細野さんがYMOを立ち上げるに至るには、アルファ・レコードの社長、村井邦彦の支援があった。
村井さんは、細野さんが小坂忠に作った「ありがとう」(1971年)がすごく好きで、その頃出会う。
一緒に大好きな温泉に行ったりと交流していた。
細野さんはクラウン・レコードに所属していたが、その後の一連の作品を最高だと思い「こっちへ来い来い」とラヴコールを続けていた。
自由にやりたいようにやっていた中、「泰安洋行」の商業的失敗にクラウンは見切りをつけた際に、契約の切れ目の1977年、村井さんはアルファ・レコードへと招き入れる。
そこで、細野さんに持ちかけた話が、海外進出。
YMOの結成と海外ツアーのお膳立てをする。
・・・・・そして、全世界的なYMOのヒットと東京への着目。
そんな折、村井さんは、教授の「ただマニアックな音楽をやっていたのに売れてしまった」という発言に怒り「どんな思いでお膳立てし・カネをつぎ込んできたのか分かっているのか」と言ったそうである。
そんな熱狂のさなか、2回のワールド・ツアーで巻き込まれたYMOの異常なヒットとその中で身動きが出来なくなった3人は、「BGM」での大衆とアルファ・レコードへの裏切りを行う。
1981年、YMOはアルバム「BGM」「テクノデリック」と国内ツアーで全てやりたいことをやり尽くしてしまう。
実質上解散したYMOは、1982年三人三様やりたいことをし出す。
細野さんと幸宏は『YMOが成功したらレーベルを作ってもらう』という約束を果たし、アルファ・レコード内に5月「YENレーベル」を発足する。
そして、曲をスタジオの中に入ってから創るというYMO3人独自の才能と技から、スタジオ代が膨大に膨れ上がった反省から、こじんまりした使い勝手の良い「LDKスタジオ」も設けてもらう。
思えば、細野&幸宏と教授の分かつ流れは、BGMの「CUE」の制作に始まり、この「YENレーベル」・・・そしてスケッチ・ショーと続くもの。
だが、ボクはそれは単純に坂本龍一が何にも同調しない「俺が俺が」という我の強さゆえのことと思う。
1982年、細野さんと幸宏は「YENレーベル」発足、集まってきたミュージシャンのプロデュース、そしてそれぞれのソロ、そしてこれほどぜいたくなメンバーは居ないという幸宏の国内ツアー・・・等々、この年も爆発的な活動を行う。
一方。教授こと坂本龍一の1982年は、国内での「B-2UNITS」というバンド形式でのライヴ、矢野顕子と共にロンドン滞在での「愛がなくちゃね」制作、デヴィッド・シルヴィアン、スティーヴ・ジャンセンと3人でのシングル制作、そして大島渚監督の映画「戦場のメリークリスマス」へ俳優として出演のために、ラロトンガ島での長期に渡る撮影生活へと入っていく。
***
「YMOをやる中では、ソロ・アルバムは創らない」と言っていた細野さんが、まだYMOの名が残る中、1982年ソロ・アルバムを創ったのは、ほぼYMOが終わってしまったことを意味していた。
そのアルバムのタイトルは「フィルハーモニー」。
このアルバムは、イミュレーターと名機プロフィット5のみで創られた。
ほぼ1人でのLDKスタジオでの録音。
YMOという器ではやりきれなかったこと、そして、YMOと自分の間のバランスが崩れてしまったことのバランスを取るために、細野さんにはソロ・アルバムを創る必要があったのだった。
アルバムには、教授経由で知った現代音楽からの影響が強く感じられる。
5月18日に「坂本龍一のサウンドストリート」に、YENレベールの頭として、所属アーチストである立花ハジメの「H」の紹介と共に、「フィルハーモニー」が紹介された。
ボクはとてもこのアルバムが好きで、毎年夏が来ると聴くアルバムである。
夏、ということは、このアルバムから語られることは無いのに、なぜか自分には、夏を感じてしまう。
確かに「ホタル」という曲は収まっているが。
今日は、このアルバムの中から「お誕生会」というミステリアスな曲をかける。
この曲は、1人でスタジオに籠もる中、様々な人が手みやげや慰労を兼ねて現れるが、そういう来た人の音や声をイミュレーターにサンプリングし、コラージュのようにはめ込まれて曲として出来上がったもの。
実に、現代音楽的でありながら、現代音楽をも超えているエスニックな響き。
80年代というのは(1986年末までだが)、ボクにとっては、1年で語れず、1ヶ月1ヶ月が濃厚な密度としてあって、また事実、音楽の流れの変化も川の流れのように月次単位で変わっていたとてつもない時代だった。
1982年というたった1年を取り上げても、とんでもない量の質の高い音楽が生まれていたことを改めて実感する。
