くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

福田康夫は中国の「走狗」か!?

2008年02月29日 | Weblog
冷凍食品問題に関する昨日の中国の会見、あの国らしさをいかんなく発揮していた。別段驚きもしなければ、腹立たしさもなし。「やっぱりか」の一言。

それに対する福田総理の「前向き」発言。

福田という人は、一体どこの国の総理なのか?と問いたくなる。少なくとも日本側から見たら、あの会見を「前向き」とは評価できないはずだが?

こういう人に国のかじ取りを任せるって、自殺行為かもね。はやく倒閣されないかねえ・・・。

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白石真澄関西大学教授曰く、「男はオオカミ」だそうな。

2008年02月28日 | Weblog
「男はオオカミだと思え」と、白石女史曰く。

昨年の今ごろだったか、「女性は産む機械」と発言し、さんざん叩かれた政治家センセイがいたが、これにひけを取らぬ「差別発言」ではないだろうか。女性に対する差別発言は糾弾されても、男性に対するそれは看過されても致し方なし。いちいちそんなことを問題視するな、それこそ男の器量が問われる!ということなのか。
ただ、男女平等や性差別の問題は社会生活上行き着く先は法的な問題にいたるわけで、「器」の軽重云々は関係なし。この発言の背景にあるのは、女史特有の男性観(オオカミにケガされられたご経験でも?)か、はたまた女尊男卑論者なのか・・・。世の女性諸君、男女平等を真に信ずるのであれば、同性のこうした発言をスルーしてはなるまいよ。

白石女史に関して言えば、そのような無神経な発言をテレビという公器で平気でする人間が、教壇に立ち、そしてしかも教育再生会議のメンバーを務めているとはお笑い草である。経歴はさておき人格的にその資格があるのか、疑問視せざるをえぬ。教育再生を論ずる前にご自分の人格矯正を御同僚委員の皆様に論じていただいてはいかがか、と女史曰く「オオカミ」のごとき生き物である私は思うのだが。
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さあどうする福田政権?

2008年02月27日 | Weblog
支持率低下が止まらない。

イージス艦衝突事件は予期せぬある種政権にとっては不幸な事件とは言え、得てして先の見えた政権というものはこうしたものだ。森内閣の時のえひめ丸事件同様に。私的にいえば、福田内閣の現状は当初の予想通り。今回の事件が無くとも支持率の低下に歯止めはかからぬはずであったと考える。

そして、一方において支持率を押し上げるような材料は何もない。一部マスコミは、サミットで支持率を回復させたうえで解散などと言っているが、それは政府与党内部からの声なのか、それともマスコミ自身の想定するシナリオの一部なのか。いずれにしても、サミットで支持率回復はあり得ない。サミットごときで今の「危険水域」に達したとも言われてる支持率が目に見えて再浮上することはまずない。サミットなど所詮そんなものだ。

今の状況で早期解散はあり得まいが、かといって、先延ばしして吉と出るようにも思わぬ。古賀選対委員長は早期解散反対論者だそうだが、よもやいずれ来るべき選挙を福田総裁の下で戦おうとは考えていないのではないかと勘ぐってみる。つまり、福田総裁では選挙の顔、広告塔には成り得ない。また、来年の衆議院の任期満了をまたずにいずれ福田政権の命脈は尽きるわけで、新しい「顔」で戦った方が今勝負に出るよりもベターと。ではその新しい「顔」とは?選挙を意識すれば、あの御仁しかいないと思うのだが。下ネタにお好きな方ではなく、漫画がお好きな方。
年内に新政権発足、そして期を見計らって福田後継総裁の下で総選挙というシナリオもあり得るかと。ただ、漫画の御仁が政権に就いた時、古賀氏を含めた今の党執行部が何人今の地位を保持できるのだろうか。いや、弱小派閥ゆえに漫画の御仁の方が妥協を迫られるかもしれない、政権獲得のための取引として。漫画の御仁としては総選挙に勝つまでは少なくとも我慢せざるをえまい。勝てば自分の手柄として政府与党内での指導力を高めることができ、負ければ古賀あたりに詰め腹切らせればよいのだ。勝っても負けても政界再編の動きはより明確になる。一方、下ネタの御仁は少なくとも今年一杯、というか総選挙となるまでは目に見えた動きはすまいと私は見るのだが。

対する民主党に政権奪取の環境が整っているわけでもない。小沢代表としては今春の解散総選挙がベターとの見方もある。小沢的にはそうなのだろうが、相も変わらぬ手法で政府与党を攻撃する民主党が今選挙をしたところで望むほどの結果は得られまい。かといって、解散総選挙が先延ばしされれば、今の民主党の置かれた状況は、先を楽観的に見通せるほどのものでは決してない。小沢の下での党の結束を維持できるのか。小沢以外に政権獲りの陣頭指揮を取れる人材がいるのか。そもそも民主党の主だったには政治センスに欠ける人間が多いようだが、現在ただ今の石破防衛相辞任要求等、まさにその恒例。マスコミも相も変わらずだが、どうやら今回というか今のところ世論が「煽動」に乗る気配はない。辞任を不要とする向きの方がかなり優勢のようだが、そうした状況においても辞任要求のこぶしを下ろさぬ民主党の姿はいささか滑稽でもある。世間の目には、またぞろ事件を政争の具にしているとしか映っていないのではないのか。しかもまずいことに今回の事件は人命にかかわる問題だ。それを政争の具にしては、あるいはそう取られてしまっては、民主党としても分が悪い。そこらあたりを読めぬ党に政権担当能力などあろうはずもない。

