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こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2014年1月27日 月曜日 音楽風景 ~タイムズ・トゥー 「L.O.D」~

2014-01-27 21:58:05 | クロスオーバーイレブン

時は冬。季節がどうあろうが、日々に魂を込めねばならないと、しつこく思う。
元気、という言葉は嫌いだが、すこやかに日々をあるがままに暮らしたい、と思っている。
制約から解き放たれようと、みうらじゅん先生と安斎さんの、録り貯めたラジオ番組を聞く。
絶妙な2人ならではの、歳が逆転した立場のやりとりを聴いて、大笑いする。

自分は語った。
『80年代の後半、87年の分水嶺。
何も創造的なものなんか、もうここにはない、という空白感の中に、自分は漂っていた。・・・だからと言って、何も無かった訳でもない。』
当時、それでも・・・と、何かあるはず・・・と「音楽が終わったあとに」クロスオーバーイレブンをたまに聴いていた。
過去の熱心さは既に無い。

たまたま、スクリッティ・ポリッティの新譜曲が、クロスオーバーイレブンで掛かると知って録音しながら聴いた1988年の夜。当時の「ぴあ」だったと思う。今は亡き「ぴあ」のFM番組欄は省略形で、全曲掲載はされていなかった。

この録音されたカセットもやっかいで、その後聴いていくたびに、たまたま「流し」で録音したテープの中でのスクリッティ・ポリッティだけではなく、その前後曲をが次第になじんでいく。
次第に、前の曲である若い白人とおぼしき人の掛け合いソウルが気に入っていく。
でも、誰の曲か不明。

結果的に、この曲を探って、1996年東京に戻って以降、神保町で過去のFM雑誌をめくりながら、やっと正体にブチ当たり、CDやシングル盤を購入した。
今では多分、100円均一の中に埋もれているだろう。

■Times Two 「L.O.D (Love on Delivery)」1988■
ブチ当たってショックだったのは、2人組のタイムズ・トゥーというバンド。
その風体が、あまりにも「チャラ男」、バブリーそのもの。時代のアダ花。
しかし、それを知っても、この曲は未だに好きである。
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2013年12月28日 土曜日 「ざわめき」

2013-12-28 19:41:01 | クロスオーバーイレブン

冬至の前に、島の通りにあった店先に「ご自由にお持ちください」と。
ダンボール箱の中には「ゆず」。
ありがたく数個持ち帰って、ゆず湯に入る。
今日も入った。

「ゆず」には、香りや色や形に、日本的なたたずまいを感じる。
つい三ノ輪に居た幼少の頃に、玄関に飾ってあった武者小路実篤の絵を想い出す。
かたち崩れた筆が描いたのは、みかんだった、と思っていたが、まさか「ゆず」ではなかったのではないか?と勘違いもする。

「柚子」「武者小路実篤」とパソコンでは漢字で書けるが、じぶんのペンでは書けない。
デジタル時代のビョーキだ、と思い、出来るだけ走り書きを紙に書くようにする日々。
まるでお年寄りのリハビリテーションではないか、と(親を思えば)笑えない話しだが。。。。

年末という現実味が無い。残り数日というのに。
むしろ、またクスリを1種類やめ・そぎ落としたことで起きている、離脱症状に苦しんでいた週だった。
具象と抽象の境目に漂っている、ふわふわした感覚である。

あまり絶望的なものばかりを書きたくもないが、だからと言って、希望を書くのもそらぞらしい。
そんな折、かつて発見した大竹伸朗さんのインタビューを思い出し、再度読んでいた。

以下引用部分は、大竹さんの東京や3・11に関する私感が覗けて興味深い箇所。相も変わらず、己に正直な方である。

「ドクメンタの参加が決まったのはちょうど3・11の直後で、いろいろ考えるところがありました。
あの出来事を見たら、明治維新から平成まで続いてきた自分が生まれ育った東京という街のひとつの流れに決定的なピリオドが打たれたという気がしました。
放射能問題にしても、人間がまったく力が及ばないところで宇宙が動き、住んでいる世界が簡単に壊れてしまう感覚、仏教でいうところの無常観を強く感じました。
でも、自分は被災者でなく、部外者であり、それをテーマにすることは考えられなかった。
一方で、震災とドクメンタの参加の決定が重なり、絶対的なアウェーで中に飛び込むという境地におかれ、自分としては前に進む以外ありませんでした。
物がつくれなくなったなどそういうことを言う余地すらなく、自分に何ができるのかといったような自問すらできない状況でした。」

アンダーグラウンドに居た初期キャバレー・ヴォルテールを、自分は自分の中で「実験音楽」と当時くくっていた。
ひりひりした中に塩を刷り込むような感じ、または、ミイラ取りがミイラになるように、闇に引きずり込まれるような感じ。
それが、自分を遠ざけたり、それでも、しばらくすると、そこに近付いてみたくなったり。。。を繰り返していた。
1曲だけを聴くならまだしも、1枚聴きとおすのは困難だった。

その後の1983~1984年、ニュー・オーダーの「権力の美学」と共に、これでも「初期にくらべて、ポップになったね」と当時言っていたキャバレー・ヴォルテールのアルバム「クラックダウン」。
深夜、クロスオーバーイレブンでエアチェックして、カセットテープでよく聴いていたのは、静けさの中にエコーする「ハイチ」、それに続いて掛かったタイトル曲「クラックダウン」。

■CABARET VOLTAIRE 「Crackdown」1983■
まだ、年賀状を書くことに向かえないまま、この曲を聴いていた。

この80年代から距離をおいて、90年代のハウス~アンビエントの流れと交わり、「ワープ・レーベル」からリリースされたキャバレー・ヴォルテールの作品や、リチャード・H・カークのソロ作品などを聴くことになった。
80年代の暗黒姿は薄らいでいて、より聴き易くなっていた。
そこでキャバレー・ヴォルテールへの感覚を掴んだ自分は、その後、80年代の作品に余り抵抗が無くなっていき、過去聴けなかった作品も、脳に届くようになった。
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2013年12月17日 火曜日 「師走中旬」

2013-12-17 23:26:45 | クロスオーバーイレブン

仕事場を去ると、今夜の空気は風もなく・あたたかい。
手がかじかむこともない、街の合い間に住まうネコさんたちにも救いの夜。
夜10時も過ぎると、歩く夜道に、静かな空気の中、師走の酔客がノイズを発している。そこから離れようと、道を変える。
歩く眼の隅を、ビルの波間を伝って、月が流れていく。

街を離れ、島に戻れば、夜空に今夜も、地に向かって落ちていくような雲の航跡が見える。
悪いことが起きないことを祈るのみ。

あっという間に、師走も中旬後半にまで来てしまっていた。
果たしてどうしたものか?と毎年思う、年賀状の季節が来てしまった。





こどもの頃は、お正月が楽しみであった。
また、四苦八苦しながらも、年賀状作りに凝っていた。木彫りの版画や手描きの絵だったり。。。
そんな時代は遠くなり、今や到着する年賀状の9割以上が、パソコンとプリンターが自動生成するだけのものとなった。
過去も書いたと思うが、そういう自分もご多分に漏れずに、デジタル機器を使用している。
それでも宛名と余白への文章は「送りたいと思う人」には、手書きを欠かさない。
かつて、様々な場面でお世話になった方々へのあいさつとして。すぐには逢えない距離のひとに向けて。
それだけが、自分なりのあらがい。

かつて思っていたお正月のおもむきは、既に大幅目減りしている。
自分の中の日本も東京も、どんどんと遠くになっていく。
むしろ、不明瞭な未知の新しい年が来ることに、暗澹たる気持ちになる。
また、年賀状を作るのも苦行のように思える。
本当は送りたくもない人が多くを占める中、やむを得ず慣習で送る年賀状ばかりに辟易とする。
「じゃあ、送らなければ良い」と思った頃もあったが、世捨人に踏み切れない状態のままである。

今でもやりとりのある、とある先輩。
パソコンが一般化する前からIT関連に詳しい。それは単なる趣味の延長線で、仕事でITに関わることはない。それが彼の流儀。
そんな彼は「自分は年賀状を出さない主義なので」と宣言することによって、年賀状地獄から解放されている。
過去には「携帯電話は持たない主義なので」と宣言して、魔の追っ手から逃がれた経験の持ち主。

