くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

バンクーバー五輪と国母騒動

2010年02月15日 | Weblog
国母、国母と騒ぐので、我が国日本の国母(こくも)、皇后陛下の御身に何事かあったかと思えば、二十歳をわずかに過ぎたパンクな小僧だった。

どう贔屓目に見ても、イケメンではない、ブサイクなガキだ。

どうやらブサイクなのは外見だけえはなく、人間としての中身も腐れているようで、それが服装にも表れて、世間の糾弾を受けた。

そもそも、あの下着を出した着こなし。私は始めて米国に行った頃にちょうどはやりだしていた。元々は、黒人のファッションで、それが芸能人や便乗商品によって広まった。簡単に言ってしまえば、社会の最底辺の連中がはじめたものが米国社会はおろか世界中の若者層に受け入れられたわけで、我が国もその例外ではない。

オヤジといわれればそれまでだが、下着を人様に晒すことを恥ともせぬ下賎な人間が我が国にも増えたということだ。しかも成人の8人に一人は前科者だという米国の黒人たちのマネである。人がエテコウの真似をするが如しとまでは言わぬが、大名・公家が馬丁・匹夫の風体を真似るようなものである。味噌も糞もというが、糞をして味噌はおろか黄金と尊ぶに等しい有様である。

そして国母選手、御歳21とかで、あの風体。

しかも、国費・公費で「国を背負って」参加する競技に、国費・公費でもってあてがわれたユニフォームをあのような着こなしで、参加しようとしたという。

端的にいって、21の「大人」のすることではない。

私費で、私の目的での競技参加なら法律に触れる限りの服装であれば、どんな無様な服装でも、たとえ世間に白眼視されようとも、すべて彼の自由で、彼の自己責任の範囲でのことだ。しかし、今回は私事ではない。

そこらあたり、五輪に参加するということを理解し、社会や国家への感謝の念があれば、あのような身なりはおのずと慎んだはずだ。それができなかった。つまり、手前の力のみで五輪に参加できりると高慢ちきになっているのだ。

それに加えて、あの会見のふてぶてしい態度。騒動がおきてなお、自らの非を理解できぬ「バカ」が衆目にその恥知らずな様を晒したということに他なるまい。

あの男は、決して腹の中で反省していないだろう。親もどういう育て方をしたものやら、製造者責任ということも考えたくなるが、もはや法的にも「大人」である。これからあの男が大勢するとも思わぬし、何が起ころうとも自業自得だ。あの手合いは放っておくしかない。
もう今更治らない。治癒不能である。

世論の多くが批判的に見たのは、当然である。

が、中には、個性に問題だとか、自由だとか、間抜けたことを言っている輩もいた。そういう次元の「場」ではないだろうに・・・。「個性」とか「自由」が、闊歩するこの世の中、闊歩することはいいが、節度が無さ過ぎる。所詮、社会における「個性」や「自由」などというものは、規範と規制のうちでのことでしかないということをわかっていないのだろうな。

テレ朝のスパモニでも、元?お笑いの松尾某とかいう四流芸人と馬乗りの元女房が、必死こいて弁護していた。芸人は周囲に責任転嫁していた。周囲が周囲がって、国母はれっきとした健常者の成人だろうが? まるで障害者か禁治産者のような扱いでは、かえって国母をバカにしている。そこに気づかんのだろうか、あの安芸人は? まあ、だから安芸人なんだろうな。

こういう連中がコメンテーターなんてやっているものだから、勘違いする間抜け、国母みたいなのが雨後のたけのこのように出てくると・・・。



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バンクーバー五輪という白色人種の猿芝居

2010年02月15日 | Weblog
私は、五輪に興味がない。というか、マスコミあげての大騒ぎに興ざめしてしまうのだ。
五輪期間中、どのチャンネル回しても、五輪、五輪だ。

おかめに、競技前は「メダルを期待!」とか、贔屓の引き倒しになるのではと思えるような「応援」をし(実際に選手に要らぬプレッシャーになっているのでは?)、メダルがだめならだめで「健闘しました」、「がんばった」、「入賞」だと。

参加することに意義があるなんてのは「負け犬」的な発想で、自分たちの傷を自分でぺロペロしているに過ぎない。もっとも、戦後この方あの負け戦を「間違った戦争」ということにして、自分たちの負けに正面から抜きあわず「戦争はもう二度とごめんだ」、「平和主義」とほざきながら負け犬を演じてきた国である。近所のならず者に仲間が連れ去られても、長年何もせずに尻尾を巻いてきた国であることを考えれば、メダルを逃した、つまり「負けた」後の対応もこれまた負け犬的なのは、いたし方なし、いかにも戦後日本的というべきだろう。

メダルなし=意味なし。メダルを逃した選手=負け犬、敗北者、無能、としか私は思わない。

今回の五輪、まず金メダル一個すらも期待できそうになのだが、それでも騒ぐ、騒ぐ。

あの欺瞞と偽善に満ちた開会式も絶賛、絶賛。そういえば、あの北京のグロテスクな開会式のときもそうだか?先住民族や異人種、異民族との融和だ? 2年前どこぞの国は、56の民族、それをあの体制は十把一絡げに「中華民族」という虚構をでっち上げて、存在しない民族融和をうたったが、今度は白人どもがデッチあげたプロパガンダに世界は酔った。酔ってない? 酔ったのは、日本のマスコミだけ? 融和、融和というのなら、先住民に返せって。友人から聞いた話だが、彼の知り合いで米国で大学の教員している日本人が、歴史家なんかの授業で、原住民への自分たちの先祖の暴虐に対する謝罪の言葉を口々にいう白いアメリカ人の学生に対して、「その謝罪の言葉を、どうのような行動にあらわすのですか? 行動が伴わない謝罪なんて偽善でしょ?」と問いかけたところ、誰も何も言わなかったのか、いえなかったのか、しばらくの沈黙が教室を支配したとか。蛮勇というべきか、なんと言うべきか、アメリカの白人どもに喧嘩売ったようなもんですが、今もその人は米国で教壇に立てているのでしょうか? でも、ほんとそうだよなあ・・・。シドニー五輪の時も、原住民を前面に出してきたが、侵略によってできた国ほど、国内の支配民族・人種と被支配民族・人種の融和とか統合を訴えようとする。要は、取り繕いなわけで、昔も今も白人がそれらの国を支配していることにはかわりなく、原住民は限りなくマージナライズされている状態も変わらない。

日本のマスコミは、そんなことには頬かむりででっち上げられた虚構の「平和の祭典」を賞賛する。実に、いやな光景である。

事項選手団がロクな成績を残せなくても、「がんばった」、「よくやった」、「健闘した」で、主催国の悪逆、欺瞞には露骨なほどに目をそむけ迎合する。

こんな五輪報道、いや五輪自体、一体いつまで続けるのだろうか? 古代オリンピアの祭典は、古代ギリシャ文明の消長とその運命をともにした。近代五輪も現在ただ今の世界情勢、世界秩序とともに、早くこの世から消え去ればよいと思う。今の世界秩序が否定されて、また今の世界秩序を足がかりに新たな世界秩序を気づこうとする勢力がこの世から消えてこそ、人類には明日がある、と私は信じている。

滅びよ、近代五輪!
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