くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

千原ジュニアという芸人の「限界」:海老蔵披露宴での一言

2010年07月30日 | Weblog
冷凍鶏肉のエピソードで一部から非難を浴びた千原ジュニア。私も番組を見ていたが、話の内容の危うさとともに、それに気付かぬふうに話すジュニアと笑いで応じる周囲に不快感を禁じえなかった。

そのジュニア、トークの巧さを評する声もあるが、芸人としてはどうなのだろう。やはり、ポスト○○と言われるほど今後大きくなるとは到底思えないのである。まずその一つがあの容姿。一部の女性には「カッコイイ」ようだが、どう見ても一般受けする容貌ではない。まあ、事故による顔面損傷の経緯もあるので、あまり言うのもなんだが、広く親しみを呼ぶ顔ではない。まあ、愛嬌とでも言うべきだろうか、それが乏しい。

加えて、やはりトークの「行き届かなさ」かもしれない。その最たるものが、上述の冷凍鶏肉の一件だが、海老蔵披露宴でも、彼の瞬時の判断力の危うさをいかんなく発揮した。

報道陣の問いかけに、あのような豪華な披露宴は「陣内以来」とのたもうたのだ。

めでたい場に呼ばれておいて、破局した夫婦のことを口にする。これは披露宴という場においては、非礼、非常識以外の何ものでもない。そんな分別もつかないほどのアホでもあるまい。「陣内」と言いつつ自分で笑っていたところをみると、報道陣やカメラを前に「受け」を狙ってのこととしか思えない。

確かに、「受ける」かもしれない。冷凍鶏肉の時と同様、一部には笑ってもらえるかもしれない。しかし、常識ある人間は笑う前に引いてしまうだろう。おそらく後者の方が一般的ではないのか。

そんな計算もできない芸人が例えばさんまのように広く世間の支持を得ることができるとは思えないのだ。

千原ジュニア、そろそろ頭打ちかもしれない。というか、「舌禍」を繰り返し消えていかねばよいかとの危惧すら抱いてしまわざるを得ない。

要は、あまりアタマに良くない芸人ということなのかもしれない。


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本外交の限界: 元レバノン大使天木直人が福島瑞穂にエール!(笑)

2010年07月29日 | Weblog
天木直人、懐かしい名前である。小泉時代にレバノン大使をやっていて日本政府のイラク戦争指示を批判して辞めたお方だ。その後、外務省の暴露本を書いている。外務省関係者や知人でもいれば誰が誰だかわかってしまうようなイニシャル使い。あえてそうしたのだろうが、内容的には、天木という人間の人柄、人品をよく現していておもしろかった。

そういえば、私が在米中、最寄りの領事館で総領事も務めていたはずだが、某日系企業関係者の天木評は芳しいものではなかったと記憶している。初対面で面と向かって同社を含め日系企業批判をされたとかで、「何様」みたいなことを言っていた。

さて、その天木氏のブログがこれまたおもしろい。以下抜粋。

>利害と打算で行なわれる今の日本の政治の政界再編の中で、一つぐらい理想を求めた同士が結束する政党があってもいい。その
>テーマは平和である。憲法9条である。菅民主党政権によって沖縄が切り捨てられ、日米同盟が深化し、憲法9条を否定する新
>防衛計画の大綱がつくられようとしている今、憲法9条新党がこそ渇望される。そんな政党ができれば私は全力をあげて応援す
>る。そう考える国民は少なからずこの日本にいることを私は知っている。

天木氏の書いたものと知らなければ、「九条を守る会」かそれに類する「平和大好き!、九条大好き! 一緒に心中したいくらいに大好き!」みたいな連中か、沖縄の隔離された環境で地元マスコミにいいように情報操作され思考がガラパゴス化した連中、あるいは学校の教師の言うことを信じてしまう無垢な中高生くらいが書いたブログ記事と思ったかもしれないし、思うかもしれない。

が、なんと、大使まで務めた元外交官なのである、作者は。

冗談か、福島社民党への茶化しでなければ、こういう政治的現実感覚を持てない人間がエリート外交官であったという事実、外務省がしいては我々納税者がこういう類を自らの税金でメシを食わせていたのかと思うと、何とも、自嘲気味に笑いがこみ上げるとともに、日本外交のお粗末な現実の一端を突き付けられたのだとすれば、何とも情けない気分にもさせられるのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先代勘三郎と当代吉右衛門

2010年07月28日 | Weblog
血はつながれど役者としてはタイプがまったく違う。が、両者とも私には贔屓の役者である。

先代は、兄大播磨の当り役も演じたが、元々は時代物役者ではなく、やはり世話や新作でその巧さを見せる人であった。

ただ、典型的な時代物役者でもあり、二代目として家の芸を守るべき当代播磨屋よりも巧かったと感じ入る役が二つある。

まずその一つが、「松浦に太鼓」である。成駒屋の家の芸「土屋主税」同様他愛もない
忠臣蔵物であるが、「土屋」に比べて実に気持ちの良い芝居である。討ち入りにはしゃく松浦候は見ていてこちらの気分も高揚してくる。

この場の鎮信の演技、先代中村屋に軍配が上がると思うのは私だけか。山鹿流の陣太鼓を指で確かめてから、「宝船は、ここじゃ、ここじゃ「まで、しぐさ、間の取り様、いずれをとっても播磨屋よりも大中村の方が、見るものを気持ちよくさせてくれるのだ。
芝居のリズム感とでもいうのか、そこに先代の巧さを感じ取らずにはいられない。

二つ目が、「馬盥の光秀」。愛宕山で春永の使わした使者二人を切ってから刀をかついでの笑い。あの笑いのうまさは、播磨屋も、そして上方の立役の雄松嶋屋も到底かなわない。あの笑いに潜む「陰」の部分において、大中村のそれは両者に勝っている。元々、光秀は松嶋屋のニンではない。台詞がどんなによくとも、「陰」の部分が出ないことには、この芝居の光秀はダメなのだ。播磨屋は「陰」の部分を演じることもできる役者ではあるが、それでも大中村には及ばない。大中村と言う人は、愛嬌の役者であるが、その一方で、光秀をあれほど陰々滅滅と演じられるのは、やはり巧さ以外の何者でもあるまい。

当代中村屋が、松浦候や光秀を演じることはないと思うが、一度くらいは見てみたいものである。

それはさておき、本来の自らの得意分野でないにもかかわらず当代きっての時代物役者の及ばぬ芸の力、先代勘三郎のすごさを改めて思ってみるのである。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辻元問題、もしかして狙いは「離党」ではなく「福島下ろし」?

2010年07月27日 | Weblog
離党で揺さぶっておいて、福島を引きずり降ろそうとの思惑か? 詐欺師だから、離党なんて口からでまかせ平気で言うだろう、あの女?

で、自分か阿部あたりが新党首になって、福島の「原理主義」路線を修正する?

要するに、党内クーデター、奪権闘争を仕掛けた? 

でも、党勢回復は無理でしょう? むしろ、福島路線ゆえに社民を支持してきた連中が離れるのでは?

まあ、離党でも、除名でも、いずれにしても社民を離れる方が得策なのだろう。社民という看板なしでも、他の議員の数を頼みとせずとも、「辻元」というネームバリューでやっていけるのだから。

要はどちらに転んでもいいと? いずれにしても、辻元を失って傷つくのは社民党だと、自党の足元を見てるな、この女?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

前科一犯辻元某

2010年07月27日 | Weblog
確か5月にその可能性に触れたと思いますが、やはり、社民という泥船を逃げ出しました。

で、いきなりの民主党入りとかはないと思うが、まさか・・。そこまで節操のないことはしないはずだが、節操がないから前科一犯になったとも言える。

まあ、どういうかたちであれ、いずれ政権与党にすり寄ることは間違いない。

なんで、こんな女を国会に送りたいかね、大阪の間抜けどもは。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鶴田卓彦、なんでこんな男が横綱審議会委員長?

2010年07月26日 | Weblog
このオッサン、まったくどうかしてるとしか思えん。

こんな男が横審の頭だものだから、ダメなんだよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横綱白鵬はいまだケツの青いガキに過ぎない。

2010年07月26日 | Weblog
白鵬の涙、それがどうした?

あんなくだらないものに、同情の余地はない。

いや、むしろ批判されてしかるべし! 横綱たるもの、あのような場で、涙すべきではあるまい。心技体、「心」のいまだ充実しないことを証左に他なるまい。

未熟者め!

また賜杯云々を繰り返したが、分際を知るべし! 自身が相撲協会の屋台骨を背負っているとの自覚がなるならば、むしろ賜杯辞退を当然のことと受け止めるべきである。

今の相撲協会に賜杯を受ける資格があるのか、自問自答すべきである。私の感情と相撲協会をけん引する立場の者としての分別を
混同しているとしか思えない。

まだ20半ばのいわば青二才であるが、それでも横綱だ。相撲協会に属する横綱なのだ。ならば、それくらいのわきまえはしてもらわないと困る。親方衆はじめ周囲の大人たちも一体何をしているのだ!

