(東海道薩埵峠(さったとうげ) 静岡県庵原郡由比町倉沢/静岡市清水区興津東町)
倉沢の町並みから坂を上がると、やがて薩埵峠へと差し掛かっていく。
明暦元年(1655)朝鮮使節を迎えるまでは、「親不知、子不知」と呼ばれた難所の眼下の海岸を歩いた。安政大地震によって地面が隆起し、それ以後は海岸の道が通り易くなったのだという。(下道)
辺りは、みかん畑が広がり、そこで採れた柑橘類が道端で販売されていた。坂を上がるにつれ次第に下方の国道1号、東名高速との距離が広がり、小さくなっていった。
(霞む富士)
(薩埵山古戦場)
坂を上がり切ったところで最初の金石文が目に入った。左側の道標は「さったぢざう」、右側は「さったぢぞうミち」「延享元甲子年六月吉日」と刻まれている。この場所から、鎌倉時代に海から引き上げられたという「薩埵地蔵」が祀られている、東勝院に通じる「地蔵道」が分かれる。そして間もなくして、昭和7年まで山之神が祀られていた駐車場に達した。
駐車場から、東海自然歩道の一部となり、徒歩でしか行けない道となる。階段を少し下りると展望台があり、駿河湾、富士山と、太平洋ベルトを望める。そしてこの辺りから季節の花々が咲き始める。
足元の道標には「牛房坂」とあった。この辺りは、由比と興津の宿境で、寒桜が現れる頃には、強風が吹き始めた。
興津への階段を下っている最中、地元のご婦人に声をかけられた。「いつも私はここを歩いてますが、毎回風景が違いますよ。富士山の姿や、駿河湾の波、伊豆半島、天城連山の姿、辺りの植物、いつも違っています」「昔は、下の東名とかは無くて、綺麗な清見潟という砂浜が続いていました。もっと昔は、今の街道とされるこの道より少し下に東海道が通っていたそうですが、崩れたりして跡形が無くなってしまったようです」と話してくれた。そして「どこから来られた?…愛知県は静岡県よりいいじゃないですか、景気が良くて羨ましいです。私は静岡県境の“新城”の辺りが好きです」とおっしゃった。
ご婦人と別れ、急な階段を下り、強風で桜吹雪を浴びながら木立の間を抜けて、「往還坂」を下ると、興津東町に達し、中道と上道に分かれる。