くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

外交の福田、という悪い冗談

2008年05月31日 | Weblog
この人、人道云々は良いが、国防とか、安全保障をどう思っているのだろうか。

まあ、人の命は何とかより重いという迷文句でもって、その後世界に多大なるご迷惑をかけた人物の実の息子であることからして、親が親ならとも言えるし、カエルの子はカエル、トンビが鷹を産むことはない、とも言えよう。

「外交の福田」だそうだが、このままでは後世「外交」ならぬ「外寇(を招く原因をつくった)の福田」と呼ばれなければよいのだが・・。

こんな女に誰がしたではないが、誰がこんな人を首相の座に据えたのだ?
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胡錦濤政権の現実を垣間見た?

2008年05月30日 | Weblog
自衛隊機派遣見送り。

我が方の拙速、福田政権の対応のまずさはさておき、中国側の出方もこれまた不味かった。中国というのは、外交巧者のようにいわれる。たしかにその一面はあるのだが、同時に時に実に不細工なこともする。今回は後者と言ってよいのではないだろうか。少なくとも、最近良い雰囲気にあった日中関係に水を差したことは間違いない。もっとも、日中関係の改善ないしは胡政権の対日宥和路線に批判的な分子は、ほくそ笑んでいるかもしれないが。

同時に、胡錦濤の中共党、政府、軍における立場というものを我々は垣間見たのかもしれない。かりに胡氏自身の判断で「自衛隊機も含めて」という意向が日本側に伝えられたとすれば、日中関係改善に向けて動いていた同氏としては、しくじったことになる。それは同氏の外政家としての稚拙さを示唆すると同時に、自らの意思決定に党、政府、軍が必ずしも従わないという、同氏の力の限界を露呈したということかもしれないのだ。

かりにそうだとすれば、胡政権の対日政策は、国内の反発によって軌道修正を余儀なくされるという可能性も十分にあるということではないのか。もしそうなるとすれば、それが顕在化するのは、五輪前ではなく後であろう。

日中関係はそうそううまくはいかない。甘い期待など持てば失望は大きい。そもそも今の北京政府との友好を期待すること自体、梅の木に桜の花の咲くのを待ち望むほどに虚しいことなのだ。あの政権の本質は「反日」だ。かりに「親日」的姿勢を見せたとして、それは政戦略の具にしか過ぎまい。その点だけはゆめゆめ忘れてはなるまい。
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ネパールを待ち受けるもの

2008年05月30日 | Weblog
ネパールは王制廃止を選択した。

ビレンドラ国王殺害事件があった時に、こうなる可能性が少なからぬことを予測したのは私だけではあるまい。いかんせん、国民の敬愛を受けながらも非業の死を遂げた国王の後を継いだのは、国民の人気芳しくない王弟であり、更にその後を継ぎことになるであろう王子もまた不人気極まりなかったのだ。

しかしながら、思うのだ。果たして王制を捨てたかの国を待ち受けるものは幸福なのかと。

他国に例を取るならば、君主制を捨てた結果政治・社会情勢が中長期に渡って不安定化したり、国民に幸福をもたらさなかかったケースは少なくはない。

ネパールも当分の間は、政治的に流動的な時期を過ごさねばならないのではないだろうか。

自ら下した判断の結果責任を負わねばならないのは当然であり、かりに王制廃止の結果ネパールに不幸が訪れたとして、私はさして同情しようとは思わない。ただ、少なくとも願わくは、ネパール国内の混乱が、地域の不安定化の要因とならぬことを願うばかりだ。
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古舘伊知郎さん、もちょっと黙ってくださいませんか?

2008年05月29日 | Weblog
時間の都合で、あの時間帯しかゆっくりとニュース番組を見る余裕がなく、選択の余地もなく仕方なしに見る。

ただ、こちらは、古舘の独演会を見たいわけではなく、ニュース番組を見たいのだ。

しかも、あの不必要に力んだ箸にも棒にもかからないようなくだらない喋りは、まったくの蛇足。実際ニュース読むより、聞いてて疲れるような喋りの方が長いのでは? 喋りはいいから、もっとニュースを読めと思っているのは私だけ? 久米のコメットは、いたちのすかしっぺみたいなところがあったが、古舘のはなんともくどい。

大体あの時間帯に、あんな力んだ喋りを聞いたくないでしょ。さあもうすぐ寝ようかっていう、皆一日の疲れもたまっている時間帯に、あんな息が詰まるような喋りをダラダラやられたら、余計に疲れてしまう。しかも、内容は無いし、時々「おいおい、そりゃ事実誤認だろ」、「もっと事前に調べておけよ」みたいなのもあるし・・。

視聴率取れているなら、他の視聴者は気に入っているんだろうけど、どうもテレ朝も人選ミスだったんじゃあないだろうか・・・。
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胡錦濤の危うさ

2008年05月29日 | Weblog
最近の胡錦濤の対日政策・姿勢にある種の「危うさ」を感じるのは私だけであろうか・・。

かつて「親日」的姿勢を材料に権力の座を追われたのは、中共総書記胡耀邦であった。失脚間際の胡総書記を救わんとして靖国参拝を断念したと、後日談として語るのは我が大勲位氏であるが、後付けの説明なら何とでも言えるわけで、結局胡氏を救えなかったということは、大勲位氏は政治的に「しくじった」ということに他ならず、「私はしくじりました」と自らの政治家としての不明を告白しているようなものだ。

それはさておき、一部には、胡錦濤は亡胡氏の対日路線を踏襲しているとの見方もあるが、果たしてそうなのか。そうだとして、自衛隊機派遣を含めた支援要請は、やり過ぎではないのか。

胡主席は党政軍においてその立場が亡胡氏とは大きく異なる。胡主席は、党、政府、軍のいずれにおいても最高位の立場にある。特に中軍委主席の地位を有することは大きい。

ただ、たとえそうであっても、胡主席の立場や権力は、毛沢東は言うに及ばず、小平のそれにも及ばないようだ。現在の中共指導部は事実上の集団指導体制という見方もある。党中央政治局常任委員が、現在過去最高の9人であることも、胡主席の力が中央党校派や上海閥、太子党といった諸派閥の力の均衡の上になりたっているということを示唆しているのかもしれない。胡錦濤がいかに中軍委主席の立場にあるとはいえ、軍歴の無いがゆえに、毛沢東や小平のような影響力及び求心力を人民解放軍に持ち得ていると考えるのは安直に過ぎるかもしれない。事実、昨年初めの衛星破壊実験は、胡主席の了解のもとに行われたとする味方もある一方で、軍の独断専行という見方もある。

また、政局常務委員の70歳引退規定が中軍委主席の座に適応される否かは、2012年にならねばわからぬが、あと4年余という時間の制約が、胡主席の権威や影響力をある程度制限する方向に働いているとしても、それは別段驚くべきことでもあるまい。

毛沢東、小平、そして江沢民のいずれもが、死去するか引退するかのいずれかまで手放さなかったのが、軍権である。毛は、大躍進失敗後、国家主席の座を降りても、党主席と中軍委主席の座は決して手放さなかった。小平も最後まで保持したのは中軍委主席であった。江沢民もまたしかり。権力の本質的な部分が、暴力装置にあるということを如実に物語っていておもしろいが、そのことは、とりもなおさず、胡錦濤の軍部掌握力が不十分であったり、そこに陰りが生じれば、胡氏が失脚しないまでも、集団指導体制の中にさらに埋没せざるをえない事態もおこりうる。
現在の対日政策を軍部が支持しているというのであれば、それはないのであろうが、さもなくば、自衛隊機の派遣も含めた援助要請などは、軍部に根強いと言われる反日意識や対日強硬論を刺激することになりはしないだろうか。ガス田問題も、それが軍権益に属するものであれば、もし胡氏が何らかの妥協を模索でもすれば、それもまた軍部の不満・反発の原因となろう。

もう一つの懸念材料はやはり世論だ。カルフールの一件で見たように、中国世論は実にげんきんなものだ。このげんきんさは、彼の国の世論の可変性の証左でもある。確かに中国に限らず世論は可変的で日和見だが、中国もその例に漏れない以上、胡錦濤の対日政策いかんによっては、最近改善の方向にあると言われる対日感情が再び悪化する可能性すらある。中国指導部内に政策対立やそれを権力闘争に利用せんとの思惑が存在すれば、胡氏の意図に反して世論を再び反日への誘導する動きも出てこよう。

味方によっては胡錦濤の対日政策は巧みである。中国の対日感情や姿勢が和らいでいると知れば、日本側とて悪い気持ちはすまい。特に日本世論の反中感情を減ずる一定の効果は期待できよう。と同時に、日中関係が改善傾向にあるという環境のもとで、修正主義的な歴史言説を大声で叫んだり、首相や政治家の靖国参拝要求の声をあげることをためらわせるような雰囲気を日本国内に産みだす効果も期待できるはずだ。ましてや、首相をはじめとする政府首脳等の靖国参拝に対しては、首相の座にあるのが福田氏でなくとも、「どうして日中関係が改善しているこの時期に?」という世論による抑制が働くとも期待できる。首相の靖国参拝を基本的に支持す私の立場から言えば、胡氏の対日「微笑外交」が、実にクセモノなのだ。

ただ、中国国内的には、党政軍の他の指導者が、また世論がそれをどこまで許容し支持するかが鍵となる。自衛隊機の派遣を含めて、今後の対日政策があまりにも融和的過ぎる、あるいは弱腰に過ぎるとの批判に晒されるようなことになれば、胡氏とて権力保持のためには方向転換せざるをえまい。万一胡氏失脚などということにでもあれば(それはよほどのことが複合的にないかぎりないとは思うが)、次の指導者は否応なく対日強硬姿勢を示さざるをえまい。

今以上の対日宥和政策はおそらくないであろうと、個人的には予測する。つまり、ガス田問題なども、せいぜい現状維持であろう。毒入り餃子問題もうやむやのままに終わるのであろう。五輪が始まれば、高まるナショナリズムが再び反日、侮日感情に火を付ける可能性は大かもしれない。そして、その反応として、我が国の世論の対中認識も再び硬化するのではないだろうか。

ただし、万一、胡錦濤が今以上に対日宥和を進めたとしよう。それは、五輪後の、中国国内政治の不安定化の一因になるのではないだろうか・・・。
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それでも今後の日中関係は・・・

2008年05月28日 | Weblog
中国政府が、日本政府に対し救援物資輸送のために自衛隊機の派遣を要請したとのこと。

国内では、既に三宅坂の朽ち果てかけたビルに本拠を置く政党の党首が反対されているそうだ。世論の中にも、相も変わらず、自衛隊機である必要がないという声が当然のごとく出てくるのであろう。

中国国内にもこれまた、歓迎、謝意の表明がある一方で、「誠心誠意であれば受け入れる」などと、とても援助を乞う立場の人間が思っても口に出すべきではないような声もなくはないようである。

報道によるかぎり、今中国の対日感情は劇的に好転しているぞうだが、かりにそれが真実だとして、あまり喜ばぬ方がよい。いずれ近いうちに、それが一過性のものであることに気づかされることになるのは必定だ。中国政府はいまだ田中角栄の「井戸堀り」の恩義を忘れぬというが、おそらく、今回の震災の支援にそれは期待できまい。カルフールの姿勢が良い例で、自分たちの都合しだいで、あっけらかんとどうにでも態度を変えてくるのが大陸人だ。

今は福田政権と胡政権が「臭いもの」にとりあえず蓋をした状態で日中関係の平穏が保耐えれている。そこに幸いといえば不謹慎にもほどがあるが震災後の一連の動きがあり、両国関係は更に改善の方向へ舵を切ったかに見える。しかしながら、「臭いもの」が存在し続けているという事実は変わらぬし、いつまでも蓋をしておくわけにはいかないのだ。日中関係の本質的な部分は、いまだ非常に不安定かつ困難なものだと認識するのが妥当であろう。

援助は不要などと言っているのではない。可能な限りの援助の手を誠心誠意差し伸べるべきである。ただ、現在只今の状況をもってして、日中関係の行く末に過剰な期待と楽観を持ってはならないといささかの警鐘を促したいと思うのだ。
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大成駒のお蔦

2008年05月27日 | Weblog
先日の先代幸四郎の「寺子屋」に続き、「一本刀」のDVDを拝見。

昭和59年のものだそうで、大中村(好きな役者でした)、故大成駒でそれぞれ、駒形にお蔦。それから脇は、播磨屋に、当代勘三郎。それから、懐かしいーあのしゃくれ顔、故延若。

おそらく、お蔦は大成駒のニンではないのだろう。むしろ故梅幸の方があっていたはずと想像してみるが、それでもさすがは、大成駒。今どき、あれだけの雰囲気を醸し出すお蔦役者がいるだろうか。設定された時代からタイムスリップしたか芝居絵から飛び出してきたようなお蔦。今ならせいぜい神谷町くらいか? だが、神谷町のニンでもない。

大成駒の芝居はまごうことなく近代歌舞伎だったのだろうが、「ラマンチャ」役者などとは違い十分な時代味があった。こうした味わいを出せる役者が、昨今実に少ない。玉三郎になるとすっかり近代いや現代だ。以前は時蔵に期待したものだが、正直、今のところは期待外れのままだ。やはりお蔦のニンではないが、故宗十郎のあのなんともあっけらかんとした、きっと江戸の頃の芝居はこうだったに違いないと思わせるような芸風の役者はもういない。

そして大中村の駒形。体の小ささはいかんともし難く、大柄な播磨屋と組んだ場面は滑稽ですらあるが、やはり巧い。私は晩年しか知らないのだが、数少ない舞台のうちに、何度笑い、泣かされたことか・・・。

当代勘三郎の若さとともに、かの名優たちの不在に、時の流れを否応なく実感させられた。

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小泉純一郎への複雑な思い: 彼は国賊、逆賊かもしれない、という不安

2008年05月27日 | Weblog
小泉元総理、首相の座を退いてもいまだその存在感に陰りを見せるなく、世間の人気も相対的に高いようだ。

私も今の政治の停滞を思うと、また政界再編というものを不可避と信じる立場からも、小泉氏に期待せぬでもない。

その一方で、氏には少なからぬ何とも拭い難い不信感もある。私は女系の皇位継承を許容しようとした氏に対しても「獅子身中の虫」、「君側の奸」との思いがしてならないのだ。女系を認めれば、それはいずれ皇統の権威を傷つけ、結果我が国の万古の国体を改変することになる。天皇制度消滅の因ともなりかねないと危惧する。天皇なき日本は、国家であり続けたとしても、もはやそれは「日本」ではありえない。女系の天皇も皇室の血を継ぐとはいえ、天照の神勅にそむくことになり、正統な天皇たりえない。正統ならざる天皇すなわち偽皇をいただく日本は、これまたすでに日本たる国体を損ね、日本たりえない。まさに亡国である。

すなわち、小泉氏は国をあやうく傾国宰相になりかかったわけだ。もしあの皇位継承の改悪が何者かも入れ知恵による煽動ではなく、氏の本意であったとするのであれば、私は氏を「国賊」、「逆賊」と呼んで躊躇すまい。(そう言えば、かつて「尊王斬奸」などという政治?スローガンもあった・・・。)

それゆえ、小泉という存在の影響力に期待をする反面、この「劇薬」かもしれない得体のしれない存在に強い警戒感を抱くのである。
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町村発言に賛成!: 子供をつくるのは「義務」どころか・・・

2008年05月26日 | Weblog
母校東大での町村官房長官の「子供をつくるのは義務」発言。早速、一部マスコミは批判しているが、私は全面的に支持したい。

人口抑制を欲する国家としては、国民にそう多く産まれるのは困るのだろうが、我が国はそうではない。少子高齢化だ。もっとも少子高齢化、人口減少は悪いことではないという論者、識者もいる。そのあたらい人口経済学的なところは、素人の私にはとんとわからぬので、あくまでも、一般論でということなのなだが、国家は存続すべきものという前提に立てば、国民が子孫を産み育てることは期待されて当然であるし、国家が国民をもって成り立つという現実に基づけば、子孫を産み育むということは、国民としての事実上の「義務」であるはずだ。

国民は、自国が滅びても良いと考えるいう立場にはないはずであるし、あってはならない。国民はあくまでも国家の存続、永続を願い、そのための努力を惜しまない存在でなくてはならない。それに反する考えをもった国民は文字通りの「非国民」、獅子身中の虫だ。抹殺するか国籍はく奪のうえ国外追放でいい。

現実の我が国では、子供が欲しくとも、あるいは今以上に子供をもうけたくとも、経済的余裕がない、あるいは雇用や社会保障などの将来性への不安がぬぐい去れない現在の状況において、子供を持つことを躊躇する夫婦もいるのかもしれない。何年か前の統計によれば、できれば子供をもちたい、あるいは二人目、三人目が欲しいが、上記のような事情で思いとどまっているという夫婦が相当数いるとのこと。

その一方で、端っから子供は要らないなどという夫婦や男女もいる。自分の時間が削がれる、経済的負担になるという理由だそうだが、こういうのはある意味「異常者」としか言いようがない。まともな人間なら、子供が欲しいと思うのは、生き物としての自然の欲求のはずだ。同性愛者だって、子供は欲しいと思う人はいるのだ。同性愛者はってのは失礼ですな・・・。その生き物として、ヒトとしての自然の欲求が無いという状態を「異常」と言わずして何と言おうや。

こうした人間に子供をもうけるのは「義務」だと説いたところで、無駄かもしれない。屁理屈をこねて反論してくるに違いない。マスコミの加勢も得て、いたけだかになって反発してくる輩もいるであろう。

でも、「異常」は「異常」だ。もっとも、「異常気象」と毎年言っているうちに、どうやらそれが常態化してきたしまっているように、将来的には「子供は要らない」という「異常」が「常識」になってしまうのかもしれないが、そんな「常識」がまかり通る国になり下がるのなら、どこぞの属国か自治区にでもなっがいい。

町村さん、常日頃私はあなたのエリート然とした官僚然とした物言いがひどく気になっていたのですが、今回ばかりは支持したいと思います。ですから、是非、批判を受けたからと言って、後になって腰の引けたような釈明だけはしないでくださいね。

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元中核派が閣僚に!?

2008年05月24日 | Weblog
今更知ったのかと言われれば、その通りなのだが、元中核派のメンバーが与党の国会議員でありかつ安倍政権で閣僚を務めていたとは・・・。

この「転向者」、二世議員にして、元日銀マン。

私は「転向者」を容易には信用しない。若い頃に身にしみついた思想は、ヤク中患者みたいなもんで、完全に消し去ることはできない。思考や価値観のどこかに、かつて信奉した主義の残滓が存在し、それがいつ頭をもたげるか予断を許さぬ。

ナベツネを見ればわかる。一度転んだ者は、またいつ転ぶかわかったものではない。要は信用できないということだ。

この元中核派氏など、頭のどこかに我が国の国体を否定する意識をいまだ持っていると思って間違いあるまい。そう思って、この「転向者」を見た方が無難だ。

安倍前総理も、よくもこんな人間を閣僚にしたものだ・・・。見識を疑う。

自民党若手の一部は、かつてこの元中核派を総理総裁候補に推したこともあったと記憶している。節操がないにも程がある。

こういう得体のしれない政治家は、存在が大きくなり、何かしでかす前に、政治生命を完全に絶った方が良いのだが・・。
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世代論の虚しさ、愚かさ、恥ずかしさ: 「今時の若者は」とは言うけれど・・・

2008年05月23日 | Weblog
今時の若者と接する機会の多い私も、ご多分に漏れず「今どきの若い連中は」と思いうことがしばしばである、とここであえて告白する。

そう思う理由の一つが、立ち居振る舞いだ。公共の場や公共交通機関のなかで平気でしゃがみ込む、ものは食べる、化粧はする。しゃがみ込むというのは、実はかつての日本人がよくした行為なのだ。明治になっても、庶民が道端にしゃがみ込むなどということはあったらしい。おそらくは、公衆の面前での下帯姿同様、西洋文明の洗礼を受ける過程で、公序良俗に反する行為として廃されていったに違いない。
日本人の公共の場での肌の露出を揶揄、批判した西洋人が、後々、肌を露わにするようなさまざまなファッションを生み出していったのは何とも皮肉なことである。

そのファッション、服装や着こなしもまたしかり。私や、おそらくは私より上の世代から見れば、だらしなく清潔感のない服装。擦り切れたを通り越して明らかに穴の空いたジーンズや、あえて下着を見せた着こなし、下着と見紛うような女性のファッションなど、目に余るものは枚挙に暇がない。そもそも、ジーンズとは下層労働者階級の着したものであるし、下着を見せるのも、某国の下層民たちが始めたものだ。女性が下着をみせるなど、古今東西おのれの身をひさいで生業とする女のすることである。

そして学力低下。とにかく、ものを知らない。知識欲とか知的探究心も低い。私が日本人の学力低下を実感するようになったのは90年代末。仕事で部下や顧客として10代から20代の若者に接する中で、「あれ?」、「えっ?」、「この大学出て、この程度?」と思わざるを得ないような場面に出くわすようになった。最初は接した個人の問題なのだろうと思ったが、その数が増していくのにつれて、どうやらそうではないと気付くようになった。そしてちょうどそのころから世間でも「学力低下」問題が喧しくなった。

しかしながら、私は世代論というものは、するなとは言わないが慎重であるべきものだと思っている。世代論がまったく無意味なものだとは思わない。それぞれの時代には異なったエトスや社会状況があるため、それら所与の条件が異なれば、おのずとその中で生まれ育った人々の思考や発想、行動にも違いが出るのは当然のことであろう。ただ、上の世代が「今どきの若いのは」と下の世代を批判することは、それ自体が虚しく、かつ愚かしく、そして恥知らず行為でもある。

若者の感心できない立ち居振る舞いや服装、学力、どれにつけても、彼らの親世代、祖父母世代が責任の多くを負うべき問題ではないのか。氏より育ちと言う、立ち振る舞いはそもそも天性のものではなく、家庭や学校生活、社会生活を通して身につけていくものであるはずだ。若者たちに社会生活上適正とされる立ち居振る舞いやマナーに疎いというのは、彼らの親世代、祖父母世代が十分にしつけなかったからではないのか。

服装にしても、だらしのない清潔感のない服や、下着まがいの服、だらしのない着こなしをハード、ソフト両面において商品化し、それを若者たちに売りつける、彼らの購買意欲をさまざまな方法でかきたてることで金を稼いできたのは、彼らの親世代、祖父母世代が主力となって働く企業ではないのか。消費者のニーズに応えたまでなどという言い逃れなど、ゆめゆめするなかれ。

性風俗の乱れというが、これもまた、我々が彼らに商品として提供してきたものではないのか。最近の若い子は、性行為の低年齢化ばかりではなく、避妊具をあまり使わないくなったというが、これまた大人たちの責任は大きい。子供の頃から性的描写の含まれたTV番組や漫画に晒され、家庭・学校において十分な避妊知識を与えなければ、結果はおのずと知れよう。現状に慌てふためき、嘆く方こそ愚かというものだ。

学力もまたしかりだ。相対的に見て学力が低下するような教育制度をつくり教育を施してきたののもまた、彼らの親世代、祖父母世代なのだ。学力低下の原因であると言われる教育制度を作ったのは彼らではない。そして彼らには選択の余地もなければ、教育の良し悪しを判断する手立てすらない。「おバカ」を売りに視聴率を稼ぎ、金を稼ごうとしているのも、「今時の若者は」と嘆き、批判する連中ではないのか。「バカ」や無知は恥じてこそ、誇るべきものではないのだ。それを売りにするなど、売春婦と50歩100歩というものだ。例の「羞恥心」のメンバーの一人は子供の親だと言うが、恥ずべきを商売の具にする恥知らずな親に育てられた子供など、ろくな子供に育つまいが、その子にとっては気の毒この上ないことだ。子は親を選べないのだ。

かつて三好京三の著書に『子供叱るな来た道じゃ』という題名のものがあったが、まさにその通りだ。彼らの親や祖父母が来てしまった道、その行きついた先が、今の若者たちなのだ。と言えば、物心つけば自分のことは自分で、というが、三つ子の魂百までという。その魂は大人が子に宿すものだ。乳幼児にその責任を問う者はいまい。たとえ、高校生、大学生とはいえ、まだ子供であり、未熟だ。生きものは寿命が延びれば成熟も遅れると言う。人生50年の時代とは違うのだ。今どき、昔は15で元服したなどと説いたところで、虚しいだけだ。10代や20そこそこの小僧っ子に、自分のことは自分で律するべしと自己責任を求めたところで、おのずと限界がある。10代後半、20代になって人の性根など、よほどのことがない限り変わるものではない。例えば10代でグレや連中など、成人してどんなにまともになっても、ひょんなことで昔の片鱗を見せることがあるが、それこそ、子供のころに得たものがその人間の性根として文字通り人間性のなかにしっかりと根をはってしまっているということなのだ。不良とクスリは、一度手を染めれば、何時何時再発するかわかならないのだ。人間形成において若者に自己責任を求めるなど。所詮は、大人たちの責任放棄、責任逃れでしかない。そもそも、その大人たちからして、偉そうなことは言えない。自分の子供と同年代の子供に省のはけぐちをもとめ、あるいは手段を選ばずカネ儲けの道具や対象にしているのだから。

批判的若者論が、ブーメラン的に自己批判になると自覚する者が一体どれだけいるだろうか。おそらくは、それほどいまい。残念ながら、今時の若者の親世代、祖父母世代は、実は彼らのことなどどうでもいいのだ。だから、彼らにとっての損得など頓着せずに、彼らを食い物にして銭を稼ごうとする。彼らの将来など一顧だにせずに、「私たちの年金が」、「私たちの老後が」、「年寄りには死ねというのか」と自分たちのことしか頭にないのだ。自分たちの幸せな老後のためなら、若者を若い世代を犠牲にすることなど厭わないのが今時の年よりなのだ。こちらの方が、今時の若者よりもはるかにおぞましい。「桃太郎侍」ではないが、人の世の生き血をすすりとはまさにこのことだ。ということは、今時の年寄り=越後屋ということか? そなたも悪よのう、越後屋・・・。

だらしのない若者、物事の敵不適を知らぬ若者、無知な若者、彼らをそうさせてしまったのは多分に彼らの親や祖父母の世代の責任なのだ。そしてその責任の一端を私地震も負わねばならない。

今時の若者の皆さん、あなたたちは実に情けなく心もとないところがあるが、あなたたちがそうなったのも、私たちの責任が大きいのです。

本当にごめんなさい。
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四川大地震と日中関係

2008年05月22日 | Weblog
事実上挫折した生存者救援と入れ替わりに医療支援チームが中国入りしたが、これもまたトラブルに見舞われていると言う。支援方法をめぐる彼我の思惑に違いがあるとのこと。

だが、日本側が「我」の思惑や当初の想定に固執すれば、それが「彼」から見れば支援の押し売りに映る恐れもある。「助けてやる」みたいな高飛車な姿勢と受けとらえる恐れもある。今一番重視すべきが、「彼」が何を欲しているかであり、支援するならするで、それにこたえるかたちのものでなければ、かえって有難迷惑であり、新たな「反日」感情の火種にもなりかねない。四川という場所だけに、そこは注意を払いたい。医療チームの団長が、外務省の役人らしいが、そこらあたりの匙加減を是非やってもらいたいものだ。

ところで、震災発生後の日本の対応により、対日感情が改善傾向にあるとの報道もあるが、ホントかね? 北京政府によって捜査された情報を、我が方のマスコミがそのまま鵜呑みにして流しているだけではなのかと勘繰りたくなるのは、私だけ?

まあ、対日感情の改善が事実だとして、それが我が方の対中感情にも「好」影響を与える可能性は十分に予測しうるが、感情レベルでの日中関係も、一過性のものだと私は見ている。あるいは、中国側の対日感情改善報道が、向こうさんとこちらのマスコミの「共同謀議」だとすれば、その化けの皮は早晩剝されることになるだろう。

予測するに、もし本当に日中関係が世論感情レベルにおいて改善傾向にあると思っている向きは、北京五輪で冷や水を浴びせられるだろう。五輪における現地人たちのナショナリズム、しかも偏狂なそれへの熱狂を目の当たりにし、多くの日本人が再び先月の長野で見た光景に対して抱いたのと同じ類の感情を抱くことになるであろう。

今回の震災は、北京政府にとってはとんだ番狂わせであったに違いない。愛国を鼓舞するであろう聖火リレーの一部中止や縮小は計算外だったはずだ(それにしても聖火リレーをめぐる震災後の北京政府の対応の遅さ、鈍さは、あの国の指導層のKYさというか、世情、民情への疎いを露呈した)。さりながら、彼の国の故事に塞翁が馬という。禍福はあざなえる縄のごとしとも言う。ある一面KYで、胡主席訪日のピンポン外交でも見せた「今時?」みたいなセンスを疑うような演出をしながら、その一方では実にしたたかである。四川大震災を民心団結の具とし、更にそれを愛国機運へと昇華させ、否応なく愛国主義、民族主義的感情を刺激するであろう夏の五輪に結びつけるという算段ではないだろうか。今後の震災をめぐる諸事の扱いをしくじればそうはいくまいが、かりに過誤や失策があっても、国内メディアをうまく操作してそれを隠蔽していくのであろう。

四川から北京へとつながる愛国、挙国の波が、我が方に対して必ずしも反日というかたちで向かずとも、我が方の嫌中意識、対中警戒感を再び増幅させる可能性は大きいとみている。

国家主席の訪日や、自然災害における両国の支援ごときで、容易に塩目が変わるほど、日中関係は一筋縄のものでないということは肝に銘じておきたいものである。

仮に北京五輪がさほど感情的な確執を再び惹起せずとも、いずれまたその機会は訪れる。胡主席来日の際の共同声明をそれなりに評価する識者もいるが、何をのんきに北京や福田政権にシッポを振っているのだと言いたくなる。遠からずそれが「空文」であることを我々は否応なく思い知らされることになるはずだ。

日中関係に過度な期待など持たぬが賢明なのである。
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先代幸四郎の「寺子屋」

2008年05月19日 | Weblog
DVDで先代幸四郎、すなわち亡き松本白鸚が松王丸を演ずる「寺子屋」を見た。

昭和50年に収録したもので、源蔵で13代目仁左衛門、千代で二代目雁二郎等が付き合う。

以前に先代の七段目を見たことがあったが、改めて何とも立派な役者と感服した。
脇がしっかりと固まっていることもあり、約一時間半、すっかり見入ってしまった。特に首実検に行き詰まる件は、圧巻であった。そしてお約束の場面では、やはり涙してしまった。あらすじを知ってしまっているものには、松王が一子の寺入りから既に涙涙なのだが。

腹芸を見せるべきに腹が無く、ややもすれば小さくみえてしまう当代幸四郎よりは、むしろ亡父の遺鉢を継いでいるのは、現吉右衛門の方だと再認識もした。現幸四郎はセリフ回しなどは、父親よりもむしろ、というか明らかに先代播磨屋の系統だ。おそらく本人も意識しているに違いない。そこがまた、しばしば大仰になり過ぎて、人物を小さく見せてしまう危険性もあるわけだが。一方、当代播磨屋の方が亡父に似ているなあと思わせる箇所が多々ある。ずいぶん昔に、「元禄忠臣蔵」であったか、大向こうから「親父そっくり」の声ががかかったが、セリフに先代をしのばせるところが確かに随所にあるのだ。この先代譲りとかいうのが、歌舞伎好きにとっては楽しみでもあり、門閥とか世襲とかを頭ごなしに否定できないところでもある。

当代「寺子屋」を演ずるにあたって、最上の配役とはいかに。まず松王に吉右衛門を配するに、多くの異存はあるまいと確信する。源蔵は、仁左衛門、三津五郎あたりか。後者は巧くも惜しむらくはいささか華に欠けるが。梅玉は源蔵を演じたことはあるのだろうか。菊五郎、勘三郎ではニンに合わぬ。千代はできれば雀右衛門、あるいは藤十郎、神谷町あたりか。戸浪は福助、あるいは個人的好みで芝雀。魁春ももしかしたら悪くはあるまい。秀太郎あたりを持ってきても、というのもこれまた個人的な趣味だ。

話は戻るが、「寺子屋」、昔からじわっと目頭を熱くさせられたが、今子の親となって、しかも松王が子と同じ年ごろの子を持つ親となって、あの物語の切なさ、虚しさ、悲しさはひとしおである。身代わりの子に我が子の姿を重ね合わせ、松王の境遇に我が身に置きかえながら、ただただ涙・・・。古典劇でありながら、今の世の人の心をも揺さぶるこの作品を名作と言わずして何と言おうと思うと同時に、江戸の世も、今の世も、我が子を思う親の気持ちは変わらぬことを改めて知った。

さりながら、母親がただのメスになり下がり、父親もまたただのオスになり下がった結果、我が子を捨て、手にかける事件が後を絶たぬ昨今を、「寺子屋」が古典では無かった時代の人々は何と思うであろうか。
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不知火検校

2008年05月19日 | Weblog
昨日、時代劇チャンネルで「不知火検校」を見た。以前から見たい映画の一つだったが、期せずしての偶然であった。

昔の時代劇はやはり違う、と思った。最近の時代劇は考証のお粗末さが目に余ることがしばしばある。その最たるのが、NHK「篤姫」だ。あのようなどこぞの町屋から出てきたようなおひい様などあったものではない。セリフが滅茶苦茶だ。ズラを付けた現代劇でもあるまいに。町娘でも大店の出でもあれば、あれほど砕けてはいまい。それに最近の役者には時代味というものがない。今に始まったことではなく、80年代頃の時代劇を再放送等で見ても既にその感はあるのだが、セリフ廻しが
昔の役者とは違う。特に女優のそれに顕著だ。元トレンディー女優浅野某の大奥総取締の大根ぶりをはじめ(彼女の「どら平太」の芸者上りの女房役はそれ以上にひどかった。あんな芸者などあったものではない)、「鬼平」でも滝川某の浮いた演技、土屋アンナの岡場所の安女郎かと見紛うような花魁など、最近の女優のひどさは枚挙にいとまがない。

同時に、勝新の凄さを再認識した。以前座頭市を見比べて、ビートたけしなど足元にも及ばないとは思ったものだが、「不知火検校」を演じた時、勝はまだ30手前である。それを思うと「恐るべし」と言うほかない。今どきの同年代の役者にやってみろと言って、あれだけの役の凄みなど到底出せはしまい。もう少し若ければ、勘三郎あたりなら違った味の杉の市をやったかもしれないとも思ってみる。そう言えば、勘三郎は勘九郎時代に井上ひさしの「藪原検校」をやっているはずだ。

当時の大映作品の同様、限られた予算での作品とのことだが、それにしては今時の製作費何十億円よりも、はるかに時代の風情みたいなものを感じる。江戸は遠くになりにけり。今どき、江戸の風情はせいぜい歌舞伎座の舞台の上でしか味わえないのかもしれない。その歌舞伎でも、バタ臭い演技するベテランはいるにはいるが。

ただ、残念に思ったこともある。それはわずか1時間半という作品の短さだ。あれだけ杉の市の悪行をたっぷりと見せておきながら、最後の最後が尻切れトンボのようにあっけなく短い。杉の市がむごたらしく刑場の露となるところまでたっぷりやって欲しかった。そうしてこそ、あの映画の凄みも出ようもの、と思うのは私だけか。それから映画の始まり方もいささか唐突だったが、もう少し、市が悪に手を染め始めるくだりまでをたっぷりした方が良かった。

娯楽性の追及という点からは1時間半という長さは丁度良いのかもしれない。ましてや当時(昭和35年)は高度成長期の真っただ中だ。なにかにつけ世の中が目まぐるしい中、2時間以上の長丁場はむしろ歓迎されなかったのかもしれない。それに予算の制約というものもあったのかもしれない。だが、そこに、その後の映画界の凋落と、大映の末路の兆しをうかがわせるのは、結果を知っている後世の後付けというものか・・・・。

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恥知らずな面々:  グリーンピース、若ノ鵬

2008年05月16日 | Weblog
恥知らずな連中が、大手をふって闊歩するような世の中になってしまった。

グリンピースの連中、自らの正義を信ずるのは勝手だが、そのための手段が窃盗行為とは・・・。手段を選ばずして何が正義かと言わえばなるまい。よもや、自分たちを無謬の神のごとき存在と思うてか? 心得違いもはなはだしいが、なかばカルト集団化した連中に言うのも虚しいのかもしれない。

指しちがえた行事も、それを見逃した放駒も間抜けだが、若ノ鵬も自らの「勝利」を恥じることを知るべきだ。負けて勝つとは言うが、これでは勝って負けるに等しい。外国人力士に日本人の心など分かろうはずもない、ましてや相手は手段を選ばぬこと、信義をかなぐり捨てるに躊躇せぬことではなうてのロシア人だから仕方がない、とまでは言うまいが・・、それにしても見下げたヤツだ。

世の中このような禽獣の類とまでは言わぬが唾棄したくなるような人間が増えてきたには間違いない。
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