こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

かたちんば徒然日記 : 2010年12月31日 さいごに・・・・ 

2010-12-31 21:00:00 | 雑記帳
私が神の不在と邪悪な宗教が嫌いとは、過去に述べました。

しかし、哲学・文学として価値に足る、蜜なコトバに関しては、教わる事が多くあります。

例えば、イエス・キリストのコトバにも「脳」を傾けるものもあれば、そう思わないものもあります。

それだけの事です。
それ以下でも、それ以上でもない。

***

しかし、それを持ってして
「●●●●ハ偉大ダカラ、アナタ~モ~、入信シナサイ。
オ布施ヲ~シナサイ。
イノリナサイ。
イノ~レ~バ~、スクワレマス。」
と言われても、
「嫌だね。」
と言うだけの事です。

***

自分は、もはやテレビもニュースや特定のもの以外は見なくなってしまったし、ぶら下がって来るエサとしての「ニセ世間」のドンチャン騒ぎに合わせて、頷くことも出来なくなりました。

やっとメディアの毒牙が完全に抜けて、解脱する歳になったのでしょう。

私は、その外側に立ち、日々好きな芝居を見、好きな音楽を聴き、散歩し街を放浪しながら写真を取り、思索にふけるだけです。

そんなやさぐれかたちんばが、2010年の最後に、【今】、一番自分にフィットするお釈迦様の言葉を記して終わりたいと思います。

亡くなった相棒のネコ「まみちゃん」も、お釈迦様と同じ4月8日生まれで、自分の老親は「シャカ」と命名するところを、私が静止して「まみ」と名付けたこともありました。

***

『過去を追うな。
未来を願うな。

過去はすでに捨てられた。
未来はまだやって来ない。

だから現在のことがらを、
現在においてよく観察し、
揺らぐことなく動ずることなく、
よく見きわめて実践すべし。

ただ今日なすべきことを熱心になせ。

誰が明日の死のあることを知らん。』(一夜賢者経より)

***

「"過去を追うな"という中で、おまえは80年代ばかり振り返っているじゃないか」という批判されても、仕方のない事ですが、「そう語っている【今】の自分も、想い・書いた途端に既に過去。」と思っています。

お釈迦様の言う言葉は、想い出を捨てろ・自分の今迄を捨てろ、と言っていると思っていません。

「想い出や過去は存在しない。」と論ずるペシミスティックな哲学家の言う通り、見えない過去は現存しないし、過去は「脳」にあり・当時の事実とは異なる「妄想」である点は事実ですが、【私が、今、そのように思って(しまって)いる事だけは事実だ。】という事です。

サルトルの言う「我思う。ゆえに我在り。」という実存主義。

お釈迦様の言葉も同じ発想で、【今】まさに1秒1秒・・・・時々刻々と進む時と共に、周囲の世界は変化するが、それを視ている自分を中心に据えた視点である事には、気付くはずです。
過去は現実としては存在しない。
しかし、自分は居ます。(【今】、のところ)

お釈迦様の「一日賢者」とは、「【今】を愉しめ」と言うようなものかもしれません。

「過去の反省を引きずるな、憂うな/未来に期待せず、憂うな」かもしれません。

***

マンガ「ぼのぼの」には、愉しく愛らしいだけではない哲学的問答が多く潜んでいます。
そこが、このおだやかなマンガの1つの魅力でもあります。
そんな哲学的問答の1つに(MZ師から教えてもらった事ですが)仲間たちの中で今度来る何かに悩んでいる人に対して、スナドリネコさんが「そんなことはそのときになって悩めば良い。」と言ったそうな。

【今】悩んだって無駄なことだということ。

よく試験の合格可否や病院で検査結果を待つあいだに「どうか受かっていますように」「どうかガンでありませんように」と、人はもう既にカベの向こうでは結果が判明している事に対して、願をかけ・祈ったりします。