福田政権にはもう打つ手はない。近々の内閣改造。かりにそれで支持率が上がっても一時しのぎのものでしかない。内閣改造をするなら官房長官の首のすげ替えをお忘れなく。あの「下げチン」女房役では、政権にとって何のいプラスにもなりはしない。器量はさせておき愛嬌が無さ過ぎる。愛嬌の無い「女房」は政治家の女房としてはアウトだ! 完全な人選ミス。元々こうなる運命の内閣だったのだ。元々その器ではない人間がヒノキ舞台で主役を張っても客は集まらぬ。勧進元も損をするだけだ。自民党にとっての今後の最大関心事は、いかにして福田政権を「安楽死」、「尊厳死」させるか、それしかあるまい。
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「衰退する地方」に見る発想の貧困あるいは不在: 東北地方のある都市の場合

2008年02月26日 | Weblog
東北地方第二の都市で今、県立美術館の移設問題が議論を呼んでいる。

移設がとやかくされる背景には、この美術館がいくつかの問題を抱えているからだ。まず、入場者実績がよろしくない。年間1万人余。その多くが県外からの来館者だという。それでは施設としての存立目的や存在意義が問われても仕方あるまい。よもや「存在することに意義がある」とは言うまい。次に、施設自体にも問題がある。老朽化し高齢者、身障者対応の設備が欠如していたり、寒冷地にある美術館としては致命的なことに冬場には館内に結露が生じるという。

現在位置の最寄にあり再開発が計画されている空地に移設しようとの案が持ち上がっているのだ。この町も他の地方都市同様衰退が続いている。町の中心部のそれは顕著で、人の流れは郊外の大型商業施設へと向かう。それで町の中心部にある某病院跡地に複合商業施設の建設でもって再開発し、にぎわいを取り戻そうとの計画なのだ。そしてその「にぎわい」のために県立美術館もそこに移そうではないかというのだ。ありふれた発想だが、既存の大型商業施設に負けぬ魅力と十分な駐車スペースが確保できれば、それなりの成功はおさめることができよう。但し、地域活性化の起爆剤になるかというと、逆に周辺の既存の商業施設から更に人を奪うことになる可能性もないわくえではなく、商業施設さえ作ればそれで後は万事うまくいくというわけにはいくまい。また、公共交通機関の乏しい地方都市である。町の中心部に人を呼びたいのであれば、十分かつ無料あるいは最悪でも安価な駐車スペースの確保と周辺の道路整備も必要になるはずだ。さもなくば、交通の不便さや商業施設オープンに伴う渋滞等で敬遠され、思ったほど客足が伸びないなどという事態になりまえまい。現時点にままでは自家用車で行くには非常に不便な場所であることは間違いない。

対して、2年前から美術館を運営する財団法人は「反対」の姿勢を取っている。財団役員がマスコミに答えたところでは、人の多い商業施設と併設では美術館の静寂が保たれないとのこと。にわかに信じがたい反対理由である。これは建前であって、真の反対理由が他にあるのではないかと疑いたくもある。板子1枚で作った掘立小屋を美術館にするというわけではあるまい。周囲の環境が人ごみで騒々しいものになっとして、美術館の内部の静寂を保つことは可能なはずだ。むしろ人が多く訪れる立地にあれば買い物ついでに美術館へ足を運ぶ人もいるはずで、今より来館者が増えることも見込めるはずだ。美術館は土蔵ではないのだ。多くの人に美術品を公開してこそそ存在意義もあるというものだ。静寂が保たれないというのは、「当館にはあまり人に来ていただきたくはない」と聞こえてしまっても致し方あるまい。多くの人に見せたくないのであれば、それこそ土蔵の奥にでもしまっておけばいいのだ。

繰り返しになるが、もし上記が移設反対の真の理由であるならば(とは、あまりにもバカげた反対理由で信じ難いが)、発想が貧困であり思考力があまりにも乏しいとしか言いようがない。率直に言って「低能」の発想というか、発想以下、発想ですらない。そうした思考程度の人間が美術館の運営をするということは、美術館や収蔵の美術品ばかりではなく、地域の人々にとっても非常に不幸なことだ。こうした間抜けな言い分がまかり通るようなお粗末が特殊例ではなく沈滞する地方都市における共通ないしは類似の状況だとすれば、地方の停滞・衰退はまさに「人災」であると言わざるをえない。道路を作ったところでどうなるものでもないように思えてしまう。この都市はここ10年以上自殺率全国一位という県に位置する。それ以上の不名誉はないことだが、この美術館論争も公にされている反対理由を聞く限り、実に情けないことである。
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毒入り冷凍食品騒動からの教訓: 「毒入り国家」中国との付き合い方

2008年02月23日 | Weblog
先日中国側の関係者は、天洋食品製の餃子への毒物混入について、「中日友好の発展を阻害しようとする分子による仕業」の可能性に言及した。その後の中国側の発言や動きを見るに、この発言は事実上撤回されたものと見てしかるべきであろうが、最近の胡錦涛政権が対日関係の安定を重視していることには変わりあるまい。

しかしながら、この対日関係重視、あるいは中日友好は、多分に中国国内の事情によって左右される可能性が高いことだけは覚悟しておかねばならなるまい。外交は内政の延長であるというが、中国の対日姿勢、政策においてもその通りであることが確認できるように、私は思う。

例えば、最近の中国側の姿勢が上述の中国側関係者の発言とは違う方向性を見せているのも、実は国内事情、たとえば国内世論や党・政府の内部事情によるものではないのかと、私はいぶかっている。

今回の山東省にある日系企業製造の冷凍食品をめぐる問題についても、中国側は「日系企業の落ち度」としているそうだ。この件に関しては、製造過程での混入ではなく残留農薬が原因だそうだが、毒物の残留を見落とした点に関しては、確かに中国側の言うように企業側の落ち度だ。これに関しては、弁解の余地はあるまい。しかしながら、毒物を農薬として使用し、それが残留したままの状態で市場に流通させたのは、日経企業ではなく、その点に関しては、明らかに中国側の問題だ。中国人からしてみれば残留農薬の問題は日常茶飯事のことで特別取り立てて騒ぐような問題ではないのかもしれないが、我々日本人にとっては大きな問題だ。その毒物が場合によっては死にいたるほどのものであればなおさらだ。そうした点、つまり、中国における食の安全性に問題、また中国製品の「顧客」であるはずの日本側の反応はそっちのけで、「落ち度は日本側に!」と声高に叫ぶ。よそ見しながら木にぶつかれば、自分ではなく木が悪い、木を植えた人間が悪いと言わんばかりの自己弁護など何の恥らいもなくお茶の子さいさいにやってのける人々だ。さもありなんと言えばそれまでだが、自分たちの側の「落ち度」はそっちのけで、日本側の落ち度のみを指摘するこのやり方で、「中日友好」がどうしてはかれようか?日本人の対中感情、対中国製品認識は更に悪化するだけではないのか。それくらい難しく考えなくてもわかるはずだ。計算高い中国人が理解できぬはずもあるまい。

それにもかかわらず「日本側の落ち度!」と叫んでみせる。「最大の被害者は我々だ!」と叫んで強弁してみせる。これはもう国内を意識した行動としか言いようがない。対日関係において、あまり下手に出れば、国内世論の突き上げをくらう。そればかりではない党・政府内部でも胡錦涛政権への批判が出、それがどのような力を得て権力闘争の原因になるかわからぬ。あるいはそれを意図的に政争の具にするものも出てこよう。かつて対日政策を批判の具とされ権力の座を追われた指導者もいたではないか。

ただ、中国国内向けの「声」を耳にするのは何も中国人だけではない。我々日本人もそれを耳にすることができる。聞きたくなくても耳に入ってくる。今はそういう時代なのだ。ゆえに、中国側が国内を意識して行う自己弁護や対日批判は、そのまま日本人の対中感情や認識に影響を与える。「日系企業の落ち度」であるとか「最大の被害者は我々だ」という中国側の発言を聞いて、「中国様のおっしゃる通り」と納得する日本人はツチノコほどとまでは言わぬが、オオサンショウウオ並の希少価値のある存在のはずだ。おおかたのまっとうな思考をもった日本人なら、それを聞いて中国への悪感情や不信感を更につのらせのだろう。ということになれば、日中関係は「中日友好」とは逆の方向に進んでしまうではないか。

そんなことも中国側は先刻承知のはず。いかにミーイズム的個人主義の蔓延る国柄とはいえ、それくらいは理屈として理解できるはずだ。それにもかかわらず、「我が方に非なし!」と強弁する中国。我が方の非を認めさせない国内世論、対日感情が存在するということがまず第一なのだろう。そしてその国内対策のためにも、我が方の非をおおっつぴらに認めることはできないどころが、逆に責任を日本側に転嫁するかそこまでせずとも日本側の過失をクローズアップするという動きで出ざるを得ない、ということではないのだろうか。

これが中国側のいう「中日友好」の現実なのだ、と我々は肝に銘じておくべきである。良からぬ対日世論の存在。その世論を無視しえぬ党・政府。したがって、対日姿勢・政策もその世論に制約され左右される。言い方を変えれば、国内統治のためには、国内情勢の如何によっては、対日姿勢・政策は「友好促進」、「微笑」で一貫するとは限らないということだ。当たり前と言えば当たり前のことなのだ。外交など所詮は自国のみのために存在するもの。他国のために存在するわけではない。
自国に都合が悪くなればつい今しがたまで握手していた手に武器を持つことさえありえるし、それが自国のためになるのであれば、そうして当然、そうすべきなのだ。それが外交、対外関係の現実だ。つまり、中国が特殊であったり異質であるわけではないのだ。ただ、そのやり口がより露骨でえげつないだけなのだ。

好悪という感情は極力抑えたうえで、中国とはそうした国なのだ、中国のいう「中日友好」など所詮そうしたものなのだという認識を失わず、我が国の利益を失わぬよう付き合っていくしかない。

中国という「毒入り国家」の「毒」は5000年の長きにわたってその骨の髄までしみついたものなのだ。洗い流そうとして流せるものでもないのだ。むしろ近年その「毒性」は経済的、政治的、軍事的台頭とともに再び強まりつつある。我が国内にも既にその毒気にやられて、「友人が嫌がることはしない」などと外交関係においては戯言のようなことを能天気に言う中国中毒者が首相の座についてしまっている。この「毒物」をどう扱うか、厄介で神経を使うことでもあるが、それが我が国に課せられた宿命であると観念するしかあるまい。与えられた条件のなかで、いかに生き、いかにそれを克服していくか、そこに人間、我々日本人の真価が問われる。
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やはり民主党は支持できない 2: 石破防衛大臣辞任要求

2008年02月22日 | Weblog
衝突事故発生時からの石破防衛相の対応に問題が無いとは決して言わない。下僚批判めいたことを言ってみたり、愚痴っぽいことを言ってみたりと、対応がまずい。
メディアとそれを通しての国民の目を前にした”パフォーマンス”がなっていない。

よもや20年前の二の舞いにはなるまいとは思ったが、その結果、野党から辞任要求に言及する声が出てきた。民主党の鳩山氏にいたっては、場合によっては問責とまで言っている。