自分も彼に学んで「やってみよう」と当時は思ったが、結局は年賀状の送り合いのループを絶つことは出来ぬまま、枚数は減らしてきたものの、ずるずると2013年末をむかえている。

今年はどうしようか?と考える。
過去は年によって、2種類・3種類のデザインを区分して送ったことがあった。それを今年はやろうとも思っている。
「出さざるを得ない」なる強制下・形式のみは「形式を重んじた」「記号的」年賀状を。
遠くてなかなか会えぬ友人知人・それに「なかま」へは、手書きを加えて時間を掛けた、本来の年賀状を。

この方法が有効であるのは、いくら「かれら」が群れを形成しようとも、年賀状というのは1対1ゆえ。
2つを隔てるモノが存在することが、回り回った情報で「かれら」の耳に入ろうとも、年賀状は「オレがオマエに出している」直線でしかない。
こちらが込めた見えない憎悪や怨念が、その血塗られた賀状にあったとしても、「かれら」には分かりもしないのだから。
プリンターのメーカーCMがよくやっている、安っぽいコピー「想いをカタチに」。
その通りにやってみよう。

無難にコトをスーッとやり過ごせば、それで済むものが、こんなくだらないことまで、つい肩にチカラが入ってムキになる。
そうして、ツノを付き合わせて、バチバチに至る。
根っからの性分だから仕方が無い。

そんなことは別として、話しは音楽に。。。
最初大所帯で始まったトンプソン・ツインズ。彼らの音がこなれてきて喜んだのは、クロスオーバーイレブンで聴いたアルバム「サイド・キックス」からの曲たち。
「ウォッチング」「ライズ」「ラヴ・オン・ユア・サイド」。。。ポップでメロディアスなシンセサウンド。エコー含めた音空間の手触りのしなやかさ。
このエアチェックした3曲をようく聴いた。
このアルバムは、トンプソン・ツインズという名前を多くの音楽好きに広げた。

そして、この翌年1984年。多くのミュージシャンが、疲れて静けさの森に向かっていた年。
当時のポップスの中でも目立って珍しい、極めてゆるやかなテンポの美しい曲「ホールド・ミー・ナウ」が産まれる。
このシングルを納めた「イントゥ・ザ・ギャップ」は、この年、そして1985年と、自分の魂を鎮めてくれる1枚であった。

シングル「ホールド・ミー・ナウ」・アルバム「イントゥ・ザ・ギャップ」は、ワールドワイドなヒットとなり、来日公演も実現し、彼らは一線のポップスターとなる。
その後、更にすごいと思ったのが、次のアルバム「ヒアズ・トゥ・フューチャー・デイズ」。
さまざまなプレッシャーにびくともしないトム・ベイリーのチカラを感じた。

先週から北風がぴゅーぴゅーと吹くさぶい日が始まった。凍てつく夜。そう、そんな夜に聴いていた一曲。
「イントゥ・ザ・ギャップ」と「ヒアズ・トゥ・フューチャー・デイズ」の谷間に発表された、1984年のシングル「レイ・ユア・ハンズ・オン・ミー」。
これまた初めて聴いたのはクロスオーバーイレブンだった。それは、後にアルバム「フューチャー・デイズ」に収録された躍動感あるものではない。
12インチシングルで発表された、初期のシングルヴァージョン。
このほうのヴァージョンが、今でも好きである。

■Thompson Twins 「Lay Your Hands on Me」1984・12Inch Version■
かつて聴き込んだそのカセットテープは、今夜も闇に揺られながら、ゴミ屋敷の中で遭難している。
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2013年8月14日 水曜日・深夜の夜想曲 キャメル 「島の風景」'81

2013-08-14 23:59:48 | クロスオーバーイレブン


■キャメル 「島の風景」1981■
この曲は、クロスオーバーイレブンでは、定番の曲だった。
当時、エアチェックをして録音したカセットテープを、夜な夜な、魂を癒す曲として、好んで聴いていた。

