くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

パナソニックの人員削減は、終わりの始まり: だってパナは凶数だから。

2012年05月29日 | Weblog
こういうことしだすと、坂を転げ落ちるだけです。

それが急なのか緩やかなのかはわかりませんけど。

パナソニックって名前で国内外統一してからロクなことないですね。

まあ、姓名判断的にみて、凶数ですから、パナ。

松下を捨てたからかもしれない。今からでも戻したら?初心に帰れということもあるし。
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片山さつきは「女の狭量」の典型か?

2012年05月28日 | Weblog
我国に限らず、女性を男性よりも狭量だとする認識が古今存在する。

女性が政治に口を出すべきでないのは、それゆえともいう。女性自身がそれを言ったり、言う場合もある。

我が母もそうだった。どんな女傑も政治、ビジネス問わず、成功したとしてもやがて女の器の狭さゆえに限界にぶち当たると。

それに肯くわけでもないが、頭ごなしに偏見、差別と金切声をあげるつもりもない。それこそ・・・、まああれだ。

それにしても、片山議員。エリート中のエリートであることは認めるし、プライドは点をも突くほどのものに違いない。生活保護の不正受給についても、御説ごもっとも。

だが、あまり個人をあげつらってやりすぎると、かえって味方を失い適を作ることになり、正論も正論として世間の応援を得ることができなくなる。まあ、そのあたりは、駿台模試トップに輝いたことを自慢されたとか(?)いうほどの頭のおよろしい方だから、凡愚の大衆にいちいちいわれるまでもなく、とっくにご理解のはずだが。

男も女も「見え方」、「見せ方」があるのだから、もうそろそろたかだか芸人一人をやり玉にあげて「鬼の首」みたいにふるまうと、とんだしっぺ返し食いますよ、先生。「やっぱり、女は・・」っていう声、それを差別と弾劾しようがどうしようが、封じ込めらるものではないですから。そして、それは女性自身の口からも聞こえてくることもありますから、ご注意。



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愚かな母親: 次長課長河本の母親

2012年05月27日 | Weblog
「世間が勘違い」とは、この母親一体何を思ってメディアを前に言ってのけたか?

それを言って一体何の益になる?

益になったとして誰の益になるというのだ?

息子のためを思ってのことというのなら、それは違う。平身低頭してことを切り抜けようとしている息子の足をかえってひっぱるだけではないか。世間をなめている。世間は常に正論を好むわけではないし、愚かなときもあるが、数は力なあり。世間という空気には抗えない。

それとも、実は息子よりも自己保身か? それはないと思いたい。

いっずれにしても、愚かな女、母親でああることにかわりはない。
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NHK「梅ちゃん先生」の歴史歪曲: 朝鮮戦争

2012年05月25日 | Weblog
朝鮮戦争、私の子供のころはまだ朝鮮動乱なんていってたけど、それを「国境をめぐって」の争うだって・・。

国境紛争だってか?

嘘は良くない。

それとも、総連かピョンヤンと喧嘩したくない理由でも? ヒドイもんだ・・。
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沈斯淳は台湾駐日代表は・・・: 歴史の因縁はどう作用する?

2012年05月22日 | Weblog
沈斯淳氏は、台湾では知る人ぞ知る某清末エリート官僚の子孫である。

といえば、近代中国史に詳しい人なら、すぐ「あの人物の?」と気づくはずである。

そう、曽国藩の娘婿にして李鴻章とも親交のあった洋務官僚に一人、沈葆禎である。そんな人知らない?まあ、高校の世界史レベルでは出てこない名前だが、大学レベル以上の近代中国史ともなれば出てくる名前だ。

そして日本とも因縁深い人物なのだ。明治7年の所謂台湾出兵(昔なら征台の変か?)に際して、李鴻章の推挙あって「現場担当」の任についた人物である。西郷弟等と台湾現地での交渉を試みる一方で、最悪の事態に備え李鴻章と連絡をとりつつ軍備に務めた人物である。しかしながら、明治政府はあくまでも北京での談判を目していたから、外交交渉において沈が果たした役割は小さかった。ということは、ひるがえって、最終的に清朝にとっては屈辱的な議定書を結んだことに対して彼の責任も小さいどころか、事実上ゼロである。

事件後に沈がすすめた台湾防備のあとは、今も映画「海角七号」の舞台にもなった恒春の城壁などに認めることができる。そうそう、恒春、いい街ですよ。日本人観光客は多くないので、是非行ってみてください。高雄からのアクセスが長距離バスしなないってのが難点ですけど。

つまり、沈氏は外省人。日本語もわずかだとか。でも、外務部の次官まで務めた人が代表って、馬政権の対日姿勢を読み取るうえにおいて、重要なのでは? まあ、馬政権の二期目は試行錯誤で大した動きがなく、グズグズで終わってしまうように思うんですけど。あの人、もともと見た目で得している反面、政治手腕は大したことないから。現に今も支持率が、20%台前半。そう改善することはないでしょう? 大陸もタイミング的にこれからはそう甘い顔ができないですし。

それはさておき、沈氏について、民主党政権のみなさん、ちゃんとお勉強しておきましょうね。




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EUのこれから: 平成21年6月19日の記事から

2012年05月18日 | Weblog
リーマンショックから約10か月後、「未曽有の国難」と題する一文を書いた。

EUはこれから大変なことになると書いた。

やはりなった。なりつつある。

リーマンショックの2年前、まだアメリカにいた。 2006年の夏ごろから、「異変」を感じた。まだ周囲は開発ラッシュで、新築の住宅やコンドが続々と建てられていた。農地や空き地だったところが続々宅地に開発されていた。ところがその一方で、物件の売買が明らかに滞りだしていた。その年の暮れになると、不動産業者のなかに「ただ事ではない」との声が漏れはじめた。ベテラン不動産鑑定士が「この30年で、こんなのは初めてだ」と。2007年の年明けになると「家を売るのなら、2年は我慢」という声も聞こえ出した。そしてそれから米国はリーマンへの落ち込んでいった。

その時、不思議と相対的に静かだったのが欧州だ。おかしいと思った人もいるはずだ。欧州の不動産バブルも相当のものだったはずだ。国や地域によっては米国以上の過熱ぶりだったはずだ。なのに・・。本当の「危機」は先延ばしされたと感じた。

だから、「EUはこれから・・」と書いた。

その通りになりつつある。

自画自賛したいのではない。が、時々思う。特にこの頃。人はやはり直観が大事なのかもしれないと。お前は陽明学か!?と言われそうだ。とんでもない。でも、心の奥底からふと湧いて出たような感覚を侮ってはいけないと思う。2009年8月の総選挙のときもそうだ。投票用紙を前に、「今回は民主党候補を書くしかあるまい」と思っていた気持ちに、いわく言い難い不安の影がさした。果てしない荒野にぽいと捨てられたような不安で仕方のない気持ちになった。だから、小選挙区も、比例も民主を避けた。あのときのふっと湧いた黒雲のような不安は、現実となった。

これからは思想の時代ではないと思う。直観の時代ではないのかと。要は小理屈をこねくり回す人類がこれまでっそれを教養や学問、知性だと思ってきた作業をやめろとはいわないが、あまり高尚な行為だとは思わない方がよいのかもしれない。思想、哲学にはヒトの傲りみたいなものがあったような気がする。その最たるが唯物論だと思うのだが、いわゆる啓蒙思想だとかも、そうした面がたぶんにある。啓蒙思想にみる楽観主義的傾向はやはり人のうぬぼれの所産なのだ。既存の思想・哲学に「畏れ」の感覚が欠如しているとは言わないが、あまりにも「人間様」に気を取られ過ぎ、ヒトを「人間様」扱いしすぎてきた。だから、どれもこれも綻んでしまったり、そうなりつつある。個々の直観への過信もよくはない。陽明学の悪しき側面でもあある。いや、王陽明がそれを許容したわけではないが、後世自己正当化の具になったときもあった。やはり「心」を強調すれば、「心」という「ヒト」そのものへの過度な依存と過剰な肯定を生んでしまうのだから、程度問題。理屈などくそくらえなどというつもりはないのだ。でも、イズムとやらを高唱する時代ではなくなりつつあると思う。

EUはこのまま壊れれば良いと思う。

日本にとっても他人事ではない。我々もこれからまだまだ苦しんで過去のツケを清算せねばならない。幾多の人が泣き苦しみ、命を落とすことか。でもそれは九牛の一毛のこととして納得するしかあるまい。

終わらぬ何事かはないという。苦しんだ挙句に必ず光が見えるはずだ。が、光を取りもどすためには、我々自らの手で「天岩戸」を明けねばあるまい。










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次長課長河本は、芸能界を引退すべきだ(誰も困らんし)!

2012年05月18日 | Weblog
芸人という職業的不安定性を理由にいいわけをする年収5000万男?

何を甘えたことをいっているのだ、この男は?

誰もあなたに芸人になれと頼んではいない。あなたがいなくては日本の芸能界やお笑いが成り立たないわけでもぜんぜんない。

あなたが芸人であることは、あなた自身の選択であるはずだ。職業選択の自由というやつだ。

である以上、職業の安定性は扶養義務から免れる正当な理由にはならない。

そんなことをこともわからんのか?

吉本興業も吉本だ。

率直にいって、ここ20年ほどの吉本は、日本のお笑いをすっかり腐らせたと思う。くだらない幼稚な芸ばかり見せるようになった。新喜劇もここ20年ほどでっすっかりダメになった。もっとも、昔から低次元ではあった。家では中学になるまで見せてもらえなかった。でも、中には新喜劇以外でも活躍し、それなりに演技力あるいは芸のある役者もいた。が、いまはどうだ?


海外進出だとか言っているが、国辱ものである。やめた方がよい。

マネージメントする側はそんなことだから、芸人も紳助やら河本みたいなのが出てくるのだ。

まあ、腐れ芸人一人をもって、日本人が・・というのは極論、暴論かもしれないが、こういう恥知らずなことを平気で口にできる人間が存在するこの日本。
劇的に強制力をもって変えなければならないなあ・・。個人の自由とか権利なんてそのあとでいい。

それに、河本の子供。こんな情けない親の背中を見せられて育つ子供ってどんな人間になるのだろうか。子は親を選ぶことはできない。いいか、河本。芸人でも
人にはかわりない。日本人であることにかわりない(日本人ですね? 同業者、そうじゃない人多いみたいだけど)。我が子と国に仇することだけはやめてくれ。

芸人が不安定なら、さっさと引退したら?

あなたがいなくても、芸能界はぜんぜん困らん。まあ、あの見た目だけでお笑い芸人らしくない華のない相方は生活大変になるだろうけど。





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赤木智弘氏いわく、「国民を養うのは国の役割」

2012年05月18日 | Weblog
この人の言い分というは、しばしばどこかトチくるっていると思う。

今回も、上記の主張。

少なくとも、現行憲法上、100%間違いとは言わないが、国が補償するのは最低限度のはずだ。

スマイルズほど突き放すつもりもないが(といっても、個人的には人はかくあるべきだと思っている)、基本的に、国民一個人の生計は「自助」にあるのではいのか。そして現行憲法でも、最低限度以外は自助・自活が求められているのだ。

福沢諭吉の「独立自尊」ではないが、こういう他力本願の輩が増えては日本の行く末は限りなく暗い。

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ジョニー・デップ、「ギルバート・グレープ」:でも注目はデカプリオの演技

2012年05月17日 | Weblog
もう20年も前の映画。ちょうどデップが「シザースハンド」なんかに出て映画俳優として本格的に売れ出した頃ですね。

それにしても、あの人、昔から強烈メイクでの役柄が多いですね。

というのはさておいて、昔からこの映画大好きです。原題は”Who's Eating Gilbert Grape"ですね。「ギルバート・グレープ」ってのはちょっと安直な邦題ですね。字幕の訳もイマイチ工夫が足りない。直訳では都合が悪いことも多々あることはわかりますが、やはり、言語のセリフの妙を滅してしまわないで欲しいと思います。なるほど、さすがと思う訳は少なくないですが、この映画に限ってはいただけない部分が多いように思います。

何度見ても、アメリカ映画も捨てたもんではないと思います。最近はアイディアの枯渇だとか言われています。確かにビッグスクリーンのは、どうもいただけない。、昔から。でも、日本ではなかなか見れない映画のなかにひかるのが結構あります。「ナチュラルボーンキラー」だとか、まあアカデミー賞とったんですが、日本じゃあ注目されなかった「ファーゴ」なんて、何度見てもおもしろい。蛇足ですけど、ケーブルチャンネルのオリジナル映画でも秀作っていうんじゃないですけど、オモシロイ!っての結構あります。

またまたそれはさておき、この映画の秀逸なのは、やはり、デカブリオです。デップの弟で知的障害をもった少年役。この演技が「ただ者ではない!」というほかありません。確か、アカデミー賞の助演男優賞の候補になったはずです。あの演技で受賞できなかったレオ様。当分、アカデミー賞とは縁遠いままかもしれませんね。そういう人いますね、実力の有無に関係なく。まだ10代のレオ様。題名忘れましたがTVドラマで注目集めて(確かにあの役も主役を食いかけていました)、あの役。某ジャニーズの方がやはり20そこそこの時に同じような役をやっていまして、演技派なんて言われたあことがありましたが、演技力に差がありすぎます。ほんとに、あのレオ様は一見の価値ありです!












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日本人の劣化: 天皇皇后両陛下にカメラを向ける不敬

2012年05月14日 | Weblog
震災被災者が再度、天皇皇后両陛下の行幸の栄に浴した。

が、TVを見ていてあきれたのは、両陛下を会釈、敬礼をもってお迎えすべきを、シャッターを切って迎えたあきれた輩がいた。

今更といえば今更である。今に始まったことではなく、両陛下に限らず、東宮殿下御一家に対してもその調子である。

両陛下、皇族の方々だから無礼千万ということもある。

が、それだけではない。

最近、ところ構わずカメラを構える輩が実に多い。

卒入学式でもそうだ。校長、来賓の祝辞中もひっきりなしである。親が校長に礼を尽くさずして、どうして子どもが礼儀を知ろうか。我が子の
門出にわざわざの来賓なのであある。親がそれをシャッター音で迎えるとは何事か。しかも、来賓の言葉などそっちのけなのだから。

昨日の両陛下行幸の場面では、随分な年配者さえもカメラを構えていた。

そんな連中が果たして自力でまっとうに生活を立て直せるのか? どこか、心持ちに間違いがあるのではないのか。陛下のご体調に思いをめぐらせば、わざわざの行幸にカメラはああるまい。見舞いにきた客、しかも自分よりも目上の者に対して、いきなり玄関先でカメラを向けるバカはいない。悪気はない? それで済む問題ではああるまい。悪気がなければ、無礼が許されるわけではないことは、子供ですら理解できる。

そんな年寄の背中を見て一体、若い者たちは何を学べというのだ。

まったく情けなく、腹立たしい限りである。

こんなことでは、日本の復興は難しい。
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塩谷瞬、「寂しい」って・・・

2012年05月14日 | Weblog
あなた、それホンネ?

それとも、演技? 計算づく?

その類の言葉にコロっとくる女少なくないから。「寂しい」、「会いたい」とかいうとすっ飛んでくる女いるから。

ホンネにしろ、演技にしろ、マスコミ前にそれをホンネで言ったとしたら、正真正銘のすけこましのヒモ根性のしみついた男だね。

もしかしたら、本人も自分自身でホンネなのか芝居なのかわかっていないで言っているのでは?

まあ、いずれにしても近づいちゃあいけない男だよ、女性のみなさん。なーんの徳もならんから、こんなの。早漏だそうだけど、もしかしたらはなから相手を悦ばせようなんて意識は薄くて、結局あちらの方も自分よがりなのかも。男女とわず見た目の良いのに多いけど、ナルシシストなんだろうね。

でも、数年前に比べると、容貌が劣化していないか? まだ、29だって。劣化早過ぎでは? 人相も悪くなっているし。

先行き暗いなあ、このひと。











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あえて世代論を: 高齢者?(60-70歳代)の登山事故に思う

2012年05月05日 | Weblog
死者に鞭打つの無礼をあえておかすが、「またか」というのが、正直な思いである。

近年、60代、70代の登山中の事故が多すぎないか?

登山というのは、山の種類にもよりけりだが、多かれ少なかれ危険を伴う。海外の山にも挑んだ経験がありながら結婚を契機に山に登らなくなったという登山愛好家も知っているが、理由は実に単純明快。万が一の時に、悲しみ、苦しむのは家族だからというもの。

至極まっとうな判断であると思う。

もちろん、それでも山の魅力から逃れられない人たちもいる。おそらくそういう人たちは、万一によって生じるであろう経済的な問題にも事前に対処してから山に向かっているには違いない。が、それでも、残された家族の心の問題はどうするのだろうか・・。

そうした分別、60代、70代にもなればなおさらあってもよさそうなものなのだが・・?

爺さん、婆さんが遭難して死んでも若年者の場合よりも家族の悲しみは少ないと考えたのか? 経済的な負担もかけることはないと考えての登山なのか。

いやはや、人生の先輩方に申し訳な言い方だが、浅はかというか、思慮が足りないとしか言いようがない。

身の程知らずだし、手前勝手にすぎるとも思う。60,70にもなって・・・。


ただ、思えばこの人たち、戦後のエトスがもっとも濃厚な時期に多感な年ごろを過ごしてきた人たちだ。学生なんとか華やかなりしころの方々という方がわかりやすいか。よもや「自由」を謳歌することが価値観として他者への配慮だとかに勝ったということなのか。「自由」によって大義名分をあたえらえた個人の欲望と願望が生んだ悲劇。それが自然への畏怖をも忘れさせたとしたら、これを「自由の悲劇」と呼ばすして何と呼ぼうやである。やがてこのような価値観なりイデオロギーは必ずや後世の指弾を受けることになると予感するのは私だけであろうか。

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篠田正浩という映画監督

2012年05月05日 | Weblog
率直に言って、彼の映画はもう古い。

60-80年代的においがプンプンなのだ。冷戦終結以降明らかに消えていったあのニオイが。といっても、いまだ日本社会のそこかしこにそれがこびりついたように
残っており、一体何時になったら消えるのだろうと、子供の時分(といっても70年代後半)に直観的に「おかしい」とおもって以来、忌み嫌ってきたこのニオイに
いらだちすらおぼえる。だからアンチ民主党なのだとも思う。やはり政治だけでなく社会全体をあえて強引なやり方でガラガラポンっしてしまう必要があると思う、この国には。

なんで今更そんな「旧文化」の残滓のような映画監督をここで取り上げるのか。

同業の岩井俊二が篠田作品の「わたりごぜおりん」に若かりし頃、衝撃を受けたというので、どんな作品かと期待してみて、「あ、やっぱり篠田正浩だわ」とがっかりした。プロ的にはいざ知らず、素人的に見て、「いかにもあの時代的」、篠田的作品。ありていにいえば、金太郎あめのような作品です。

岩下志麻の演技もさしたることなし。

原田芳雄は相変わらず、何をやっても原田。まあ「チゴイネルワイゼン」は良かったけどねえ。鈴木清順は。日本アカデミー賞を取らせたかったって授賞式の場で実際に受賞した仲代達矢を前に言ってのけたんだけど(でも、仲代には失礼だよなあ)、あの原田は確かに良かったけど。

実は岩下志麻、私好きなんです。でも、篠田って縛りがなければ、もっといろいろな顔を見せてくれていたあのではないかと思ってもみるのです。横恋慕ではないですけど、彼女はもっと大女優になれたのではないかと・・・「極妻」が代表作なんていわれるべき女優ではないはずです。

篠田だけではないです。古い監督方、特に80年代くらいまで活躍された方々、どうしてもエトスを引きずっていますね。かくいう私も戦後のそれがしだいに影響力を弱まりつつある兆しを見せ始めた80年代が育ちざかりだったので、そう感じるのかもしれません。

篠田より世代古いですけど、市川昆なんか、私個人的にぜーんぜん評価していません。彼の作品にはとても批判的なんです。これについては改めて。









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