こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

Kendra Smith 「Heart And Soul」(Joy Division)'95.10

2011-03-03 12:00:00 | 音楽帳
いつだったか忘れたが、たぶん神保町をふらふらしているときだったと思う。

ジョイ・ディヴィジョンのカバーアルバム「A MEANS TO AN END」というCDのジャケットについ釣られて即購入してしまった。



「てめえは、カバーは本物じゃねえと批判してなかったか」と責められても仕方が無い。

***

《余談》YMOのオリジナルが全てにおいて完璧な中、散会後にやりたい放題カバーやリミックス盤が出たが、オリジナルが完璧な訳であるから、ほとんどがゴミだったことを思い出した。

砂原さんが「YMOが好きなところは?」という質問に「スキが無いところ」と、かつて述べていた。
そういう砂原さんもそのカバー/リミックス一群の1人であるが、彼はオリジナルへの敬意を抱きながらオリジナルの良さを殺さない慎重さをもって作っていることが良くわかる。

***

私は、ニュー・オーダーが聴く出発点だったので、さかんにジョイ・ディヴィジョンのことをミュージック・マガジンを読みながら例に挙げる人が多い事から、リアルタイムではないカタチでジョイ・ディヴィジョンを遡る形で聴いた。

最初にクロスオーバーイレブンでかかった「ディケイズ」という曲は素晴らしく、マイ・カセットに録音して何度も何度も聴いたが、その曲の収まったアルバム「クローサー」全体は期待外れだった。



まだ、若かりし頃聴いた「クローサー」は、最後2曲だけ素晴らしかったが、それ以外の曲には「一体どこが良いのか理解出来ない」という感覚だった。

ファーストアルバム「アンノウン・プレジャー」の次の2枚目「クローサー」自体、イアン・カーティスが首吊り自殺した後に発表されたのが、胡散臭い。

その後、その死が「クローサー」を包んでいて、80年代を代表するアルバムとして「クローサー」を挙げる人、何かと新しいニューウエイヴのユニットが出るごとに「ジョイ・ディヴィジョン」影響下の二番煎じと『音楽評論家』はすぐに言った。

三島由紀夫の作品が、彼の死に様が余りに衝撃的だったがために、彼の作品がその死を外して読む事が長い時間困難であったことと同一の事態。

ジョイ・ディヴィジョンを語る際にイアン・カーティスの首吊り自殺を引き合いに出す『音楽評論家』が如何に多かったことか・・・・。

私は、彼の死とは無縁に音楽を聴いていたが「ジ・イターナル」「ディケイズ」以外、良いと思ったことはなかった。

「クローサー」を80年代の代表アルバムなどに挙げる人というのは、イアン・カーティスの死を神格化しているだけで、要はマスゴミと同じ作り物の世界の産物・彼の死を食い物にする連中にしか見えなかった。

***

さてさて、そのジョイ・ディヴィジョンのカバーアルバム「A MEANS TO AN END」であるが、ジャケットのカッコよさの割りには、これまた良いものはほとんど無かったが、そんな中でジョイ・ディヴィジョンの曲には無い良さがあったのが、このケンドラ・スミスの「ハート&ソウル」であった。



この「ハート&ソウル」はジョイ・ディヴィジョンのアルバム上での演奏に良さを全く感じなかった自分が「良い!」と思える何かを発見して、愛聴に至った。

ケンドラ・スミスは、あの80年代にいっとき出てきては消えたドリーム・シンジケイトのメンバーだったという。

ジョイ・ディヴィジョンの「クローサー」がスタジオ録音の宿命か?
何か恣意的な暗さを感じてしまっていたが、このカバーにはそれを感じ無かった。

そういう意味では、死後ライブ等アウトテイクをかき集めて作った2枚組の「スティル」という荒削りなアルバムの方が、伝わってくるものを多く感じた。

このケンドラ・スミスの冷たい淡々とした「ハート&ソウル」の歌い方とアトモスフィアは耽美的で良く出来ている。



このアルバムには、ほかにトータスがカバーした「アズ・ユー・セッド」という曲も入っているが、これも良い。
ワルシャワ時代の曲だそうであるが、オリジナルなど微塵もないトータス独自のアプローチの別曲になっている。

渋谷陽一さんがラジオで元曲とこのカバーを比較して流していたことがあったが、私はこのカバーアルバムに拠って逆にオリジナルを知った。

さて、最初に述べた「てめえは、カバーは本物じゃねえと批判してなかったか」に戻るが。
YMOのようにオリジナルが優れたものである場合、大抵のカバーはゴミであるが、オリジナルに足らない部分が残る曲には、カバーというものに秘めた可能性(作り直すという意味で)はアリだと思う。
そう結論付けをしたい。

自分の耳は、そう感じる。
それが、自分の耳なのだから曲げようが無い。


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1 コメント

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つらつら (さくりん)
2011-03-06 13:41:53
締め切りに追われる日々、やっと訪れた週末に迫る月曜日…
思えばJoy Division とのつき合いはずっとこんな中。
「Unknown Pleasures」には共感ではなく、混沌で「びっこ」になった自分が立っていられるための、同じ素材のもう片足という役割がありました。

出会いの時にはイアン・カーティスは亡くなっていて、「Closer」も世に出ていましたが、
「Unknown Pleasures」が絶対だった私には「Closer」の妙な安定は相容れないもので、
死の経緯を知ってたったひとつ感じた「ずるいな~」という想いは変わらず、実は今でもあまり聴きません。

そして、統一感を損ねるという理由でシングルはアルバムに収録されなかったことから、
彼らにはアルバムとシングルは別物、
真髄はライヴにあったと考えています。
その意味で私にも「Still」の粗さや、産み落とされた1曲1曲の重み「Substance」の方が、綺麗ごとでない息遣いが伝わるような気がします。

私は並ぶのが嫌いなのですが、(ディズニーランド!!)
どこの何が美味しいよと言われても、列を強制されてまで試すのは時間の無駄だし、
(食べ物探しは嫌いではないですが、レコード・古本探しとは比べものにならないですね)
「世の嗜好」と思われているものが私に合うかは私の勝手。
やはり嗜好品である音楽にも言えることですね。
聴く耳は我が耳であって、選ぶもの、選ぶ時、すべては自分のダウジング。
だから「曲げようが無い」。

かたちんばさんの「2人の新譜」にも、大きく頷きます。
好きであっても、聴くのか、それが今なのか…

今まで話題にはしませんでしたが、私の音楽歴のひとつに THE WHO があります。
正確にはピート・タウンゼンドが歌うデモ・テープなど、公式ではない音源が好きです。
中学生の頃から来日はないだろうと思っていた彼らが数年前に初来日した時にはさすがに飛びつきましたが、
「あんなに好きだったのにね~」
周囲が驚くほどの「確認作業」に終わり、
自分が選択しているものは少なくとも、その来日の日の音ではなかったと感じました。
過去に囚われている、と思われても、その過去が脈々と今流れているのだから仕方がない。

来るべき日に備えて、身辺整理を考えるようになり、
コレクションの意味も変わってきました。

明日からまた「続き」。
1日の休みでは疲れの上澄みが掬えるくらいですね…お体どうぞお大事に。
春の匂いで五感を保ちたいものです。
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