
先日、「広島城大菊花展」に行ってきた。「菊花展」とか「菊人形展」というと、どうも年寄りくさいイメージがあって、なかなか自分にとっては、わざわざ見に行く・・という類のものではなかったが、近くで、しかもタダで見れたので、せっかくだからと立ち寄ってみたら、結構楽しめた。
自分もそーゆー年になったというコトか・・?
・・まあ、美しいものを美しいと思う心に年齢差はないのだ。

こんな神楽の『悪狐伝』の菊人形もあった。さすが広島・・。
しかし、やはりゴテゴテ飾りつけたものより、シンプルなものの方が目を引いた。
「~賞」やら書かれた菊の花が並ぶ。さすがにどれも見事だ。

しかし、近くによって持ち歩いてたデジカメを構えたら、「ん?」と妙な違和感を覚えた。
大輪の菊の花の下に、白い針金が見えたのだ。
細長い1本の茎の上に、、あれだけでかい花がのってるのだから、無理からぬコトなのだろうが、よく見ると、茎の方も何かでゆわえてあったり、いろいろ手が加えられているのがわかる。
ゴテゴテ飾り付けられたものに比べれば、シンプルで自然に見えた菊の鉢植えも、ここに並んでいるものはすべて、とんでもない手間ヒマがかかっているであろうコトは想像に難くない。

「自然」と「作為」。
・・そこに大変な人の手がかかっているのに、あたかも自然にそのように咲いたかのように咲く花。
日本人はそのような自然との調和・共存に美を見出す。
何で聞いたか、何かで読んだかは忘れたが、昔、高名な茶人が客をもてなすのに、庭の落ち葉をすべてきれいに掃き清め、その後でまた落ち葉をまいた・・という話があった。
茶道には「和敬清寂」という言葉があるが、その「さび」とでもいおうか・・?
合理的な考えからしたら、なんでまたきれいにしたものをわざわざ自分の手で散らかすのか?・・というコトになろうが、その自然の風情を味わってもらいたい・・というもてなしのこころ。
手を加えながらも「自然」を演出する。
その意匠がわざとらしかったり、目につくようにでしゃばるものであっては「いやみ」になってしまう。あくまでも、さりげなく・・。
美しい日本庭園や、素材のよさを引き出す日本料理にも通じる世界であろう。
そういう、自分は陰に徹しながら、まわりを引き立てる自己主張のなさ。
・・それは美しい日本人の美徳であると思う。
海外に行けば、その自己主張のなさが、かえって非難されたりもするが、「自分が!
」、「自分が!」・・と前に出るばかりが能ではあるまい。
自己主張がつよい民族の中では対立ばかり起こるが、陰に徹するコトが出来る日本人は、調停役にはもってこいだと思うのである。全体の意見を聞きながらバランスをとるコーディネーターだ。
もちろん、言語という課題はあろうが、それさえクリアすれば、まるで家庭の中の母親のような役割を果たすのではないか・・?これは他の民族にはない、日本人特有の誇るべき優秀な能力だろう。
自分の友人・知人にも国際結婚をして海外で暮らしているのが何人かいるが、彼女たちも現地で裏方に徹しながら(?)、頑張っていると思うのである。
ちなみに菊といえば、ルース・ベネディクトの『菊と刀』が思い出される。
大戦中に日本を研究する目的で、日本に1度も行くことなく、文献資料と日系人への聞き取りでまとめられた日本文化論の名著だ。
いわゆる「罪の文化」「恥の文化」というとらえ方は、この『菊と刀』による。
すなわち、西洋では唯一絶対の神を信じているがゆえに、自分の良心にもとることは「罪」だと考える道徳観をもつが、日本人にはそういう唯一絶対の神・・というような絶対的な価値基準がないので、まわりがよければよいという道徳観で、まわりと違うコトを「恥」と考える文化なのだと・・。当然、良心の基準は低いととらえられている。
見方を変えれば、それが日本人の自己主張のなさ・・というコトにもなろう。
いつまでも「赤信号、みんなで渡れば怖くない」では通用しない。
主体的な、なおかつ世界に通用する道徳観や倫理観をもった日本人が世界に出ていけば、その活躍の場は無限にあるのではないか・・?
・・そう、期待もこめて思うのである。

ちなみにこの菊花展には盆栽もあったが、その話はまた次の機会に・・。