情けない限りだ。

そして、それに対する同情論もこれまた情けない限りである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そろそろ皆飽きてきたんでしょう、「龍馬伝」の過剰演技?

2010年07月25日 | Weblog
「龍馬伝」、ここにきて視聴率が下降気味だとか?

謹皇党の一件がピークを過ぎてしまったこともあるのだろうが、どうだろうか、このクソ暑い時に、あの過剰な演技に
視聴者がウンザリし出したのでは?

なんで、皆あそこまで力んで、大げさにする必要があるのだろうか?これは個々の役者による偶然ではなく明らかに、演出によるものだ。

岩崎弥太郎のあの大げさな語りも、最近はハナについてきて、お前一寸黙ってろといいたくなる。

福山の龍馬の演技は相も変わらず、オーバーアクションの一本調子である。

加えて、その周囲もまた、それに合わせて大仰な演技ばかり繰り広げる。

一時期、バブルの前後くらいにはやった小劇場の三文芝居をTVを通して見せられているような気持ちにさせられる。あの手の芝居は本当に苦手だった。似通ったような演技と演出で、何が良いのか、面白いのかわからない。小汚く狭い劇場でしばしば他人のオナニーを見せられているような不快な思いをしたものである。客も客でサクラじゃないかと疑いたくなるようなリアクションを見せ、これまた鬱陶しいことこのうえなし。

そんなに嫌いなのになぜ見に行った? 私は「芝居」一本やりだったのだが、周囲にはその手が好きでしまいには自分も出てしまうようなのが何人もいて、向うもこちらが毛嫌いしていることを承知でチケットを買わせたり、ただでよこしたりしてくる。まあ、こちらも目くじら立てて嫌っていたわけではなく、向うも冗談かからかい程度で私を読んだのだが。「龍馬伝」にはその手の臭いがする。その最たるのが、先週の丸山遊郭での薩長のさや当てだ。互いに薄汚い獣のように、薩摩、長州と吠え合う。以下に足軽程度の武士のはしくれのような連中も中にいたとはいえ(厳密にいえば、彼らが「侍」ではない)、あれはないだろう。次郎長ものでも、あんな下品な喧嘩は見たことがない。

いくらなんでもそれはないと思ったもう一つが、外国人を含めた長崎の物珍しさに、驚くあの様は、馬丁匹夫の類でも衆目のあるなかあそこまで大騒ぎすることはなかっただろう。

何もかもが、過剰なのだ。映画風の画面に繰り広げられる劇画チックな展開や、史実とはとっくにおさらばしてしまったような人物描写。どれもこれもtoo muchなのだ。この暑さのなか、毎週毎週ブタの角煮やとんかつでは、食欲も続くわけがない。

最初は面白いと思ったが、持続性のない演出、ここらあたりで少しテンションを下げてはいかがだろうか? そうでなくても、幕末維新の動乱そのものは更にヒートアップしていくのだから。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「必死剣鳥刺し」が面白くない理由 その5: 納得のいかない一場面

2010年07月24日 | Weblog
側室殺しの罪から放たれた男は、側室専横の象徴ともいうべき寺を訪れ、自らが手に賭けた者の墓前に立つ。そこに、側室の側に仕えた女が現れる。事件後、剃髪して亡き主の菩提を弔っていたのだが、その女(尼)が、トヨエツに問う。


何故に殺したのだと。


そこで「なんでそんなこと聞くの?」と思ったのは私だけか?

尼は側にいればこそ自身の主の専横ぶりを知っていたはずではないのか。それなのに、今更なぜ「何故に」と問うのか。
この女は、忠義一筋ゆえに主の悪行に盲目であったのか、あるいは単なるバカなのか? 

