期待することが無駄であるとはわかっているが。

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「隣国」台湾に見習うべきこと その2

2010年02月20日 | Weblog
公共交通機関での人々の態度を、東アジア日中韓台の「四(三)カ国」の間で比較するならば、ワーストの順で言えば、中、日、韓、台ということになるのではないだろうか。

では、私がいう「態度」とは?

ここでいう「態度」とは、乗り降りの際の秩序正しさを指すものではない。もしこの意味で「態度」というならば、やはり日本人が群を抜いて公共的である。ワーストは言うまでもなく、中国大陸だ。韓台の優劣は、私的にはなかなかつけがたいように思う。台湾の場合、MRTの乗り降りは、警備員もいるせいか随分マナーというものが共有されてきており、大阪に遜色ないが、東京などには及ばない。やはり列を無視した乗車や、下車する客を待たずに我先に紀子もうとする客はいる。大阪の場合、おばちゃん以上の年齢に多いという印象だが、台湾の場合、年齢に関係ない。ただ、私見では女性の方が多いように感じた。中国は悪い意味で「別格」である。レベルが違いすぎる。特にバスは相変わらずひどい。台湾もバスはほめられたものではない。路線が多く一つの停留所に停車するバスの数が多いため、並ぶということに余り意味がないのかもしれないが、台北駅前の停留所では比較的皆列をなしてバスをまっている。列のままに乗客が乗るケースもあるが、列を作って待っていたのに、バスが来るといきなり列を崩して我先に乗り込もうとする路線もあり、こうなると路線ごとの住民の民度の違いによってマナーの良しあしも変わってくるのかもしfれない。きっと公共マナーでは悪評の高い大阪でも、そういうことがあるのではないだろうか。皆が皆、西成の人間と同じというわけではあるまい。

私がここでふれたい「態度」とは、席の譲り合いについてである。ここでは「別格」の中国にはあえて触れまい。触れれば、同じ人間として、濃淡はあるにせよ儒教文化の影響を受けた国のものとして、大陸のあり様は「無残」という他ない。では韓国、台湾はどうか。韓国では、年配者に席を譲るという行為はいまだ良く目にする。韓国人の知人いわく、昔に比べれば随分情けない状況になりつつあるというが、日本よりはましだ。その点、台湾は、韓国よりも更に我が国の上をいく。当然良い意味でだ。年配者がバスに乗車したとする。まだ車内にはかなり座席の余裕があるにもかかわらず、年配者に距離的に近いところにすわる台湾人は自ら席を空け、他の席に移るか、立ったままでいる。MRTなどでも不特定多数の年配者が乗車してくると、必ずしも特定の人物に席を譲るというわけではないが、若輩は自ら席を空ける。

それだけではない。妊婦や乳幼児を連れた女性にも席を空ける。よくよく考えれば、当然そうあるべきなのだが、果たして日本の現状はどうだろうか。

更には、子供にも席をゆずる。

もっとも、昔ながらの我が国の感覚でいえば、乳幼児はさておき、学齢に達した子供に席を譲るということには賛否両論あるかもしれない。昔は、子供は立っていればよい。むやみやたらと座りたがるものではない。それが鍛錬にもなるという考え方で、私の親もそうした考えだったから、あまり空席に余裕のないバスや地下鉄に乗った時に、空席を探そうとキョロキョロしていると叱られたものである。ただ、安全性という点からみれば、子供はできるだけ座らせた方が良いということになるのかもしれない。日本の公共交通機関は台湾ほど運転が荒くないから、より安全で車内で転倒するような危険性は低いのかもしれないが、危険性がゼロというわけではない以上、先ほど述べたように、議論の分かれるところかもしれない。私の子供たちは今回の家族旅行で、二度ほど年配者から席を譲られそうになり、私はそのたびに礼を言いつつ断ったのだが、郷に入らばということで言えば、あえて甘んじるべきだったのだろうか。

