昔、自分がまだ学生だった頃なので、今から20年くらい前になると思うが、フジTVの深夜枠で「哲学の傲慢」なる番組があった。
今となっては、どんな内容などをやっていたか、ほぼ忘れてしまったが、哲学を分かりやすく、興味深く取り扱っていた、なかなかよい番組だったと思う。
同時期にやってたCXの深夜枠の番組には「カノッサの屈辱」や「アインシュタイン」などがあり、なかなかの傑作ぞろいだったが、当時、実験的に作られた番組だったろうし、20年前という古さもあってか、残念ながら、それらのタイトルはDVDなどにはなっていないという。
中でも赤塚不二夫の「天才バカボン」で、バカボンのパパが、ものの名前を勝手に変えてしまって(たとえば「イヌ」→「タコ」、「タコ」→「ネコ」、「ネコ」→「イヌ」・・みたいな感じ)大騒動になる・・とゆーエピソードを取り上げていた回が印象に残っている。
「犬」という”名前”をつけるコトによって、人はワンワン咆える四足の動物を「イヌ」と認識する。
しかし、英語圏では、同じものが「dog」と呼ばれ、「イヌ」では通じない。
まあ、「認識」が先か、「対象」が先か?・・とゆー問題はひとまず置くが、そうやって、勝手に人が名前をつけて、勝手に呼んでるだけなんですよ・・とゆーコトを逆手にとってギャグにした「記号論」だ「認識論」だといった哲学的な内容のマンガなんだ・・なんて、「天才バカボン」のコトを紹介していたワケだ。(たしか・・)
最近、本を読んでて、「自己言及」とゆーものに出くわした。
「クレタ人は嘘つきだ、とクレタ人が言った」とゆーのが好例で、要は、自己を含めて言及しようとすると生ずるパラドックスのコトである。
自分の尾を飲み込む竜・ウロボロスは、この自己言及の象徴だそうだ。
まあ、「自分の長所は謙虚なトコロです」・・と、自ら言ってしまうようなもんだろーか・・?
イエスが「私が救世主です」と言えなかったのは、非常なジレンマだったに違いない。
宇宙に住む、宇宙の一部でもある我々が、宇宙のコトを語るのは、まさしく自己言及に他ならない。
そもそも、「自己」と「他者」の違いとは何なのか・・?
―なんて、若い頃は、哲学的な考え方にハマったりもしたが、おそらく、それは若さや、純粋さゆえの、誰しもが通過する、一過的なものだったのかもしれない。
しかし、自分はもともと、あんまり、こねくり回して考えたりしすぎると、面倒くささが勝ってしまって、「ま、いっか・・」でリセットされてしまう・・とゆー”お得な”性分のようだ。
でも、それでも、たま~には”哲学な気分”になる時もある。
それは純粋に、素朴に疑問をもつ・・とゆーくらいのコトだけど・・。
ちなみに、分かりもしないコトを、さも分かったかのように語る哲学こそ、傲慢とは言えないだろうか?・・とゆーのが、「哲学の傲慢」のタイトルのイミだった・・。
(たしか、そんなナレーションではじまってた記憶が・・)
それでも、語ろうと努力するコト―その試みこそ、人であるコトの証なのかもしれない・・。
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