それとも、実は側室の専横とは何者かがでっち上げた虚構であり、実悪は虚構の背後に潜んでいるということなのかとも思い、
意外や意外、この映画には大どんでん返しがあるかもしれない、と期待したのだが、結局は当初の予想通りに終わった。

そして、疑問は残ったままとなった。

「なぜ、尼は問うたのだろうか・・・?」

わけのわからん映画というか、シナリオである。


原作を読むしかあるない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「必死剣鳥刺し」が面白くない理由 その4: 感情的に、生理的に受け付けない「濡れ場」

2010年07月24日 | Weblog
藤沢の原作を読んでいないので、あくまでも映画に関してとここで断っておきたい。さもないと、藤沢ファンの御怒りを買いかねない。

あの映画を見て、どうにもこうにも合点がいかぬのが、トヨエツと池脇の一線越えである。

別に池脇みたいな子どもっぽい女のどこが良いのだなどというのではない。

合点がいかぬのは、なぜあそこで「抱いた」のだという点。女から既に意思表示があったのだから、据え膳食わぬは男の何とやら。おまけに、女房に先立たれてからは御無沙汰の様子に加えて一年の閉門。そりゃたまっていただろうから、「抱いて」と言われれば、オスの本能が反応したとしても不思議ではあるまい。いや、むしろ健全であるというべきであろう。

が、性欲ゆえに女の求めに応じました、ではあまりにもチープじゃないか? いや、それが男女関係にありがちな現実だろう。たしかにそうだ。でも、藤沢は、いや制作側はあの「濡れ場」をそんなこととして描きたかったのだろうか。

でも、それ以外に、つまり性欲以外に、あの状況でトヨエツがあの出戻りを抱いてしかも中出しまでした理由がわからないのだ。

トヨエツも以前から女を憎からず思っていたということか。ただ、そうした思いに自身が気付かないままでいたところ、女の「誘い」によって気付いたということなのか。それとも、あえて封印してきた思いが「誘い」によって打ち開かれたということなのか。女に見合いをさせたのも、自らに思いを断ち切るためだったということか。

少なくとも、トヨエツの演技からそれは読めなった。

こうも思うのだ。閉門が解かれたとはいえ微妙な状況に置かれている男が、安易にあのような行為に走るだろうかと。見合いまでさせておきながら、露見すれば社会の指弾は免れないような関係をあえて持とうとするだろうか。露見すれば、縁談を申し入れた相手側の面子を潰すどころか、日常の不業績か役職ばかりか、しいては家禄、家名をも絶やしてしまいかねない当時の武家社会にあって、あの「一線越え」は、ある意味大した度胸でもあるが、別の見方をすれば浅はかではないのか? 

側室殺しにも同じことが言える。義憤ゆえという点に賞賛を惜しまぬとして、劇中の一人が奇しくも言ったように、「それで?」なのだ。

要は、トヨエツが演じた男は、剣の達人ではあっても、いささか思慮の行き届かぬ「愚か者」ということなのか? 私は、あの主人公に何らの人間的魅力も感じなかったのだが?


故に、、ただ単に池脇が趣味ではないとか、トヨエツの体が醜いというだけではなく、私はあの濡れ場を見続けることはできず、画面から目をそらした。今更他人の濡れ場に気恥しいさを感じるような年でもない。ただただ私の心があの場面を受け付けなかったのだ。


加えて、「濡れ場」に続く翌朝のシーン。尋常ならぬ二人を前に、朝飯をともにしながら女の様子にちらと目をやる下女(はしため?)の表情。「前夜」を知るものの表情であったが、そこに更なる嫌悪感を覚えた。下女は前夜の出来事を「音」いや「声」で知っていたに違いない。久々のそれに嬌声を上げる女の声を聞いていたのだ。下女の一瞬の表情がそれを物語る。プロの演技の妙であるが、私にとってはわけのわからぬ、理解に苦しむことの成り行きゆえに、改めて、途中で目をそむけた濡れ場を思い出し、嫌悪巻を再度味わうことになる。女はいい。思いを遂げられたのだ。しかも、思い焦がれていた男の「情け」にあずかれたのだから。しかし、その一方で、「なぜこの男は・・・」という疑念。オスとしてではなく男として、どうにもこうにも納得がいかなかったのだ。


というわけで、原作を読んでみますか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「必死剣鳥刺し」が面白くない理由 その3: キャスティングの拙さ

2010年07月24日 | Weblog
キャスティングもどうにかならなかったものか?

岸部の件は既に触れた。

他には、吉川晃司の別家役。あの目つき、顔つき、台詞廻し。いつぞやの信長役とさして変わりなし。というか、あんな大名家の一門ってありかね?どれをとっても、「御一門」には見えません。それは先日の「樅の木は残った」で伊達家一門を演じた伊東四郎、笹野高史にも言えたが、世襲の育む風情、風格をにおわせる「らしさ」のない、またはそれを演じられない役者を拝するというのは、いかがなものか? 