台湾でも、日本では当たり前に見かけるように、若くとも年配者に席を譲らない人もいる。
たった一度だけしゃがみこんでいる若い女の子を見たときには驚いた。昨今、日本では決して驚かなくなった光景だが、見苦しいにはかわりない。台湾で車内の飲食は禁止だが、それを無視しての飲食を見かけたこともあった。車内での女性の化粧、あれは日本でも今に始まったことではなく、子供のときから時々見かけたが、台湾でもやはり車内で平気で鏡を取り出し化粧を直す「バカ女」をみた。あんな女とは遊びでも寝たくないと思うのは私だけか?そんなことはさておき、ざせきの件だが、向うでは優先席は博愛座というが、そこに平気で座ったままの若者を短い滞在中にも何度か見かけた。でも、日本のようにそれが当たり前の光景ではないところに、台湾社会の健全さというものを感じるのは私だけではあるまい。


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「隣国」台湾に見習うべきこと その1

2010年02月20日 | Weblog
先日、台湾に家族旅行したことを書いた。

台北滞在中、短い間ではあったが、改めて認識させられたことがある。

改めてというのは、以前にもそう感じたからである。

それは「余裕」という点である。

何の余裕なのか?「空間」の余裕である。

まずは、公共交通機関であるが、MRTと呼ばれる台北市内及び近郊を結ぶ鉄道の座席。車両は、シーメンスと川崎製の両方を見た。それはさておき、我が国の地下鉄や鉄道に比べ、座席に余裕がある。構造上、我が国の一般的な車両に比べ不便を感じる点をなくはなかったが、一人当たりの座席の幅が広い。

同じことは、バスにも言える。市内はかつての日本の大都市もそうであったように非常に多くのかつ複雑な路線によって結ばれている。使い慣れれば、このうえなく便利である。以前は中国語を解しないとキツいという外国人客には難点もあったが、最近は、車内前方に漢字とローマ字で次の停車駅を知らせる電光掲示板を持つバスが増え、しかも現地語に加え英語のアナウンスも入るようになっている。すべてのバスがそうなっているわけではなく、故障していることも少なからずあり(この点は相変わらずの台湾らしさである)、そうなると運転手のアナウンスに頼るしかなく、なかにはアナウンスすらしてくれない運転手もいるのだが、ここが台湾人の親切さ、降りる駅についたら教えてくれるよう頼めば教えてくれる。運転手でなくとも、最寄りの乗客に頼んでも良い。もちろん筆談Okだ。大体の人が助けてくれる。中には無愛想な人、特に女性に多いが、表情だけで判断してはいけない。無愛想でも声をかければほとんどの人が助けてくれる。

話がずれたが、その市内バスも、総じて座席は横にも、前にも広い。もっとも、最新式バスでないと、日本に比べかなり乗り心地は悪い。しかも以前よりはましになったといえ、運転が相変わらず荒い。そうした日本にはない問題もあることにはあるが、スペースという点では、台北のバスに軍配が上がる。

列車もそうだ。台湾新幹線の座席は決して狭くて座り心地も悪い。自強号の座席の方がはるかに良い。700系をもとにした日本の新幹線を導入したとのことだが、座席に関しては、どうも日本の新幹線に劣る。そして、その日本の新幹線もグリーン車を除けば、自強号に劣る。

アパートの広さも、総じて、日本の方が狭い。台北にはさまざまな集合住宅がある。朽ち果てたような汚いものもあれば、デザイン的には日本にはないよ言うな凝ったものもある。もっとも、デザインは人ぞれぞれで、私は台湾の高級アパート(マンション)のデザインは、欧米の建築物を意識し過ぎかつ成金的で嫌いなのだが。ただ、外見的には汚いビルでも、中は思いのほか新しい阿アパートも結構あり、日本よりは広めである。

なぜなのだろうか?

そういえば、以前、李登輝が、台湾地震の際に日本がよこした仮設住宅は台湾のそれよりも狭かったということを、どこかで述べていたことを記憶している。

台湾も人口過密な国である。台北に関して言えば、その化密度は日本の大都市にそん色かそれ以上にはずだ。それなのに、公共交通機関や居住スペースに余裕を持たせてあるというのはどうしたことか。

日本人は貧乏性なのか?

それとも、人にやさしくないのか? 人の快適さというものへの追求心が弱いのか?
台湾人の親切さとスペースの余裕には関連性があるのではないのか? 台湾人の精神的余裕、逆にいえば日本人の精神的余裕のなさ、貧困に起因している違いではないのか?

ふとそんなことを改めて考えてしまった、先日の台湾家族旅行であった。
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