くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

「ニン」違いが招いた悲劇: 田村正和主演「樅の木は残った」

2010年02月23日 | Weblog
先週末、一人でこれを見た。

私以外の家族は、「がばいばあちゃん」を別室で見ていた。私は「がばい」そのものよりも、最近の島田洋七が婆さんを商売道具にしている様があまりにも露骨で好きになれず、見ないことにしたのだ。

何と言っても、「樅の木」が周五郎の代表作の一つだ。歴史解釈としては当然異論もあるところで、周五郎の描いた原田甲斐をそのまま「実像」とみなすには躊躇せねばならぬが、物語としては実におもしろい。「先代萩」の仁木弾正と正反対の描き方だけに、なおさらだ。周五郎も「商売」的な感覚で、そのあたりを意図的に突いたのではないだろうか。

それはさておき、このTV版「樅の木」はいただけなかった。かつてNHK大河で平幹が主演したこともあるが、当然私は見ていない。当然、すなわちそういう年ではないということだ。
であるから、比較という意味ではないのだが、いただけなかった。

何が、良くなかったのか? 原作を読んだことがある者として言えば、平幹の甲斐も容貌が丹精過ぎたと想像するが、田村正和も同じく。原作の甲斐とは全く違う。おそらく原作の甲斐を演じることができたのは、以前なら緒方拳(も容貌的には原作とかけ離れている)か、山努あたりではないかと思うが、山は見た目が怪異過ぎるし、伊達家の重臣という見た目ではない。なかなかはまり役的な役者はいないもので、現在ただ今なら尚更である。そうなると、ストーリーそのものは尊重しつつも、原作とはかけ離れた原田像を追求するしかないのかもしれない。

いや待て、も少し若ければ、播磨屋の甲斐という手があったのではないか? いや、今でも? ちなみに、播磨屋の仁木は立派である。まあ、当代の仁木役者であろう。海老は、まだ若過ぎる。

容貌の問題はさておき、田村の甲斐にはいくつか難点があった。まずは、声。あれは一体どうしたというのだ。しわがれて聞きづらい。最初は演技かと思ったが、そうではないらしい。最後の最後まであの調子であった。あの声が忠臣甲斐の「苦渋」を感じさせなくはないが、あれでは「騙そうとする側」に対しての腹芸にはなっていない。それから、年齢にも70に手が届かんとする田村に50を過ぎたばかりの甲斐は無理があるというのではないが、年の差をもう少しメイクで補うべきであった。声のせいもあろうが、時々甲斐が初老に見えることもあった。もっとも、あの時代に50を過ぎれば立派な老域ではあるが、時々見せた田村の姿、表情は、少し若づくりに過ぎる芝居の外記のように見えないこともなかった。もっというならば、陰腹を切っているようにも見えた。もっとも、甲斐は国老として兵部一派に組することを選択した時点で事実上「死を覚悟」したであろうし、その意味では既に腹を切っていたということも言えようが、いかにも兵部に同心下と見せかけても、その本心が見透かされそうなほどに有る意味悲壮に見え、あれでは酒井でなくとも信用するには躊躇せざるを得ない。そして、最後の刃傷場。歌舞伎とは違った意味で、もっと鬼気迫るものがあっても良かったのではないか、とはあくまでも個人的な感想である。

こう言ってしまっては身も蓋もないが、田村は甲斐のニンではないように思う。

ニンといえば、伊藤の伊達安芸と笹野の伊達兵部。この二人が巧者であることは言うまでもないが、いかに巧者とはいえ、ニンが違えば何とも無残なことになる。いかに大枚をはたこうが、アワビで牛ステーキは作れぬ。いずれも、とても戦国で成り上がった大名家とは違う名門伊達一門に連なる人物には見えない。こういっては失礼だが、両人とも、元々が百姓・町人の顔立ちである。せいぜい良いところが、下級武士だ。そのため、身なりはおれなりでも、伊藤の安芸はせいぜい、家老にしか見えない。伊藤は正直言って面妖である。かつて伊丹十三作品で演じたやくざに何ともいえぬ凄みがあったのは、芝居のうまさだけではなく、あの顔にあったと思う。そのような役者に東国の大守一門役は無理である。役者としての技量で補えるものではない。

笹野の兵部も、とても独眼竜の実子でありたとえ3万石の大名としては小身とはいえ一藩の主には見えない。「釣りバカ」の運転手ならぬ駕籠かき風情にしか見えないとは言わないが、高禄取りの藩士にすら見えないのも事実だ。あの容貌で、あの殿様姿は、笑いを狙ったとしか思えないが、あのドラマでそれはあるまい。完全なミスキャストである。本人にも気の毒である。所属事務所の意向で仕方のない出演だったのか、本人の選択だったのかは知らぬが、仕事を選ぶことができる腕と実績をもった役者のはずだ。伊藤もそうだが、仕事は選ぶべきだ。さもなくば、自らの「うまい役者」としての名声に傷がつく。

製作側も配役にはもっと熟慮が必要だ。現代劇も時代劇も、役者のニンの重要性という点ではかわりあるまい。随分昔、キムタクが佐藤浩市の大石相手に堀部安兵衛を演じたことがあったが、あれも「悲惨」であった。見ていて痛かった。タカラヅカを見ていると私は、まるで拷問にあっているような生理的な苦痛を感じるのだが、それとは違った意味で、キムタクが哀れという意味で、心が痛んだものだ。最近の時代劇は、「三成、かねつぐ」と呼び会うNHK大河もそうだが、ヅラをかぶった現代劇が多い。もっとも、歌舞伎というのは初演当時は、ヅラをかぶった現代劇みたいなので、忠臣蔵などは太平記の時代を借りた現代劇みたいなものだったのだから、ヅラ付き現代劇のどこが悪いという見方も可能かもしれないが、家老に向かい「あんた」もさることながら、キムタクの時代味の無さには、かわいそうになった。この問題は「武士の一分」でも克服されていなかったところを見ると、彼には時代劇は無理。つまりNHK大河は無理ということなのだろう。そういえば、同じSMAPの香取の近藤もひどかった。まあ、中居くらいなら、地頭晒して、三枚目的な三下やくざや町人くらいならえきそうに思うが。

役者のニンとはそれほど怖いもので、ニンを軽んじれば、今回のような「失敗」となる。

どうやら裏番組の「がばい」にやられたのか、視聴率も振るわなかたようだ。「がばい」ごときにあの「名作」をもってしてやられるようでは、時代劇の行く末がますます案じられるが、あの失敗作をより多くの人が見ていたとしたら、より多くの人を失望させ、やはり結果は同じ。時代劇の将来にはマイナスということになったであろう。

原作がしっかりしているだけに、最後の刃傷は田村のイマイチの演技にもかかわらず、それなりに見ごたえはあったが、あの結末を招いた酒井忠清役としては、もう一人の名バイプレーヤー橋爪功も、いささか凄みが不足していたように思えたのは、やはりニン違いが原因かもしれない。



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