しかしながら、私は福田総理の言う通りだと思う。いまだ事件の真相、全貌も明らかならず、行方不明者の捜索も続く中、現時点で大臣の辞任をとやかくするのはいかがなものか。行方不明者の親族の一人もそう言っていた。

同じく行方不明者の親族の声だったと思うが、事件を政争の具にすべきではあるまい。少なくとも、現時点でそうあってはなるまい。野党は与党追求の具とする暇があるのなら、国会は道路特定財源問題に傾注すべきであるし、政府・与党に事件の全容解明と行方不明者捜索に力を注ぐことを促すべきだ。いまだ行方不明者の生死も定かならぬ状況下で、人の命に関わる問題を政争の俎上に上げるような行為は、恥じるべきことであるとさえ思う。

果たして、現時点での野党の石破大臣辞任要求が、どこまで国民の支持を得られるだろうか、個人的には疑問視せざるを得ない。行方不明者の親族の声がそれを代弁しているのではあるまいか。メディアも現時点でも大臣辞任にはそれほど積極的には乗ってくるまい。

野党は、そして民主党はそれに気付かぬか。そうだとすれば、これは民主国家において致命的な政治センスの欠如といわざるを得ない。全体的に見た民主党の政治センスの無さは、昨今の国会運営ばかりではなく、過去の”失態”にも明らかである。そうしたセンスを欠いた政党に政権を担わせることほど、国家、国民にとって危ういものはない。だから、民主党がだめなのだ。
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やはり民主党は支持できない: 永住外国人参政権問題

2008年02月22日 | Weblog
韓国次期大統領李明博と会談した小沢民主党代表は、永住外国人への参政権付与問題について、実現に向けて努力することを明言した。

だが、この問題は、我が国の主権のうちの問題であって、他国がとやかく言うことではないし、また他国と相談してどうこうすべき問題でもあるまい。

韓国側としては民団の働きかけがあるからなのだろうが、民団も参政権が欲しいならば、日本国の主権者たる二本国民にそれを訴えるべきである。内政干渉のごとき手法で目的を実現しようとするのは、手段を選ばずの行為であり、まっとうではない。

韓国では法改正でもって既に永住外国人に対して地方選挙権が付与されているが、韓国がそうしたからと言って、我が国がそれに追随する義務はない。この件に関して、相互主義など作用する余地もないし、また相互主義をもって日本に同様に法改正を求めるのは、聞く耳をもつべき話ではない。

民主党も民主党だ。政権獲得を目指す政党が、本来自国の国内問題であるべき事案を他国と協議するとは、内政干渉を誘うに等しい行為であり、主権の部分的な放棄にも等しい。自国の主権をも平気で他国に侵害させるような政党に政権を任せるわけにはいかない。主権の放棄を自らすすんですることは、国を裏切り、売るに等しい行為だ。国を裏切るやもしれぬ「売国」政治団体に政権を握らせるわけにはいかない。国賊はせん滅されねばならない。生かしておけば、再び何をし出すかわからぬ。

そもそも、永住外国人の参政権問題を立法府に属する者がたちがまたぞろ云々するのは、平成7年の最高裁判決に照らせば、おかしなことではないか。同問題の支持派は、同判決をもって、逆に永住外国人への参政権付与の正当性、妥当性を主張するが、それは判決の良いとこどりのつまみ食い、そしてその結果としての歪曲というものだ。憲法は永住外国人に参政権を与えることは禁止してはいない。その部分のみによれば、確かに現憲法は、永住外国人参政権の実現を妨げるものではない。しかしながら、同判決によれば、憲法にある「住民」が「日本国民」を指すものとして解釈されるべきである。となれば、住民自治すなわち地方自治に参政権を行使して参加する資格を有すべきもまた「日本国民」のみということになる。

参政権付与支持はしばしばこの部分には目を背けたまま自分たちの主張を声高に叫ぶ。

立法府に議席を持ち憲法にもとることなく立法行為を行うべき民主党は、上記判決などどこ吹く風とばかりに、永住外国人参政権の実現を主張する。日教組ともめたどこぞのホテルとやり口が変わらない。司法糞くらえ、「憲法の番人」糞くらえよろしく好き放題勝手放題をしようとする政党が政権を握れば、我が国の憲政、三権分立は危うくなる。それこそ、国家の根幹にかかわる危機を招来しかねない。そんな危険性をはらんだ政党に政権を握らせるは、キチガイに刃物どころか、キチガイに核兵器だ。

参政権が欲しければ、祖国に帰れ! 私に永住外国人に言うべきことがあるとすれば、それだけだ。歴史的経緯? 戯言もいい加減にしたがいい。「そんなの関係ねえ!」とだけ言っておこう。彼らの信ずるところの歴史認識は私にはない。祖国に帰れない、帰りたくないのであれば、他国の温情にすがっておとなしく節度を守って生きていくことだ。ひさしを借りて母屋を奪うがごとき破廉恥だけはよしたがいい。「代表なくして課税なし」ならぬ「国籍なくして参政権なし」、それだけのことだ。文句があるなら、繰り返し言う、誇るべき忠誠を違うべき祖国に帰れと。
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脳無し政治家、笹川尭

2008年02月21日 | Weblog
(イージス艦との衝突で行方不明の親子の)生存の可能性はない。

これが思考力のある政治家の言う言葉か? それとも何らかの政治的思惑あって、石破防衛大臣あるいは福田内閣を揺さぶらんがための叩かれること承知のうえでの意図的な発言なのか。かりにそうであったとしても、人として恥知らずな発言だ。無事を祈る家族を思えば、かりに思ったとしても口に出すべきではない言葉だ。

そんな人情の機微に疎い政治家は「脳無し」だ。独裁国家ならいざ知らず、民主国家において民意でもってバッジを胸にする我が国の政体においてはそういうことだ。政治脳が無いのだ。

こういう政治家は落とさんといかんですよ、有権者の皆さん。
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メディアの自衛隊叩きが始まった!?

