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こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2014年4月5日 土曜日 くらしの風景 ~たそがれのビギン~

2014-04-05 11:58:38 | 想い出かたちんば

顔にさす陽射しで、9時前に目覚める。
手元の細かいものがみえないのは相変わらず。
ほんとうに、ローガンズではないか?と思ったりする。
(*ローガンズとは、みうらじゅん兄貴のつくった造語。老眼のこと。)
そんなことだけで気が堕ちてもイカン。
「まあまあ、お茶でも。。。」と熱く濃い緑茶を煎れる。

ラジオは今朝もTBS。永さんと外山(とやま)さんの「土曜ワイドラジオTOKYO」。
ゲストのピーコさんとのやりとり、ちあきなおみさんの歌で知った「たそがれのビギン」のカバーが流れる。
それらを聴きながら、横になって、マンガ「三丁目の夕日」を読む。

起きたときに青かった空は、11時を過ぎて、しだいに白くなってきた。
お昼が近付いてきたので、一週間分のごみを回収してもらうため、袋つめを始める。

今使っている年季が入ったえんぴつには、「味の素 クッキングプラザ」という料理教室の刻印がある。

刻印は、薄くなって、文字が消えつつある。
このえんぴつを、いつどこで手に入れたのか?思い出せない。



■ちあきなおみ 「たそがれのビギン」■
1991年仕事をはじめて・大阪に行ってすぐの頃、友人ハブ噛み師匠が送ってくれたVHSビデオ。
当時も今も好きな山瀬まみちゃん。
その新番組「おませなふたり」は、大阪では放送していなかったので、友はそれを録画してはビデオレターを送ってくれていた。

その番組のCMは、京浜急行のぬくもりある映像、そのバックに掛かっていたのが、ちあきなおみさんのこの曲だった。

知り合いも居ない異国の孤独のなか。
このCMにふるさと東京のうしろ姿を見る想いがして、いとおしくて仕方が無かった。
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2014年3月26日 水曜日 音楽風景 ~いとしのオリビア~

2014-03-26 23:48:08 | 想い出かたちんば

貯めたお小遣いでラジカセを買えたのは、小学校6年生のころだった。
最初は、土曜日のお昼間・FM東京で放送していた「歌謡ベストテン」の曲の録音だったりした。
ポーズ(一時停止)ボタンで、曲名を言った後のタイミングを見計らって、曲のみを録音した。

使用したカセットテープは、1本100円の「ボンテープ」。
そのテープは、上から違うものを録音して、今ではその音源は無い。
1978年当時ヒットした越美晴さんの「ラブ・ステップ」があったのは記憶にある。
というのも、テープのぎりぎりのところまで録音していき、カセットテープの片面の最後に「ラブ・ステップ」を入れたが、曲の途中で切れてしまい、残念だった想い。(でも、そのカセットを聴いていた)

シングル盤「ラブ・ステップ」自体が大好きな曲だったが、ピアノを「ダンダンダン」と笑顔で躍動的に弾き、おしゃれな服装で歌う越美晴さんの「お姉さん」ぶりに、惹かれていたのも事実だった。

その後、中学生になると、うしろ髪を引かれながらも、「歌謡曲断ち」を自らに宣言した。
そのはずが、その延長線上で、1983年秋・新しい姿で細野さんのそばに”コシミハル”として現れるとはゆめゆめ思わず。。。

***

「これからは洋楽のみだ!」と自らに宣言した中学一年生。
音楽のジャンルも領域もミュージシャン名も深くはわからないので、とにかくFM雑誌にエンピツなどでマルをした番組を、やたらめったら録音した。
ラジカセという武器でもって。

毎日夕方4時から6時には、NHK-FMで「軽音楽をあなたに」という番組があって、毎日いろんな音楽が特集されていた。
記憶に残っている断片。
1979年に、当時上映中のホットな映画のサウンドトラック特集が組まれた。
映画自身は見ていなかったが、「オール・ザット・ジャズ」とかその他もろもろの映画音楽を録音して聴いていた。

