自分が住んでる白島は広島市中区のはずれで、区を隔てている太田川と京橋川にはさまれた土地だ。
その川沿い、牛田大橋のそばに八剣神社がある。
神社というより祠(ほこら)という感じのごく小さなものだが、一応鳥居もある。
おそらく、どんな広島のガイドブックにも載っていないと思われるほど、誰からも忘れられたようにひっそりと建っている。
横にある立て看板に書かれている由緒には、二代目広島城主、福島正則のこの地に残る唯一の史跡とある。
当時、広島は洪水で悩まされ、ついに人柱を入れて堰きとめようとなった時、福島正則は「それは不憫な、自分に名案がある」と秘蔵の名剣八本を箱に納め、地中深く埋めて堰きとめたそうだ。
その八本の剣の霊を祀って1617年に小祠が建てられ、以来、水の守護神として北風に逆らい川に向かって敢えてここに建てたとある。
福島正則(1561~1624)は秀吉子飼いの武将で賎ヶ岳の戦いでは賎ヶ岳の七本槍の筆頭として1番の武功をたて、勇名を馳せた。
激しい気性で、情に厚い人柄だったようだが、いろいろ調べてみると、時代の流れに翻弄された人生だったコトが浮かび上がってくる。
朝鮮出兵を契機に同じく秀吉の部下・石田三成と嫌悪な仲になり、朋友・加藤清正と三成襲撃を企てるも家康におしとどめられ、その際、家康との仲を深める。
その後、諸大名の私婚を禁じた秀吉の遺命に反して、姉の子で正則の養子の正之と家康の養女・満天姫との婚姻を実現させたが、この婚姻こそが豊臣・徳川の将来の和平に繋がると信じての行動であった。
天下分け目の関ヶ原の戦いでも、家康の意を受けた黒田長政にあらかじめ懐柔されていた正則は、三成挙兵に動揺する諸大名に先んじて、いち早く家康の味方につくことを誓い、戦後、東軍の勝利に大きく貢献したとされ、安芸・備後50万石を得た。それでも家康は恩賞に不満がないか心配したという。
しかし、家康の死後は武家諸法度に背いたとして改易の憂き目にあう。法度を適用されて改易された大名の第1号である。広島城の雨漏りの修理をしただけなのだが、これなども幕府内の権力争いに巻き込まれて犠牲になった感が強い。
時代の趨勢を見つつ、主家である豊臣家の存続のために、徳川家に仕えた・・自分が福島正則の生涯から受けた印象である。しかし、結果としてはそれもならず、豊臣家は滅亡。さびしい晩年をすごし、自刃したとも伝えられる。
「武士は二君に見えず」
・・という言葉があるが、忠義に生きて主家とともに滅びるか、違う主君に仕え、主家の存続をはかるか・・。
自らの本心の赴くまま、生きるしかないのはいずれの時代も同じようだ。
八剣神社に守られてか、今日も静かに川は流れている。
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