しかし、既に結果はカベの向こうに事実としてある。

祈りは1つの人の大事な側面ですし、悪い結果ではないことを祈る気持ちは大事です。

告知を受ける側は、まさに、カベの向こうの事実は「神のみぞ知る世界」。
だが、祈りが事実結果を変えることは、悲しいことだが、無い。

宗教の悪い側面として人をだましているのは『祈りが、既に確定した事実結果を変える。』というウソです。

「連中」は、そういう人の弱みに漬け込んできます。

だから、そういう「連中」の勧誘に揺らぐことのない、自分なりの宗教観をあらかじめ別に持つことが必要なのだと思います。

西洋の精神医学には無い、東洋の「森田療法」はその1つのヒントです。
その「森田療法」哲学を生み出した森田正馬が唱えた『あるがまま』。

我々は『祈りが、既に確定した事実結果を変えることはない。』ことを踏まえつつ、事実結果を受け入れながら、その中で『あるがまま』に生きる精神状態が必要なのでしょう。

『あるがまま』『あるがまま』と幾ら唱えても・それは一朝一夕にはなりえません。
「コトバ」ではなく「肉体」で。
そのとき・そのときの自分の制約有る在り方の中で、スナドリネコさんのように愉しむことだと自分は思います。

***

ゲイリー・ニューマンは「エブリデイ・アイ・ダイ」と言いました。

デヴィッド・ボウイは「ヒーローズ」で「YouCanBeHeroes,JustForOneDay・・・・」と言いました。
それは「一生に一回は良い時はあるさ」などというようなロングスパンの悠長な世界で語っている事では無いのは、A面1曲目の「Beauty&TheBeast」の低空飛行する鋭いナイフのような差し迫る音、「サムシング・イン・ザ・ナイト、サムシング・イン・ザ・デイ・・・・」というセリフを聴けば、そういったものではない事は明らかでしょう。

そう思うと、植木等のスーダラ節の「カネの無い奴は俺んとこへ来い。俺も無いけど心配するな。」にすら、単なる楽観主義のみでは無く、カネ以外の価値を【今】に持つという哲学に感じて来てしまいます。

一番【今】を視点[支点]に、1秒1秒の化学変化を理解し・生きたのは、三島由紀夫の言行の在り方かもしれません。

また「音楽図鑑」で「自分とは、複雑なカオス」と表明し、「レプリカ」で“時間の連続体が自分では無い”と自己増殖を表現した坂本龍一。


【坂本龍一「レプリカ」'84/原曲は’82年の「B-2UMITS」ライブ時点で出来上がっていたが、教授が「今」「自分」獲得のために必死で壮絶な闘いをしていた’84年の、ナム・ジュン・パイクとのコラボレーション。「オール・スター・ヴィデオ」より。】

めくるめく思考は尽きませんが、そう言っている間に、かたちんばの想いも既に、次の視点に移ろってきたので、今年はこれにて幕を引きたいと思います。

では、また、『いつか』お会いしましょう。


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捨ててきたもの (森下礼)
2011-01-01 13:51:07
 私はこれまで数学、フランス文学、そしてマンガクラブそして恋人を捨ててきました。
 主観的には捨ててきましたが、これらの事柄は、案外今の自分を形成しているのかな、と思うこともあります。
 「過去も含み」、捨てるというのは、案外捨てる対象を自分のなかにしまいこみ、自己内でのこれらを熟成させることなのかも、と思います。捨ててきた自分のバックボーンになっているかと。

 最近は、やりませんが、燃えないゴミを朝拾って歩く、というのも私の日課のひとつでした。
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自分という容器 (かたちんば→森下礼さんへ)
2011-01-01 15:20:07
森下さんの言うのと同じ事を寺山修司さんが言っていました。
「捨てることは愛することだ」と。

森下さんが数学・フランス文学・マンガ倶楽部・恋人を捨て去ってきた事は「消えた」訳ではない。
何処かに有るんですね。
肥やし、というとありきたりで合わない言葉ですが、自分という容器の中で化学変化を起こす、というとしっくりいきます。

ところでゴミを拾う癖、自分もです。
大竹伸朗さんはそれをアートにします。
不要、とうち捨てられた方に価値があるのでは。
自分は、小学生の頃、ラブレターを拾いましたが、これもなかなかの品でしたよ。
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