建仁寺塔頭の久昌院は奥平美作守信昌が、三江紹益を開祖に慶長13年(1608)に開基したお寺で、彼の法号を持って院号としています。
奥平信昌は、長篠の合戦(1575年)において長篠城に籠城し、城を守り抜いた勇将で、その功で家康の娘亀姫を娶っています。
その後も、関ヶ原の戦に参加するなどで初代の京都守護職に就くなど功績を上げ、奥平家は明治維新まで続いています。
また、三帖台目の小間の茶室がありいわゆる「遠州好み」で床脇の畳の右側の下地窓が、風呂先窓で、この畳の壁を隔てた延長が内部で手前畳となっています。手前座の中柱は大きく歪んだものを使い、正客の座の天井は舟底天井です。
寺宝として宇喜多一蕙の「長篠合戦の図」があり今回、公開されていました。元は方丈上間一之間の襖絵でしたが、一部は屏風に改められています。
庭園は建仁寺三門を借景に生垣と皐月で二段になった緑豊かな庭園となっています。
こちらは庭園のみ撮影は出来ました。
茶室も許可して欲しいものです。
8日の夕刊で、中村昌生先生の訃報の記事が載っていました。日本建築、取り分け数寄屋、茶室に造詣が深く、第一人者としてご活躍され、桂離宮の維持管理、また、京都迎賓館の全体の構想、設計に携わられました。
ご冥福をお祈りいたします。
奥平信昌は、長篠の合戦(1575年)において長篠城に籠城し、城を守り抜いた勇将で、その功で家康の娘亀姫を娶っています。
その後も、関ヶ原の戦に参加するなどで初代の京都守護職に就くなど功績を上げ、奥平家は明治維新まで続いています。
また、三帖台目の小間の茶室がありいわゆる「遠州好み」で床脇の畳の右側の下地窓が、風呂先窓で、この畳の壁を隔てた延長が内部で手前畳となっています。手前座の中柱は大きく歪んだものを使い、正客の座の天井は舟底天井です。
寺宝として宇喜多一蕙の「長篠合戦の図」があり今回、公開されていました。元は方丈上間一之間の襖絵でしたが、一部は屏風に改められています。
庭園は建仁寺三門を借景に生垣と皐月で二段になった緑豊かな庭園となっています。
こちらは庭園のみ撮影は出来ました。
茶室も許可して欲しいものです。
8日の夕刊で、中村昌生先生の訃報の記事が載っていました。日本建築、取り分け数寄屋、茶室に造詣が深く、第一人者としてご活躍され、桂離宮の維持管理、また、京都迎賓館の全体の構想、設計に携わられました。
ご冥福をお祈りいたします。