1980年映画「ザナドゥ」のサウンドトラックに出会ったのは、そんな流れだった。
この頃、土曜日のお昼間の定番ラジオが、小学生時代に「歌謡ベストテン」だったものは、洋楽チャートの「ポップス・ベストテン」に代わっていた。
毎週ノートに、その曲名と順位を付けながら聴いていた。

ヒットしたテーマ曲「ザナドゥ」は、オリビア・ニュートン・ジョンとELO(エレクトリック・ライト・オーケストラ)の共演。
そして、昨日も聴いていた・未だ大好きな曲「マジック」も、映画「ザナドゥ」のサウンドトラックからのシングルカット。

まるで妖精のようなオリビア・ニュートン・ジョンが、とにかくかわいくて仕方がなかった。清楚でチャーミングなオリビア。
恋ごころばかりがつのっていく一方の童貞少年。

「これからは洋楽のみだ!」と宣言したは良いものの、日本人アイドルが外人に変わっただけの部分がある面は否めなかった。(それは、今だから言えることだけれども。)
ただ、オリビアは、曲も声も歌い方も含めて好きだった。
それがルックスのみのアイドルへの視線とは大きく異なっていた。(山口百恵さんなどは別格)

オリビアと出会った十代。
恋と性が、体内で同じ平面で繋がっていたころ。
「週刊プレイボーイ」や「平凡パンチ」や「GORO」といった雑誌のグラビアが、この上ない魅惑の未知の世界だったころ。

それは、恋でもないのに、肉欲のみでセックスが出来てしまうようになった「汚れちまった悲しみに」という20代後半~30代を迎える前のこと。

あー、それで2014年。
極めて「カンタン」「安易」に「プチ」っと「成型」手術が出来て、女子力という名にすげ替えた「経済フェミニズム」時代の今。
それだからなおさら、オリビアという恋しい人の存在を改めて想い、うなってしまう。

*今回、1980年時点でオリビアは既に32歳だった事実を知る。
そのかわいさから、当時「20代のお姉さん」と思っていたが、大きな勘違いだったことを34年後に知る。

■オリビア・ニュートン・ジョン 「ザナドゥ」1980■

この曲は、ELOお得意のスペーシィーな空間の広がりを感じさせるサウンドと、オリビアが持つ嫌味のないキレイなハイトーンヴォイスが合体した強力なポップス。
テクノではないのに、そういった方向のイメージが自分の中にあるのは、まだ当時シンセサイザーサウンドが珍しかったゆえのことだろう。

PS : 昨夜、オリビアの「マジック」のプロモーションビデオを見て、自分の中のイメージ違いを見つけた。
(当時、このプロモーションビデオはテレビで見ていなくて、実は34年目にして初めて見た)

自分のイメージの中でのシングル曲「マジック」は、ジャケットの写真のように、妖精の姿のオリビアなのである。永遠に。

しかし、ビデオでは、その後スポーティーな「フィジカル」で肉体的側面をあらわにし出した前兆を匂わせるもの。
パーマの髪・衣装・思わせぶりな目付き。
「フィジカル」で「どきっ」としながらも、大人に変化していったオリビアも魅力的だったけど。。。

こういうことを書くと「男視点での都合の良い女性像への郷愁」と思われても仕方がない。
また、過去、6つ上の兄より言われたコトバもよぎる。
「おまえは、女性に対して幻想を抱きすぎているんじゃないのか?」
そうかもしれない。

まあ、もう今の自分は、過去の放蕩がたたり、すでにEDマン。
女好きに変わりはないものの、それをもって許してくださいな。
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2014年1月24日 金曜日 音楽風景 ~I’LL BE OVER YOU~

2014-01-24 23:47:28 | 想い出かたちんば

80年代の後半、87年の分水嶺。
何も創造的なものなんか、もうここにはない、という空白感の中に、自分は漂っていた。
かたわらで、シャカシャカ「ゆーろびーと」がどうたらこうたら。。。。とFMでは、ちんけな音が鳴っていた1シーン。