このキャメルの「島の風景」を収めた作品が『ヌード(Mr.Oの帰還)』。

Mr.Oとは、昭和二十年八月に日本が敗戦したことを知らずに、約三十年間に渡って、フィリピンのルバング島に潜伏していた、小野田寛郎少尉のことを指す。

当時、接触を試みた方とのやりとりの後、昭和四十九年三月十二日に、飛行機で日本に帰還した。
飛行機が、空港に着陸する際に、必死に窓を手で開けようとした様、そして、その番組を、三ノ輪のおばあちゃんの家で見ていた記憶。
普段は極めて冷徹だったおばあちゃんが、そのテレビを観ながら、ポロポロと泣いていた風景が思い出される。

国内に戻った小野田さんは、上官からの使命解除を受けて、初めて彼の中での戦争が一旦終わった。

***

そこからも、遠い遠い2013年8月14日。
東向島の部屋で、開け放った窓から聴こえるセミの鳴き声を聴きながら、ひたすら意味も無く・高く積まれた・集めた紙類のゴミからハサミとノリと絵の具で、日がな一日、スクラップブックを作っていた。

スクラップブック 制作途中その壱

スクラップブック 制作途中その弐
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2013年7月18日 木曜日 ベル・スターズ 「サイン・オブ・ザ・タイムス」'83

2013-07-18 23:52:12 | クロスオーバーイレブン
すっかり、気分は、記憶のかなたの夏。
今週は、毎夜遅くて、仕事でラリッっているのもあるのだろうが。。。
生存本能が、無意識に心地良さを求めているように思える。

・・・てなことで、今夜もまずは、夏になるとじぶんの脳が、勝手に自動想起する1曲を捧げる。


■ベル・スターズ 「サイン・オブ・ザ・タイムス」1983■

1983年の夏(?)だったか。。。当時は昼からお酒のCMをやっていた記憶。
今で言う「缶チューハイ」だったかのCM。
スタンダードナンバーである「アイコ・アイコ」のカバーに合わせて、バックではベル・スターズの面々が、ゼルダのようなおしゃれな服装で踊っていた。

その夏に「クロスオーバー・イレブン」でエアチェックした、彼女らの素敵なシングル『サイン・オブ・ザ・タイムス』。
じぶんのニュー・ウェイヴ「セレクションカセット」に収まった『サイン・オブ・ザ・タイムス』を、毎夜聴いて心地良くなっていた。

「当時の手持ち金」<「欲しいLPレコード×枚数」という中、これまた素敵なジャケットのアルバム「スゥイート・メモリーズ」は、とてもではないが、素晴らしい音楽の洪水だった頃には手には入れられなかった。
エアチェックしたカセットテープで我慢していた。

オトナになってから、ジャニスでベストCDを借りてコピーした。

乾いていながら・抜けるようなエコーのギター音&優しいヴォーカル。
その合体の見事さ。
今聴いても新鮮な、夏の1曲。



新しい仲間。
小ねぎくんは、お水をちゃんと入れ替えるだけで、ぐんぐんと毎日・元気に育って、うれしい気分にさせてくれる。
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2013年7月17日 水曜日 Snake Charmer 「Hold On To Your Dreams」'83

2013-07-17 23:38:38 | クロスオーバーイレブン
今夜は、「ゴタク」は並べずに。。。まずは、1曲聴きましょう。

■スネーク・チャーマー 「ホールド・オン・トゥ・ユア・ドリームス」1983■

この曲は、当時の「クロスオーバー・イレブン」の定番曲でした。
当時、よーく掛かったので、同年代の方には知っておられる方も多いかと思います。
というじぶんも、初めて出会い聴いて・エアチェックしたのは「クロスオーバー・イレブン」。

まさに、クロスオーバー。
様々な音楽がぶつかる、交差点のエア・スポットにはまる曲。

パット・メセニーetcのフュージョンの流れや、シャカタクやグループ87的なキャッチーさを持ちながらも、流麗なギターの音色・エコー感が美しい、夜にこそ聴きたい1曲。


スネーク・チャーマーとは、なんぞや?
と思えば、実体のクレジットには、元パブリック・イメージ・リミテッドのジャー・ウォーヴル、U2のギタリスト=ジ・エッジ、そしてホルガー・シューカイせんせい。
アルバムは、アイランド・レコードからの発売。

