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土曜日は13:00ごろ起きたもののゴミ捨てをして、昼のらーめん+白米を食べ、東京電力から来た書面の問い合わせをし、ゼルダを聞いていたら、夕方17:00頃再度眠ってしまう。
起きると0:20.
よほど心身共に「キテいる」。
***
1:40音楽を聴く。
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かつて中古レコード屋さんで高価で売っていた四角形のデヴィッド・シルヴィアンの「アンサード・プレイヤー」のシングル。
高かったが購入した大事な宝物。
ココロを鎮める鎮痛剤として「アンサード・プレイヤー」を、まずは聴きつつ、新しい缶ビールをシュポッと開ける。
***
■おたよりコーナー
「キチガイ」考 (さくりんさん)2011-05-13 20:17:42
緑茶とチオビタと「念」で動いているかたちんばさん。
これを読むのはきっと夜中ですね。
お疲れ様でした、お帰りなさい、言葉が見つからないくせに、その心境さえ書かずにはいられず、また書いています。読み飛ばしてください。
以前は気持ちを「寝かす」こともできたのですが…
私にも時間がない、生き急いでいる気がします。
いわゆる「キチガイ」の診断をされた方々との仕事に携わって思うことは、ずっと変わらず、「狂っているのはどちらか」
真面目に病にかかり、真面目に通院し、真面目に社会復帰を目指す。
何様のつもりで道の真ん中を歩くやつらが、それをキチガイ呼ばわりする。
診断されていないだけのことで、狂ったことに気づかないヒト。
文字通り朝から晩まで身を粉にして働く。
気づいても形状記憶でまた立ち上がってしまう、誰かの後始末をしてしまう、ぼろぼろでも愛想で笑ってしまう。
奴隷制度の頂上は、キチガイの総本山。
ということは、みんなが狂っている。
狂っていない世界から観れば、逆はすべて狂っている。なあんだ。
「その下で苦しむ人々・自殺する人々が居ることを思い、こぶしを握る。」
そして狂いながら、私も時々、そんな人々に青空と少しの休息が訪れることを願っています。自分もいっぱいいっぱいなのに。
***
かたちんば→さくりんさんへ
今も本棚にあるのは、精神的「きちがい」扱いされた人々の本がずらりと並ぶ。
色川武大さんの「狂人日記」は、ある精神病院に居た人からの手紙に触発されて、フィクションとノンフィクションを絡めて仕上げた、自分の中ではノーベル賞候補の小説。
この小説の偉大なる人間の本質にグサリと来るものを取り上げないで、村上春樹如き三文小説家を取り上げる「文壇」は病気そのもの。
精神病でも無いのに、精神病院に数十年幽閉された松本昭夫さんの「精神病棟の20年」。
浅野誠さんの「ビジネスマンの精神病棟」。
岸田秀先生の「心はなぜ苦しむのか」。
よりどりみどり、精神病と精神医学の歪曲、そして、ボクらはどんな風にして生きるべきか?
そういう糸口の本。
たくさん「CUE」を探して本を読んできました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/f3/9d3375f78a170849d5f7010450125844.jpg)
ボクも大学時代から病院に大学に行きつつ、多くの(体制側からすれば)精神病患者と友人になり、彼らの話を聴き、付き合いました。
不可思議な世界にこそ、この社会の病魔としいたげられる人々を、現実にフィールドワークを実践しながら、色んな事を彼らから学びました。
要は、要領よく「体制側の犬」にどうやってなるかが、この社会を「上手に生き残る策」であって、純粋無垢に生きること=無謀という論理なのだということ。
社会が決めた範疇からハミ出さないことに必死なのが「非」精神病でしかないという論理。
MZ師も知っているが、我が美術研修会には10年近く大学に居たFさんという人が居た。
彼は生来不幸な生い立ちをしていたが、吉祥寺では有名な学校の御曹司であり、お金持ちであった。
ボクは、彼が愛した母親の葬式に付き合い、その後、古い洋館(江戸川乱歩の小説の「三角館の恐怖」のような)に泊まった。
バラの花が異常な量飾られ、死の匂いが塗りこめらた洋館のソファで寝た。
彼もYMOが好きで、大学の建物の中にいきなりラジカセを持ち込み自作のシンセサイザーとヴォイスで出来た「シティ・オブ・サイレント」という曲を大音量で繰り返しかけて、周囲から病人扱いされた。
ボクもMZ師も、あの曲をもう一回聴きたいなあとよく話す。
TVで流れるクソ音楽より、Fさんの「シティ・オブ・サイレント」の方がベスト1の曲だと共に語る。
要は、臭い物にはフタ。
今では、「オタク」という形で鉄道や萌えやそういう分野の人を認めることが出来つつあるが、鉄道が好きでたまらない・女性の部位のフェチもそうだし、そういうことを「異常=精神病」というのは、石原慎太郎がしている「浄化活動」よろしく、社会の規範からはみ出た者を除外視するだけのこと。
海外での政治犯が発見され次第、精神病棟に放り込まれるのもそう。
いろんな人が居て、この世は成り立っている。
そういう自由など無い、ということが、日本で言えば「座敷老」に都合の悪い子供を閉じ込めて来た歴史が物語っている。
本質的な所に触れようと、意志がおもむくままに深化していけば、社会なんか敵そのものでしかなく、容易にその規範から逸脱するのは自然の流れ。
表現者はそうあるべきである。
そういう意味では、ボクもキチガイだが、生きるためにある意味妥協をしつつ、社会の中に入れてもらえている。
それは、ある種「汚い」ことだと認識している。