2008年02月20日 | Weblog
イージス艦と漁船の衝突事故、行方不明者の一刻も早い発見・救出が望まれることはいうまでもない。

同時に事故の全貌を明らかにし、原因究明が一刻も早く行われることが、これまた当然のごとく求めらえる。

その意味では政府の初動の遅さは残念至極、批判は免れない。また、石破防衛大臣が、明らかに内部批判ととれる発言を行ったことには、組織を束ねる人間として、対外的に組織の全責任を負うべき立場の者として、その是非と器の軽重が問われかねないところではある。もし情報伝達体制の問題点を指摘するのであれば、もいう少し自己批判めいた言い回しで言うべきであった。

ただ、メディアの報道の仕方には少なからぬ疑問を感ずる。番組の多くの時間をささき、同じ番組内でも報道を繰り返しているが、はたして蜂の巣をつついたように騒ぐような事件であろうか。2名の人命の尊さを考えれば、決して小さは事件ではない。が、複数の人間が一度に行方不明ないしはの亡くなるなどという事件は日常茶飯事のはずだ。なぜ、今回の場合はこれほどまでに、と違和感を覚えなくもない。国を守るはずの、国民を守るはずの自衛隊がその国民を傷つけたという点を考えれば、通常の事故、行方不明事件とは異なる。それでも、騒ぎ過ぎだろうと思うのは、私だけだろうか。

穿った見方をすれば、メディアは騒ぎたいのではないのか。騒いで自衛隊を叩きたい。その恰好の材料が舞い込んできたということではないのだろうか。今の報道の仕方はいまだ原因究明もなされていない段階で、個人の人為的なミスなのか、組織上の問題なのかその点もいまだ明らかになっていない段階から、自衛隊そのものを俎上にして批判的報道を展開する。これが「公器」のあるべき姿だと私は思わない。事故の規模も違いから、まさか20年前のような防衛のトップ辞任という大袈裟なことになるとは思わないが、メディアの対ネガティブ・キャンペーンの行方如何によっては・・という危惧が無いわけでもない。
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柳美里の長男虐待騒ぎ

2008年02月16日 | Weblog
真相はいざ知らず。柳氏の説明にも首をかしげる点が無くは無い。ハサミを探していて、朝食も昼食も与えず、気がついたら夕食時? そんなことがあり得るのかと思えてしまう。

それはさておき、私は体罰を完全否定するつもりはない。少なくとも家庭においては。一度ならずも口で言っても聞かないのであれば、体で覚えさせるしかない。口で、理路整然と説けば通じるなんてのは、甘い話だ。話せばわかる、には限界がある。口で言ってわかる子供もいれば、何度言ってもわからない子供もいる。体でわからせるしかない場合もある。

と言えば、虐待だの、子供に人権だのと騒ぐ輩が必ず出てくる。虐待とは何ぞや。人権とは何ぞや。そんなことはそっちのけで、言葉そのものを錦の御旗よろしく騒ぐ、叩く。批判という「虐待」が容赦なく襲いかかれば、「人権」の宿るべき個人の肉体と精神はおおよその場合それに耐える術をもたないのであろう。

ものを書いて飯を食うことを生業としているとはいえ、あまりに私な部分をさらけ出し過ぎると、余計な波風が自分に打ち寄せてくる。それも本人だけではなく、家族にも。柳さんもお子さんのことを本当に思うのであれば、余計なことをあまりあけすけに書いたり、言ったりしないことだ。
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天洋食品工場長、「われわれは事件の最大の被害者」

2008年02月15日 | Weblog
いかにも、彼の大陸ならではの言い分、と言ったところではないだろうか。

日本人ならまずこうした物言いはすまい。かりに心中そう思っても、それを口に出したらそれでオシマイだ。日本の消費者相手にこれからも商売していくつもりなら、あの工場長発言はまずい。実にまずい。

まあ、向こうが引き続き今後もどういう言い訳や自己弁護を連ねてくりかは知らないが、こちらとしては、「おたくの製品は買いません」、「中国製は買いません」で通せばよいことなのだ。市場主義経済において、それは消費者の自由裁量として可能であり、また所謂消費者主権の考えにももとるものではない。社会主義市場経済を標ぼうする彼の国では、そうした発想が存在するのか否かはいざ知らぬが。太平洋を隔てたもう一つの大陸国家もただでは「私が悪うございました」とは言わぬ国柄だが、消費者保護という点では我が国よりも先進国なので、今回のようなケースにおいては、あそこまで露骨な自己弁護、開き直りはすまい。つまり、先進国基準でいえば、天洋の今回の対応は「ずれて」いる。そしてあの会見は天洋の一存で行ったものではないのだから、彼の国の政府も「ずれて」いるというか、外の世界が見えていないのだ。

ただ、日本側としては、特に政府や企業関係者には心しておいてもらいたいが、今後も向こうは自分たちに都合の良いことを言いたい放題いってくるはずだ。自分たちの利益と面子のためなら何でもする連中だ。くしくも、あの工場長も言っていたではないか、「名誉が傷つけられたと」。いかなる原因であれ自社製品により心身を傷つけられた消費者をよりも、自分たちの名誉を気にかけ、またそう公言して憚らぬ連中なのだ。天洋食品が、あるいはあの工場長が特殊なのではない。彼の国の人たちはおおむねあのような行動形式を持つと思って差し支えが無い。適宜反論を加え、向こうの言いたい放題にしておいてはいけない。我が国において「言わぬがはな」でも、彼の国に限らぬ外の世界では「言わぬはバカ」でしかないのだ。この点、我が国も外の世界が見えていない。

私は彼の国との「友好」なんてあり得ないとは言わない。所詮国家間の友好などというものは絶えず片手で握手、もう片手でパンチみたいなものだ。絶えず利害関係が錯そうするのだからそれは仕方がない。隣国同士なら尚更であるし、たとえ蛇蝎のごとくに相手を嫌おうが、隣人は選べぬ。そうした現実を呑みこんだ上での互いに盾や鉾を交えぬ状態を維持することこそが、国家間の「友好」というものだ。その意味で、私は彼の国との友好論者である。ただ、一部の人たちが希求ような甘ったるい友好など望むべくもないのだ。そんな夢想に耽っている間に、相手は付け込んでくる。それが国際関係の現実であるし、それが国家間の「友好」の現実でもあるのだ。特にその点においてしたたかなのが彼の国なのだ。その点をよくよくわきまえたうえで、今回の問題も対応していきたい、政府も、企業も、そして我々消費者も。
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やはり姑息だ、東国原(そのまんま東)知事!

2008年02月15日 | Weblog
以前にもここで述べたように私は東国原宮崎県知事を「東国原知事」とは呼ばないことにしている。「そのまんま東知事」と呼ぶことにしている。繰り返しになるが、「そのまんま」で選挙選を戦い、それでもって勝利したのなら、当選後も「そのまんま」で通すべきだ。当選後に東国原に戻したということは、「そのまんま」という知名度の高い芸名を選挙戦に利用したに他なるまい。芸名の利用の何が悪いと言えばそれまでだが、有権者は「そのまんま東」を選んだのだから、知事としての「そのまんま」であることこそ、筋というものだと個人的には思ってるいる。芸名の選挙目的の利用は、どこぞの政党幹部の言った「選挙公約だから」という発想とかわらない。いずれも姑息の策だ。

というわけで、私はそのまんまという男を「姑息な男、人間」と思ってきた。

そしてその思いを再確認しした。その理由は、暫定税率をめぐる彼の発言にある。そのまんま氏曰く、「高速道路は宮崎県にとって『命の道路』で県民はおおむね道路整備を求めている」とのこと。それゆえに、「道路特定財源として揮発油(ガソリン)税の暫定税率」は維持すべきだという。

「命の道路」とはで言って高速道建設の必要性を信ずるのであれば、「暫定」税率などに頼らずとも、一般財源化したうえで、そこから建設に充てるべきものを引き出すべきではないのか? 真に必要なものであれば、そうすべきだ。それが筋だ。

ところが、「命」とまで言っておいて、その財源を「暫定」に求めようとする。これを姑息と言わずして何と言おうや、である。

今はパフォーマンスがおもしろく、マスコミの格好のおもちゃにされているが、こういう類の人間はそのうちぼろを出す。既に一つならずスネに傷ある身だ。三つ子の魂、知事になってあの男の性根が変わるとは思えぬ。いずれマスコミに手のひらを返され叩かれるに違いない。マスコミのそうした無節操は実に忌むべきものだが、そのまんまの場合、そのマスコミを利用しながら今まで生きてきたのだ。自業自得というものだ。

そのうちきっとこの男の化けの皮が剥がれる。
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橋下知事、残りの4分の1は切捨てですか・・・?

2008年02月14日 | Weblog
以下抜粋。

大阪府の橋下徹知事は9日、府内の全公立小学校で1、2年生を対象に実施している35人学級編成について、財政負担が大きいことを理由に見直しを検討するよう府教委に指示した。検討結果は8月以降の補正予算に反映させる。
 橋下知事は「35人学級を導入しない場合、1学級平均37人になる」との試算を示したうえで、「35人学級を維持するためには30億円が必要。2人減らすために30億円を使うのはどうか。国の基準である上限40人という学級の枠組みを採用したとしても、4分の3の学級は35人以下におさまる」と説明している。
 35人学級は太田房江前知事が掲げた公約の一つで、小学校低学年できめ細かい指導を行い、学習習慣などを身に付けさせることが目的。
 平成16、17年度でそれまでの40人学級から38人学級に移行、18年度は1年生を35人学級とし、19年度には2年生でも導入した。

一般論で言えば、欧米なんかに比べて日本の学校の一教室あたりの生徒数はやたらと多い。私がいた米国の某地域では一教室25人まで。実際にはそれ以下は一般的。
少ない私の経験から言っても、25人を超えるといわゆる「きめ細かい指導」というのは難しいし、生徒一人一人を観察するにも「つぶさな」というのが難しくなる。
正直、35人でもまだ多いと思っている。

ところが教育重視、子育て重視のはずの橋下知事、財政負担の大きさを理由に、上掲の方針だとか。危機的な財政状況にある大阪府のこと。わからぬでもないが、子供重視とどう折り合いをつけるのだろうか。太田府政の下で既に進められてきた少人数化をここで方向転換して、それが子供にとってよりよい結果をもたらすというのだろうか。
財政再建も子供のため、確かにそれはそうだ。ただ、教育というものは家庭教育でもそうだが、単純な費用対効果的な発想で成り立つものではないはずだ。

「国の基準である上限40人という学級の枠組みを採用したとしても、4分の3の学級は35人以下におさまる」とのことだが、では残りの4分の1はどうなるのか。35人以上あるいは40人学級のままということか。言い換えれば、4分の1は切り捨てということか? そもそも公教育でそうした不公平を正面切ってやるべきなのか?
私は結果の平等などいってはいない。35人以上学級と35人以下学級では、結果ではなく機会の平等が損なわれている。たかが数人の違いというのは、現場を知らない人間のせりふだ。

もし本当に財政を理由に35人学級方針を修正するというのであれば、もし本当に4分の3のみの達成に満足するのであれば、笑う子供も出てこようが、泣く子供も確実に出てくる。

府知事、子供を舐めちゃいけないですよ。子供は大人のすることをよーく見ていますから。親のこと、教師のこと、「子供だからわかるまい」などと侮っていると、
「私は橋本府政に見捨てられた!」がために非行や犯罪に走る子供が出たりして・・。

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オバマ vs. クリントン: 決戦場はオハイオ?

