Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

続「トヨタ」問題

2008年06月30日 | ダンス
パフォーマンスが始まる前、客席をぼくは2階席から見ていたのだけれど、これまでの「トヨタ」と較べてなんだか静かな感じがした。客に身内が多いように思うし、対して美術系とか音楽系とかテレビ系の各「業界関係者」はあまり見かけない。前回はそうじゃなかったよな、などと思い返すと、その穏やかな感じが目立って見えてしまうのだ。

ぼくが重要だと思うのは、この六組をコンテンポラリーダンスの関係者たちが選んだという事実。

つまり、このアワードがいまの「コンテンポラリーダンスの関係者」の考える「ダンス」なのだということ。

もしそんなこと言われちゃ困るよ、というのであれば、セミファイナルの審査後に、自分はこう考えてこう投票したのだが、結果はこうなった云々と公言するべきだったろう。

ぼくは残念ながら審査員に選ばれなかったので、そうした見解を述べたりする立場になかった。そうしてファイナルステージまでにアワードを盛り上げることが出来る立場になかった。(「トヨタ」が選択した関係者として、是非、審査員の人たちにはいろいろと頑張って欲しかったなーと思ってしまうのです。少なくとも、振付家たちダンサーたちは、その動向を見守っていたと思います、彼らはどうこの「お祭り」を盛り上げるのだろう?と)

なぜ審査員同士で論争をしなかったのだろうか。その論争がアワード最大の焦点になったろうに。

多分、ぼくが審査員に選ばれなかったことは、意図的なことだろう。あるいは、そもそも木村という人間の存在を「トヨタ」側が知らなかったこともあるかもしれない、とすれば、それはもうぼくの方としてはどうしようもないことだけれど。(たら、ればを言うのは醜いことと思うけれど)ぼくが選ばれれば、論争をしていたと思う。少なくとも仕掛けていたと思う。そういったことをあらかじめ牽制して、選ばなかったのだとぼくは考える、考える(憶測する)ことしか出来ない立場なので。

鈴木ユキオが受賞したことは、昨年の本公演を見て感動したぼくとしては正当だと思うし、そうじゃなかったらどうしようとも思っていた。ただ、あの上演は、完璧なものではなかったと思う。だから、「受賞者なし」という選択肢もあったはずだ。岸田戯曲賞は、少し前、そういう決断をした。そうした水準の呈示をファイナルの審査員がすることもありえたわけです。

ぼくは「トヨタ」外部の一観客として提案します。

是非、石井氏と伊藤氏でどういった審査をしたのか、いまの「ダンス」の状況をどう捉えているのかについて、対談をしていただきたい。それを、文芸雑誌か『ダンスマガジン』『DDD』かに掲載して欲しいです。文芸誌、ダンス雑誌の編集の方、どうかご一考ください。これが出なければ、「トヨタ」は「単なる内輪の発表会」になるでしょう。「コンテンポラリーダンス」は「同時代の」という言葉の意味が薄れ、単なるそういうダンスのジャンルと化すことでしょう(もうほとんどそうなっている気がしますが)。リアリティのあるアートとして外部の人たちからみなされることがなくなり、単に大学の舞踊科が支える「オーセンティック」なものとなり「現代舞踊~」とさほど変わらない存在と化すことでしょう。

ここまでこう書いてきましたが、ぼくは「コンテンポラリーダンス」の外部に自分はいる、という気がしています。