(愛知県岡崎市大和町)
妙源寺から二つの牧内城跡へ向かう。
旧碧海郡西牧内村、鹿乗川のほとりに築かれたこの城は、一色左京大夫が築城し、その後、牧内松平忠高が居城したという。また、文亀元年(1501)松平親忠没後初七日の大樹寺警護連判状に、牧内松平忠高の名がある。
現在農協の敷地となっており、隣接する天野氏の牧内城(天野屋敷)の末裔一門として石祠が建てられている。
天野氏の牧内城は、一色氏、牧内氏の牧内城の北西に隣接し(或いは同一か)、天野惣馬が居城したという。(三河天野氏諸派か)惣馬は、永禄三年(1560)今川義元に属して、桶狭間の戦いで討死したという。現在、末裔が居住している。

この後は、北隣筒針へ向かった。
妙源寺から二つの牧内城跡へ向かう。
旧碧海郡西牧内村、鹿乗川のほとりに築かれたこの城は、一色左京大夫が築城し、その後、牧内松平忠高が居城したという。また、文亀元年(1501)松平親忠没後初七日の大樹寺警護連判状に、牧内松平忠高の名がある。
現在農協の敷地となっており、隣接する天野氏の牧内城(天野屋敷)の末裔一門として石祠が建てられている。
天野氏の牧内城は、一色氏、牧内氏の牧内城の北西に隣接し(或いは同一か)、天野惣馬が居城したという。(三河天野氏諸派か)惣馬は、永禄三年(1560)今川義元に属して、桶狭間の戦いで討死したという。現在、末裔が居住している。

この後は、北隣筒針へ向かった。