更には、大名と殺された側室。一言でいえば、時代劇にふさわしくないの一言。かつらと衣装だけの、「七五三役者」である。

そして、極め付けが、池脇千鶴の出戻り女。「出戻り」感まったくなし。おぼこい下女といったところか。原作を読んでいないので何故に出戻ったのかは知らぬが、そのあたり池脇の演技から、あの女の「過去」がにじみ出てこないのだ。それゆえに、トヨエツとの「一線越え」も、年の差のある男女の悪趣味な(まあ、男性側から見ればロリコン的な)性愛行為に見て、思わず画面から
顔をそらしてしまった。あの濡れ場に嫌悪感を覚えてのには他にも理由があるのだが、それは後述することとして、もうひとつには、池脇のあどけなさ(つまり、女としての見た目の未熟さ)と、トヨエツの肉体的衰え(あのムッチリ背中)のコラボも、私的には、ピーナッツバターとグレープジャムのサンドイッチ(アメリカでは結構定番で、二つが最初から一つになった製品もある)並みに生理的に耐えられないものがあったのだ。

「こんな醜悪な濡れ場を大画面でみるくらいなら、安でのAVの方がましだ」

というわけである。


よかったのは、チョイ役だが、側室に詰め腹切らされた勘定方。適度に抑えた演技、特に顔の表情が演技っぽくなくて、その点賛否はあろうが、個人的には好きだった。あの俳優さんは、どなた?


要は、トヨエツの体同様、ゆるーい作り方しているなあ、だからこんなキャスティングなんだよなあ・・・と、私は言いたいのだ。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「必死剣鳥刺し」が面白くない理由 その2: 豊川悦司のプロ意識の低さ、制作側の不徹底さ

2010年07月24日 | Weblog
時代劇俳優ではないのに、あの立ち回りである。その点には拍手を惜しまない。「暴れん坊」当初の頃のマツケンのへっぴりな立ち回りに比べたら、いや求めているものが違うので比較してはいけないかもしれないが、さすがプロであると感じた。

が、まだまだ、プロに徹し切れていないのでは?と思わざるを得なかったのが、あの弛んだ体。年齢的に仕方がない、というのは
通用しない。ひろみ郷を見てみろ! いや、北大路欣也を見てみろ! 「子連れ狼」の最初の頃の体は、「狼」ではなかったが、本人それに気付いて体を絞ったという。

それに比べて、トヨエツのあのだらけた胸板、腹、肉付きのよい背中。剣の達人皆が皆、引き締まった肉体を身につけていたとは限らないかもしれないが、あの体は明らかに「弛緩」している。乳首の異様に黒い点は敢えて問うまいが、あの体を大スクリーンに何度も見るために、高いチケット代を払ったわけではないのだが?

キャスティング同様、制作側の甘さというか、不徹底さが気になる。ありていに言えば、「あんたら、それでもプロか!?」の一言に尽きる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「必死剣鳥刺し」が面白くない理由 その1: 岸部一徳という「金太郎アメ役者」

2010年07月24日 | Weblog
子どもの頃から時代劇が大好きである。

それゆえに、今時の時代劇の「惨状」は辛い。時代劇チャンネル無しでは生きていけない。


というわけで、「必死剣鳥刺し」を見にいく。

今年はこの映画を含め、十三人の刺客のリメイク(三度目?)、そして桜田門。伊武雅刀の井伊はキャスティング的にどうかと思うが、これも見たい。悪趣味だと言われてしまえばそれまでだし、別にアンチ井伊ではないのだが、三〇万石の譜代大名が、白昼千代田城門前に置いて駕籠に乗ったまま首級を上げられるという事件。駕籠のなかにいながらに刃に肉体を刺しぬかれ挙句の果てに首を取られたシーンを想像するだけで、その高位のものが屈辱以外の何物でもない悲劇的かつ無残な死にざまを晒すというある種のグロテスクさは、ルイ16世やジェームス1世の処刑にも匹敵し、いわく言い難い「ぞくぞく」観を禁じえない。高位から晒し首へという、このジェットコースターかフリーフォール並みの落差に人の生き死にのドラマ性を感じずにはいられないのだ。井伊ほどではないにしても、小栗上野が縛られたまま河原で首を落とされたというのも、なかなかのドラマで、いつかその場面が映像化されればと思っている。

