28日の産経新聞は、沖縄戦で起きた所謂「渡嘉敷島集団事件事件」において、軍の強制はなかったとする関係者の証言について報じた。
この集団自決事件をめぐっては、戦後早くから軍の強制説が闊歩してきたが、その一方で、それを疑問視する見方や否定する証言も存在した。しかしながら、戦後日本社会で支配的であったある種の思潮に支えられてか、強制説の影に隠れてきた。
今回、元琉球政府の職員である照屋昇雄氏は、自身が自決を軍命令とする「創作」をおこなった一人であることを認めた。照屋氏によれば、軍が自決命令を下したという事実はなく、戦後自決した者の遺族や負傷者が「戦傷病者戦没者遺族援護法」(昭和27年施行)の適用を受けられるよう自決命令が下されたとする書類を作成したのだという。それには当時の厚生省の役人も関与していたという。この証言が事実を語るものであるとするならば、渡嘉敷島集団自決事件における軍強制説は否定されたと断定して差し支えあるまい。
戦後強制説がまかり通る中、300名以上の命を奪った強制集団自決の責任者として世間の指弾に晒されてきたのが、自決事件発生当時渡嘉敷島で軍務についていいた赤松嘉次大尉(故人)である。
照屋氏は、赤松氏が、島民の戦後の生活苦に同情し、「自ら十字架を背負ってくれた」と見ている(産経8月27日付)。産経の記事は、照屋氏がそう証言する根拠が、援護法の適用をめぐる厚生省との折衝において、軍命令ということであれば援護金を得られるということになり、同省課長が言った「赤松さんが村を救うため、十字架を背負うと言ってくれた」という説明にあることを示している(同紙同日付)。
一方、この照屋証言を否定する事実もある。沖縄タイムス社が編集出版した『沖縄戦記・鉄の暴風』は集団自決が赤松大尉の命令によるものであったとしている。これが最初に出版されたのは、援護法施行の2年前の昭和25年である。つまり、照屋氏らが「うそ」をでっち上げる以前から、赤松氏による強制説が既に存在していたといことになる。
それだけではない。赤松氏が同意の上で「十字架」を背負ったという点についても、果たして厚生省の課長という人物の言葉をそのまま鵜呑みにしてよいものか、疑問点が残る。産経新聞による照屋氏へのインタビューによれば、この「十字架」云々は、照屋氏が赤松氏から直接聞いたものではなく、厚生省課長を介している。であるならば、この課長なる人物を特定し、もしその人物が物故者でなければ「十字架」の真偽を確認するという作業が必要であろう。事実、照屋氏自身も、産経の記事のよれば、赤松氏はが十字架を背負うことを受け入れたと「みている」にとどまっている。
加えて、赤松氏が「十字架」を背負い続けるつもりであったかどうかという点についても、筆者は確信が持てない。照屋氏はインタビューのなかで、「赤松隊長が余命3ヶ月となったとき、玉井村長に『私は3ヶ月しか命がない。だから、私が命令したという部分は訂正してくれないか』と要請があったそうだ」と語っている。照屋証言の文脈のなかでこれを聞けば、十字架を背負い続けた赤松氏が、最後の最後になって自らの潔白を明らかにするよう地元関係者に要求したとも解釈できる。だが、小林よしりんの『戦争論3』には、赤松氏は生前(少なくとも昭和45年以降)は「一貫して『集団自決命令』を否定し続けた」とある。(『戦争論3』116頁)。こちらの文脈で解釈するならば、赤松氏の要請は氏の以前からの「自決命令」否定の一環であり、甘んじて背負い続けた汚名を人生の最後の最後に注ごうとしたといのとは話が違った形で見えてくるのだ。
史実を掘り起こすうえで証言というものを証拠として活用する際の難しさが、ここにある。
この集団自決事件をめぐっては、戦後早くから軍の強制説が闊歩してきたが、その一方で、それを疑問視する見方や否定する証言も存在した。しかしながら、戦後日本社会で支配的であったある種の思潮に支えられてか、強制説の影に隠れてきた。
今回、元琉球政府の職員である照屋昇雄氏は、自身が自決を軍命令とする「創作」をおこなった一人であることを認めた。照屋氏によれば、軍が自決命令を下したという事実はなく、戦後自決した者の遺族や負傷者が「戦傷病者戦没者遺族援護法」(昭和27年施行)の適用を受けられるよう自決命令が下されたとする書類を作成したのだという。それには当時の厚生省の役人も関与していたという。この証言が事実を語るものであるとするならば、渡嘉敷島集団自決事件における軍強制説は否定されたと断定して差し支えあるまい。
戦後強制説がまかり通る中、300名以上の命を奪った強制集団自決の責任者として世間の指弾に晒されてきたのが、自決事件発生当時渡嘉敷島で軍務についていいた赤松嘉次大尉(故人)である。
照屋氏は、赤松氏が、島民の戦後の生活苦に同情し、「自ら十字架を背負ってくれた」と見ている(産経8月27日付)。産経の記事は、照屋氏がそう証言する根拠が、援護法の適用をめぐる厚生省との折衝において、軍命令ということであれば援護金を得られるということになり、同省課長が言った「赤松さんが村を救うため、十字架を背負うと言ってくれた」という説明にあることを示している(同紙同日付)。
一方、この照屋証言を否定する事実もある。沖縄タイムス社が編集出版した『沖縄戦記・鉄の暴風』は集団自決が赤松大尉の命令によるものであったとしている。これが最初に出版されたのは、援護法施行の2年前の昭和25年である。つまり、照屋氏らが「うそ」をでっち上げる以前から、赤松氏による強制説が既に存在していたといことになる。
それだけではない。赤松氏が同意の上で「十字架」を背負ったという点についても、果たして厚生省の課長という人物の言葉をそのまま鵜呑みにしてよいものか、疑問点が残る。産経新聞による照屋氏へのインタビューによれば、この「十字架」云々は、照屋氏が赤松氏から直接聞いたものではなく、厚生省課長を介している。であるならば、この課長なる人物を特定し、もしその人物が物故者でなければ「十字架」の真偽を確認するという作業が必要であろう。事実、照屋氏自身も、産経の記事のよれば、赤松氏はが十字架を背負うことを受け入れたと「みている」にとどまっている。
加えて、赤松氏が「十字架」を背負い続けるつもりであったかどうかという点についても、筆者は確信が持てない。照屋氏はインタビューのなかで、「赤松隊長が余命3ヶ月となったとき、玉井村長に『私は3ヶ月しか命がない。だから、私が命令したという部分は訂正してくれないか』と要請があったそうだ」と語っている。照屋証言の文脈のなかでこれを聞けば、十字架を背負い続けた赤松氏が、最後の最後になって自らの潔白を明らかにするよう地元関係者に要求したとも解釈できる。だが、小林よしりんの『戦争論3』には、赤松氏は生前(少なくとも昭和45年以降)は「一貫して『集団自決命令』を否定し続けた」とある。(『戦争論3』116頁)。こちらの文脈で解釈するならば、赤松氏の要請は氏の以前からの「自決命令」否定の一環であり、甘んじて背負い続けた汚名を人生の最後の最後に注ごうとしたといのとは話が違った形で見えてくるのだ。
史実を掘り起こすうえで証言というものを証拠として活用する際の難しさが、ここにある。