音楽カテゴリーの境界線があいまいになり出した時代。
だからと言って真に新しい息吹が産まれた訳ではない。
「ワールド・ミュージック」と呼ばれたものも、名前の付けようのない・ぼんやり漂うクラケ音楽・ただのゴッタ煮を、そうやって商品流通の活性化目的で呼んでいたに過ぎない。

だからと言って、何も無かった訳でもない。
まだヨーロッパの魂は残っていたのか!と驚いた、ケルトの奇跡=エンヤとの出会い。
89年には、教授の「ビューティー」・細野さんの「オムニ・サイト・シーイング」なる素晴らしき2枚のアルバムなど。。。。
だが、そんなものはごく一部に過ぎず、それぞれが、孤。
素晴らしいミュージシャンは、それぞれが優れた作品を創るのみで、流れるシーンなど存在しない時代。

そこには、時代に杭を打ち込むような、過激で革新的なムーヴメントなどありはしなかった。

そんな中、大学時代に入った廃人は、87年から、美術研究会なるアート倶楽部に身を寄せていた。
実際は、変わり者たちのたまり場。
そこは、音楽を聴く者、いかれた安物テレビを見る者、楽器をポロンポロンと奏でる者。
画材の匂いで充満した中、絵を描き・酒やタバコを飲みながら、毎日色んな話しをして過ごした部室。
大学では一番古い公認の倶楽部で、大学から予算を与えられて運営していた。
掃除もしない曇ったガラス窓からは、赤き中央線がガタンゴトンと走って行く姿が見えた、線路脇。

面倒見の良い先輩が、よく車でドライヴに連れていってくれた。しょっちゅう、彼のどくだみ荘に泊まっては、一緒にメシを炊きながら、本や音楽や絵の話しをした。
彼は新しいアルバムが出ると、アルバイトで稼いだお金で、精力的に何枚も新譜を買っていた。
もはや音楽に未来を見い出せなくなっていた自分。

そんな状況下で知りうるリアルタイムの音楽の多くは、彼によってもたらされていた。
U2の「ヨシュア・トゥリー」、マイケル・ジャクソンの「バッド」、スザンヌ・ヴェガの「孤独」等々のアルバム。

そんな中から好きな曲を選んだセレクションテープが、ドライヴの最中ずーっと掛かっていた。
彼の横に乗って、武蔵野や山河の風景に眼をやりつつ、多くの知らない曲に出会えた。

1986年に発表された、TOTOのアルバムに入った「I’LL BE OVER YOU」は、そんななかの1曲。
大学時代に何かあるたびに聴いていた、今でも好きな1曲。

それまで、新たなる音楽の地平を目指し、新たな実験結果としての産物が産まれるときにこそ、自らの「今を生きる」魂を込めてきた1986年のエンドロールを経て。
TOTOの曲は、極めて有り体で、何一つ新しいものはない。
単純にメロディアスな曲というだけである。でも、好きなのである。
矮小化されていく音楽業界の中。まるで何も買うものの無いお店の中で逃げ切れず、「何か無いかなあ」と無理矢理何かを探しているような感じだったとしても。

80年代の終わりから90年代をむかえるにあたって、奇妙な生命体としてアメーバ―のような変態を起こすハウス→アンビエント→・・・・→エレクトロニカの発生など、ゆめゆめ思わず、昭和の終わりに向けた静けさが支配していた時代の曲。

