京都つれづれなるままに

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無鄰菴 秋季京都非公開文化財特別公開⑩

2018年11月15日 10時00分15秒 | 日記
無鄰菴は明治の元勲山縣有朋の京都の別荘です。山縣の別荘は郷里の山口に第一無鄰菴、木屋町二条に第二無鄰菴(江戸末期には角倉了以の別邸、今はがんこ二条苑)、第三無鄰菴が現在地にあり庭園は国の名勝庭園に指定されています。





今回、古文化保存協会主催の秋季京都非公開文化財特別公開で山縣が明治天皇から賜わった品が洋館二階で公開されています。





上の写真にある巨石は、ここ無鄰菴の庭園を作庭時に醍醐の山から牛24頭で引いてきた巨石で、かって太閤秀吉も運び出せなかった山縣自慢の巨石です。
庭園は遠く東山を借景に、その東山からあたかも水が流れて来るが如く三段の滝で落とし、池を流れ芝をはった解放的な庭の中を流れています。







もともと、この地域は南禅寺の境内地で塔頭が多数ありましたが明治政府の上知令で民間に払い下げられ、琵琶湖疎水の水を利用した水車の動力を活用して一大工業地域にする予定でした。
しかし、アメリカのフロリダにあるアスペン水力発電所を視察した琵琶湖疎水の主任技師、田邊朔郎は、水力発電所からの電力で電灯が灯り、電車が走っている先進国の現実から当時の第三代京都府知事、北垣国道に水力発電への設計変更を進言し、東山地域は景観保全を主に別荘地として開発される事になりました。

そこで京都市が最初に勧誘したのが山縣有朋でした。山縣の無鄰菴は大きな宣伝効果を発揮し、その後に多くの財閥や政商が別荘を築き、いわゆる南禅寺別荘群が形成されました。





施主は山縣有朋、作庭は七代目小川治兵衛ですが、山縣はいままでの京都の枯山水の庭園ではない、東山を主山に水をふんだんに使った解放的な庭園を目指し 植治に指示しました。
庭園の水は、明治23年に竣工した琵琶湖疎水から引き、また、庭園の石は琵琶湖の西岸から産出される守山石を琵琶湖疎水で運びました。
無鄰菴は、施主山縣と庭師植治の近代庭園の代表傑作となり、その後、植治は南禅寺別荘群の多くの庭園を手がける事になりました。
その後の庭園作庭は、ここ無鄰菴が手本となり、近代の庭園に大きな影響を与えました。
山縣と庭作りでお互いに影響し合ったのが伊集院兼常で、山縣が第二無鄰菴を作ると、伊集院は向かいに今の廣誠院を、第三無鄰菴を作ると、對龍山荘を作る、という具合にお互いの数寄を競っていました。
植治は、ふたりの庭園感覚を身につけて行きました。
植治はのちに、世話になった三名に山縣有朋、伊集院兼常、中井 弘(当日の京都市長で平安遷都千百年記念事業で平安神宮を創建した最終に神苑の作庭に植治を採用)を挙げています。

この日、14時から京都工芸繊維大学の矢ヶ崎先生の文化財講座 歴史編が主置二階でありました。
六回目の最終回で岡崎界隈の歴史について幅広くお話しして下さいました。
数寄屋、茶室の専門家の先生のお話は大変に勉強になります。