flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

「医は仁術」

2007-12-28 21:00:30 | 天祐語録
…大阪で起きた、受け入れ先なしでその後死亡のニュース。
何故こんなことが起るのだろう。
医師不足?
患者が多い?

私の祖父は、田舎の外科医だった。
「医は仁術」を口癖に、一年365日、元旦以外は休まなかった、その元旦も、急患が来れば、処置したという。
今の医師数より、人口比でみても、当時ははるかに少ない医師の数。
その中でインターン1名、住み込みの看護士8名でまわしていた。

休みがなかったため、父は、父兄参観日どころか、一緒に遊んでもらった覚えもなかったと言っていた。然し、患者のためにそこまで尽くしたことは、誇りに思ったと、生前語っていた。

今の病院制度は過酷で、医師看護士への負担も大だという。
システムが複雑になり、責任問題から、医師科目の偏り、諸々の問題を抱えている。
然し、急患を目の前にして、取りあえずの処置を決断できる人間はいないのだろうか。
責任を果たすべき上席の人間は何をしているのだろう。
面倒くさいことは除外か?事勿れ主義か?

私も以前、救急車を呼ぶほどではないが、具合が悪くなり、近くの医者に行ったところ、「予約を取ってからにしてください」と言われたことがある。
また、会社でも具合が悪くなり、医務室に行ったところ、「休憩時間に来ないでください」と言われたことがあった。

果たして医師って何?
単なる仕事の一つか?

本当に手がまわらないのか?
一般開業医でも、応急処置くらいはできるだろう。
何故、緊急の緊急処置を決断できないのか。

人の一生を左右する、大事な聖職ではないのか?

教師、宗教者同様、ほかの職業よりも一生をかけて、取り組んでほしいと願う。
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設楽原 柳田前

2007-12-28 00:00:03 | 城郭・城下町
(長篠の戦い設楽原柳田前激戦地 新城市竹広・八束穂)
 天正三年(1573)連吾川を挟んで織田・徳川連合軍と武田勝頼軍が決戦を行った激戦地の一つが、この柳田前激戦地である。この「柳田前」は、連吾川(柳田川)対岸丘陵上の「家康物見塚」にも程近い。
 決戦は次第に織田・徳川連合軍が優勢となり、そして武田軍である甘利信康は、軍勢の末期の悟って、この地で自害した。ここには同氏の碑がある。
  
(関連記事:設楽原竹広 大宮前 長篠城 火おんどり 鳶ヶ巣山
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