■ TOTO 「I’LL BE OVER YOU」1986■
夢に生きる人が居る
眼を閉じた人が居る
運命が通り過ぎていくままにする人も居る

保証されうるなにがしかもなく、証明するなにがしかもない
ぼくらの愛はなるべくしてなった
それをなぜか?とは尋ねないでくれ

そこには、一定の時間が必要なんだ
いつになれば。。。は天にしか分かりえない
それでもぼくは、いつか「あなた」が居なくなった悲しみを忘れることが出来るだろう

心を傷める日々が潮を引いて、
永久に思える悲しみが通り過ぎたら、
ぼくはきっと「あなた」が居なくなった悲しみを超えていけるだろう

1980年・中学生の頃に、銀座の山野楽器で買って聴いた2,800円のLPレコードの一枚は、ボズ・スキャッグスの「ミドル・マン」。
ボズのかっこよさ。
当時、AOR=アダルト・オリエンテッド・ロックなんて呼び方をしていたが、そんなカテゴリーなんかどーでも良くて、その後、ボズの過去の作品にさかのぼって聴いていった。
同時代進行では、ボズのバックバンドだったミュージシャンが独立して創ったユニット「TOTO」も聴いていた。
毎週のトップ10でワクワクしながら聴いた「セント・ジョージ&ザ・ドラゴン」そして名曲「99」が、私にはとても新鮮だった。
クリストファー・クロスやJDサウザーの登場。
ロビー・デュプリー、ルパート・ホルムズといった新しいウエストコーストサウンドと共に。
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2013年10月29日 火曜日 「気が付けば浦島太郎」

2013-10-29 23:05:14 | 想い出かたちんば

自分の朝は、アラームの鳴り続けるなか、のたうって/毎度毎度、怠惰に誘うささやきに揺さぶれながら、ぐぐぐっと起きる。
起きぬけのタバコとお茶。それに、つけっぱなしのパソコンでニュース一覧だけ見る。

昨日の朝は、いきなりルー・リードが亡くなってしまったことを知るに始まった。

私は、リアルタイムでヴェルヴェット・アンダーグラウンドは聴けていない。
彼の存在を初めて知ったのは、YMOの写真集「OMIYAGE」にて。
教授の私生活紹介コーナーで、当時お気に入りレコードの中の一枚が、ルー・リードの「ベルリン」だった。

坂本龍一は、このルー・リードのアルバムから「生身の肉声が持つ力」に影響を受けて、「B-2UNIT」収録の「ザットネス&ゼアネス」を創った。
ヴォコーダーというマスクを、自ら外して、むき出しのシャイなヴォーカルをあえて露呈させた曲。

その後、
毎月定期購入していたミュージックマガジンにて。
ゼルダの活動資金を作り出すため、アルバイトとしてレコードレビューを書いていた小嶋さちほさん。
とあるノイズミュージックのレコード評。
「・・・ルー・リードの『メタル・マシーン・ミュージック』のように、ノイズの嵐の中から立ち上がってくる豊饒なチューンを知っている私にとっては・・・(この程度の垂れ流しノイズは・・・)」といった意味合いのセリフを読む。

ざらついた紙面に写植された印字。
そのセリフを見るために、何度もそのページをめくった頃。

あるいは、ヘヴン17(BEF名義だが)がカバーした「パーフェクト・デイ」。
クロスオーバー・イレブンで出会い、エアチェックして聴いていた曲。
ルー・リードの原曲も掛かったが、ヘブン17の方を先に聴いてそちらばかり。というのは、単純に耳が若すぎたのだ。

雑誌の音楽レビューで、次々発表されるルー・リードのソロを知りながらも、いまいち自分の中でピンとは来ないで、ぼんやり感があった80年代。

結局、彼の音楽を一番聴いていたのは、大阪に居た90年代前半。

毎週末楽しみにしていた1994年の土曜夜。
NHK教育テレビで放送されていた「ソリトン金の斧・銀の斧」。当時憧れだった大塚寧々ちゃんの静かな語りと共に、番組冒頭と最後に掛かったヴェルヴェット・アンダーグラウンド。
と言っているのは、その後、東京に戻って2006年になって分かったもの。
曲は好きだったが、誰が歌い・演奏しているのか?ナゾのままだった当時。