2008年02月13日 | Weblog
スパーチューズデイ後のオバマ候補の”快進撃”が止まらない。だが、言うまでもなく、オバマ、クリントンの戦いの帰趨が見えてきたわけではない。

やはり山場は来月初旬のテキサス、オハイオという大州ということになろう。

ただ、テキサスはといえば、ヒラリー陣営が自壊状態に陥り、取れて当たり前のヒスパニック票をも逃すことにでもなれば別だが、順当にいけば、ヒラリー勝利ということであろう。

一方、オハイオは、これまでヒラリーの優先が鮮明だったが、ここにきてオバマの追い上げが激しいようだ。一部の支持率調査では後者が僅差にまで追い上げてきている。だが、スパーチューズデイの時もそうであったように、米国メディアによる支持率調査はあてにならないことがしばしばある。2004年の大統領選挙の出口調査では、2000年の選挙同様に勝敗の行方を大きく左右すると目されてきたフロリダで「ケリー有利」、「ケリー勝利の可能性」との調査報道とは逆に、ブッシュが勝利し、メディアのうちからも反省の弁が聞かれた。ところがその反省は今回あまり生かされていないようである。したがって、調査結果とは異なり、実はヒラリーがいまだ優位を保っているかもしれないし、あるいは既にオバマに逆転されているのかもしれない。

テキサスはヒラリーは順当に取るという前提で言えば、オハイオこそ彼らの勝敗の行方にある程度の流れをつくる「決戦の場」となるのではないだろうか。

大統領選挙でも、オハイオはKeyとなる。それは単にジンクスというだけではなく、オハイオの人口における人種割合は全米のそれに一致しているため、オハイオで出た結果がそのまま全米での結果に一致するということになるようだ。もっとも、今後はオハイオの「指標」としての注目度は過去のものになる可能性もある。というのは、オハイオの人種構成は、全米においてヒスパニックが占める割合を反映していない。近年同州内でのヒスパニックの数が増えているとは言え、その割合はいまだ低いのだ。既にヒスパニックの投票行動が選挙結果を大きく左右する可能性は既に2000年の選挙あるいはそれ以前から指摘されていたわけで、オハイオの結果をもってしては全米のヒスパニックの動向を測ることはできないという状況になるのは、案外そう遠くはないことかもしれない。

ただ、今回の選挙ではオハイオはいまだ大統領選挙における注目州のひとつであり、代議員の数から言っても、オバマ、ヒラリー双方とも絶対に取りこぼしたくはない州にはかわりがない。特にオバマとしてみれば、テキサスでの取りこぼしをオハイオで挽回したいという思いは強いはずだ。かりに両州とも取りこぼすことになったとしても、惜敗レベルでなくてはなるまい。惜敗で踏みとどまることができれば、今週の連勝が生きてくるし、テキサス、オハイオ以外の州での勝利如何では、党の大統領候補指名への光明が見えてくるというものだ。

私は、共和党政権の方が日本にとっては好ましいと思っている立場だ。確かに共和党政権でもニクソンのように我が国に煮え湯を飲ませた輩もいた。ただ、煮え湯を飲ませた結果が日本を好ましからざる行動へと走らせたのはまずかった。おろかな選択をした日本も日本だが、ニクソン・キッシンジャー政権も自業自得。キッシンジャー、キッシンジャーと有難がる向きもあるが、いかに有能な人間とてそんなものなのである。要は、やつらは、日本に煮え湯を飲ませた後のことまで思いがいたらなかった。そして、そのツケはいまだに東アジアの国際政治に影を指している。
話が逸れた。私がいいたかったのは、確率的に共和党政権の方がベターだろうと・・。というわけで、マケイン政権誕生を最上としよう。

ところが、現在の状況はマケインに限らず共和党には不利だ。これまかりは所与の条件としていかんともしがたい。では、民主党が政権奪還とあいなった場合、ヒラリーか、オバマか。私はオバマがベターとみる。ヒラリーでは否応なく旦那の外交スタイルを引きずるだろう。旦那が日本に対して仇ばかりをなしたとは決して言わないし、思ってもいない。が、かりに旦那の体外政策を「クリントン外交」と呼ぶとしたら、あれほど方向性の定まらないそして結果的にも・・・な外交もないものだ。北朝鮮しかりパレスチナしかり。ヒラリーが夫の経験を「失敗」としたうえで外交政策に取り組んでくれれば幾ばくかの幸いかもしれないが、それは虫の良すぎる期待というものであろう。それ以前に、私はあの夫婦には92年の選挙以来、いわく言いがたい生理的な嫌悪感を感じるのだ。軽薄というかなんというか、彼らが表で見せている姿や言動に信が置けないと大統領選挙キャンペーン中から感じていたものだが。少なくとも旦那に関しては、その「嫌な感じ」は当たっていたけど・・。過去の不倫、ホワイトウォーター疑惑、モニカと・・・。ただ、それを支持した米国人も米国人で。「徴兵忌避だろうが、汚いことやって蓄財していようが、不倫しまくりだろうが、そんなの関係ねえ!」一昔の米国だったら、大統領になれる人間ではなかったはずなのだが・・・。