最初、非常に不可思議な組み合わせに感じたものだが、参加ミュージシャンを見て「ああ」と思ったのが、ジャッキ・リーベツァイトが居ること。
1981年に、ホルガー・シューカイ、ジャー・ウォーヴル、ジャッキ・リーベツァイトが一緒に、これまた不思議な音を収めた12インチを制作していた。
その12インチに、ミュージック・マガジンのお陰で出会う、という洗礼を受けていたことに拠る。
しかし、その12インチはドイツのベルリンのバイ・ザ・ウォール・スタジオで、コニー・プランクの元・創られたものであって、このアルバムとは色合いは大幅に異なる。

ただ・・・まさか、そこにジ・エッジが加わるとは思いもしなかった、というのが本音だった。

このスネーク・チャーマーなる不可思議な1枚のみのユニット(?)のLPレコードは、A面2曲&B面3曲というミニ・アルバム的なニュアンスを含み、日本盤は当時2,000円という安価な設定で発売された。

「ホールド・オン・トゥ・ユア・ドリームス」が何よりも一番のお気に入りは、昔も今も変わらないが、A面1曲目の「スネーク・チャーマー」では、ジャー・ウォーヴル独特の唸るようなヴォーカルやホルガーせんせいお得意のディクタフォンが聴ける。

今日がきっかけで出会い、この曲が気に入った方が居たら幸いです。
個人的には、よく高校生の頃、流れるようなジ・エッジのギターが心地良く・夜に聴いて安堵していた曲でした。


■オマケ■
昨夜、FM雑誌は「FMfan」「FMステーション」「FMレコパル」の3誌と言いましたが、「週間FM」を忘れていました。
「週間FM」は1983年だったか?
それまでの装丁デザインを一新して、この写真のような安西水丸さんの表紙に変わりました。
中綴じに、安西さんならではの鮮やかな切り絵的なインデックス・カードに変わり、カセットライフにも変化が訪れた時期でもありました。

「あっ!いかん!クロスオーバー・イレブンが始まっとるΣ(゜д゜lll)!」
という刷り込みは、遠~い遠~い夢のおはなし。
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2013年1月1日 火曜日 インテリア 「ホット・ビーチ」'82

2013-01-01 22:52:42 | クロスオーバーイレブン

実家に集合。お袋さんから、ボケ老爺が「正月を迎えるというのに、お供えにコチャコの遺骨があるのは解せん。」と血も涙も無い事を言っていたのを聞いてはいた。
すこし、実家への足が重かったのは事実である。
「そういうことを言うならば、まみちゃんもコチャコの遺骨も全部、じぶんが家に持ち帰り祭壇を作る。」と言っていた。

耳が遠くなった老爺にも、一部の情けはあったようで、実家に行くと「今年の正月は、喪中とすることにした。」とお袋さんから聞く。
すでに兄夫婦は来ていた。
お袋さんは「本人が聞いたら、喜ぶよ。」と老爺に言っていたらしい。
確かに門松も祝いに関するあらゆる備えが、今年は無かった。
行って、コチャコの写真がたくさん飾られたお供えに、お線香をまずは上げた。

帰り道、兄が言っていた。「いまさらだが、あれだけ愛情表現の仕方を知らない不具な不幸なヒトは居ない。」
まあ、そのような中を残り3人は知りつつ、数十年くぐり抜けてきたのだから。
親父を抜いた3人の中では、融和が保たれていれば、じぶんはそれで良い。

***

実家に行って兄夫婦と途中で別れて、独り家に戻る。何か空白感がある。
よくあることではあるのだが。帰り道の電車で、兄夫婦にコチャコを看取った最期を、じぶんのクチから話したことが、記憶をよみがえらせたせいだろう。不覚にも、泣きそうになってしまった。
独りで産まれ・独りで死に向き合う生き物たちに比べ、なんとじぶんがヘタレなことだろうか。

***

そんなヒリヒリした今の自分の気分と、コチャコへの鎮魂を同時かなえる音楽を。。。とまさぐる。
大量のLPレコードは、もはやどこに何があるのかは分からない。
しばし、探すが見つからないので、ネットでいただいた画像でジャケットを掲載する。

1982年春に、実質YMO解散/分裂をあらわにした細野さんのYENレーベル設立とLDKスタジオでのレコーディング開始。
そのYENレーベルから、1982年10月21日発表された、その名もインテリアというユニットのアルバム。
このアルバムから、あたたかみのある「ホット・ビーチ」を今夜は聴きたい。

