
早いもので7月も20日を過ぎた。
連休を境に子供は夏休みに入り、朝の集団登校族も見なくなった。電車は少し空いてきたように思うが、暑さは容赦無い。気象庁は連休のスキマにぽろっと「今出しておかないと、あの年みたいになっちゃうよ」と梅雨明けを宣言。相変わらず湿気強い猛暑の中、汗だくになって歩くのは続けているが、日差しは強くとも風ある野外のほうがマシかもしれない。むしろ室内の密閉空間の方が苦しく危ない。すでに二度ほど室内熱中症的な感じになったので、暮らし方に注意を払わねば、と思う。
冷たいものや過剰な飲食はしていないが、日曜から腹を下し続けた。
月曜からのだるさは、歩き過ぎやこの腹痛のせいでもない。それまでの感じとは明らかに違う。月曜は室内で「ああ、だるいな」と横になって起き上がれない。トイレに行くのと水をコップに入れたいのとで、頑張って立ち上がり数分うろうろしたが、平衡感覚がおかしい。ちゃんと歩こうとしても歩行が斜めになってしまう。おかげで持ったコップの水をひっくり返した。
これはいわゆる夏バテというヤツかもしれない。マズイと思い、カラダからの欲求も伴い、くだものや野菜をせっせと食べた。昨夜はそこに景気付けを、と実家でもらったウナギをおいしく頂いた。土用の丑を待たず。

昨年の今ごろ本屋さんで出会ったみうらじゅん先生の「さよなら私」を昨日今日読んでいる。
厚さ1センチにも満たないその文庫本は、見開き2ページで完結するような短文で完結したエッセイを集めたもの。読みやすく分かりやすいが、だからと言ってすーっと通り過ぎる軽さはない。一見やさしそうな文章だけど、かなり深い内容となっており、何度も推敲されたものと思える。
「思い返せば不安でなかった日など一日たりともありませんでした。
なにかしら不安のたねはころがっているものであり、どこかしら不安の風は吹いてくるものです。
もし、不安じゃなかったときがあったりしても、それは単に不安を忘れているだけのことで、また気がつけば新しい不安はすぐそこに待ち構えているのです。
不安の反意語が「安定」なんて嘘。安定なんてそもそもこの世にはなく、油断している期間をそう呼んでいるにすぎないのです。
そんな言葉にだまされて、さらにそれをキープしようと願う人がいます。いつか痛い目に遭うことは確実です。
生き物の宿命は別離であり、死別であること。この最大の不安から逃れることがない限り、安定などあるはずがありません。すなわち、不安をなくすということは生きることを否定すると同じ意味なのです。
もうあきらめるしかないが正しい。
しかし、人は不安と真っ向に対峙したとき、必ず成長するものです。
ただ単に年をとれば大人になれるわけではありません。目の前の不安から逃げないで、どうにかうまくつきあっていこうとする気持ちが大人にするのです。
それにはできる限り他人にやさしくするのがいいでしょう。他人が喜ぶことだけを考えて、それを趣味に生きていけばいいのです。
偽善だって言われてもかまいません。
とにかく少しでも自分に興味をなくし、自分以外のものに興味を向けるべきなのです。」
(みうらじゅん作「さよなら私」より 『不安こそ生きてるあかし』)

VOW(バウ)や雑誌類など、みうらさんの笑える本はある程度持っているけれど、こんなにも真面目なみうらさんの文章を固めて読んだのは初めてだった。(「アイデン&ティティ」は映画は好きだが、本は持っていない。)
昨年夏、じりじりと暑い休みの日、空は真っ青だった。
セミの鳴き声がひたすら聞こえるなか、育ちの良い元気なきゅうりに水やりをしながら、何かとてつもなく孤独感を覚えた島の昼。
室内でめくる「さよなら私」にはしゃれにならない重さがあった。人が持つ心の核を突いていて、ヒリヒリした。
「シリアスになろうとするけど、シリアスが続かないんですよね」とついサービス精神から黙っておけなくて、人を笑わせてしまうみうらさん。そんなみうらさんの長きに渡る好きなことへの追及。その間に自ら悟ったことたちは、坊主や宗教家の現実味ない説教よりリアリティと説得力がある。
一年ぶりに読み返す「さよなら私」。めくって読んでは唸る。
その一方で、ネットでみうらさんの動画を見て楽しむ。昨夜は「ゴロウデラックス」という稲垣吾郎さんの番組ゲスト回を見て笑っていた。
■細野晴臣&横尾忠則 「肝炎」1978 (By「コチンムーン」)■

みうら先生の絵。松本清張先生、海女さん。


みうら先生の師である横尾先生の油絵