村井さんは、細野さんが小坂忠に作った「ありがとう」(1971年)がすごく好きで、その頃出会う。
一緒に大好きな温泉に行ったりと交流していた。
細野さんはクラウン・レコードに所属していたが、その後の一連の作品を最高だと思い「こっちへ来い来い」とラヴコールを続けていた。
自由にやりたいようにやっていた中、「泰安洋行」の商業的失敗にクラウンは見切りをつけた際に、契約の切れ目の1977年、村井さんはアルファ・レコードへと招き入れる。
そこで、細野さんに持ちかけた話が、海外進出。
YMOの結成と海外ツアーのお膳立てをする。
・・・・・そして、全世界的なYMOのヒットと東京への着目。
そんな折、村井さんは、教授の「ただマニアックな音楽をやっていたのに売れてしまった」という発言に怒り「どんな思いでお膳立てし・カネをつぎ込んできたのか分かっているのか」と言ったそうである。
そんな熱狂のさなか、2回のワールド・ツアーで巻き込まれたYMOの異常なヒットとその中で身動きが出来なくなった3人は、「BGM」での大衆とアルファ・レコードへの裏切りを行う。
1981年、YMOはアルバム「BGM」「テクノデリック」と国内ツアーで全てやりたいことをやり尽くしてしまう。
実質上解散したYMOは、1982年三人三様やりたいことをし出す。
細野さんと幸宏は『YMOが成功したらレーベルを作ってもらう』という約束を果たし、アルファ・レコード内に5月「YENレーベル」を発足する。
そして、曲をスタジオの中に入ってから創るというYMO3人独自の才能と技から、スタジオ代が膨大に膨れ上がった反省から、こじんまりした使い勝手の良い「LDKスタジオ」も設けてもらう。
思えば、細野&幸宏と教授の分かつ流れは、BGMの「CUE」の制作に始まり、この「YENレーベル」・・・そしてスケッチ・ショーと続くもの。
だが、ボクはそれは単純に坂本龍一が何にも同調しない「俺が俺が」という我の強さゆえのことと思う。
1982年、細野さんと幸宏は「YENレーベル」発足、集まってきたミュージシャンのプロデュース、そしてそれぞれのソロ、そしてこれほどぜいたくなメンバーは居ないという幸宏の国内ツアー・・・等々、この年も爆発的な活動を行う。
一方。教授こと坂本龍一の1982年は、国内での「B-2UNITS」というバンド形式でのライヴ、矢野顕子と共にロンドン滞在での「愛がなくちゃね」制作、デヴィッド・シルヴィアン、スティーヴ・ジャンセンと3人でのシングル制作、そして大島渚監督の映画「戦場のメリークリスマス」へ俳優として出演のために、ラロトンガ島での長期に渡る撮影生活へと入っていく。
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「YMOをやる中では、ソロ・アルバムは創らない」と言っていた細野さんが、まだYMOの名が残る中、1982年ソロ・アルバムを創ったのは、ほぼYMOが終わってしまったことを意味していた。
そのアルバムのタイトルは「フィルハーモニー」。
このアルバムは、イミュレーターと名機プロフィット5のみで創られた。
ほぼ1人でのLDKスタジオでの録音。
YMOという器ではやりきれなかったこと、そして、YMOと自分の間のバランスが崩れてしまったことのバランスを取るために、細野さんにはソロ・アルバムを創る必要があったのだった。
アルバムには、教授経由で知った現代音楽からの影響が強く感じられる。
5月18日に「坂本龍一のサウンドストリート」に、YENレベールの頭として、所属アーチストである立花ハジメの「H」の紹介と共に、「フィルハーモニー」が紹介された。
ボクはとてもこのアルバムが好きで、毎年夏が来ると聴くアルバムである。
夏、ということは、このアルバムから語られることは無いのに、なぜか自分には、夏を感じてしまう。
確かに「ホタル」という曲は収まっているが。
今日は、このアルバムの中から「お誕生会」というミステリアスな曲をかける。
この曲は、1人でスタジオに籠もる中、様々な人が手みやげや慰労を兼ねて現れるが、そういう来た人の音や声をイミュレーターにサンプリングし、コラージュのようにはめ込まれて曲として出来上がったもの。
実に、現代音楽的でありながら、現代音楽をも超えているエスニックな響き。
80年代というのは(1986年末までだが)、ボクにとっては、1年で語れず、1ヶ月1ヶ月が濃厚な密度としてあって、また事実、音楽の流れの変化も川の流れのように月次単位で変わっていたとてつもない時代だった。
1982年というたった1年を取り上げても、とんでもない量の質の高い音楽が生まれていたことを改めて実感する。