■Interior 「Hot Beach」1982■

誰が何と言おうと、コチャコならびに愛したネコたちを絶対にじぶんは守る。
だから、安心して子守唄を聴いて安らかに眠っていていいんだよ。

***

後に、NHK-FM「ふたりの部屋」で、新井素子さんの小説「二分割幽霊綺譚」がラジオドラマ化された(超名作)なかでも、このインテリアの「フラミンゴ」は、絶妙な使い方をされていた。
「フラミンゴ」は、モロ、ブライアン・イーノの影響がそのまま出た曲だったが、そもそも、それをプロデュースした細野さん自体がイーノの影響下で、YENからこの手のアーティストを輩出していきたいと思っていた。
「フラミンゴ」は1982年12月に、クロスオーバーイレブンでエアチェックしたテープが未だに手元にある。
「ホット・ビーチ」もよいが「フラミンゴ」も、日本のミュージシャンが(現代音楽ではなく)環境音楽・アンビエントに踏み込んだ名曲だと、じぶんは思っている。

YMOが散会し、年を明けた1984年のお正月。
美しかった西田珠美さんがナレーターをしていた、FM東京の22時からの番組「サントリー・サウンド・マーケット」に、細野晴臣さんがゲストに出演。(別の日には、ピーター・バラカンさんが出演。)
「今後の音楽の流れは?」ということをテーマにした週だった。
細野さんは、そこで、音楽はまだ水面下(マイナー)だけれども、(イーノが垂らした波紋が広がるように・それ以降)次第に静寂にむけた静かなうねりが出来つつある。そんなことを話していた記憶がある。
この日「ホット・ビーチ」と共に、ロスト・ジョッキーなどを細野さんは選曲した。
表面的には、バシバシの打ち込みサウンドがOTTに向かう一方で、都市生活に疲弊した人々の寄る辺となるセラピー音楽が、ひそやかに産まれていった。

ユニット「インテリア」は、この後、ウィンダム・ヒル・レーベルに引っ張られて移籍し、「インテリアズ」と呼称を変更し、アルバムを世界発売させる。
1984年の段階では、その前夜であった。
今でも、さぶい部屋で、「サウンド・マーケット」をエアチェックしていたのを思い出す。
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2012年11月20日 火曜日 B.E.F.「ウイチタ・ラインマン」'82

2012-11-20 21:02:05 | クロスオーバーイレブン
ヒューマン・リーグ「DARE」。
テクノ/エレクトロニクス音楽でありながら、かつポップスとしても大ヒットを飛ばした数少ないアルバム。



しかし、アーチストもぼくらのような凡人でも、ある日・ある時とシンクロしたことで精華・頂点を極めると、
その成功は、逆に足をひっぱるレッテルとなる。
そして、後々までひきずる不幸にとらわれることとなる。

ヒューマン・リーグもシングル「愛の残り火」がイギリス&アメリカまでヒットし「過ぎた」アダは、その後に跳ね返ってくる。
聴く者は、同じニュアンスの音を求めて、さらなる期待がつのり、アーチスト側にそれを超えるだけの作品を強いる。

フィリップ・オーキーが、その後、そういった問答の繰り返しにうんざりして、ブチ切れて、やさぐれて、
「お前らは、『DARE』のパート2が欲しいんだろうっ!」とどなるにいたる。
その心境は、じつによくわかる。

ロキシー・ミュージック/ブライアン・フェリーが「アヴァロン」という奇跡を生んでしまったことも、
YMOの「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」が、日本のどこに行っても掛かっている異常な状況も、
おなじこと。

ただし、YMOのみは、それをも超えて、新たな地平・地点を生み出したのは例外中の例外ですが。

***

1981年は、ヒューマン・リーグも聴きながら、その一方では、
ヒューマン・リーグを脱退した2人が、ヴォーカルを誘い、3人で新たにつくった「ヘヴン17」も好んで聴いていた。
ヘヴン17はホワイト・ファンクの可能性を追求し、ほかにはない音像を生み出した。

ヒューマン・リーグほどはヒットしなかったが、音楽的には豊かな世界。

ヘヴン17のアルバムには、「B.E.F.」とレコードレーベルのようなマークがあった。
「B.E.F.」の実体は、ヒューマン・リーグを脱退した2人だったが、
じぶんはそこに、実験にいどんでいくニュー・ウエイヴの心意気と精神を感じていた。

***

1982年。
B.E.F.は過去の名曲を、プロデューサーとして、さまざまなゲストを参加させ、リメイク。
その名も「ポップス黄金狂時代」という作品を発表した。



ステキなジャケットで欲しいLPレコードの1枚だったが、当時、毎月毎月、怒涛のように欲しいLPレコードのうず。
・・・結果的には、買えないままだった。

もっぱら、このアルバムの曲も、やはりクロスオーバーイレブンでのエアチェック頼みだった。

夜な夜な地下生活者のように、自室のつくえにヘッドフォンをした、静寂が支配する闇夜。
そこで出会った「ウイチタ・ラインマン」。
この曲が持つ静けさ、こころにしみる切ないラヴソングに感動した。

カセットテープでしか、この曲を聴けなかった自分は、このテープをいくども聴いて過ごしてきた。

やっと、数年前に中古CDショップで、「ポップス黄金狂時代」そのものイコールではないが、
B.E.F.の編集盤を手に入れることが出来た。

***

CDの高音質で聴く「ウイチタ・ラインマン」の素晴らしさには、
歳を経て再度出会えた、時の不思議なめぐりあわせを感じる。

■B.E.F.「ウイチタ・ラインマン」'82■


『ぼくは この街で 電話線の保守の仕事をしている
メイン道路を 車で 走らせながら
一日中 ずっと 回線がおかしな場所はないかなあ・・・と目をくばらせている

電話線を伝って 聞こえる声
ノイズの中からでも その声を聞きわける
こんなふうに ウィチタ市の電話線作業員のじぶんは 電話線をつないでいる

ぼくには ささやかな休暇が 必要なことは わかっている
でも 雨は降りそうもなく
雪が南下してきたとしても ここには届かない

ぼくには きみが必要なんだ
きみが 思っている以上に
いつもきみが 欲しいと思っている
そして ウィチタ市の電話線作業員のじぶんは 電話線を黙々とつないでいる・・・』
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2012年11月19日 月曜日 ジョニ・ミッチェル 「Come in from the cold」'91

2012-11-19 22:35:43 | クロスオーバーイレブン


尊敬するジョニ・ミッチェルさんの「ナイト・ライド・ホーム」。
1991年の作品。

社会人の船出の間際。
1991年が明けたあとのさむい冬。

クロスオーバーイレブンで「ジョニ・ミッチェル特集」があった。
そこでこのアルバムからの曲がかかり、録音したカセットテープ。
のこりすくない日にちを数えながら聴いた記憶。

「ナイト・ライド・ホーム」。

ジャケットから、かってに夜、家に向かって走る、とおもいこんでいるじぶん。
それは、家のあたたかさだったり、まってくれている好きなだれかだったり。。。



やすみになにがあっても、平日がはじまれば必死にならなきゃいけない。
生きるからには。

必死におきて、いつものごとくぎりぎりしたくをして、必死に駅にむかう。
ねぐせのついた髪をいそいで、しゅっしゅっと液をかけて・ぼーぼードライヤーをかけて。

白い空は、晩秋をかんじさせる。
いつ雨がふってもおかしくはないような白さ。
こころのなかで、スタイル・カウンシルの「マイ・エヴァー・チェンジング・ムーズ」が鳴る。

仕事場に行くと、電話が鳴り、あくせくとうごく。
心身のモードやスイッチが「今」に必死になれるおかげで、ゆらぐ内なる情をいったんわすれさせてくれる。



さむい一日だった。
でも、体内に記憶された、あの1983年の胃潰瘍の晩秋を思い出させてくれる。
それが、きょうの天使。
そこにじぶんのすくいを依拠させる。

U2「WAR」や前年のデペッシュモード「ア・ブロークン・フレーム」、ヤズーのファーストアルバム、YMOなどを聴き込んでいた晩秋。



さむいなかから、家をめざすなかのあかり。
そこにはすくいがある。

■Joni Mitchell 「Come in from the cold」■
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2012年10月10日 水曜日 アンディ・サマーズ&ロバート・フリップ「心象風景」'82

2012-10-10 06:04:41 | クロスオーバーイレブン


秋になると思い出す1枚が、1982年秋に聴いていたアンディ・サマーズ&ロバート・フリップの「心象風景」。
初めて聴いたのは、渋谷陽一さんのサウンドストリート。
ここで、タイトル曲・A面トップの「心象風景(i advance masked)」、そして「ニュー・マリンバ」、「ぶらんこの少女」。。。。
また、23時のクロスオーバーイレブンでも、このアルバム収録曲が盛んにかかった。

このサウンドストリートの3曲は、シリーズ化されていたニューウェイヴカセットにエアチェックされて収まっている。
同じカセットテープには、その後に10CCの「アイム・ノット・イン・ラヴ」、その後にバグルスの「アイ・ラヴ・ユー・ミス・ロボット」が入り、A面を終えている。

***

アンディ・サマーズとロバート・フリップ。
あまりに出来すぎた名ギタリスト2人のコンビ。
たぶん、これもフリップが声を掛けたに始まっているのだろう。
フリップは、元々他人の誘いに行く事は無いし、逆に眼に付けた人物への説得は真摯で執拗だから。



クリムソン命の兄に聞くと、いつも言うのは「フリップは、長く付き合える人が少ないからねえ。気に入らなくなったらすぐ絶縁だから。」
そういう意味では、かなり長く共に音楽を創ったデヴィッド・シルヴィアンを相当気にいっていたらしく、その末が再度結成に当たって「キング・クリムソンのヴォーカルをやってくれないか」という打診。
デヴィッド・シルヴィアンは、それを断った。
フリップは「そんな事実は無い」というが、デヴィッド・シルヴィアンがウソを付くはずも無い。

フリップは、偉大だが、自分の望む音を鳴らすためのパーツとして必要なミュージシャンを狩ることには、いつも長けている。
自分が目指す音を実現するためには、ある意味非情でなければならない。
それはブライアン・イーノも同じ。
仲良しゴッコをするために、音楽を練磨しているのでは無いのだから。

***

アンディ・サマーズの三味線ギターは、自分の好物。繊細な調べに稀有なる音を発見したりする。
ポリスというユニットは、彼無しでは成立しない。
当然、スチュアート・コーポランドの跳ねるドラミングも無ければならない。
スティングは、後にソロになるが、ポリスのテンションの高さに匹敵するものを創れては居ない。
他の2人との相互作用がどれだけ大きなものかを示している。
正直、スティングのソロを自分はあまり評価していない。

ポリスが良いところは、3人全員がプロフェッショナルなミュージシャンであり、かつ情に流されないところ。
また、お互いが縛り合うことはない世界。
3人は、それぞれ3人がやりたいことが、ポリスと違う場所にあった。

そういう意味では、ポリスは、実にYMOと似ている。
アルバムの系譜を見ても分かる通り、4枚目の1981年「ゴースト・イン・ザ・マシーン」、1983年・5枚目「シンクロニシティ」も、その時点で3人が集まっただけで、一連のプロジェクトが終わると散会する。

ポリスは「解散」とは宣言していない。
後に、ポリスの新作がいつになっても出ない、という現象だけだった。
「俺らは、これで解散するぜっ」と宣言して、一儲けする、有り体な「バンド」さんとは違うのだ。

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1982年のアンディ・サマーズとロバート・フリップの共作は、成功している部分もあれば、崩れている部分もある。
ただ30年経って、今聴いても良い曲はたくさんある。
「ぶらんこの少女」が明らかにペンギン・カフェ・オーケストラの影響下にあったり、例のロバート・フリップお得意の「フリッパートロニクス」がしつこい曲などはあれども。。。

秋の上野公園の噴水の近くで、ハトたちが地面にあるエサをついばみ、斜めの陽光が、見事に陰影を描き出す時期。
そのシーンには「レイクランド」が、脳の中を流れる。

「ニュー・マリンバ」には、深い森の夜。
縦に直線の木々の間を縫って、幻想の白い馬が音も無く走る。
白い服の女性がよぎる。
魅惑の森。

「心象風景」は、NHKが当時さかんにドキュメント番組やニュースのバックで使っていた。

■アンディ・サマーズ&ロバート・フリップ 「心象風景」'82■
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