一方では、それも知らずに、
天神橋筋の近所にあったワンルーム・マンションから、チャリンコで借りに行ったレンタル屋さん。
「例の」アンディ・ウォーホール作品であるバナナ・ジャケットのアルバムを借りて、カセットテープに落として聴いていた。

けだるい「サンデイ・モーニング」が一番自分の琴線に触れて、好きな一曲となっていた。

昨日・今日、インターFMでは、ルー・リードを巡る曲をたくさん流して、仕事をしながら聴いていた。
好きな「サンデイ・モーニング」「パーフェクト・デイ」に耳が反応。・・・そのほかエトセトラとハードに掛かっていく曲&曲。

本気で全部を聴けぬまま、自分は相当な時間をまごまごと過ごすうちに、相手は亡くなってしまった。
そんな感じだ。

私が彼の死に対して言える事実は、上記程度のことのみ。
湿っぽく「うんうん、悲しいねえ~」などというフリ=大嘘付きを演じる資格は一切ない。

しかし、音楽は生き残り、いつでも聴くことが出来る。
湿っぽくなる必要はない。彼の死を契機に初めて聴きだす人も居るのだし、そこに音楽との新しい出会いが産まれていくのだから。

今夜は、好きだった当時の寧々ちゃんの面影もあいまった「ソリトン金の斧・銀の斧」のテーマ曲を掛けたい。

■ヴェルヴェット・アンダーグラウンド 「WHAT GOES ON」1967■
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2013年10月24日 木曜日 「家に戻ろう」

2013-10-24 23:55:21 | 想い出かたちんば
一日、お袋の居る病室に居た。
夜。
兄がもってきたDVDを3人で観る。
兄共々、愛する映画「グーグーだって猫である」。今改めて、ゆっくりと。

今でも美しさには変わりは無いが、
ボク個人にとって、この映画、そして、小泉今日子さんの美しさ・柔和さ、細野さんの音楽は、全て永遠に大事なものである。

■映画「グーグーだって猫である」2008■
三人三様、散会し、それぞれの居場所に戻る。
自室に戻り、一人でまた「グーグー」を見ている。

10月24日夜・スクラップブック制作途中
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2013年7月16日 火曜日・深夜 Duran Duran 「Save A Prayer」'82

2013-07-17 01:58:51 | 想い出かたちんば

これは、雑誌「FMレコパル」の1985年7月のオマケである、カセットテープ用の、インデックス・カード。
当時、毎週買っていたFM雑誌には、「FMfan」「FMステーション」「FMレコパル」という3つがあった。
この1985年7月には、海や夏どころか。。。ひたすらアスファルトの御茶ノ水・本郷のあたりを素浪人は歩き、世間とは無縁生活だった。
ほぼ、じぶんにとっての80年代が終わろうとしていたさなかの雑誌。

山下達郎さんの「FOR YOU」のジャケットに代表されるように、鈴木英人の鮮やかなイラストが80年代初頭に流行した。
その英人さんのインデックス・カードを、2週間に1回ペースで刊行されるFM誌に掲載していたのは「FMステーション」。

じぶんが初めて買ったFM雑誌は「FMfan」だったが、1982年からは「FMステーション」を定期購読していた。
場合によっては、2誌や3誌まで買う週もあった。

「FMレコパル」は、マルディロくんがキャラクターだったが、1985年段階ではこんなイラストのインデックス・カード。
一見して鈴木英人風であるが、彼の作品ではない。
夏には、こういったアクリル系のイラストを当時よく見たものである。

***

スポーティーとは真逆のイメージのじぶんと、こんなイラストはミスマッチであり、海とは無縁ではあったが、1982年にはラジカセを伊豆の浜辺に持っていき、男同士でもんもんとした中、海の生活をしたときがあった。
そんな頃に、じぶんが創っていたセレクションテープにも収まっていたデュラン・デュランの「セイヴ・ア・プレイヤー」。

そんな中高生を離れた大人になってから。
いっとき三島由紀夫の影響で、肉体も鍛えて、やたらと夏には海に行っていたが、元々は蒼白いほどの女性的な皮膚をしたじぶん。
かたわらには、必ず女性が居た20~30代の当時も、今では遠い過去。
逆に、他人は目に入らない・2人だけの世界になっていて、女性と一緒にお店に付き合わされて、お互いの格好をぎくしゃくと合わせつつも「だらーんとしたトランクス姿は情けないよー。これがいい。」と言われて、「ええっ」と思える水着に動揺しながらも、好きな女性の言われるがままに・そんな格好で一緒に行けるくらいだった世界。運良い背丈とやせ型だったお陰でもある。しかし、若気の至り・そのもの。

今の老体の、世捨て人状態では想像も付かない世界。
しかし、その過去の影響で、40をすぎてから、シミだらけになり出し、今では太陽光を避ける生活に戻った。今では、単なる「ガリガリくん」に過ぎない。
世間は、次第に夏休みだの海だのと騒ぐが、今年もそういった世界は遠い距離を置いた幻想でしかない。女性の水着姿はまぶしいほどに美しいが、じぶんが海に行くことはもう無いだろう。

■Duran Duran 「Save A Prayer」1982■
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2013年7月1日 月曜日 「文月(ふみづき)」

2013-07-01 21:36:02 | 想い出かたちんば

1991年春に、生まれて初めて異国の地・大阪に放り出された。元々、根無し草の厄介者として、幼い頃公園に放り出されるに始まり、度々放り出されてはきたが、今回は逃げ場は無いという状況。
その大阪で過ごした五年の濃さ・重さは、今じぶんが生きているベースになっている。それは、単なる1人で働いて・喰っていくことだけではない。
この時期に出会った1つ1つが、じぶんにとって特別なものである。
出会った街・ヒト・女性・音楽。地獄と地獄と、ほんのわずかの天国。

右も左も分からない中、芦屋に住む大学時代の友人Mくん。
後に阪神淡路大震災に共に会う彼が、車で家探しを一緒にしてくれた。
その走る御堂筋の日曜日のカーラジオからは、教授のFM放送。
アート・リンゼイとピーター・シェラーのユニット=アンビシャス・ラバーズの「ヴィラン」、そして、教授のNECの砂漠のCMで掛かっていた「ストロング・リラックス」。。。
大学時代に放送された、ニューヨークでの3人のセッション。スタジオTVライブを想い出す。
広い道が全て一方向にしか走れないのは初めてで、陽光きつい中、車とアスファルトからの照り返しがギラギラとまばゆかったのを覚えている。

その年・1991年に、教授の新作「ハートビート」が発表された。
そのライヴ・ツアーを録画したビデオテープは、東京でしか得られない番組や情報を入れて、定期的にハブ噛み師匠が送ってくれたテープに入っていて、繰り返し視た。
その後、1994年には新作「スウィート・リヴェンジ」が発表される。

今井美樹さんとのデュエット「二人の果て」は、アイスクリームのテレビ・コマーシャルのバックに掛かっていた。
教授は同時期に、今井美樹さんのアルバム「ア・プレイス・イン・ザ・サン」にサウンドプロデュースという立場で参加している。
このアルバムは、じぶんが当時結婚したくて、同棲していた彼女へのカセットに入れた「輝く街で」を含み、むしろ「スウィート・リヴェンジ」より、個人的に憶いのあるアルバムだった。
「ア・プレイス・イン・ザ・サン」のサウンドプロデュースには、教授と並んで布袋寅泰がクレジットされており、ここで後に結婚する2人が出会う皮肉。

血気お盛んな教授は、当時はまだまだ精力全盛期だったので、今井美樹さんを口説いたことは言うまでもなかろう。
一方で、教授に恋してしまっていた(今も美しいが、当時、特に美しかった)中谷美紀さんと何も無かったわけではなかろう。大人の関係を結んでいたことも明らかだろう。

「ハートビート」は、80年代の終わりから始まったハウス~アンビエントの流れを汲んで創られた。
あのハウス・ミュージック独特の四つ打ちのビートとは、心臓の鼓動へ人間が回帰しようとしているのではないか?
という教授の解釈の元。デヴィッド・シルヴィアンとの共作「体内回帰」も、そこに繋がるもの。
じぶんは「ハートビート」をライヴ映像含めて・当時繰り返し見・聴きしたが、その後に発表された「スウィート・リヴェンジ」が理解出来ないでいた。
当時、一通り聴いてオクラ入りした。その感覚は、今でも変わらない。

但し、東京に戻って以降、改めて聴いた中で発見した「サイケデリック・アフタヌーン」。
そこに含まれたボサノヴァ感覚には、教授のバランス感覚の鋭さを再認識した。
クラシック、ジャズ、多様な民族音楽、現代音楽を経て、本当は小泉文夫先生のような、フィールドワークに生きる道を希望しながらも、細野さんが立ち上げたYMOに巻き込まれ、ろくにポップスの洗礼も浴びないまま、彼は彼独自のルートでポップスなるものに手さぐりで近づいていく。

「サイケデリック・アフタヌーン」も、そんな中で産まれた、教授の名曲の1つであろう。
異端である山下達郎が、その気も無いのに「ミドル・オブ・ザ・ロード」に祭り上げられるに至ってしまうように、教授は教授でポップスと縁遠い位置から新たなポップスのあり方にたどり着いてしまう才能。
夏が近づくたびに、この曲が聴きたくなる。
■坂本龍一 「サイケデリック・アフタヌーン(Psychedelic Afternoon)」1994■

詞:デヴィッド・バーン
曲:坂本龍一
バッキング・ヴォーカル:アート・リンゼイ


「あのヒトとの1994年」も、日に日に遠くなっていく。
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2013年6月15日 土曜日 「ソーイング・ザ・シード(たねを蒔く)」

2013-06-15 11:11:19 | 想い出かたちんば

80年代前半の音楽の戦いのさなかにあって、その同時代性をよく表していたのが、83年辺りに雑誌に載っていた、アナーキストであるジョン・ライドンのインタビューだった。
その雑誌も遭難中なので、実におぼろげな記憶だが、ミュージシャン同士が批判をし合っていた時代の一断面。
U2を「2つだけ素晴らしい曲を創ったが、あとはそのなでかえし」と切る一方で、プリンスを「パープルレインという曲だけはいただけなかったが、たった1曲で彼を非難するつもりはないよ。彼の絶え間なく創り続ける音楽は素晴らしい。変化していくことが重要なんだ。」
そして「PIL(パブリック・イメージ・リミテッド)は?」とインタビュアーが訊ねると、「エクスタシー」と答えていた。

「ロック」というものの概念は、時代によって変化していくし、ロックだけが音楽ではない。しかし、80年代前半の音楽は、日々(前向きに)変化していくことを要求されていた。そういう中で「ロック」なる言葉は化石・恐竜時代の言葉だった。

今週掲載したポール・ウェラーの在り方も、そんな時代の時空の中で、何かに縛られ・固執しないいさぎよさを表現していた。「パンク」という新たなる地平が開かれたとしても、それが形骸化・劣化してきたのであれば、捨ててしまうこと。
ジョン・ライドンもポール・ウェラーもプリンスも(じぶんにとってはU2も)「いや、これでは満足出来ない・不十分だ」という、より磨きをかけた何かを求めて歩く求道者だった。

そこから遠い・三十余年後の時空環境地点・2013年6月に、じぶんは「今」居る。
時々刻々と「今」と「今の気分の水位」は移ろいゆく。

朝、近隣を叫びながら走るクルマの音に起こされる。
何か?と言えば、単なる「にわか仕事」の選挙カー。21世紀というのに、何を話しているのか?耳を澄ませば、ひたすら候補の名前を連呼するだけ。
そこで、何か「一言」で人の気持ちをうならせるような「言霊(ことだま)」があれば良いが、そんなことは相変わらずある訳がない。あるとすれば、小泉純一郎に代表されるようなワンフレーズでの誘導。

毎朝、駅に向かえば「若い力(ちから)」とかいう無駄な旗を立て、連中は「それ用」のカラフル・カラーのジャンパーを来て、無駄なプロパガンダ・チラシを、電車に乗ろうとする人の行く手を塞ぐようにして、「蒔いている」。
かたわらにあった「維新」という文字・石原慎太郎、橋下徹の写真がみえて、カラフル・ジャンパー族が強要するチラシを、はたき落とした。
「朝から、ジャマだよ。お前ら支援者全員、どこか行け。」と吐いて。

まだ眠いが起きて、パンツ1枚でゴーヤくんたちに栄養剤を蒔いて、水やりをする。
雨が降って欲しいものだ、と雨乞いをし、祈りながら。
まだ涼しい方ではあるが、湿気は多く、天空は晴れたり曇ったり、日が差したり、隠れたり。。。
そんな朝聴きたくなった「今」の気分は、1985年・既に素浪人の精神病ジプシーだったさなか。当時も今も好きな高中正義さんの「渚・モデラート」。
当時、東芝のテレビCMでかかった、名ギタリストの創ったイメージソング。
■高中正義 「渚・モデラート」1985■




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2013年4月25日 木曜日 「疲労の中の浮遊感」

2013-04-25 23:56:23 | 想い出かたちんば



■リントン・クウェイシー・ジョンソン「LKJ IN DUB」より『リアリティ』1980■
1979年洋楽を聴きはじめ、ポリスに出会い、源泉のひとつたるレゲエ(ボブ・マーレー、ブラック・ウフル、アスワド、スティールパルスなど)の心地良さにたどり着く一方で、1980年の教授の「B-2UNIT」経由で知ったXTC/アンディ・パートリッジ、「テイク・アウェイ」、リントン・クウエイシー・ジョンソンの「LKJ IN DUB」。。。
今夜、疲労の中でたまたま選んだ23スキドーの1984年の「アーバン・ガムラン」。そこを経て「LKJ IN DUB」に向かう目舞う夜。
アンビエントもダブも、疲れたじぶんが身をもたれかかれる音。
ときにはファンクや民族音楽も良いのだが。。。
言語・概念・論理のガシガシした世界の外側にある音を求めて。




















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2013年4月8日 月曜日 「卯月(うづき)」

2013-04-08 22:42:03 | 想い出かたちんば
4月8日というのは、じぶんにとっては奇妙な日である。
4月8日は、1986年の某少女の亡くなった日であるが(2年前の4月7日に、その断片を記載)、今夜はそこに触れない。
また、1996年4月8日は、大阪から東京に戻って間もない日であり、コチャコがまみちゃん・正(しょう)ちゃん・瓜(うり)ちゃん・シロちゃんを産んだ日であり、お釈迦様の誕生日である。

今日は、タイムワープして、2004年4月の瞬間瞬間を記した写真より、9年前のコチャコちゃん・まみちゃんコンビと御茶ノ水・神保町のショットを、細野さんの憶い出深い曲に乗せて掲載す。

■細野晴臣さん 「ノルマンディア」1984(1985年発表「コインシデンタル・ミュージック」より)■



まみちゃん

コチャコちゃん

明治大学の外の椅子に座った、髪と後ろ見の美しい女性。



すずらん通りの一角。

文房堂となりの薬局のサトちゃん。

永遠に撮り続ける聖橋の姿。

駿河台下。

神保町交差点より学士会館方面へ1枚。

珍しく爆睡しているコチャコちゃん。

珍しくまじめな顔のまみちゃん。

当時映画化された佐藤江梨子演じたキューティーハニー。

スナイパー・コチャコ。

古本屋街。

雑誌棚。

庭の向こうとこちら。
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