それにマケインvs.オバマの選挙戦になった時に、人種意識、人種の壁というものがどう作用するか、見てみたいと思うのだ。もっとも、本当に人種の壁を見たければ、いっそのことオバマにホワイトハウスの主になってもらった方がより見物なのかもしれいが・・。








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いかにもアメリカ人らしい言い訳: 沖縄米兵暴行事件

2008年02月13日 | Weblog
「またかの関」よろしく、沖縄で米兵による婦女子暴行事件。

逮捕された米兵の言い分に思わず苦笑(といったら不謹慎ですけど)。覆いかぶさり、キスをしようとしたことは認めながらも、「レイプはしていない」と。

いかにハグ、キスは当たり前の国の人とはいえ、そういうことをする間柄でなければ、無理やりなら尚更、彼の国でも警察沙汰になることは間違いなし。

もっとも、大統領からしてオーバルオフィスで所謂「オーラルセックス」という行為をしかも妻以外の女性とやらかし(場所柄、妻だったらOKというわけでもあるまいけれど)、ことが露見した挙句に「自分は性行為とは認識していない」とのうのうと言ってのけるお国柄だ。そして、そんな下半身の品行お下劣な大統領が退任後の今でも国民の間で人気は上々。そして夫を一度ならずも「奪われた」女としてはふがい無い妻は、今かつて夫が夫曰く「性行為ではない」という行為を行った場所目指して懸命のキャンペーンを繰り広げている。

今回逮捕された米兵もそんな国の決して上等ではない類の階層から出た人間に違いない。米兵の兵卒や下士官なんて大体がそんなもの。

屁理屈であろうが、詭弁であろうが、自己の利益になる可能性があるならば、自己弁護の用になるのであれば、開かぬ口は無いのが、あの国の人たちなのだ。同意のない押し倒し、接吻はレイプではない、性的暴行ではないという理屈くらい、上述の前大統領のような頭脳の持ち主でなくともたやすいことなのだ。それを言って恥じることなど毛頭なし。

我々日本人には驚きいる言い分だ、と言いたいところだが、最近はどうも我が国人も内面的にも「欧米化」しつつあるのかもしれない。先日ここでも触れた「路上人間凶器」一色紗英の「かかってきた電話に出ただけ」発言。正気なら多少の知能の良し悪しに関係なく、言って通用する言い訳でないことはわかるはずだ。それでも、言いはる。こんな日本人が増えているとしたら、実に悲しいことだ。

こちらがあんぐりしてしまうような物言いをするのは何も米国人だけではない。彼の隣国の人々もそうではないか。反日デモの際、国際法遵守を怠っておきながら、彼の国の前外相は、ことの原因を我が国に押し付けてきたではないか。某桜井女子が既に指摘しているように、今回の毒入り餃子事件をめぐる向こうの言い分も意味深だ。両国友好の発展を阻害する分子がかりに向こう側にいたといして(まあ犯人は動機が何であれ向こう側の人間であることは間違いあるまいが)、その動機が国家間の友好促進に反対するものだとして、犯人を犯行に至らしめた背景には歴史問題がある、つまり我が方にも責任の一端がある、と主張できる余地を残しておきたい、という魂胆が見え隠れする、というのは思い込みがすぎるだろうか。

かつて日本人は世界を「虎狼の海」とたとえ、万国を「敵」とみなした時代があったが、今の国際情勢も昔とさほど変わらぬものと思った方がよいのかもしれない。さもなくば、そのうちに領土をかすめ取られながら「失地回復」と開き直られる羽目になるやもしれない。「人をみたら泥棒と思え」、これは外の世界の見方としては、外の世界で生きていくうえにおいては正しい。泥棒、強盗やそれに類する輩が白を黒とぬけぬけと恥もなく言ってのけながら大道をかっぽするような国や社会が我が国の外にはあるのだから。

追記 ちなみに私は「反米」ではありません。過去の遺恨とか「このやろう!」と思うところはありますけど、「反米」主義者ではない。まあ、「反米主義者」のレッテルを張られたとして、それで困るということもないのですが、自己認識としては「反米」ではない。↑で言いたい放題言っていますが、それが米国人の「現実」の姿なのですから、それが嫌でも何でも、「現実」はそのままに受け入れるしかないと思っています。中には可変な現実もあるのでしょうが、国民性とか民族性というものはそう簡単に変えられるものではない。であるならば「そこが変だよ米国人!」とばかりに、彼らの忌み嫌うべき点を憎んでも仕方がない。憎んで向こうが変わるものならいくらでも憎もうが、感情をぶつけたところで、こちらも向こうの感情の反撃にあうだけ。後は泥試合。そんなことなら、彼らの憎むべき点も「現実」としてそのまま受け入れたうえで、「アメリカ人というのはかくかくしかじかな人間たちなのだ」と呑みこんで付き合っていけばいいのではと。実際、アメリカ人、憎むべき点もありますが、愛すべきところも多々ありますよ。向こうに10年余暮らして、「この野郎!」と思ったことも多々ありますが、いまだに感謝してし尽せないような経験もこれまた多々ありまして。人はあって七癖といいますからね。他者の憎むべきも愛すべきもすべて受け入れてこそ相手を冷静に見つめることができるのかなあと・・。恋人同士、夫婦、家族、親子でもそうじゃありませんか?愛憎を踏まえてこそ、互いに互いを理解することができるってのは。まあ、いかに肉親といえども別人格同士ですから100%の相互理解なんてありえないですけど。他国、多民族、他人種なら尚更ということで。
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