それはさておき、「鳥刺し」。最期の立ちまわりは確かに前ぶれ通り、なかなかの迫力であったが、総じて「残念」な映画であった。

その理由の一つが岸部一徳。あの人が出てきた時点で、側室殺しが軽罪に済んだ裏に何か策謀があり、その黒幕が岸部演じる中老であることがわかってしまう。これは興ざめである。岸部という人の演技がどうのこうのというのではない。得難い個性派俳優の一人には違いないが、あの人相ゆえに、どうも役が固定化してしまっていて、今回も冒頭で岸部が出てきただけでストーリーのおおよその予想がついてしまうという、観客にとってはお値打ち感の無い映画なのである。岸部自身も、また岸部を使う側も、そろそろ「別の一手」を考えるときではないのか? その点、「武士の一分」で敵役に三津五郎をあてたのは正解だったかもしれない。三津五郎という普段敵役など演じることのない人がそれをやるというケースとは逆に、何かあるに違いないと思わせて老いて実はというケースが、最近放映された「必殺」での津川雅彦だ。敵役ななおではと思わせておいて、真の敵役にあっけなく殺されてしまうという役回り。「鳥刺し」の岸部には、それがなく、結果、「ああやはり」というある種の「ガッカリ」を観客に感じさせてしまうのである。これでは、ラストの立ち回りへの興奮も半減である。

誤解のないように言っておくが、岸部が大根だとか言っているのではない。それにあの顔はどうしようもない。しかし、あの人相風体故につく役柄が固定化し、ある意味「金太郎アメ役者」化してしまっているのだ。その点に思い至らずにキャスティングをした制作側の安直さは、批判されてしかるべきであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千恵蔵の「赤穂浪士」

2010年07月19日 | Weblog
私にとって千恵蔵といえば、「大岡越前」での父親忠高役。

「御大」時代の千恵蔵を見たのは、しばらく後のことである。1970年代や80年代のはじめ頃は、日曜日の午後に、昭和30年代の時代劇映画をよくやっていたものである。

さて、「赤穂浪士」。

東映オールスターとのことだが、今時このようなぜいたくな時代劇はできまい。そもそも、今では役者がそろわない。役者の数は揃うが、時代劇に耐える役者がいない。歌舞伎役者のめぼしいところを幾らか出したところで、手ゴマが足りない。キムタクなど出したら、ぶち壊し、それこそ時代劇の「一分」も立たぬというものだ。

千恵蔵の大石。見事。今時これに伍するは貫禄は、播磨屋か、あとはせいぜい北大路欣也くらいなものではないか。かつて先代錦之助も大石を演じているが、いかんせん、あの声である。どうも城代家老の風格に賭けた。あの人の最大の欠点は、やはり、あの声だった。女形でもやっていれば良かったのだろうが。

しかし、立派過ぎる大石である。それを言ったら播磨屋の大石もそうだし、父親の先代幸四郎もそうだ。立派過ぎる。

もしかしたら、大石という人物は立派過ぎに描かれても良いのかもしれない。

千坂兵部の右太衛門が大石をやってもこれまた立派過ぎるが、いずれも、これでよいということか。

「龍馬伝」含め最近の軽ーい時代劇に比べて、多時代な演技や演出は今時受けないのかもしれない。

が、私は好きだなー、こういうの。

他の出演は、橋三の浅野、月形の吉良、大友の堀田。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

食べるラー油

2010年07月19日 | Weblog
今のところ2種類しか食べていないのだが、自分はパス。

辛いものは好きであるし、自分でいうのもなんだが辛いのには強い。本場四川の真っ赤な火鍋も大丈夫だった。

ちなみに、中国の本場でも四川以外では、四川料理といっても
、本場とは似ても似つかぬものであったり、辛みを抑えたものが結構あるので要注意だ。日本では? 言わずもがな。四川料理を銘打った料理屋でも、こりゃあんた・・・っていうものが多い。そもそも日本のタンタン麺って、あれは日本料理ですよ。


それはさておき、辛いからダメだからではなく、あの味がダメなのだ。子どもの頃から
化学調味料独特の味わいが苦手で、味の素はダメ。食べるラー油も、同じいやーな味を
感じてしまうのだ。我慢してご飯にかけて食べていたら、気持ち悪くなってしまった。

味もさることながら、あれは食べ過ぎたら体に悪い。

インド人に糖尿が多いのはなぜかって考えてみるとよくわかる。スパイスと油を練ったものばかり食べていたら糖尿にならんはずがない。ましてや糖尿になりやすい日本人のこと。ラー油をご飯になどという食生活が日常化したら、どうなることやら。

食べるラー油、今のところ私にとって今年のガッカリグルメの第一。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする