私の今暮らす町に「米国」がある。
実に唯我独尊、無神経で、傲慢な存在であり、米国そのままの「米国」なのだ。
自分たちの振るまいが周囲にいかなる悪影響を与えているかなどという気配りはない。まったくinconsiderateなやつらである。
おそらく、普段そうであるように、自分たちのスタイルが「正しい」と思っているのだろう。問題があるなどとは、微塵も思っていないのだろう。
かりに思っていても、それを改める気もないのであろう。なぜなら自分たちのある場所は、欧州ではなくアジアだからだ。もっと平たく言えば、クリスチャンでも白人でもない奴らが巣食う土地だからだ。だから、自分たちのやり方が正しいのだし、かりに問題があったとしてクリスチャンでも白人でもないやつらの事情にいちいち斟酌するつもりもないのだ。
米国とはそう存在だし、米国人とは一般的にそういう人間たちなのだ。
実に腹立たしく嫌な奴らである。
しかしながら、憎めないところもある。まだ若い国であり、国民たちである。一面成熟しているが、別の一面においてまだまだ未熟、子供な国であり、国民なのだ。まあ、思春期の男子みたいなところがある、ガタイはでかい。体力もある。知恵もそれなりにある。もう、生殖能力もあればセックスのスタミナは盛りを過ぎた大人には太刀打ちできない。しかし、人生経験が乏しい。セックスも単調でテクニックがなく、相手の悦ばせ方を知らない。あの年頃特有の情緒の不安定と肉体と精神のアンバランスという問題を抱えている。自分が今何をしていて、それが自分の行く末や周囲にどのような影響を及ぼすのかということまで考えが至らない。若さゆえの一途さは、時にとんでもない行動に彼らをはしらすこともある。10代はまだ子供とはいえ、大人のようなズルさワル知恵も十分に身につけつつある年頃であり、事実、米国はズルく、ワルがしこく、狡猾である。今のトヨタ問題も、根本がトヨタの過失にあるとはいえ、議会の一部の動きなど、あまりにもあざとく、露骨である。水に落ちた犬を叩くことに容赦しない。どこぞの民族の不気味な老獪さとは違った意味での子供のもつ残酷さも持っている。でも、幼さゆえの無邪気さがまだある(無邪気である分だけ、その残酷さが際立つ時もある)。鷹揚でもある(が、若さゆえの不寛容も持ち合わせている)。人は老若男女にかかわらず「矛盾」にみちた存在なのだが、米国というこの若者は、なおさらである。
扱いが難しいやつらである。大人と思えば、子供だし。子供と思えば、すっかり大人でもある。
嫌いなのだが、憎からず。いいやつなのだが、嫌なやつでもある。
そして、個人的には懐かしくもある存在なのだ。「第二の故郷」とまでは思わない。そういったのではないが、しばらく暮したときの「あの心地よさ」をふと思い出すときはすくなからずある。
好悪、愛憎半ばする、それが私の米国観、そして大方の日本人の米国観ではないのだろうか?
実に唯我独尊、無神経で、傲慢な存在であり、米国そのままの「米国」なのだ。
自分たちの振るまいが周囲にいかなる悪影響を与えているかなどという気配りはない。まったくinconsiderateなやつらである。
おそらく、普段そうであるように、自分たちのスタイルが「正しい」と思っているのだろう。問題があるなどとは、微塵も思っていないのだろう。
かりに思っていても、それを改める気もないのであろう。なぜなら自分たちのある場所は、欧州ではなくアジアだからだ。もっと平たく言えば、クリスチャンでも白人でもない奴らが巣食う土地だからだ。だから、自分たちのやり方が正しいのだし、かりに問題があったとしてクリスチャンでも白人でもないやつらの事情にいちいち斟酌するつもりもないのだ。
米国とはそう存在だし、米国人とは一般的にそういう人間たちなのだ。
実に腹立たしく嫌な奴らである。
しかしながら、憎めないところもある。まだ若い国であり、国民たちである。一面成熟しているが、別の一面においてまだまだ未熟、子供な国であり、国民なのだ。まあ、思春期の男子みたいなところがある、ガタイはでかい。体力もある。知恵もそれなりにある。もう、生殖能力もあればセックスのスタミナは盛りを過ぎた大人には太刀打ちできない。しかし、人生経験が乏しい。セックスも単調でテクニックがなく、相手の悦ばせ方を知らない。あの年頃特有の情緒の不安定と肉体と精神のアンバランスという問題を抱えている。自分が今何をしていて、それが自分の行く末や周囲にどのような影響を及ぼすのかということまで考えが至らない。若さゆえの一途さは、時にとんでもない行動に彼らをはしらすこともある。10代はまだ子供とはいえ、大人のようなズルさワル知恵も十分に身につけつつある年頃であり、事実、米国はズルく、ワルがしこく、狡猾である。今のトヨタ問題も、根本がトヨタの過失にあるとはいえ、議会の一部の動きなど、あまりにもあざとく、露骨である。水に落ちた犬を叩くことに容赦しない。どこぞの民族の不気味な老獪さとは違った意味での子供のもつ残酷さも持っている。でも、幼さゆえの無邪気さがまだある(無邪気である分だけ、その残酷さが際立つ時もある)。鷹揚でもある(が、若さゆえの不寛容も持ち合わせている)。人は老若男女にかかわらず「矛盾」にみちた存在なのだが、米国というこの若者は、なおさらである。
扱いが難しいやつらである。大人と思えば、子供だし。子供と思えば、すっかり大人でもある。
嫌いなのだが、憎からず。いいやつなのだが、嫌なやつでもある。
そして、個人的には懐かしくもある存在なのだ。「第二の故郷」とまでは思わない。そういったのではないが、しばらく暮したときの「あの心地よさ」をふと思い出すときはすくなからずある。
好悪、愛憎半ばする、それが私の米国観、そして大方の日本人の米国観ではないのだろうか?
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます